秋月種長書状
(慶長五年)十月卅日 / 冊子 606頁
秋月種長が本田助之丞の無事な帰着を喜び、家族の様子を尋ねる。楢原方との相談結果を使者に託し、状況に応じて船で訪問する意向を示すとともに、山勘兵衛の書状を添えて返事を求める。
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(慶長五年)十月卅日 / 冊子 606頁
秋月種長が本田助之丞の無事な帰着を喜び、家族の様子を尋ねる。楢原方との相談結果を使者に託し、状況に応じて船で訪問する意向を示すとともに、山勘兵衛の書状を添えて返事を求める。
元和六年三月十二日 / 冊子 727頁
帖佐の餅田村柏木之門および鍋倉村下羽迫門の田地を本田助之丞に宛てた知行目録。各所の石高と浮免であることを記す。
寛永九年三月朔日 / 冊子 259頁
小森隼人佐と時任右京亮が、本田助之丞の蔵に関し、真米三石三斗六升六合六勺七才を加治木蔵へ、銀子二百八匁を鹿児島御蔵へ納め、石高分を含む合銀二百七十七匁四分四厘を皆済したことを証した連署請取状。
年月日未詳 / 冊子 604-606頁
新納旅庵が、出水滞在中に上方の不穏を聞いて大坂・伏見へ向かい、島津義弘(惟新)に従って関ヶ原合戦期の軍事行動と退却を経験した経緯を記す。使者の往来や、龍伯・少将の上京をめぐる本田助之丞との交渉にも及ぶ。
(慶長五年)十月卅日 / 冊子 606-607頁
島津忠長が、使者として下向した本田助之丞を祝し、不慮の事態による一同の難儀を気遣って和平成立への見通しを述べる。上方へ送る書状などの取り次ぎと、書状中の割符を惣新八郎へ渡すことを依頼する。
年月日未詳 / 冊子 897-898頁
慶長八年の諸種の出物を日付・賦課率・金額ごとに列記した覚書。若殿の慶事や上洛、大峯関係などに伴う負担を記し、銭合計一貫九百四十四文と、別途の出米七斗二升五合を算出する。
(慶長八年)六月十五日 / 冊子 898頁
伊勢貞成が蘇木二百斤、小人島二十枚、蝋燭五十斤、毛玉二十、砂糖千斤、水牛角二十五本、しゅくしゅ二十二斤を列記した物品覚書。
十二月二日 / 冊子 901頁
関東への御物輸送に伴う駄賃・巻物の梱包費、往還予定を超えた三十三日分の滞在費、飯米代などを精算した覚書。蔵から受け取った銀、各費目、控除額と支給残額を列記する。
慶長九年正月十四日 / 冊子 924-925頁
御蔵分の衆中借用額を日付・名義人・受取人別に列記した注文。慶長七年から同九年正月にかけての貫文単位の金額を記し、御祈念、御遊などの用途を含む。関玄蕃允以下、多数の担当者・受取人を掲げる会計記録。
元和四年四月三日 / 冊子 670頁
銀・赤米・米の数量と銀換算額を列記し、鹿児島への上納分を受け取ったことを証した三名連署の請取状。
年月日未詳 / 冊子 434頁
桜井紹白の書状。遠方のため久しく音信がなかったことを詫び、前年夏ごろに最上宗檜を遣わして以来無音であるため、使書を送り取次を求める。緞子を少量贈ったことを述べるが、掲載本文は末尾を欠く断簡である。
元禄八年五月廿七日 / 冊子 932頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書2534
島津綱貴が島津助之丞忠守へ、吉貴への五万石分知後は家督方と会計を混同せず、江戸滞在や奥方の所帯・扶持まで倹約して維持し、役人にも厳命するよう条々を示した袖判条書。
慶安五年二月九日 / 冊子 212~213頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0423
本田助之丞が祖父以来の奉公、鹿児島・伏見・関ヶ原・京都等での働き、使者・在番・拝領や召移しの経緯を列挙し、由緒を申し立てた申状。
宝永六年秋頃 / 冊子 860頁/整理ID 2821
宝永六年秋、助之丞久貞が吉貴帰国の礼使として江府へ赴き、使事を務めた。その際、将軍家宣から時服三・羽織を拝戴したと久貞譜に記す。
安永二年七月三日(年は朱、翌日九時の出頭指示) / 冊子 380頁/原整理番号 1069/整理ID 1069
右の者を明日九時に自分たちの宅へ差し出すよう指示する。その人物は島津助之丞と記し、「次前」との注が付く。末尾は七月三日、阿豊後、松平薩摩守の留守居宛、朱に安永二年。正文は文庫にある。御礼使者に関する出頭指示で、出頭先は御城ではなく差出人側の宅と記す。
天明六年正月二十八日 / 冊子 850頁/原整理番号 2340/整理ID 2340
嶋津善熊の加冠に際し、仮名を助之丞とする旨を「加冠 宜為」と書き出す。天明六年正月二十八日付で御判の表示を備える。正文は島津助之丞のもとにあると記す。
正月16日(本文年不記);事件は昨日との報告 / 冊子 241~242頁/原整理番号 336/整理ID 336
西筑右衛門が、安藤対馬守側への出入りをする川島助之丞宅へ出向き、昨日の登城時に行列を妨げた者が討ち留められたと聞いたので、対馬守の負傷と機嫌を尋ねた報告。川島からは六人を打留め三四人ほどは逃れたと聞いたが、詳細は奉行の調べを経て国許へ知らせるのでまだ確定していないとする。対馬守は乗物外へ出て腰に突傷を受けたものの、昨夜は痛みも少なく安眠し気分も変わらないと聞いた。供頭は銃で両股を撃ち抜かれながら起き上がって二人を討ち、各所に傷を受けたこと、その他にも重傷者・軽傷者がいることを報じる。当人は登城せず迎えの供を退散させ、包置の申し合わせもせず懇ろに話したとの書状。正月十六日、西筑から登宛。情報は家臣から聞いた内容として整理する。
元和四年十二月五日 / 冊子 681~682頁
小森新右衛門・鮫島宮内左衛門・西郷十左衛門が、真米・赤米など計十三石八斗四升余と、その算定額を含む受払いがすべて済んだことを脇元権介へ証した連署請取状。
元禄五年十月十八日 / 冊子 884~885頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書2391
六名の連署条書で琉球在番三原次郎左衛門へ、糸・巻物等の密売、在番・附衆家来の私商売、水手の抜刀、薪用木の不正などの取締りを命じる。狩りの催促に多数の人を集めて百姓の耕作を妨げないよう求め、猪・鹿が田畑を荒らすための狩りは別として、遊山の殺生を禁ずる。在番の職務遅滞と定額外買物も戒める。署名は平田新左衛門・肝付主殿・種子島蔵人・新納又左衛門・喜入又兵衛・島津助之丞の六名で、三原は宛所。
元禄十六年夏 / 冊子 431頁/整理ID 1467
陽和院が松平薩摩守へ、土用明けにも厳しい暑さが続く道中を案じ、中途からの使者と相手の機嫌を聞いて喜ぶ。進殿の初旅も支障なく通ったことを喜び、おみつ・鍋三郎の件が内々の予定どおり整い、一門にも披露されたと聞き、勘解由(久當)・助之丞(忠守)の働きも喜ぶ。
文政8年9月朔日・10月(本文) / 冊子 733~734頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書2068
近秘野抄中の斉興公記事。文政8年9月朔日、斉興は町田久視に宝島の功労者への褒賞を命じ、島津権五郎を当番頭・領御用人に任じた(当番頭に百苞の小注)。吉村九助には歳俸50苞を終身給付して功績を賞する。本田助之丞を種子島へ移し、九助に従って功を成したことを嘉し、罪を特に赦す。種子島伊勢輔時に安置を命じ、御船奉行にも伝える。平田平六と中村理兵衛には米各5斛、平田藤助には米2斛を賜り、平六が吉村に、藤助が本田に従って命令を守ったことと、理兵衛の防備の働きを評価した。10月、九助を郡奉行に擢用し、勤務に加えて戦功も賞した。初め、異人の鉄炮と雑佩を久視らが長崎へ護送するよう命じたが、鉄炮について奉行へ特に願い出た。異物を官庫へ収め国典とする扱いのもと、奉行が江戸へ伝えた願いが許され、鉄炮が返されると九助に授け、子孫へ伝えるよう命じた。
嘉永七年十一月十八日(聞取経過)、十二月廿九日(書状。年は前後から補う) / 冊子 161~162頁/原整理番号 219の2/整理ID 219-1
江田五郎左衛門が上村休兵衛・汾陽彦次郎へ、篤姫の実父母に関する内用の取扱いを伝えた十二月二十九日付書状。嘉永七年十一月十八日に竪山武兵衛の用件で出向いた際、父母について公辺その他は先般の扱いを保ち、御内実の訳は御記録奉行まで承知して帳面にも記録するよう命じられたと述べる。豊後にも沙汰の趣旨を伝え、家老座で改めて保管扱いを確認したので、白木御文書の篤姫父母関係書付と一緒に封じて置き、後年虫干し等で奉行が拝見する際には経過を伝えられるようにすることを求める。別紙には実父を島津安藝忠剛、実母を島津助之丞久丙の娘と記す。外封にも宛名と江田の名を付す。
安政5年12月(本文五年、前後編年から補) / 冊子 192頁/原整理番号 270/整理ID 270
斉興公御譜の五年十二月の記事。今上が近衛左大臣忠熙を通じて斉興へ旨を伝え、橋口勘之丞行安に、常に帯びる御剣を鍛えさせたことを記す。斉興から献じ、近衛公が受領を奏請して行安の大和介を許された。兄の橋口助之丞安利も鍛造を助けたため、特に賞し兄弟を一代城下士としたと記す。今上には孝明天皇の注、行安には谷山波平鍛工の注がある。
現地届五月26・18日、転送届はいずれも七月2日 / 冊子 566~567頁/原整理番号 737/整理ID 737
太政官日誌中の薩州藩届写二件を収める。五月二十六日の届は、昨二十五日に二番・四番半隊と大垣・長州各二十人を大田川宿へ探索に出し、仙台側約百人を撃退して再屯集を防ぐため焼き払い、夕七時に白川へ引き取ったと報じる。二番隊東郷助之丞の戦死、四番隊堅山荘八の深手を記し、七月二日に新納嘉藤二が現地からの別紙を転送する。もう一件は五月十八日、島津式部の届で、昨十七日三字頃から大谷地村方面で二番・四番・足軽隊と大垣・土州が攻め、五字過ぎに相手が退き六字過ぎに引き揚げたとする。白川の要所を焼き払い、大谷地村の戦で十五六人位の死骸、ほかの山中の戦で四斤半大砲一挺と弾薬を分捕り、敵千人ほどがいたとの報を記す。浅手の西吉左衛門・美坂彦八、深手の松崎寛次を掲げ、これも七月二日に新納が届ける。戦況・死傷・概数は各届の報告として示す。
慶長4年8月6日 / 冊子 569~571頁/原整理番号 72
島津義弘(惟新)が伊集院源次郎忠真へ、忠真の6月17日・7月16日付書状を受け、幸侃が成敗された後も忠真の進退が定まらず庄内に籠る事態について、相互の言い分と自らの働きかけを詳しく伝える。義弘は、忠真が自分の家中の者一人に過ぎないと扱われれば名誉が傷つくとの懸念に理解を示す一方、竜伯様・少将殿への申入れや徳善院への請託、伊東豊後守を通じた書面のやり取りを述べ、これ以上の対立や放火・戦闘を避けるよう諭す。忠真が城から出た後の知行の額は自分には見積もれないが、生活できないほどにはならないだろうとの見通しを示し、内府様の使者として寺澤志摩守が下向する予定なので、その間の行動を慎むよう求める。加藤主計頭・木原式部少輔への依頼にも触れ、8月6日付で伊集院源次郎に宛てる。冒頭の『正文本田助之丞』は正文所在の注記であり宛名ではない。欄外に『旧記雑録後編三』839号との同文推定注記がある。
元禄十四年二月九日 / 冊子 270頁/整理ID 897
伊集院久美・町田久置・神宮寺純正が島津助之丞へ、先に相談した国絵図の用務について、春成五左衛門と上山郷右衛門を派遣して申し上げるので、万事指導してほしいと依頼した連署書状。
元禄十四年二月二十六日 / 冊子 274–275頁/整理ID 915
戸村愛忠・九津見定春・伴良錦が嶋津勘解由・嶋津助之丞・種子嶋蔵人・肝付主殿へ、領内の下絵図がようやくできたので絵図役人岡田新右衛門を派遣すると伝える。御用が急なため先に大隅の絵図を調えることを頼み、当月中旬に役人を送る予定から少し遅れたと断る。相手方絵図役人へ詳細に指図するよう依頼する。
元禄十四年三月五日 / 冊子 281–282頁/整理ID 944
泥谷長規・小坂昌朝が嶋津助之丞・喜入安房・種子島蔵人へ、日向国の清絵図が薩摩側で調製され、井上大和守から秋月式部へ移管された村を含む式部領分絵図も日向へ送る件を説明した連署書状。地面・村付を調査し、江戸の長門守と協議した内容を自領絵図へ書き込んで薩摩の絵図役人へ提出すると伝える。
元禄十四年三月十七日 / 冊子 283–284頁/整理ID 949
戸村愛忠・九津見定春・伴良錦が嶋津助之丞・喜入安房・種子嶋蔵人の三名へ、派遣した絵図役人岡田新右衛門が詳しい指導を受け、公儀の国絵図関係書付と正保年間絵図の当領分の写しを渡されたことに謝す。新右衛門への留任中の馳走、特に蔵人の面会にも謝し、絵図を滞りなく調え完成次第送り、本絵図は五月までに調えると伝える。壱岐守も喜び、早速礼を述べるよう命じたとする。
元禄十四年三月十七日 / 冊子 284頁/整理ID 950
泥谷長規・小坂昌朝が嶋津助之丞・喜入安房・種子島蔵人へ、秋月式部領分絵図を薩摩側へ送る件について返答した連署書状。昨冬に当地の絵図を役人へ持参させた一方、分知分の絵図が未送付との照会を受け、その行き違いを了承し、念入りな確認に謝す。
元禄十四年三月二十一日 / 冊子 284–285頁/整理ID 951
伊東祐秋・川崎祐昌・山田宗武が嶋津助之丞・喜入安房・種子嶋蔵人・肝付主殿へ、国絵図用務で先に派遣した松浦助右衛門への馳走と人馬の手配に重ねて謝した連署書状。再び絵図相談のため松浦と木脇小三郎を派遣するので、相手方絵図役人に遠慮なく指導するよう頼む。
元禄十四年四月十六日 / 冊子 296頁/整理ID 975
戸村愛忠・九津見定春・伴良錦が嶋津助之丞・喜入安房・種子嶋蔵人へ、当領の絵図ができたので送り、岡田新右衛門に持参させると通知する。先頃相手方の地で絵図役人同士が相談したとおり、諸事を新右衛門に指図するよう頼み、委細は本人の口上に委ねる。
元禄十四年四月二十三日 / 冊子 297頁/整理ID 978
泥谷長規・小坂昌朝が嶋津助之丞ら四名へ、領分絵図・秋月式部分知絵図・郷帳を、相手方役人の指示で滞りなく首尾よく納めたと、帰還した役人から聞いた旨を報告する。丁寧な馳走と、往還の際に下位の者まで人馬を手配されたことに謝し、詳しくは長門守へも伝えるとする。
元禄十四年五月三日 / 冊子 298–299頁/整理ID 984
三浦壱岐守明敬が嶋津助之丞・喜入安房守・種子嶋蔵人へ、絵図の件で先頃家来を派遣したところ、各人が心を添え、絵図役人と詳しく相談し、格別に馳走されたことに謝す。追書では嶋津主計が特に心を配ったと聞いて喜び、よろしく承知してほしいと頼む。
元禄十四年五月三日 / 冊子 299頁/整理ID 985
戸村愛忠・九津見定春・伴良錦が嶋津助之丞・喜入安房・種子嶋蔵人へ、当方領分絵図ができ先頃岡田新右衛門を派遣した際、相手方役人が受け取り、本絵図仕立てを指導し、滞在中に馳走し、特に助之丞忠守が面会したと聞いたことに謝す。壱岐守も喜んで書中で謝意を伝えるよう命じたとし、本絵図ができ次第こちらから知らせると伝える。
元禄十四年五月十七日 / 冊子 301–302頁/整理ID 994
神宮寺純正・町田久置・伊集院久美が嶋津助之丞ら四名へ、伊東大和守・秋月長門守の領境絵図について相手家来と当方役人の証印が済んだとの通知を承知したと返答する。当方領境も先例に従い、主計が取り寄せた絵図で地面・字名などを照合して証印すれば送る旨を了承し、証印付き絵図は相手方で調製する由なので、できたら知らせてほしいと依頼する。本条当方分をすでに双方立会いで加印完了した証状とはしない。
元禄十四年九月二十三日 / 冊子 327頁/整理ID 1072
島津惟久が島津助之丞へ、惟久領内三才村の者たちが帰参命令を承服せず、他領へ立ち退こうとしている問題について、島津綱貴の配慮に礼を述べた書状。綱貴は当面その者たちを領内のどこかへ留め、時宜を見て帰参させ、惟久に不利にならないよう取り計らう意向を示したが、惟久はなお申し上げたいことがあるため後日改めて伺うと伝える。
宝永元年九月二十一日 / 冊子 503–504頁/整理ID 1766
川上久重が新納久珍・島津中務・島津助之丞へ、島津綱貴の葬礼は福昌寺住持が導師を務め、種子島弾正・樺山助太郎を法事奉行とすること、九月二十三日に大円寺へ移し二十七日に荼毘に付すことを通知した。遺骸の東海道移送、霊屋・土葬・外委細の相談も指示した覚書。
宝永元年九月二十五日 / 冊子 504–505頁/整理ID 1767
川上久重が新納久珍・島津中務・島津助之丞へ、島津綱貴を江戸で火葬し、国元で葬礼を済ませて遺骨の一部を高野山へ納める方針を示した。大円寺への移送、福昌寺での葬礼、霊屋・納棺・乗船準備、近親者や家臣の役割を具体的に指示した覚書。
元禄十四年十月三日 / 冊子 330–331頁/整理ID 1088
島津忠守が田場親方へ、亀姫の縁組成立を祝って練蕉布二端・焼酎一壺を進上したとの書状を披見し、島津綱貴へ披露したところ綱貴が喜んだと伝えた書状。No.1084の家老四名連署書状では練蕉布三端だったが、本書は二端と記す。
元禄十四年十月三日 / 冊子 331頁/整理ID 1089
島津忠守が田場親方へ、年始の祝儀として練蕉布三端を島津吉貴へ進上したとの書状を披見し、その旨を首尾よく披露したところ、吉貴が喜んだと伝えた書状。
元禄十五年九月二十五日 / 冊子 382–383頁/整理ID 1286
島津忠守が琉球の幸地親方へ、年始の祝詞として匠作島津吉貴へ練蕉布三端を進上した旨の書状を読み、その内容を披露したと伝えた書状。
慶長七年五月十二日 / 冊子 816-817頁
連歌師里村紹巴の生涯と業績を回顧する追悼文。若年から奈良・京都で和歌・連歌の道に励み、宗祇の遺風を継いだこと、八十歳で没したことを悼み、辞世・追悼の和歌を添える。
元禄十四年二月九日 / 冊子 269頁/整理ID 895
泥谷長規・小坂昌朝が島津中務ら六名へ、先に命じられた境絵図役人の派遣が郡境・国境の照会のため遅れたが、ようやく明らかになったので、境絵図を調製して役人を派遣すると伝えた連署書状。薩摩側の絵図役人と相談できるよう手配を求め、詳しい口上を使者に託す。
元禄十四年二月九日 / 冊子 269–270頁/整理ID 896
伊東祐秋・山田宗春・川崎祐昌が島津中務ら六名へ、先に相談した大和守領分の絵図を調製し、松浦助右衛門に持参させると伝えた連署書状。薩摩側の絵図方役人が諸事を指図するよう求め、詳細は松浦に申し含めたとする。
元禄十四年三月四日 / 冊子 279頁/整理ID 933
戸村愛忠・九津見定春・伴良錦が嶋津大蔵ら六名へ、領分の控絵図を受け取る使者を先頃派遣した件で壱岐守方から申し入れた内容について返答する。嶋津主計へ両種、川上八郎右衛門・村田平右衛門へ一種ずつを贈ったと聞いた件を壱岐守へ伝えたところ、心遣いに感じ入った旨を述べたと知らせる。贈品の具体内容は記さない。
元禄十四年三月四日 / 冊子 279頁/整理ID 934
戸村愛忠・九津見定春・伴良錦が嶋津大蔵ら六名へ、壱岐守領分絵図と郷帳の控えを受け取る使者を派遣したところ、相手方役人が控えを引き渡し使者を馳走したことに謝す。特に中務が出向いて面会し、各様より両種の心遣いを受けた旨を壱岐守へ伝えたところ、書中で謝意を述べるよう申し付けられたと伝える。両種の具体内容は記さない。
元禄十四年四月七日 / 冊子 294頁/整理ID 968
泥谷長規・小坂昌朝が嶋津中務ら六名へ、長門守領内の絵図と同式部の分知絵図を調え、郷村高付帳を添えて持参させたと通知する。適切に申し付けるよう頼み、委細は役人同士の口上に委ねる。
元禄十四年五月十日 / 冊子 300頁/整理ID 988
新納久珍が嶋津勘解由ら七名へ、金山入用金の引替えを願っていたところ、去る六日に稲葉丹後守から金二万両の引替えを命じられたと報告する。年賦返済の予定かと荻原近江守に照会すると、返済年限と金高の定めがあれば拝借だが今回は合力金のようなものなのでそのように考えるのがよいとの説明を受けた。公儀の取扱いや外聞の点からも合力金として心得る方針とし、御用については別紙二通を送るので各人へ伝えるよう依頼する。
元禄十六年正月二日 / 冊子 407頁/整理ID 1375
絵図役人をはじめ関係者の念入りな取扱いに謝意を述べる。