殉国名藪
年月日未詳 / 冊子 723頁
天文三年四月三日、執印三郎次郎公友が久體橋で戦死したこと、二十九歳で、同時に主従十二人が戦死したことを記す。
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『旧記雑録』前編・後編・附録10冊と追録1~8(暫定版)、『旧記雑録拾遺 伊地知季安著作史料集1~9』『家わけ1』(暫定版)、関連史料(外伝)『島津世禄記』の46,754件を横断検索できます。検索範囲は史料群・巻を組み合わせて選べます。結果は50件ずつ表示します。
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年月日未詳 / 冊子 723頁
天文三年四月三日、執印三郎次郎公友が久體橋で戦死したこと、二十九歳で、同時に主従十二人が戦死したことを記す。
慶長三年四月九日 / 冊子 203頁
島津忠恒が船改御奉行へ発給した過所。薩摩船一艘に、船頭半左衛門、中乗八十二人、加子十二人、てるま・かくせい三十四人、合計百二十九人を乗せて帰朝させるため、支障なく通行させるよう命じる。
寛保三年十二月廿一日 / 冊子 751頁/整理ID 1951
継豊は、薩摩国水引村京泊に唐船が漂着し、荒天で岸近くの砂瀬に乗り上げて破損したと届けた。乗員六十二人のうち六十一人を救助し、一人は溺死した。生存者に食事と住まいを与え、警固を付けて荷物と船を調べた。船を修理して長崎へ送れるか見極め、使えなければ別船で乗員・荷物を長崎へ移す方針を記す。
年月日未詳 / 冊子 150頁/原整理番号 265-1
伊地知季安の記事。この日、伊地知重政が召し連れた人数のうち十二人を有馬から帰したと記す。
年月日未詳 / 冊子 150頁/原整理番号 265-2
前文で有馬から帰された加久藤衆十二人の覚書。長山仲右衛門、赤川喜早兵衛内、前田内蔵内、萩原甚介内、萩原藤介、内田大学介、園田市右衛門、池田八千左衛門、久米万らの所属・人名を列記し、自力立の者も示す。
明治6年7月22日大蔵省事務総裁大隈重信/同年8月24日鹿児島県庁 / 冊子 928~929頁/原整理番号 1162の2/整理ID 1162-2
鹿児島県貫属の佐竹義継以下千三百五十二人が近衛兵の服役満期となったため、年限を定めて一人につき二人扶持を賞典として支給する。明治六年一月一日から県で支給し、上半期分は七月、下半期分は十二月にまとめて渡すよう命じ、県庁が布告する。
建暦元年十一月三日 / 冊子 106頁
台明寺衆僧二十二人が連署した起請文。年行事・義問答の勤仕給や祈田をめぐる濫行を戒め、給付を私物化せず寺内の定めに従うこと、違反者には処罰・給分停止を行うことを神仏に誓う。
朱明治元辰十月11日 / 冊子 612頁/原整理番号 787/整理ID 787
通達留。「英人」十二人と「朝鮮人」九人が七嶋・口永良部嶋へ漂着し、屋久嶋から詰横目の遠矢彦右衛門の警固で山川まで送り届け、さらに前之濱まで廻船するとの知らせがあったとして、その通り取り計らうよう命じる。到着後は英人を磯異館へ、朝鮮人を南林寺寮舎内へ置き、滞在中は町役が諸事を処理するよう求め、山川地頭らへも知らせるとする。朱明治元辰十月十一日、龍衛。漂着者の区分と人数は原の呼称・記載を示し、滞在場所の指示を実際の入舎完了や帰国日とはしない。
年月日未詳 / 冊子 232頁
正嘉二年八月の鶴岡八幡宮放生会参宮で、島津忠綱が散状に掲げられた供奉人百二十二人の一人として列したことを記す。
年月日未詳 / 冊子 232頁
正嘉二年八月の鶴岡八幡宮放生会参宮で、島津忠行が供奉人百二十二人の一人として列したことを記す。
年月日未詳 / 冊子 233頁
正嘉二年八月の鶴岡八幡宮放生会参宮で、島津忠景が供奉人百二十二人の一人として列したことを記す。
年月日未詳 / 冊子 237頁
文応元年十一月十七日の将軍家による鶴岡八幡宮参詣で、島津忠綱が御後の供奉人三十二人の一人として列したことを記す。
年月日未詳 / 冊子 241頁
文応二年正月一日の坑飯で、両国司以下が布衣で出仕し、島津忠頼が庭上東座九十二人の一人として列したことを記す。
年月日未詳 / 冊子 245頁
弘長三年正月一日未刻の将軍家御行始で、相州禅室への入御に際し、島津忠景が供奉三十二人の一人として列したことを記す。
年月日未詳 / 冊子 32~33頁
弘治二年十月の日記。朔日、吉田・新城勢が松山口で敵一人を討つ一方、味方一人が火矢で戦死。十四日には北原勢五、六千を退け、敵七人を討つ。十九日、島津方は西口・野頸口・水手口の三方から松坂城を攻め、中原加賀父子三人以下九十二人を討って陥落させた。翌日には周辺集落を焼き、松坂勢が敵三人を討った。
(慶長四年)八月三日 / 冊子 418~419頁
島津義弘が少将島津忠恒に、船越五郎右衛門の紹介による生田小兵衛尉を推薦する。生田は疵医者で医道に長じ、本人も実直で種々の奉公ができる人物と聞くため、まず召し使って力量を見るよう勧める。知行を与えるまでは十二人扶持または十五人扶持を分別次第で支給し、肥後に置く妻子も薩摩へ呼び寄せられるよう配慮を求める。
慶長十二年四月廿四日 / 冊子 112頁
慶長十二年四月二十四日、関東往還に出る主従十二人・騎馬一疋の編成と、往還日数・宿賃・飯米・馬飼料・雇賃などの支給額を列挙した達書。
慶長十二年四月廿四日 / 冊子 112頁
慶長十二年四月二十四日、関東往還の二か月分として主従十二人に支給する飯米三石六斗を定め、出米の扱いを指示した連署達書。
慶長十二年四月廿四日 / 冊子 112~113頁
慶長十二年四月二十四日、関東往還に供奉する主従十二人・騎馬一疋について、銀子、木賃、宿賃、飯米、馬代、草鞋、雇賃などの支給内訳と合計を記した覚書。
(寛永九年)七月吉日 / 冊子 294~295頁
島津家久・光久麾下の出陣人数注文。鉄砲・弓・槍、外城鉄砲衆、騎馬・旗役、手廻・道具持・台所・進物方・茶湯方・兵具玉薬方などの役別人数を列記し、一備二千六百八十一人、乗馬を除く総人数五千三百六十二人として両備の編成を示した。
(寛永十四年)十一月十七日 / 冊子 693~694頁
「覚」として『家久公御譜中』に収められた島原・天草の戦況記事。島原城から一里ほどの米蔵へ侍十二人・鉄砲二百挺を遣わしたところ、千本村の一揆勢に襲われ、鉄砲頭の高橋弥次右衛門・入江与右衛門・高畠次郎太夫とほか四、五人が討死し、城へ退いたこと、城近辺の村々も焼かれたことを記す。唐津勢は十一月十日に天草本戸へ着き、先手四、五百人が島子村で約三千人の一揆勢に攻められて本戸へ退却、本戸の在家を焼かれ、三宅藤兵衛のいる富岡へ移ったという。これらは天草からの未確定情報であり、上使の下向・隣国加勢の続報はなく、御横目衆が高瀬へ来たとも記す。本文日付は寛永十四年十一月十七日。差出人・宛所のない覚書・譜記事で、索引の「文書・某書状」と形式が相違する。
寛永十八年九月廿八日 / 冊子 165頁
島原・天草一揆への出兵人数を集計した連署差出。寛永十五年正月朔日までに天草へ渡った人数を、二千六百十九人と雑兵三千百十二人、合計五千七百三十一人と記し、寛永十八年九月二十八日付で島津家の重臣らが連署している。
慶安元年十一月二十五日 / 冊子 141~143頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0258
長崎通事の手前にある琉球人関係風説の写し。建国府で扶持を受けて籠城する琉球人十二人と、先に福州の根城にいた二十人を合わせ三十二人について、そのうち一人は琉球王の婿、別の一人は小舅という聞知を記す。鄭彩の動向、船や銀、城を出るための日本からの書状・妻子名の照会、長崎唐船を介する伝達、鄭彩と一官をめぐる情報が続く。十一月二十五日付で通事所四人が堀弥右衛門に届け、二月十九日に受領した旨の朱注がある。
元禄十二年二月十四日 / 冊子 102頁/整理ID 358
綱貴公御譜中に収められた書状。近藤備中守・丹羽遠江守へ、前年に領内の屋久島で破船した朝鮮人五十二人と所持道具を領内の船に乗せ、警固を添えて送ったと伝える。別に二人が病死したこと、遺骸と破損船具は家来が受けた指図どおり処置させ、詳細を家来が報告することも記す。
元禄十三年三月五日 / 冊子 206頁/整理ID 702
島津綱貴が、前年十二月八日に屋久島一湊へ漂着した朝鮮人五十二人を長崎へ送り、二月二十八日に長崎奉行が受け取ったと報告する口上覚。別に病死者二人がおり、その遺骸と破船船具は長崎奉行の指図どおり処置した。
宝永元年五月 / 冊子 484頁/整理ID 1691
島津綱貴が、島津淡路守領の日向国三財郡で十二年前に置かれた者について、軽人八人と男女四十二人のうち三十二人が居所を退き、国端へ帰参せず悪事を働くため、淡路守と相談して処置したいと申し出た覚書。
七月十二日 / 冊子 590頁/整理ID 2001
山内豊房が松平薩摩守島津吉貴へ、七月十日に土佐国足摺山沖で大船を確認し、同日清水湊へ入った船を調べると、唐から帰帆中に難風で漂着した乗員約八十二人の琉球船だったと報告した書状。江戸へも注進したため、使者をもって吉貴へ届け出た。
年月日未詳 / 冊子 597頁/整理ID 2034
清国への進貢を終えた琉球国王尚貞の船一艘(館頭・水主八十二人)が帰途に風浪を受け、宝永二年七月十日に土佐国幡多郡清水湊へ漂着した記事。土佐守松平豊房は幕府と薩摩へ報告し、幕府は先例と進貢遅延への配慮から長崎回送を免じ、薩摩で吟味のうえ琉球へ帰帆させることとした。
享保二年九月廿六日 / 冊子 328頁/整理ID 851
石河政郷と日下部博貞が吉貴へ、広東からの唐船一艘が四十二人を乗せて上甑島の浦内湊に漂着し、役人からの報告を受けた旨を伝える連署状。九月二十六日付。
享保二年十月四日 / 冊子 332頁/整理ID 863
日下部博貞が吉貴へ、上甑島浦内湊に漂着した広東唐船と乗組員四十二人について、役人の取調べと日和を見ての出帆の見込みを報告する書状。十月四日付。
〈宝暦四年〉正月 / 冊子 445~446頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書1366
一色周防守へ差し出した書付として、元木屋に置く役人・人員を列挙する。用人一人、用人格一人、留守居一人、本々役一人、目付一人、医師四人とし、外小役人、馬廻十二人、歩行士三十六人、足軽を掲げる。外小役人・足軽には本覚内で人数を記さない。末尾に右御場所へ差し出す分との説明があり、このほか惣奉行を始め国元から近く到来する者がいるとし、平田正輔の注を付ける。
〈宝暦四年〉七月六日(目録。対応主本文は七月八日) / 冊子 484頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書1481
七月八日、在府の嶋津主鈴・主殿が義岡相馬・鎌田典膳へ、秋の水行普請に残す人員の調達と伝達を相談する。当春、一色周防守から小奉行三十人・歩行士三百人・足軽五百人を差し出すよう指示されたことを述べる。春普請が一方完成したため、秋の水行普請に必要な人数を残す件について国元から相談を受け、現場で吟味したところ、小奉行三十二人・歩行士百六十四人・足軽二百三十一人ほどと、別に浮人数を調達することになった。 別紙のとおり青木次郎九郎・吉田久左衛門へ申し出たところ、留め置く旨の挨拶を受けたと、惣負殿から報告された。さらに一色周防守へ岩下佐次右衛門を通じて取り次いだところ、同じく留め置く旨を申し付けられたので、この結果を国元へ知らせる。現場へも伝えておいたため、惣負殿から委細の連絡があると思われるとして結ぶ。別紙1483も三職の人数を同じく掲げる。
〈宝暦四年〉六月八日~九日 / 冊子 484~485頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書1483
右別紙写として、小奉行三十二人、歩行士百六十四人、足軽二百三十一人を掲げる。水行普請の際に各場所へ差し出す人数は右のとおりで、九手替の人数も申し付けており、惣奉行役をはじめ他の役人も元木屋・出張木屋へ詰め、順次現場で働くと記す。場所ごとの人数は別紙で差し上げると結び、六月八日、御名内・山澤小左衛門、盛種の注がある。末尾に六月九日、美濃国笠松の御役所で青木・吉田へ記名して提出したと注記する。No.1481主本文の三職の予定人数と一致するが、別紙自身の六月八日と提出日の九日を、主本文七月八日と区別する。
明和二年四月十一日(目録は四月十日) / 冊子 80~81頁/原整理番号 181の50/整理ID 181-50
酉四月十一日付で、日光へ差し立てる留守居・献納物宰領と随行人数を記す。留守居東郷源五は上下十二人、御献納物宰領津留五右衛門は上下三人とし、続けて足軽二人を掲げる。末尾は、右の者を今日差し立て、日光へ差し遣わすと記す。正文の月日は四月十一日であるが、目録では四月十日とされ、日付が一致していない。
文政5年2月4日出生/安政元年1月12日死去 / 冊子 612頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1836
御系図中の斉興の項で、男女二十二人の枝とともに久珍を掲げる系譜抄。久珍の通称として報七郎・弾正を記す。文政五年壬午二月四日に生まれ、母は島津樵嵐久井の養女と記す一方、近秘野抄には銀邸で生まれ、母を藤川時吉の女とするとの注を添える。二つの母の記載を残し、生母・養母などの関係を推測して統一しない。種子島伊勢久道の後を嗣いだこと、安政元年甲寅正月十二日に卒したこと、法名が日厚であることを記す。斉興譜によれば法号は慈詮院殿日厚大居士とするとの注も持つ。斉興との系譜関係、通称、出生、母の異同、家の継承、死去、本文法名と注記の法号を分けて整理する。男女二十二人の記載から、久珍を第二十二子と断定しない。
嘉永四年十一月九日(出生)、文久元年四月(移居) / 冊子 131頁/原整理番号 190/整理ID 190
久光公御子の男女十二人の系図中に、久封・悦之助を記す家系記事。嘉永四年十一月九日に重富第で生まれ、母は櫻井玄浄盛命の妹とする。文久元年四月に父久光に従って重富第を去り、本室へ入ったことを記す。玄浄の名は前段末の盛と後段の命を続けて読む。
11月22日 / 冊子 400~401頁/原整理番号 362の3
十一月二十二日、片浦から立てた浦水手の受取を命ずる送状。船頭壱岐・蔵右衛門・市右衛門・弥九郎と宇兵衛尉以下を列記し、第一群を三十二人とする。さらに助之丞・与介・惣五郎・弥右衛門・三右衛門尉・神介・少右衛門・杢之介の八人を別に掲げ、永山覚兵衛尉・三原源右衛門へ受取を申し付ける。
年月日未詳 / 冊子 162頁/原整理番号 286
蒲生士谷口氏の書留。二月二十一日夜九ツ時、キリシタン二千五百人が陣中へ出撃して火を放ったが、そのうち二百九十二人が討ち取られたと記す。出撃人数二千五百人と討取人数二百九十二人は別の数量である。
二月廿三日 / 冊子 178頁/原整理番号 301-4
伊地知重政主従三十二人のうち、与力の池上内膳亮と彦作が正月から従軍し、二月二十三日に有馬から召し帰されたとして、日数を一人三十八日ずつとする。伊地知季安は、この記載が「有馬陣立差出」と取払帳とで相違するとして「不審」と留保する。
年月日未詳 / 冊子 193~195頁/原整理番号 318-1
伊地知季安が島原出陣時の薩摩軍を評した記事。薩摩軍は名目上およそ二万人の賦課であったが、各家が分限に応じて従卒を伴い三万人に達したとする。元日の攻城で官軍が敗走した際、薩摩の使者三原重庸が少隊で踏み止まり、軍勢を励まして退却を支えたため薩兵の勇名が諸陣や江戸に広まったと述べる。細川忠利が薩摩軍に肥後勢が圧倒されることを懸念し、薩兵を上津浦へ移すよう働き掛けたと推測する一方、松平信綱は重庸を厚遇して諸手への条書伝達や取次を任せ、出水衆から山元左近ら武功ある十八人を追加招集したという。諸侯が薩軍の島原在陣を嫌ったため、信綱は薩兵を上津浦へ回し、島津久元・三原重庸らを帰国させたと記す。二月十三日に世子島津光久が口之津へ着き、大軍を有馬へ集めて攻め口を受け持とうとしたが、既存の割付や父島津家久の重病により認められず帰国し、二十三日の家久死去まで看病したとする。その後の在陣数は、上津浦が士衆千八百八十二人・雑兵込み二千八百十八人、島原が士衆千五百五十八人・雑兵込み二千五百二十七人と区別して掲げ、攻城の触を待ったと結ぶ。
年月日未詳 / 冊子 250~251頁/原整理番号 333-38
細川立允の相備の組頭・三淵内匠が、鍋島勢による出丸攻略を知って本陣から出撃し、重傷を負いながら本丸下まで進んだ経過を記す記事。竹束と混雑で城戸が開かないため竹束を越え、家来に左右へ押し開かせ、当初十二人ほどで飛び出した。佐渡守備・式部手に加わる過程で家来に討死・負傷が相次ぎ、内匠自身も右手を鉄砲で撃ち抜かれ、さらに左肩を撃たれて深手となった。それでも、黒田甲斐守家中の武者が証人になるとして退却を勧めたのに対し、城を後ろにして退く覚悟はなく証人も望まないと答えた。のち旗本からの下知を受け、組中が内匠を本陣へ担ぎ戻したという。
三月四日 / 冊子 364頁/原整理番号 430-1
天草出役に伴い、阿久根町浜の水手女房百十二人へ、延べ八千三百五十二日分の跡飯米として先掻粟三十四石六斗六升を渡すよう、廻文に従って田上九兵衛・小幡主膳正へ命じた寅三月四日付の手形。
三月八日 / 冊子 373頁/原整理番号 456
『清敷丸乗合人数覚』は、清敷丸の船頭志摩允を掲げ、野村新兵衛・岩助・谷口助右衛門尉・九左衛門・竹之内次郎兵衛尉・善兵衛・谷山諸右衛門尉・相良小右衛門尉・源太・池田助六・同名源左衛門尉・大左衛門の乗合十二人を列挙する。
年月日未詳 / 冊子 375頁/原整理番号 467
『薩本島原軍記』は、二月二十三日夜に中納言が没した後、下野守が遺言に従って三月十三日に薩摩を発ち、四月十四日に江戸へ着いて土井大炊頭・酒井讃岐守へ申し入れ、五月十六日に遺物を土井へ持参したと記す。島原出陣鹿児島衆は総数五千七百三十一人、内訳は人躰二千六百十九人・雑兵三千百十二人で、主要将と普請奉行を列挙する。
年月日未詳 / 冊子 400頁/原整理番号 513
寛永十二年改めの男女二千三百二十六人から他方へ出た百四十二人と死去・逃亡した百七十五人を除き、残り二千九人に、その後の入人二百八十九人・出生百二十七人を加え、寛永十六年改めを男女二千四百二十五人(男千四百六十九人・女九百五十六人)とする。内訳は地頭・衆中・小者・出家・社人等千二百六十三人(男七百五十六人・女五百七人)と、町・在郷・座頭・行脚等千百六十二人(男七百十二人・女四百四十九人)で、後者の男女計は原記載上千百六十一人となり一人合わない。三月四日に白坂・谷口が記し、鹿児島から柳田喜左衛門尉が来て改めた目録の留と付記する。
年月日未詳 / 冊子 425~427頁/原整理番号 533
相良清兵衛の口事に伴う大童伴兵衛方籠城の経過と損害を記す日記。伴兵衛親子三人をはじめ、親族、山伏四人、出家一人、内の者二十人余、女五十二人ほどが清兵衛宿所を構えて籠城し、寄手がこれを攻めた。寄手側の損害は合計百二十一人で、内訳を死者百十人・負傷十一人とする。七月十二日の事件記事に続き、松平石見守家中など別件の切腹者・預け先や妻子に及ぶ処置、隠岐国仕置衆等に関する七月十七日付の伝聞も併載する。目録年月日は空欄のため、これらの日付をB列へ補入しない。
寛永十八年九月廿八日 / 冊子 428頁/原整理番号 537
山田有栄ら六名は、寛永十五年正月晦日までに天草へ渡った人数を、都合五千七百三十一人、内訳は人躰二千六百十九人・雑兵三千百十二人として差し出す。内訳二項の合計は総数と一致する。文書539と人数・連署者は同じだが、本書の対象期日は『正月晦日まで』であり、539の『正月朔日まで』と区別する。
年月日未詳 / 冊子 428頁/原整理番号 538
伊地知季安は、寛永十八年二月十二日に提出された三通を記録する。第一は谷口次郎左衛門尉・伊地知弥右衛門による地頭伊地知杢右衛門尉重政主従三十二人の有馬陣立差出、第二は加久藤衆中の人躰・被官・夫丸九十五人の同断差出、第三は検地寺領衆自力立・一向宗寺領衆自力立の差出である。三通は寛永十五年正月十六日の箇所にすでに掲載したため、ここでは省略するとする。目録年月日は空欄のため、両日付をB列へ補入しない。
寛永十八年九月廿八日 / 冊子 429頁/原整理番号 539
山田有栄ら六名は、寛永十五年正月朔日までに天草へ渡った人数を、都合五千七百三十一人、内訳は人躰二千六百十九人・雑兵三千百十二人として差し出す。内訳二項の合計は総数と一致する。文書537と人数・連署者は同じだが、本書の対象期日は『正月朔日まで』であり、537の『正月晦日まで』と区別する。
寛永廿年七月廿日 / 冊子 436~437頁/原整理番号 547
北郷久加は、高七千六百九十二石に対する軍役として、武具持六十六人、馬印持・小指持・兜持・草履取各一人と馬取四人の計八人、歩兵三十人、夫丸二十二人、騎馬十五騎に一騎当たり主従七人の百五人、合計二百三十一人を差し出すとする。大小の船五艘も自船で用意し、出陣命令時に不足なく勤める旨を届ける。