島津元久書状
二月廿九日 / 冊子 289頁
島津元久が新春の祝意を述べ、河尻への合力要請に応じて田代刑部少輔を添えた軍勢を派遣したこと、球磨郡では相良三郎の動向を受け親類美濃守と軍勢を差し向けたことを八代殿へ伝え、協力を求めた書状。
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『旧記雑録』前編・後編・附録10冊と追録1~8(暫定版)、『旧記雑録拾遺 伊地知季安著作史料集1~9』『家わけ1』(暫定版)、関連史料(外伝)『島津世禄記』の46,754件を横断検索できます。検索範囲は史料群・巻を組み合わせて選べます。結果は50件ずつ表示します。
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二月廿九日 / 冊子 289頁
島津元久が新春の祝意を述べ、河尻への合力要請に応じて田代刑部少輔を添えた軍勢を派遣したこと、球磨郡では相良三郎の動向を受け親類美濃守と軍勢を差し向けたことを八代殿へ伝え、協力を求めた書状。
天正十年正月 / 冊子 708~709頁
八代から番兵を求められ、新納忠元が菱刈・両院の兵を率いて急行し、内応勢とともに高方境まで制圧して宇土・熊本への海陸交通を安定させた記事。相良義陽の子息は球磨へ移り、小野・守山・松橋・小川への備えとして花山城を築き、木脇刑部左衛門尉を城主に、球磨・八代・薩摩・日向衆を置いた。
天正十年十二月朔日~天正十一年春 / 冊子 730頁
島津忠長が天正十年十二月朔日に八代へ到着し、島津忠平・家久ら諸将と肥前・肥後経略の策を協議し、翌年春に帰陣したことを記す譜中記事。
年月日未詳 / 冊子 583~585頁
島津義弘・久保に従って朝鮮へ渡る途中だった梅北国兼・田尻但馬守らが平戸付近で変心し、佐敷城を占拠して八代方面へ兵を出した梅北一揆の全経過を詳述する。田尻勢の放火、松浦筑前らによる迎撃、赤松太郎や球磨・彦北勢の追討、国兼の妻子・一族の捕縛と処刑、諸将からの報告と秀吉方の処置までを収める。一揆発生から鎮圧後の残党処分までを島津義久譜から通覧でき、朝鮮出兵に伴う家中統制の崩れと豊臣政権の介入を示す重要記事である。
年月日未詳 / 冊子 297頁
七月二十三日、大口の宰新納忠清が川上久国・喜入忠続へ書状を送り、肥後から帰った者の報告として、熊本城・八代城を収公する幕府上使が七月二十一日に到着したことを伝えたとする家久譜の記事。後掲No.553の書状内容を要約する。
(寛永九年)七月廿三日 / 冊子 297~298頁
新納忠清が、熊本へ置いた情報収集者の帰還報告として、幕府上使が七月二十一日に熊本へ到着し、同日川尻に一宿して翌日に八代へ向かったこと、多人数を伴ったことを伝えた。上使が薩摩境を通る場合に案内役を務めるため、携行させる兵具の数量について指示を求めた書状。
正月六日 / 冊子 141~142頁
今川了俊が、島津氏久・伊久らの帰属と九州の軍事情勢について指示した書状。島津両人が味方であることを京都へ報告したとし、八代へ出陣して忠節を示すこと、国人・一族が公方の命に従うことを求める。自身の上洛中は安国寺に事情を尋ね、名和と協議するよう命じる。
四月十三日 / 冊子 181頁
今川了俊が澁谷清敷に、依頼された件を書き整えて送ると返答し、自身の渡海は京都から再度下向する使者を待っていると伝えた書状。その間に八代を平定する方針を示し、相手方の軍勢にも協力を求め、水軍を急ぎ派遣するよう催促する。
四月十三日 / 冊子 181頁
今川貞臣が澁谷清敷に、書状への謝意を述べ、島津方が軍勢を集めていると聞いたことから、現実に動けば渡海する軍勢もあるだろうと伝えた書状。八代の件は進展しており、相手方の軍勢がなお遅れている事情を問い、早急な参陣・協力を求める。
六月廿六日 / 冊子 204頁
北郷某が、八代長門守に関する照会へ答えた書状。天文元年十一月七日、島津豊後守・北原氏・北郷讃岐守忠相の三家が高城へ向かって合戦し、長門守以下伊東一門と雑兵三百八十人余を討ち取ったとの伝承を報告する。
閏九月十二日 / 冊子 243頁
昌和が、しばらく音信しなかったことを詫び、大手の陣と島津方へ書状を送り、子息の参陣や八代征討、京都方への忠節について意向を伝え、返事を求めた書状。
十月七日 / 冊子 243頁
足利義満が、八代の凶徒退治について委細を伝え、早く発向することが忠節となる旨を島津方へ命じた御内書。
九月三日 / 冊子 252頁
貞信が礼状を披見し、三か国のことが無事に済んだことを喜び、今後も島津方の意向に従うこと、玖摩・八代退治の際には一途に本差として働く旨を伝えた書状。
九月三日 / 冊子 286頁
貞信が礼状を披見し、三か国のことが無事に済んだことを喜び、今後も島津方の意向に従うこと、玖摩・八代退治の際には一途に本差として働く旨を伝えた書状。本文はNo.573と同文のため省略されている。
閏九月十二日 / 冊子 286頁
昌和が、しばらく音信しなかったことを詫び、大手の陣と島津方へ書状を送り、子息の参陣や八代征討、京都方への忠節について意向を伝え、返事を求めた書状。本文はNo.552と同文のため省略されている。
年月日未詳 / 冊子 713頁
伊東義祐ら三侯院方が梶山・山之口など高城周辺を押領しようとしたため、北郷忠相方が迎撃した合戦を詳述する『庄内平治記』。伊東勢の布陣に対して伏兵を置き、敵を誘い出して追撃した。双方の戦死者と首級、八代長州勢の反撃までを記し、高城をめぐる作戦と戦果を示す。
慶長四年四月卅日 / 冊子 377~378頁
西俣七兵衛が、幸侃の縁者らを東福寺へ見舞った際の交際と談話、庄内へ置いた者への書状の伝達、幸侃家中の桃山蔵允へ刀を譲った経緯を証言する。処罰に及んでも偽りは申さないとして、後日の証拠となるよう条々を書き上げる。
七月日 / 冊子 729頁
秋の合戦について諸軍衆の疲弊を踏まえ、豊州家を仲介に北郷氏と新納氏が和融するよう提案する。三俣数か所と吉松の処置をよく勘案し、今秋の弓箭を休止して将来も堅固に相談することを求めた伊東祐修書状。
安政三年正月(本文)、正月廿一日(外包受渡)。応永三十二年正月廿一日(久豊逝去)、安永三年・天保十二年ほか(調査経過) / 冊子 167~169頁/原整理番号 233/整理ID 233
八代久豊の墓所と「義天」銘石塔・掘出骨の調査を述べ、混同を防ぐ処置を命じる文書。久豊は応永三十二年正月二十一日逝去、法号を義天存忠大禪定門とするが葬地が明らかでなく、安永三年に穆佐悟性寺の義天塚と伝える場所から骨を納めた甕、香炉や鈴が見つかっても確証が得られなかったとする。天保十二年に義天の二字を刻む石塔と笠石が出たため、旧文書・古老の伝承等を調べた。久豊の鹿児島での葬儀・法事、福昌寺の卵塔や御石塔等から廟所を検討し、去る丑年には上村休兵衛・榎本新兵衛を遣わして絵図と古い墓地の情報を集めたと記す。一方、火葬と土葬、後世の埋葬、損傷して読めない文字、記録の乏しさ等を挙げて、石塔の由来と掘出骨の身元は分けて慎重に扱う。石塔の文字を磨り消して寺内へ埋め、別途石塔一基の建立を命じ、穆佐中で奉尊し祭式を入念に行う扱い、寺家への書付と後年紛れない保管を示す。寺社奉行・穆佐地頭は石塔の取扱いと場所を吟味して寺家へ伝え、書付を取り調べ申し出るよう求める。本文末は正月・豊後、外包は安政三年正月二十一日に上村休兵衛へ渡して白木御文書十番箱へ納めたと記す。
正月廿八日 / 冊子 22頁/原整理番号 34
川上久国が勝部助左衛門尉へ、肥後八代の家老衆の一色杢□に宛てた書状を、そちらの軽衆に持たせて早急に届けるよう命じる。返事が来たら次の飛脚で久国のもとへ届け、油断しないよう求める書状。
永享8年・文禄4年・慶長4年夏に関する記事 / 冊子 582頁/原整理番号 92-1
種子島清時が忠節を賞され、島津元久から屋久島・恵良部島を与えられて種子島とあわせて領した由緒を記す。嫡子時長が早世したため弟の左近将監幡時が家を継ぎ、永享8年には七島のうち臥蛇島・平島も与えられた。清時の八代の孫久時入道一琢の代には文禄4年に種子島・屋久島・恵良部島から薩州知覧見院へ所領が替えられ、慶長4年夏に種子島を再び与えられたという。屋久島・恵良部島は一時借地となった後に公領となり、以後は種子島一島を領したとするため、三島を一貫して領有した系譜ではない。
本文文書日付なし:未確認 / 冊子 295頁/原整理番号 三九九/整理ID TMP-P02-NENE3-D0399
鎮西八代の凶徒等退治に関連し、嶋津上総介・同陸奥入等の催促不応と異儀、治罰について記す。 「就寛有之篇被執申之間、所被仰也」と述べ、当方の大隅・薩摩の勢について「悉過返之、可被差向也」と命じる。 嶋津には一方として発向し忠節を尽くすよう命じ、「彼輩野心之段、宜依此左右矣」と記す。
応永六年二月廿九日 / 冊子 181頁
島津元久が八代殿へ、探題方から河尻への合力を求められたため田代刑部少輔に軍勢を添えて派遣したこと、球磨郡をめぐる相良三郎の動向に対して親類美濃守と軍勢を差し向けたことを伝え、扶持・同心を求めた書状。
天正十二年四月十四日 / 冊子 872頁
四月十四日、島津義久は福昌寺住持天海に僧二千人を率いて有馬へ赴かせ、島原合戦の死者のため大施餓鬼を営ませた。同日、八代では島津家久の嫡子が元服を祝った。
天正十二年三月二十五日~二十六日 / 冊子 873~874頁
三月二十五日、八代から佐敷へ急使が走り、前日の島原合戦で龍造寺隆信以下数千を討ったとの報告を届けた。義弘・歳久らと戦勝を祝い、二十六日に隆信の首が佐敷へ到着すると多くの人が見物した。
天正十二年三月二十七日 / 冊子 874頁
三月二十七日、島津義久が佐敷で龍造寺隆信の首を実検し、合掌して観念した後、首を衡木に懸けて近くから確認した。義弘・歳久以下の諸将が列座し、義久は同日夕刻に八代へ移って平田光宗宅に宿した。
天正十二年三月 / 冊子 874~875頁
龍造寺隆信が有馬氏を攻めたため、島津方が安徳へ番衆を送り、家久を大将として渡海させて島原への通路を断った経緯を記す。寡兵で隆信の大軍を破り首八百余を懸けたとし、義久は後詰として八代に在陣した。樺山久高らは隈本・合志方面を巡って調略した。
天正十二年四月十九日~二十二日 / 冊子 892~893頁
四月十九日、義久は本田親貞を伴って八代から帰国し、義弘・伊集院忠棟・平田光宗を八代、島津忠長・上井覚兼を有馬に残して肥前・筑後・肥後の調略を続けさせた。二十二日、覚兼らは有馬鎮貴へ、薩摩勢の帰帆、有馬旧領の回復、温泉山再興と神領設定を提案したが、鎮貴は一、二か月の駐留継続を求めた。
天正十二年四月十九日以後 / 冊子 892~893頁
四月十九日、島津義久が八代から帰国する際、義弘に伊集院忠棟・平田光宗らと八代へ残り、肥前・筑後・肥後の調略を終えるよう命じた。義弘は任務を果たした後、八代を辞して飯野へ帰った。
天正十二年六月一日~八月二十九日 / 冊子 900~921頁
天正十二年六月一日から八月二十九日までの長編日記。覚兼は諸地頭招集、栗野八幡造営、法華千部・高城施餓鬼、甲斐宗運との和睦使節などを処理し、鹿児島で有馬・肥後出兵の軍労や八代支配を協議した。帰国後は祭礼・普請・交際を記し、八月には再度の肥後出勢が決まり、諸勢へ隈本集結を命じた。家久父子の佐土原帰着を祝い、二十九日に馬越の軍議へ向かった。
天正十二年八月下旬~九月四日 / 冊子 923頁
肥前・筑前・筑後・肥後でなお従属しない勢力を平定するため、病中の義久は八月下旬、弟義弘を元帥として薩摩・大隅・日向三州の軍勢を肥後へ派遣した。諸将は九月一日に馬越へ集まって進路を評議し、四日に八代へ到着した。以後の陣中記事は義弘譜に譲る。
天正十二年八月二十九日 / 冊子 924頁
八月二十九日、義弘は義久の命で三州軍を率いて飯野を発し、馬越で軍議を開いた。龍造寺政家が秋月種実を介して和睦を求めたが、肥後・筑後の領地を差し出さない和睦は謀略の疑いがあるとして、八代の使者二人を留め、残る二人を島津方使僧と秋月へ戻して再回答を待つことにした。
天正十二年九月四日~六日 / 冊子 925頁
九月四日、島津軍諸将が八代へ到着した。翌日、町田久倍・税所篤和が馬越軍議の決定を秋月方使者へ伝え、島津方使僧と二使を秋月へ戻して再回答を待つまで十日間、境界で放火せず停戦するよう求められた。十一日から十方暮に入るため軍事行動に不向きと判断し、六日に要求を受け入れて返書を持たせた。
天正十二年九月十日~十一日 / 冊子 926頁
九月十日、義弘は八代から隈本へ移り、城親賢宅に宿した。翌十一日、老将らに諸方の調略の取捨、豊後陣への使僧、陣替えについて評議させた。
天正十二年九月二十九日~十月二十日 / 冊子 939頁
九月二十九日から十月にかけ、小代氏・隈部氏・辺春氏の降伏と出頭を受け、宇土顕孝・合志親重を饗応して軍労を賞した。義弘は上井覚兼から戦場救護に必要な金瘡医術を学び、宇土氏とも交歓した。龍造寺政家以下が和睦して旗下に属したため、十月二十日に高瀬から八代へ向け帰陣した。
天正十二年十月十三日~二十五日 / 冊子 940~942頁
十月十三日以降、筑後黒木から大友勢来襲と援軍要請が届いた。十五日、龍造寺・秋月・筑紫との和睦成立を祝い、政家・家晴・鍋島から誓紙を受けた。大友勢討伐の提案には、島津と大友の現時点の和談を理由に直接出兵を避け、使僧を大友陣へ送り撤兵を要求した。十九日に高瀬を発って八代へ向かい、二十四日に誓紙を返し、二十五日に諸軍を帰陣させた。
天正十二年十月一日~晦日 / 冊子 942~951頁
天正十二年十月一日から月末までの日記。小代・隈部・辺春らの降伏と所領・質人を処理し、宇土・合志の諸将を饗応した。龍造寺・秋月との和睦と大友陣への対応を協議し、黒木援軍要請に対して使者による撤兵要求を選んだ。和睦成立後、諸軍は高瀬から八代へ移り、覚兼は佐敷・飯野を経て宮崎へ帰国し、各地で帰陣祝賀を受けた。
年月日未詳 / 冊子 371頁/原整理番号 79
大口と眞幸の敵を圧迫し、伊東の楠比良の陣も崩れたことを記す。八月十八日から大口を包囲して秋作を妨げ、求麻・八代・大口の兵が出るたびに戦ったため、敵は疲弊して和平を申し入れた。菱刈方の命を助け、九月中旬に大口の番衆を引くと籠城側も降った。城内で太平を祝い、鎌田尾張守の働きを賞し、諸城に地頭を置いて軍勢を帰したという。
天正十二年四月三日以後 / 冊子 890~892頁
四月三日以降の有馬方面平定を編年で記す。島津方は神代・井福・森山の降伏と質人提出を受け、諸城を接収して番衆を置き、温泉山再興・神領設定と諫早調略を協議した。十日には水軍百余艘で五ヶ浦・竹崎を焼き、十四日には僧二千人による大施餓鬼と家久嫡子の元服を行った。中旬、宇都顕孝が下野城を明け渡し八代へ出頭した。確定版標題は『島津義久諸』だが、本文は義久公御譜中。
天正十二年九月一日~晦日 / 冊子 930~938頁
天正十二年九月一日から晦日までの肥後従軍日記。馬越で龍造寺政家との和睦を審議し、佐敷・八代を経て隈本・吉松へ進軍した。山鹿・隈部・合志・宇土・小代などの帰属、質人、領知条件を交渉し、肥後高札へ加判した。秋月使者と往復して龍造寺から肥後領返還と血判誓紙を得、九月末には境界の軍事行動を抑えつつ和睦条件を詰めた。
年月日未詳 / 冊子 307頁/原整理番号 2
山口駿河守直友の子孫を示す系図。直行から五郎兵衛らに至る家系を線で結び、各人の通称・親族関係と養子関係を書き添える。
年月日未詳 / 冊子 497~519頁/原整理番号 7-2
島津忠久の伝記を古系図・家伝と玉海・東鑑・山槐記・百練抄・寺社記録などで考証する。冒頭に廣言集の伏見行幸歌を挿入し、丹後局と惟宗廣言・比企氏の関係、忠久を高倉王の子とする説、住吉出生・狐火・三宮の呼称を検討する。以仁王の敗死後の出家と逃亡、頼朝挙兵と鎌倉入、法師房丸から忠久への元服・賜名、北陸宮と義仲、鵜丸・吹丸・鳩作・小十文字などの護剣を年代順に記す。島津庄の領家・庄官・下司・惣地頭・守護と弁済使の関係を、下文・家譜・税制や各地の所領に即して論じ、山門院・木群城への就封と随従者を挙げる。奥州征討の先鋒、軍紀と賜名、庄内訴訟と本地頭の所領回復、阿多・菱刈などの諸氏をたどり、家人・乳母・婚姻関係を整理する。頼朝の死、比企能員の変と守護職復帰、寺社造営、学僧、承久の戦死者、忠久の出家・死と丹後局の葬送までを記す。割注は年齢・出生年・元服年・官職名・異名・母方の食い違いを指摘し、古系図の皇統説と後代の記録を比較する。末尾には丹後局像の供養と願主を記した御像裏書の写しを添える。
天正十二年三月九日~二十四日 / 冊子 868~870頁
島津義久が薩摩・大隅・日向の軍勢を率いて三月九日に出陣し、十六日に佐敷へ着陣した。義弘・歳久や相良氏と会合後、家久を大将として豊久・彰久・忠直ら薩摩勢千五百を有馬勢千五百と合流させ、深江・安徳を経て島原へ進軍させた。三月二十四日、龍造寺隆信の大軍を迎え、家久の決死の督励のもと川上忠堅らが隆信を討ち取り、敵首三千余を得た。義久は佐敷で戦勝報告を待った。
天正十二年五月二日~二十二日 / 冊子 894頁
五月二日、長崎から大村方降人と南蛮僧の意向・質人情報が届いた。三、四日、島津方は三会・島原に薩摩番衆を置き、他城は有馬氏に守らせ、諸質人を管理して主力を帰帆させる方針を定めた。二十二日、秋月種実は前年の龍造寺との和睦仲介が隆信の違約で破れたと弁明し、島津方を欺く意図はなかったと伝えた。
天正十二年十二月四日~八日 / 冊子 957~958頁
十二月四日、秋月種実・龍造寺政家の使者が鹿児島へ来て和睦と帰属の謝意を伝え、太刀・馬・鎧などを献上した。彦山座主の使者も贈物を持参したが、秋月・龍造寺側は島津方使僧の撤兵要求後も豊後勢が高良山・筑後上郡に陣取ると訴えた。六日には将軍足利義昭の使僧蔭涼軒を礼式を整えて迎え、御内書の披露、酒宴、舞を行った。八日には小代下野守ら肥後諸氏の使者が来訪し、太刀・黄金・鎧などを献上した。
年月日未詳 / 冊子 804頁
越前島津氏八代忠親について、系譜上の続柄と名乗りを掲げ、軍忠と恩賞に関する文書を以下に収録すると説明した忠親譜の記事。
年月日未詳 / 冊子 66頁
肥後国八代・葦北・球磨の相良氏、日向の伊東・北郷氏をめぐる軍事情勢の中で、島津氏久が困窮する伊集院久氏らを支援した記事。軍勢・兵糧を整えて各方面へ出動し、相良・伊東方との対立に対応しながら伊集院氏の所領と立場を維持した経過を記す。
永和元年十一月十日 / 冊子 88頁
今川了俊が渋谷虎五郎の肥後国八代境での忠節を神妙と評価し、国元でもいっそう軍功を挙げるよう命じた感状。
永和元年十一月十日 / 冊子 88頁
No.319と同文のため本文を省略した別伝。今川了俊が渋谷虎五郎の肥後国八代境での忠節を神妙と評価し、国元でもいっそう軍功を挙げるよう命じた感状。
年月日未詳 / 冊子 127頁
島津国史として、至徳二年・南朝元中二年に相良前頼が探題へ背き島津方と連携したこと、佐敷・水俣・八代をめぐる宮内大輔三雄、渋谷重頼、今川了俊らの軍事動向、同年冬の犬追物と参加者順位を記す長文記事。