島津久豊等連署起請文
応永七年四月八日 / 冊子 194~195頁
島津久豊・時成らが阿多加賀守へ、今度の供奉を願い、主君の重大事を自身の大事として力を尽くすこと、風聞があれば直接尋ねを受けて真意を説明することを八幡三所大菩薩などに誓った連署起請文。
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応永七年四月八日 / 冊子 194~195頁
島津久豊・時成らが阿多加賀守へ、今度の供奉を願い、主君の重大事を自身の大事として力を尽くすこと、風聞があれば直接尋ねを受けて真意を説明することを八幡三所大菩薩などに誓った連署起請文。
(応永八年)九月十一日 / 冊子 203頁
村田経安が山田加賀守へ、境目での長期の辛労をねぎらい、当面は現地に留まる事情を述べたうえで、谷山内山田の本領と吉田方の所領処置、屋形が難儀した際の借用などについて内々に伝えた書状。末尾の詳細は石井方へ申し伝えるとする。
七月十八日 / 冊子 564頁
相良為続が入来院加賀守に、報告の内容を承知したことを伝え、懸案について引き続き取り計らうよう求めた書状。
永禄二年十二月廿三日 / 冊子 75頁
島津貴久が奉公の功により、薩摩国鹿児島郡内の犬迫名を入来院加賀守へ宛行い、知行するよう命じた宛行状。
年月日未詳 / 冊子 344頁
伊集院忠大が伊集院加賀守へ、帰国後に下野守の書状を確認するよう求め、使者から聞いた情勢を報じた書状。ある人物は知行に加えて扶持を与えられる好待遇となった一方、兵部少輔を人質に差し出すこと、下城の要望は法度を理由に認められず、飯肥と同様の扱いになることを伝える。
正月十一日 / 冊子 92-93頁
大内義興が入来院加賀守に宛てた書状。先の書状への丁重な返答を喜び、今後も交流を続けたいと述べる。前年十二月晦日に当国へ移ったことを報じ、上意に従って天下のために力を尽くすので、今こそ忠節を励み、諸事を相談するよう求めている。
六月十五日 / 冊子 207頁
島津家の繁栄を祝う信濃守の使者と、鍋島加賀守からの書状・太刀・馬代銀子二十枚・白鳥二羽・諸白樽を受けたことへ深謝した。信濃守から加賀守の懇意を聞いているので今後も相談し親交を続けたいと述べた書状案。
六月十九日 / 冊子 540頁
以前渡唐した船が近日帰朝するとの注進を受け、九州、とりわけ大隅国内で支障が起こらないよう意見し、早急に上京させてほしいと求めた細川政元書状。
(文禄元年)6月18日 / 冊子 571頁
豊臣秀吉が、朝鮮渡海の遅れに不満を抱いた梅北国兼が佐敷辺で一揆を起こしたため、義久からの報告と首を討つ旨の命令を受け、現地諸将へ即時の成敗を指示した朱印状。 島津兵庫頭の不安を除くよう申し聞かせることも命じ、梅北一揆を島津家だけでなく豊臣政権の軍事命令として鎮圧したことを示す。
正月十一日 / 冊子 186~187頁
豊臣秀吉が正月朔日付の注進を十一日に受け、唐人・朝鮮勢が蔚山へ進出し、日本諸将が迎撃に向かったことを承知した朱印状。諸将に相談して敵を一人も漏らさず討ち果たすよう命じ、安芸中納言・増田右衛門尉・因幡衆・大和衆・紀伊国衆・但馬衆・九鬼大隅らを増援として順次派遣すると告げる。今後の戦況報告を待ち、その注進次第では秀吉自身も渡海するとした。
年月日未詳 / 冊子 208頁
島津恕翁譜の記事として、山東・海江田方面の戦況を背景に、加江田本城の修築と阿多加賀守の地頭補任を記す。南面・細江などへ守備兵を配置し、伊東氏らの進出に備えた後、城郭と周辺交通路をめぐる攻防が続いた経過を述べ、領地防衛と在地支配を結び付ける。
年月日未詳 / 冊子 760頁
天文七年、新納氏の没落後に四郎兄弟が日新方へ加わり、十二月二十九日の加世田城攻めで大寺越前守・鎌田加賀守・右馬頭忠将が軍功を立てたことを記す。
年月日未詳 / 冊子 774頁
天文八年三月二十八日、日新公が川辺古殿へ赴き、高城主鎌田加賀守の降服を受け入れたこと、四月朔日に本城へ戻って新納伊勢守に凱歌を教えたことを記す。
永禄二年三月三日 / 冊子 69頁
財部筑前守が清水谷口方の扱いについて末吉で町田加賀守と相談済みであることを伝え、神前の宮代官任命や門川からの請取りを時機を見て進めるよう求める書状。
永禄十年十二月廿九日 / 冊子 177頁
永禄十年十二月二十九日、市山城の守兵が大口城下を偵察したところ敵に察知され、西原川辺で市来家利・平田加賀守・伊集院久慶が多勢を相手に防戦して戦死したことを記す。敵は市山城まで追撃したが、城兵の鉄砲・矢で退却し、その後の警固を新納忠元に命じた。
永禄十年十二月廿九日 / 冊子 178頁
永禄十年十二月二十九日、市山口の足軽が評議なく大口城下へ進んだため、球磨・大口勢が数手に分かれて攻撃したことを記す。西原川口で市来家利・平田加賀守・伊集院久慶が防戦したが多勢に敗れて戦死し、敵は市山城下まで迫ったものの、弓・鉄砲で多数を負傷させられて大口へ退いた。
永禄十年十二月廿九日 / 冊子 178頁
永禄十年十二月二十九日、市山口の足軽が無評議で大口城麓へ近づいたところ、球磨・大口勢が大軍で出撃したことを記す。市来家利・平田加賀守・伊集院久慶は西原川口で戦ったが討死し、敵は市山まで追撃したものの鉄砲で大きな損害を受けて大口へ退いた。
元亀三年五月四日 / 冊子 268~273頁
伊東義祐が島津氏の伸長を恐れ、元亀三年五月四日に大軍で飯野・加久藤を攻めた木崎原合戦を長文で叙述する。島津義弘は少数の兵を励まして横撃し、退却を装う戦法と援軍によって伊東文次郎・加賀守らを各陣で破り、自ら柚木崎丹後守を討った。伊東方の多数の戦死者、遺族や国人の動揺を記したのち、林翁粛の諫言や落書を引き、伊東義祐の佞臣偏重・賄賂・奢侈・苛政が敗北と国政混乱を招いたと論評する。
元亀三年五月四日 / 冊子 274~279頁
日向側の記録として、元亀三年五月四日の木崎原合戦と敗戦後の状況を詳述する。伊東方は加久藤を攻めた後、統制を失った退却中に島津義弘の横撃を受け、伊東加賀守ら諸将が次々に引き返して戦死した。所属別の戦死者名と、加賀守・別府宮内少輔・荒武兄弟・柚木崎丹後守らの最期や遺言を収める。敗戦後に起請文を確認すると従来の軍規と異なり、最初から一所討死を誓っていたとの不審も記す。
元亀三年五月四日 / 冊子 279頁
元亀三年五月四日、伊東方が飯野・加久藤方面へ侵攻した際、島津義弘が大将として戦い、伊東新次郎・伊東加賀守をはじめ一門・一家あわせて五百余人を討ち取って勝鬨をあげたと伝える。
元亀三年五月四日 / 冊子 281~290頁
島津義弘の飯野入城から桶平伏兵戦を経て、元亀三年五月四日の木崎原合戦を詳細に叙述する。義弘は加久藤救援・野間門・鳥越・本地原に部隊と伏兵を配し、伊東新次郎を自ら討ち、五代勝左衛門らが伊東加賀守を討って敵軍を崩した。戦場地形・討取人数・六地蔵・太刀洗川の由来、白鷺を白旗と誤認して退いた相良援軍、間者を見破った死苦村彦六左衛門と褒賞地、三徳真成の祈祷・調伏や後世の伝承・編纂経緯まで収める総合的な合戦記。
慶長三年八月廿五日 / 冊子 231頁
豊臣秀吉が、「御無事」の決着後における釜山浦在番の組分けと番替を定めた朱印状。小西摂津守・島津兵庫頭の組、加藤主計頭らの組、黒田甲斐守・鍋島加賀守の組を置き、各城から釜山浦へ引き取る際は兵糧・玉薬・鉄砲などを運んで蔵に収めること、対馬豊崎には久留米侍従・筑紫上野介・寺沢志摩守の計二百人を置くことを命じる。
寛永十二年十二月十五日 / 冊子 507頁
鹿児島町奉行の新納加賀守(忠清)が島津弾正へ、肥後へ商売に赴き宗門改めで留め置かれた鹿児島町の三官を迎えるため与四郎を派遣する旨を伝えた文書。与四郎について「貴師旦宗ニ而無御座通」と記し、五人組側の証文を取ってあるので判形を下すよう願う。本文日付は寛永十二年十二月四日で、索引の十二月十五日と相違する。
年月日未詳 / 冊子 764頁
寛永十五年二月二十八日未刻、肥前有馬原城の本丸で一番槍を務めたことを、市来八左衛門尉・市来五兵衛尉の立会を示して証明した新納加賀守忠清の差出。
(寛永十五年)四月朔日 / 冊子 796~798頁
薩州様(島津光久)が帰府するまで御番を務める件を確認し、大坂から届いた品の送状を火災後の分と照合して、見つかった分を三札にして送る。桑畑藤右衛門尉・大脇正右衛門尉の到着、光久の参府見込み、野村勘兵衛尉を松平伊豆守へ遣わしたことを報告する。有馬一揆の城が先月二十七、八日に落ちたが、銀不足のため祝儀使者を差し止めたこと、山田民部少輔・新納加賀守ら薩摩勢が約二百の首級を挙げたとの情報を記す。江戸・京・大坂で借銀できず、借銀の利息さえ払えない窮状を述べ、銀子の送付を求める。新納勘解由が奉行する大廻船の仕出しや屋敷の無事も伝える。島津久慶・鎌田政統の連署で、島津久元・伊勢貞昌・川上久国・三原重庸・山田有栄宛。寛永十五年四月朔日付。
(寛永十五年)八月八日 / 冊子 817~819頁
有馬の城攻めに参加した者に書付を提出させ、新納加賀守・市来八左衛門尉らの扱いを定める。天草と有馬の間を命令なく移動・帰還した者を調査し、帰国の有無に応じて報告させる。寛永十二~十四年分の出物未進や出銀未進、算用所・諸蔵の帳面を処理し、耕作・荒地の状況を確認する。御乗物廻しや御草履取候補の処遇、加治木から上方へ出た銭作人の召還と悪銭防止、米借用などについて指示・照会する覚書。宛所は御支配奉行中。川上五兵衛・鬼塚源太左衛門は八月十九日に書を持ち下った者で、宛所ではない。発給者未詳。寛永十五年八月八日付。
二月六日 / 冊子 457頁
書状と新しい鷹一羽を拝領したことへ礼を述べ、近日数寄を催す際に調教して御前へ取り成してほしいと願う。また堀田加賀守の草案を送り、十日から二十日までの間に相談したいとした某書状。
年月日未詳 / 冊子 772頁
天文八年三月十三日の紫原合戦で敵軍を討ち取った後、平田宗秀の城からの申請を受けて本城へ進み、伊集院方の城を攻略した戦闘経過を記す。
寛永十一年二月十六日 / 冊子 411頁
検地後に家中の知行支配を改め、知行地の遠近と衆中各人の石高を踏まえ、地頭・衆中が相談して親疎なく公平に配当するよう命じた名寄帳奥書。
寛永十一年二月十九日 / 冊子 411頁
的野寺関係の寺社屋敷を検地帳に載せつつ先例により免許し、門前田畠などには軍役を課して、以後諸士と同様に諸役を勤めるよう定めた寺社屋敷帳奥書。
(寛永十五年)三月八日 / 冊子 790頁
寺原早介重幸が家久死去の際に殉死を願ったが止められ、その志により後の御供を許されたこと、七周忌に島津久慶から追悼歌の短冊を受け、現在も所持することなどを伝えた新納忠清の書状。
(寛永十五年)六月十三日 / 冊子 810~811頁
田舎茶を贈り、有馬落城の際に城近くへ赴いた体験や旧寺領との関わりを述べ、帰国後に対面して当時の事情を詳しく語りたいとの希望を伝えた新納忠清の書状。
寛永廿年八月廿二日 / 冊子 243頁
野村元綱・岩切信元が新納加賀守へ、地頭職の願いが上聞に達したことを伝えた連署書状。対象地は本人が長年勤功を重ねた場所であるため、特に地頭職を仰せ付けられたとし、現地の諸事を取り仕切るよう求めている。
享保十四年十二月十四日 / 冊子 28頁/整理ID 11
婚儀祝儀のため翌十五日に登城するにあたり、招請の時刻や席次などの作法を肥後基偉が加賀守へ照会した書状。幕府の申渡しを受けた後、登城・召出しの手順を確認している。
文政5年9月11日届/9月12日付札回答注 / 冊子 622頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1870
「全上」・扣の正文在右筆所の所在注を持つ、松平豊後守の届書。榮翁が今回吹上御庭の拝見を許された件について、かねて歩行が不自由なので、城内で特別に杖を使用したいと述べ、聞き置いてほしいと願う。九月十一日付で、文政五年は朱注。朱書の御付札には「承置候」とある。当日、御用番大久保加賀守へ留守居早川千竃を介して提出したところ、翌十二日に留守居が呼び出され、右のとおり付札で回答されたという末注を持つ。入力の松平豊後守宛は署名との取り違えとして提出先と取次人へ訂正する。杖使用の願と承置の回答を区別し、後日の実際の使用や介助の方法は補わない。
正月9日(寛永15年か・傍注) / 冊子 566~567頁/原整理番号 66
川上久国が喜入摂津守・北郷佐渡守・渋谷石見守・山田民部少輔・三原左衛門佐・新納加賀守の六人へ、今回の陣中大将役を豊後守・下野守に命じ、談合衆を定めた旨を伝える。諸事をいちいちこちらへ伺えば遅れるため、相談して調えるよう児玉筑後守を通じて命じられたとし、甲斐掃部助・有馬左近将監にも詳しく伝えたので承知するよう求める。正月9日付の川上久国書状で、年次の寛永15年は本文外の『か』付き傍注。欄外は『旧記雑録後編五』1171号文書との同文を推定する。
永正九年八月十二日 / 冊子 76頁/原整理番号 333
伊東尹祐が大脇加賀守に対し、双方の子孫まで等閑にせず、讒者の虚言を受け入れず、相互に疑義があれば腹蔵なく申し合わせると誓約した起請文。違背時には神々の罰を受ける旨を記す。永正九年八月十二日付。
明応七年七月二十八日 / 冊子 573~574頁
入来院本村諏訪社での座敷順を定めた日記。参列する家臣・座衆を左上・右上・左下・右下の四区画に分け、本村誠方・加賀守らの名を席次に従って配列し、祭礼・寄合における家中と諏訪社座衆の序列を具体的に示す。
年月日未詳 / 冊子 668頁
大永六年初秋、島津勝久と実久の不和が深まる中、勝久が忠良へ奉公と支援を求めた経過を記す。伊集院・阿多加賀守・本田紀伊守らが仲介し、忠良の子貴久・虎寿丸を勝久の後継に据える政治調整を進め、家中対立を収拾しようとした。
年月日未詳 / 冊子 763~764頁
島津勝久の鹿児島帰還後の政情と家臣処罰を背景に、忠良方が加世田城を攻めた経過を記す覚書。島津貴久・忠将、鎌田加賀守らが城内へ攻め込み、敵兵を追撃した一方、味方武士も戦死した。攻城の進路、城内戦、追撃までを当事者の記憶に基づいて伝える。
年月日未詳 / 冊子 818頁
天文十三年夏、山田加賀守忠廣の所領処置と肝付忠功との関係を発端に、入来院重聡ら周辺勢力が介入した経過を記す。所領をめぐる交渉が諸氏の離合集散を招き、各地への出陣と戦闘へ発展して、島津貴久方の領国統制問題となったことを示す。
天正六年八月吉日 / 冊子 547~548頁
佐多大和守・寄田内記允・市来加賀守が専修寺へ、天正三年に近衛前久が出水へ下向した際の接待を賞して勅願所とする旨が示され、天正六年に綸旨を頂戴したことを祝う。前代未聞の栄誉で永代の亀鑑になると述べ、島津義虎も大いに喜んでいると伝えた連署状。
文政2年6月24日(年は朱書) / 冊子 564頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1698
重豪公御譜中、正文は文庫にあるとする。端午の御内書を渡すので、明日五半時に御城へ家来を差し出すよう求める。文政二年の朱書、六月廿四日、大久保加賀守署、松平榮翁宛。忠眞は目録による。端午は交付する御内書の用件名、書状の日付は六月二十四日であり、五月の祝儀書状へそろえない。家来を派遣して受け取るよう求める案内で、本人登城や受取済みを報告する文書ではない。
文政5年10月20日(年は朱注) / 冊子 636頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1881
重豪公御譜中・正文在文庫の所在注を持つ、大久保加賀守から松平榮翁への通知。重陽の御内書を渡すので、明日五半時に家来を城へ差し出すよう求め、以上で結ぶ。十月二十日付で、文政五年は朱注。宛名を原本の松平榮翁へ訂正し、松平薩摩守斉興宛という入力の記載は採用しない。差出人の本文署名は官名、目録表題は大久保忠真書状である。通知日二十日と明日の登城指定を分け、実際の登城・受取済みや家来の名前は補わない。
年月日未詳 / 冊子 28頁
島津氏久の譜として、大姶良・濱田・横山の諸勢が氏久に帰属し、氏久方が大姶良城・末次城を攻略して稱市場で戦ったこと、山田忠経を城主とし、本田重親を西俣方面へ移したことを記す。
応永卅三年十一月廿六日 / 冊子 337頁
伊作久秀が伊作庄五郎島浦南・けすくりの田地や内田の屋敷を長興禪寺へ永代寄進し、他者の妨げを禁じた文書。
文明六年九月廿一日 / 冊子 482頁
室町幕府奉行が島津又三郎に、琉球渡海船の事情を引き続き糺明しつつ、渡唐を命じられた泉州・堺の船を厳重に管理して支障なく渡海させるよう命じた連署奉書。
年月日未詳 / 冊子 661~662頁
『本田親安伝』に、大永六年七月廿三日、管領大内義興が杉三河守に書状を持たせ、島津忠兼へ働き掛けたことを記す記事。続くNo.2037にその書状本文を収める。
年月日未詳 / 冊子 766~767頁
天文七年十二月二十八日、忠良・貴久・忠将の父子三人が雪中に加世田へ出陣し、道中で垂れた蜘蛛の糸を三人そろって見たことや、夜半の鐘声を記す。忠将を大手口の大将として攻め、敵の反撃を受けながら諸将が救援し、新城では未明までの激戦の末に城兵を討ち取って落城させた経過を伝える貴久公記。
年月日未詳 / 冊子 819頁
天文十三年夏、山田忠廣が大隅国内の市成庄を貴久へ差し出したこと、その後、肝付忠勤の志を理由に同地が与えられたことなどを記す。