興意入道親王書状
(元和九年)八月七日 / 冊子 795~796頁
興意入道親王が島津家久へ、先日の礼をすぐに書状で述べるべきところ、二日間の能で伏見へ出向くと聞いて遠慮したと釈明した。使者と種々の贈物への謝意を示し、依頼された外題を不調法ながら書いて送り、詳細は伊勢兵部少輔を通じて伝えるとした書状。
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(元和九年)八月七日 / 冊子 795~796頁
興意入道親王が島津家久へ、先日の礼をすぐに書状で述べるべきところ、二日間の能で伏見へ出向くと聞いて遠慮したと釈明した。使者と種々の贈物への謝意を示し、依頼された外題を不調法ながら書いて送り、詳細は伊勢兵部少輔を通じて伝えるとした書状。
正平十二年四月廿日 / 冊子 4頁
島津氏久が田代七郎入道に、大隅国串良院半分の地頭職を兵粮料所として宛行い、先例どおり知行して軍功を励むよう命じた宛行状。
延文三年七月廿九日 / 冊子 10頁
足利義詮が一色入道から使者を通じて九州の情勢を聞き、深く案じていること、近日こちらから使者を遣わして詳細を伝えることを知らせた御教書。
正平十三年十月廿日 / 冊子 11頁
島津氏久が姫木弥四郎入道に、自方へ参じて忠節を尽くしたため、本領の知行に相違がないことを保証した書下。
延文五年二月十八日 / 冊子 17頁
島津氏久が目弥四郎入道に、大隅国桑西郷内鏡原三段を凶徒の知行分であったことから兵粮料所として領掌させ、異議があれば改めて沙汰すると定めた書下。
延文六年七月十一日 / 冊子 21頁
島津氏久が祢寝次郎入道に、大隅国佐多村の庶子女子二人跡について、関東・六波羅の下文や施行状、現知行を示す文書を確認したうえで、相伝知行に相違がないことを保証した書下。
〔延文三年〕七月廿九日 / 冊子 21頁
足利義詮が一色入道から使者を通じて九州の情勢を聞き、深く案じていること、近日こちらから使者を遣わして詳細を伝えることを知らせた御教書。本文はNo.38と同文のため省略される。
康安二年九月六日 / 冊子 28~29頁
足利義詮が渋谷九郎左衛門入道に、前年二月以来の薩摩国合戦での忠節を神妙と賞し、今後もいっそう戦功を挙げるよう求めた感状。
応安三年三月十一日 / 冊子 29~30頁
正八幡宮長吏の仰せにより、帖佐・加治木・吉田・栗野・小河院内に散在する御供田について、郡司・名主らの押作で滞った御供米を、坪付注文に基づき回復・直納させるよう留守左衛門入道へ命じた御教書。
応安八年二月廿五日 / 冊子 75頁
島津氏久が斎藤六郎左衛門入道に、野辺盛久が相伝知行する日向国櫛間院・大隅国深河院北方について、安堵の御教書が得られるよう取り成しを求めた書状。
応安八年三月十一日 / 冊子 78頁
島津氏久が斎藤六郎左衛門入道に、富山彦五郎義弘が相伝する島津庄日向方北郷宮丸名内の富永・成清について、京都への吹挙と沙汰を求めた書状。
応安八年三月廿三日 / 冊子 78頁
島津氏久が斎藤六郎左衛門入道に、富山彦五郎義弘が相伝する島津庄日向方中郷の富山・安久名・和里木名・秋永などについて、京都への吹挙と沙汰を求めた書状。
応安八年五月十日 / 冊子 79~80頁
島津氏久が斎藤六郎左衛門入道に、山田加賀守忠経が譜代相伝する薩摩国谷山郡内の山田・上別府について、京都への吹挙と沙汰を求めた挙状。
応安八年六月七日 / 冊子 80頁
島津氏久が斎藤六郎左衛門入道へ、島津安芸入道明見(樺山資久)の所領回復を依頼した書状。肥後国山鹿庄内の筑後守頼尚跡、同国尻無村、日向国宮崎郡内の戸次丹後守跡地頭職を対象に挙げる。京都へ吹挙して正式な沙汰を得るよう求め、遠隔所領の権利確認を働き掛ける。
永和元年七月十八日 / 冊子 81頁
法眼朝実・定禅が正宮留左衛門入道に、田所永穏・万善・曽恒見・東恒見の三か所で知行者が年貢を納めず抑留しているとして、厳密に催促し、難渋すればさらに厳しい沙汰を行うよう命じた連署奉書。
永和五年三月廿三日 / 冊子 119頁
今川了俊が中野入道・那珂入道に、筑前国須江庄半分を預状の趣旨に従って島津上総介の代官へ引き渡し、請取状を提出させるよう命じた書下。
年月日未詳 / 冊子 122頁
『肝付兼氏譜』の記事。永徳二年六月七日、公使の大寺弾正忠保音入道幸阿らが、北原主計入道に姶良荘末次の田中寺寺務職を命じたことを記す。
永徳二年六月七日 / 冊子 122~123頁
慶安・幸阿が北原主計入道に、大隅国姶良庄末次内田中寺の寺務職を計らい与え、先例どおり沙汰するよう命じた連署状。本文には島津氏久御譜にも収載されるとの注記がある。
永徳三年十二月廿四日 / 冊子 123~124頁
渋谷重頼が向殿太郎入道に、父の譲状どおりの知行を承認し、所領に違乱・妨げが生じた場合には扶持を加えると約した安堵状。
至徳元年十二月九日 / 冊子 126頁
足利将軍家が島津九郎左衛門入道に、相国寺領日向国三俣院について守護に属して忠節を尽くすよう命じ、左衛門佐斯波義将が執達した御教書。
嘉慶三年十月日 / 冊子 141頁
島津元久が市来崎入道に、薩摩国知覧院内の田三町を恩所として宛行い、先例どおり知行するよう命じた宛行状。
嘉慶三年十月日 / 冊子 141頁
島津元久が市来崎入道に、薩摩国山門院の上市来崎三町・下市来崎三町を本領として認め、残らず先例どおり知行するよう命じた宛行状。
康暦元年十二月十七日 / 冊子 141頁
散位某が中田氏部大夫入道・斎藤左衛門大夫に、肥前国三根西郷内の東津・泉空閑両村を、先度の安堵に任せて渋谷肥本摂津守へ沙汰付けるよう命じた施行状。
応永元年八月十六日 / 冊子 154頁
足利将軍家が今川伊予入道に、島津上総介伊久・又三郎元久を討伐するよう命じ、別添の事書に従って速やかに沙汰するよう伝えた御教書。
応永元年八月十六日 / 冊子 154頁
室町幕府が今川伊予入道に、島津伊久・元久の討伐、大隅・薩摩両国の地頭御家人への忠節催促、従わない者の名字・知行の注進、参陣後の忠節に応じた処遇を三か条で命じた事書。
応永三年十一月廿七日 / 冊子 167頁
宮里信正が、薩摩国宮里郷内ひろつぼ三反大坪の所領を、はきの六郎太郎入道へ永代に譲り、子孫まで知行するよう定めた譲状。
応永十年十一月廿九日 / 冊子 210頁
島津元久が称寝左馬助入道へ、大隅国下大隅郡内の自坂上(木谷村を除く)と大称寝内郡本村を料所として宛行い、先例に任せて領知するよう命じた宛行状。
応永十五年十月八日 / 冊子 230頁
島津玄仲が肥後左近将監入道へ、忠節により薩摩国内の屋久島・恵良部島を祈所として宛行い、先例に任せて領掌するよう命じた宛行状。
応永十九年十二月五日 / 冊子 270頁
島津久豊が富山土佐入道に、大隅国大称寝院永吉を給分所として宛行い、先例どおり領知するよう命じた宛行状。
応永廿年六月廿九日 / 冊子 281頁
沙弥願真が豊前入道義忠に、薩摩国八幡新田宮の執印職・五大院主職と散在する田畠を、相伝の手継・本証文を添えて永代譲渡した譲状。
十二月廿一日 / 冊子 598頁
島津忠治が渋谷弾正少弼入道に、先に松本図書から聞いた話の細部を承知したいとして、早く参会するよう求めた書状。
正月廿日 / 冊子 598頁
島津忠治が渋谷弾正少弼入道に、新年の慶賀を述べ、忠節の賞と限城の事について引き続き尽力するよう求めた書状。
十月廿五日 / 冊子 618頁
平山忠康が平山越後入道に、名字と細候の扱いについて伊地知周防の助言を踏まえて申し送った書状。
閏五月十四日 / 冊子 837頁
近衛稙家が肝付河内入道に、一冊の秀歌を書写して贈り、宗養から趣旨を伝えるので取り計らうよう求めた書状。
永禄二年五月廿三日 / 冊子 73~74頁
正八幡宮へ前豊後守忠朝が寄進した金を本田紀伊入道が持参し、島津忠将が受領して三原遠江守へ渡したことを証する受取状。
(天正元年)十月廿八日 / 冊子 316頁
伊集院忠金・平田昌宗・川上意釣が志岐麟泉入道へ、詳しい書状を受け取ったと返答する。従来から両地域の相談関係に変わりはなく、今後さらに親密にしたいと述べ、前年春に承諾した天草方面の調略について感応寺と直書が到着したので、進展を期待し、難航時には重ねて協力すると伝える。
(天正三(十六カ)年)九月朔日 / 冊子 439頁
青蓮院尊朝が八木入道に、龍伯(島津義久)から依頼された書を時間不足で完成できなかったと詫び、冬までに仕上がれば侍従を介して届けるので取り成してほしいと依頼した書状。年次には天正十六年かとの編者推定がある。
(天正六年)六月八日 / 冊子 543~544頁
島津義弘が修理入道へ、前年冬から山寺に滞在していると聞きながら案内を知らず無沙汰したことを詫びる。代々所持の品を贈られたが重要な物なので受納せず返し、上洛の予定や用物について支援を申し出る。追而書で、修理入道の息子が出家する件にも心を添えると伝えた。
年月日未詳 / 冊子 49頁
久基が若年であるため、本田讃岐入道が諸事の下知に心を尽くしていることを島津義久が評価し、境目の重要案件では一層賢慮と才覚を働かせるよう求めた書状案。若年当主を補佐する現地有力者に、境界地域の実務と判断を託したことが分かる。
(天正14年)8月3日 / 冊子 213頁
島津義久が甲斐左近将監・甲斐長門入道へ、方角から回ってきた文書を速やかに取り次ぎ、こちらの願意を届けた対応を賞した書状案。誠実な心底を重んじ、今後も忠節を尽くせば格別に感賞すると約しており、在地勢力との連絡と軍事的な忠節確認を示す。
(天正15年)5月16日 / 冊子 319頁
島津義久が北郷入道へ、大隅方面の案件と防戦の見通し、領内の処置について返答した書状。困難な情勢でも領分を保持し、後日の相談に備えて日々の措置を怠らないよう求めており、九州征伐直後の所領防衛と家中調整を示す。
天正15年11月3日 / 冊子 362頁
島津義久が川上武蔵入道へ、京都から帰国する予定だったが、肥後の騒乱を受けて親子とも暫く滞留するよう命じられ、大坂でも帰国できず迷惑していると知らせた書状。肥後へは伊集院忠棟を急派したとし、帰国後の領内情勢や供の人々の事情を詳しく相談するよう求めている。
閏5月11日 / 冊子 392頁
上原長門入道に対し、治部少輔とともに早く上京し、前年以来の出入・争論を言上することが肝要だと龍伯が指示する。 国人らの訴えや処分に関する事情も記すが欠字が多く、具体的な争点と人名には判読上の不確実さが残る。
(天正16年)11月11日 / 冊子 421~422頁
島津義弘が、島津義久の帰国後も京都が平穏であることを伝え、航海中の長期滞留を経て無事帰国したとの知らせを喜んだ書状。 九日に飯野から届いた報告に触れ、国元の安堵と今後の見届けを伊地知伯耆入道へ伝えている。
(天正16年)11月12日 / 冊子 422頁
島津義弘が、島津義久の帰国を祝うとともに、諸県郡の移衆・配当を飯野で実施する方針を新納武蔵入道へ伝えた書状。 担当者を早急に差し越して処置を進めるよう求め、国元再編に伴う人員・所領配分の実務を示す。
(天正16年)11月12日 / 冊子 422頁
島津義弘が、島津義久の帰国を祝し、諸県郡の移衆・配当を飯野で行うため早々に出向くよう山田越前入道へ求めた書状。 前文書と同じ政策を別の担当者へ指示しており、地域再編を複数の家臣に分担させたことが分かる。
(天正16年)11月22日 / 冊子 422頁
島津義弘が伊地知伯耆入道へ、渡唐船の件を一途に決着させるよう、油断なく厳重に処置することを求める。あわせて琉球への使者を十分に整えず派遣するのは不適切で、白石治部少輔からもその旨を命じられたとして、細部まで調えるよう促した。 白濱次郎左衛門尉・谷少とも直接相談するため、これらの趣旨をしかるべく披露するよう頼んだ、渡海船と対琉球使節の実務書状。
(天正17年)正月3日 / 冊子 434頁
島津義弘が、京都で関白の外出や鷹狩を見聞した近況を伊地知伯耆入道へ伝え、国元の様子も詳しく知らせるよう求めた書状案。 判形・公家衆への披露や進上物の扱いにも言及し、在京中の義弘が朝廷・豊臣政権周辺の儀礼と情報交換に気を配っていたことが分かる。
(天正17年)正月17日 / 冊子 434頁
島津義久(龍伯)が新年の祝意を述べ、相手方の領内が現在どのような状態かを尋ねるため使者を送った書状。 国境・領内の情勢を報告し、引き続き賢慮を尽くして対応するよう新納武蔵入道へ求めている。
(天正17年)正月20日 / 冊子 435頁
豊臣秀吉が島津義弘へ、大仏材木について伊集院右衛門大夫入道(忠棟)・島津図書入道へも朱印状を出したと知らせ、その趣旨を確実に申し渡すよう命じる。 材木調達の実務を両名に担わせ、返答は石田三成を通じて行うとした、豊臣政権の命令伝達系統が分かる朱印状。