征西将軍宮令旨
正平十三年三月六日 / 冊子 8頁
征西将軍宮の意向として、渋谷九郎左衛門尉に味方へ馳せ参じて軍忠を尽くすよう命じた令旨。修理権大夫が奉じている。
SEARCH THE ARCHIVE
『旧記雑録』前編・後編・附録10冊と追録1~8(暫定版)、『旧記雑録拾遺 伊地知季安著作史料集1~9』『家わけ1』(暫定版)、関連史料(外伝)『島津世禄記』の46,754件を横断検索できます。検索範囲は史料群・巻を組み合わせて選べます。結果は50件ずつ表示します。
48 件 (全巻)/ 1–48件を表示
ページ 1 / 1
正平十三年三月六日 / 冊子 8頁
征西将軍宮の意向として、渋谷九郎左衛門尉に味方へ馳せ参じて軍忠を尽くすよう命じた令旨。修理権大夫が奉じている。
康安二年九月六日 / 冊子 28~29頁
足利義詮が渋谷九郎左衛門入道に、前年二月以来の薩摩国合戦での忠節を神妙と賞し、今後もいっそう戦功を挙げるよう求めた感状。
至徳元年十二月九日 / 冊子 126頁
足利将軍家が島津九郎左衛門入道に、相国寺領日向国三俣院について守護に属して忠節を尽くすよう命じ、左衛門佐斯波義将が執達した御教書。
十一月吉日 / 冊子 820頁
島津貴久が内山九郎左衛門尉からの請文を受け、こちらも疎略にしないことを約し、梵天・帝釈から当国の鎮守諸神までの神罰を掲げて誓った起請文。
年月日未詳 / 冊子 691-698頁
関ヶ原前日の布陣から本戦、島津義弘(惟新)の敵中突破と伊勢路への退却を、黒木左近兵衛・平山九郎左衛門らの証言で整理する。島津豊久(中務大輔)・山田有栄・木脇休作らの戦闘、伊吹山方面での義弘との合流、殿軍の交替、住吉・堺での潜伏と出船、大坂の夫人方の救出、豊後沖での船団被害、十月三日の帰着までを詳述する。
年月日未詳 / 冊子 645頁
関ヶ原の大軍乱戦中、川上四郎兵衛が味方の手勢から離れ、井川の飛び石を渡って退いた際、若い家臣が付き従ったものの再び離散したため、合戦の詳しい様子を知らなかったと述べる。
年月日未詳 / 冊子 645頁
敵味方が合戦に入る前から鬨の声がたびたび上がり、島津方の鬨の声は高橋喜兵衛を先頭に発したと記す。
年月日未詳 / 冊子 645頁
二匹の白狐が島津陣前の池を渡って敵勢の方へ向かい、ほどなく草原を通って戻ったため、将兵が合戦の吉凶を案じたという記事。
年月日未詳 / 冊子 646頁
開戦前、長野勘左衛門が敵勢へ切り込み一人を討ち、その首を携えて川上四郎兵衛のもとへ戻り、本日の討初めであると報告した。その後、長野勘左衛門はほどなく討死したと記す。
年月日未詳 / 冊子 646頁
戦場が乱れる中、川上四郎兵衛が毛利覚右衛門に、殿様の行方について申し合わせたいと伝えたところ、覚右衛門は直ちに参ると答えて敵勢へ切り込んだ。申述者は覚右衛門が小岡を越えて駆け込むところまで見届け、ほどなく討死したであろうと推定している。
年月日未詳 / 冊子 646頁
井伊直政(原文は「伊井掃部殿」)を、川上四郎兵衛の配下で源藤という者が鉄砲で撃ったと伝えるが、申述者自身は確実には知らないとする短い証言。源藤の姓は記されていない。
年月日未詳 / 冊子 646頁
伊勢平左衛門が采配を振って指図する間、島津の供衆が鉄砲を撃ち、ほかの者が弾薬を込めて追撃する敵を防いだことを記す。その間に島津義弘(惟新)が退却の支度を整え、身を隠すための装いを用意したとする。
永禄十年十二月下旬 / 冊子 178~179頁
永禄十年十二月下旬、肝付氏が頴娃九郎左衛門を使者として伊東方へ送り、菱刈合戦後に島津方が肝付を攻めるとの風聞を伝えた記事。肝付領内の約三十の要害すべてに守兵が必要なため、伊東方に飫肥口か真幸口の一方で軍事行動を起こして加勢するよう求めた。伊東義祐は野尻に滞陣中で、使者を途中に留めて案内者だけを受けた後、佐土原へ帰った。
天正十二年三月二十四日・十一月二十六日 / 冊子 867頁
天正十二年三月二十四日の島原合戦で戦死した新納駿河守・久永九郎左衛門尉以下の将士と、同年十一月二十六日の戦死者を列記する殉国者名録。各人の実名・父祖・年齢・後裔などを注記する。
二月廿九日 / 冊子 774頁
寛永十五年二月二十八日、有馬春之城本丸の塀を乗り越え、城内で敵一人と槍を合わせたことを、平山七兵衛・山本左近将監・大口衆壱岐兵左衛門らの証跡書物を根拠として、有馬九郎左衛門が二月二十九日に届けた差出。
年月日未詳 / 冊子 280頁
島津家久譜の記事。家老平田太郎左衛門増宗が島津家に代々仕えた重臣であったことを述べ、慶長十五年六月十九日、薩摩郡から私領郡山へ向かう途中、越士瀬戸で鉄砲により殺害された経緯を記す。
11月20日 / 冊子 377頁/原整理番号 348の2
島原・天草一乱への加勢に伴い、加世田方面から船を立てるため当地へ赴いた旨を加納九郎左衛門へ伝える書状である。十四端帆一艘と市来湊の七端帆一艘を船立に組み入れ、出船時刻に間に合うよう片時も油断せず急ぐことを命じる。
年月日未詳 / 冊子 132頁/原整理番号 215
『旧伝集』所収の仁礼九郎左衛門物語。島津光久が江戸から到着すれば城攻めがあると考え働きを期していたが、松平伊豆守から父・家久の病が重いので薩摩へ帰るよう繰り返し命じられ、光久の供として帰国したため、合戦に間に合わず軍物語がないと語る。
天正十二年四月二十四日 / 冊子 893頁
秋月種実が島津義久へ、かねて島津家との和睦を望み、前年八代まで使者を進めたが不測の変化で成就しなかったと釈明した。島原で龍造寺隆信が戦死した勝利を祝い、普光寺・内田九郎左衛門尉を派遣して意向を伝えた。
(文禄元年)8月29日 / 冊子 647~649頁
高麗在陣中の大島忠泰が、家族には自分を心配しないよう伝え、大蔵仲兵衛・九郎左衛門尉らに留守宅と家中のことを託した書状。 十八日以降の日付ごとに、宿泊地、進んだ里数、川口への船着きなど移動の経過を細かく報告し、書状や贈物の受け渡しにも触れる。 軍務の背後にある家族への気遣い、留守居の運営、朝鮮在陣者の通信と移動実態が一通から読み取れる私信。
二月廿九日 / 冊子 318頁/原整理番号 357
有馬九郎左衛門尉が、寛永十五年二月二十八日、原城本丸の屏を越え、城中で敵一人と鑓を合わせたことを届ける覚。証跡人として平山七兵衛、出水衆山本左近将監、大口衆壱岐兵左衛門尉を挙げ、三人から証跡の書物を受け取っているので尋ねるよう求める。寅二月二十九日付で、新納佐左衛門尉・上原貞右衛門尉宛。編者注は『旧記雑録後編五』二一六三号文書と同文とする。
寛正七年正月十七日 / 冊子 453~454頁
島津立久をはじめ、鴨津氏・蒲生氏・伊東氏・伊地知氏・大寺氏・村田氏ら犬追物参加者を左右の組に分け、各人の騎数を列挙した手組。
寛正七年二月晦日 / 冊子 453~454頁
島津立久の犬追物について、鴨津氏・伊東氏・蒲生氏・野村氏ら参加者を組み分けし、各人の足数を列挙した手組。
年月日未詳 / 冊子 685-687頁
長野勘左衛門は上方の異変を聞き、借銀して武具を整え、出水から大坂・伏見を経て関ヶ原へ赴いた。徳川家康の大軍を夜襲するため百五十人を三手に分ける案を川上忠兄へ進言し、中馬大蔵丞には自分が討死した後も義弘を背負ってでも帰国させるよう託した。九月十五日の戦闘では敵首を挙げた後、再び大軍へ突入して戦死したと伝える。
寛永14年11月3日 / 冊子 308頁/原整理番号 272の2
松倉長門守領分島原で切支丹百姓が蜂起したため、加勢の進度と公儀法度を照会する米田是季外二名連署書状。在国の者は持場と国境を守ること、幕府御横目衆へ報告したことを述べ、十一月三日付で唐津方の家老ら五名宛に結ぶ。
明和二年三月十八日午刻 / 冊子 70頁/原整理番号 181の28/整理ID 181-28
中川郡兵衛と永田九郎左衛門が三月十八日午刻、日光での勤向を旧記に基づいて協議した結果を廻状で伝える。前の様子を御並様方に問い合わせたところ、旧記の趣旨を記した書付が差し出されたため、昨日の寄合席で一統が協議して取り決めたという。別紙三通を廻すので、意見がある場合は下書へ書き込むよう求める。後書には、刻限があるため早く順達し、末尾の受取人から九郎左衛門方へ返却するよう指示する。廻状は二通に認めたと記す。
明和二年三月二十五日 / 冊子 74~75頁/原整理番号 181の34/整理ID 181-34
中川郡兵衛と永田九郎左衛門が三月二十五日、日光へ赴く使者の勤向についての協議内容を別紙で廻す。前の相談には少し漏れがあったため、改めて話し合ったところ別紙のとおりとなったので、知らせるため差し廻す旨を伝える。朱書には、年番から廻された二通が昨夜到来したため写して差し出したこと、三月二十六日に佐久間新左衛門から御使番衆・御年寄衆へ伝えたことを記す。
明和二年四月八日 / 冊子 79頁/原整理番号 181の48/整理ID 181-48
中川郡兵衛と永田九郎左衛門が、日光法会の使者・副使関係者に三件を相談する四月八日付の廻状。まず松平右近将監への贈物について、十七日の会合で相談し、翌十八日にその趣旨を一統へ廻状で伝えるとする。百回御神忌の際の先例があり、このたびも各家の内意として右近将監へ一種を贈ると聞くので、一統それぞれ一種ずつ贈ることを提案し、使者の出立前で日がないため、早く返書を求める。次に、日光での副使の旅宿について、先に一々付札で照会されていたので、判明している分を別紙に記して知らせる。まだ旅宿が分からない者については宿坊だけを記し、日光到着後に旅宿を知らせ合うよう依頼する。第三に、来る十一日の法会中日に、在府側の使者が御機嫌伺いを勤めるよう示し合わせ、在国側からはその伺いを不要と考える旨を伝える。朱書は、年番から廻状が到来したため写しを差し上げたという東郷源五の四月八日付報告を記す。
正保四年 / 冊子 63頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0121
正保四年の殉死者として川崎平左衛門助延・川添但馬重次・原田平右衛門・藤田政右衛門を列記する。十月晦日の坂元九郎左衛門入道将安は、主君島津大膳忠紀が江戸で死去したと聞いて殉死し、最期の歌を長崎貞義へ贈ったと小字で記す。
明暦四年六月十九日 / 冊子 370頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0794
鎌田政昭が新納右衛門へ、苦労銀の賦課方法と、身上が行き詰まった平田九郎左衛門・鎌田勘兵衛の各三十石の知行を公儀が買い取り、代銀返済後に返す処置を記した覚書。
年月日未詳 / 冊子 128頁/原整理番号 204
『旧伝集』所収の石原愚見の談話。若年時に島原へ派遣され、仁礼九郎左衛門の命を受けて使者・物資輸送や船の手配に関わり、夜間の航行や城からの鉄砲攻撃に遭った経験を語る。後記は関係者名・軍役人数の異同を考証する。
8月10日(慶長4年の傍注) / 冊子 574~575頁/原整理番号 77
龍伯が武庫入道へ、息女を当家の人質として十三年間京都に置いた事情と、その世話を頼んだ夫婦たちについて述べる。息女のことを関係者に広く任せるのは外聞がよくないとして、又八郎と相談したい意向を示し、平田豊入、川東善右衛門、猿渡九郎左衛門尉らにも言及する。又八郎は神妙に見えると喜びつつ、酒を飲み過ぎないよう細かく言い聞かせることを求め、少将殿にも意向を伝えてほしいと頼む。8月10日付で、慶長4年は本文外の傍注。上書に『武庫入道殿』『龍伯より』とあり、欄外には『旧記雑録後編三』849号と『家わけ三 町田文書』287号との同文推定注記がある。
年月日未詳 / 冊子 532頁
忠経を祖として、初忠能・諸三郎丸・大隅式部諸三郎・九郎左衛門らへ続く山田氏の系譜を示す。嫡子への譲渡、加賀守・左衛門尉などの官途、谷山郡山田を基盤とする一族の分岐を記した系図。
二月十四日、朱注は二月十五日の写送(安永五年の文脈) / 冊子 485~486頁/原整理番号 1347/整理ID 1347
嫡子がいる方は、その付衆へも知らせるよう求める。大目付から廻状と書付の写一通を渡され、陸奥守・大膳大夫に各方への通達を申し付けられたため、数通の廻状を相認めて回すことを伝える。二月十四日、松平陸奥守内諏訪九郎左衛門・田坂源太左衛門を記し、次頁には菅野勝三郎・齊藤源次・吉田隼太の名と、御次第不同の宛書欄が続く。宛書は御名と、有馬中務大輔・伊達遠江守・松平土佐守の各留守居である。小字の受領注は、薩摩守・土佐守は国元へ伝えること、有馬側は中務大輔の国元へ伝え、越侯・上総介へも申し聞かせること、伊達側は承知したことを記す。朱注には本文が到来したので写して差し上げた旨、二月十五日有川勇馬・左中様への記載がある。
文正元年十月七日 / 冊子 125頁/原整理番号 22
文正元年十月七日の犬追物手組。島津十郎左衛門尉・九郎左衛門尉、伊地知又九郎、蒲生十郎三郎らの射手と犬数を掲げ、検見を島津薩摩守とする。
宝暦十三年九月(包紙十日、朱取次記録八日) / 冊子 987~989頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書2822
小松式部清香が九月、家老へ、帰国に伴う十八日・二十二日の脇年頭礼について、地頭らの太刀納入、寺社・山伏・町年寄・唐通事等の御目見、琉球在番と中山王の年頭使の御目見・着座を区分して伺う。着城後すでに御目見した組中諸士の再拝礼は不要とし、中山王の年頭使と新在番が一緒に御目見する先例を調べるよう求める。浄国院(島津吉貴)の初帰国時には礼がなかった先例を挙げ、外城の寺院・衆中等がわざわざ来る必要はなく、御請の日限に参合わせれば御目見する扱いを示し、長期滞在の難儀にも配慮する。帰国時と在国時の年頭規式の違いを踏まえて今後の作法を家老と相談して伺い、朱書には九月八日、赤松甚右衛門が上申して指示を受けた取次記録がある。
寛永15年正月15日 / 冊子 704~708頁/原整理番号 734
加世田士人相徳新介蔵本による人数賦。仁禮右京亮以下の主従人数を次第不同で列記し、追加申出や乗船勤務、夫丸の割付、小松原・出水米之津での飯米支給を注記する。途中に軍士156人・外117人夫と記す。末尾では正月十二日以来二十日分の飯米として真米15石・赤米10石7斗を出水六月田御蔵から受け取り、人躰一人に真米一斗、夫丸一人に赤米一斗ずつ渡したと記す。寛永十五年正月十五日付。
年月日未詳 / 冊子 752~755頁/原整理番号 794
村田市助家蔵の模本から、三原喜太郎・里村十左衛門や谷山・加治木・財部・末吉・大崎・志布志・頴娃・指宿・飯野・高原などの人躰、卒者・夫丸、個人別の随伴人数と着津日を記す。飯米は十日または二十日分を渡し、長嶋ふくら蔵元と米津で分けて支給する例もある。末吉衆中の検見崎兼堯について、家系・移住と島原出陣時の行動を元禄七年の系図申出により補注する。末尾は二十三日条へ続く旨の注。
慶長5年10月10日(1600) / 冊子 458~459頁/原整理番号 14-17
島津惟新が指宿清左衛門尉へ、美濃国関ヶ原合戦で粉骨し、伊勢・近江・伊賀・大和・河内・和泉を経る帰国途上も片時も側を離れず奉公したことを賞して、知行百石を宛行った慶長五年十月十日付感状。後続系譜には、出水の八重尾因幡守家、蒲生の野村九右衛門家への婚姻、福山居住、忠易夫妻の出水での没年・法名などを記す。
応安七年五月廿二日 / 冊子 69頁
今川了俊が山田忠経の加賀守任官の希望について、京都へ推挙すると伝えた挙状。
年月日未詳 / 冊子 65~68頁/原整理番号 36-1
諏訪神事の頭屋・居頭役について、慶長五年・七年の役割分担を記した古書を挙げ、頭役、献役、幣役、宿などの担当者を列挙する。伊地知季安は、本田氏・新納家・平田家などの伝承や社役帳を照らし、担当家の組合とその変遷、神事の古い作法を考証する。また大口の諏訪神事にも触れ、慶長十二年・十八年の記録を挙げて鹿児島の頭屋との関係を推測する。
正平六年八月三日 / 冊子 812頁
後村上天皇が渋谷九郎左衛門尉へ、御方へ参る意向を聞き届けたとして、征西将軍宮に属して軍忠を尽くし、殊功があれば恩賞を与えると伝えた綸旨。
二月廿八日 / 冊子 314頁/原整理番号 342-1
加久藤衆中の手負者六人を、負傷の種類・程度とともに列挙した注文。赤河兵左衛門尉は鑓疵深手、同弥七郎は浅手、金剛坊は鉄炮疵深手、岩崎弾之丞は鑓疵深手、西田杢之丞の小者九郎左衛門尉は同深手、川野与右衛門尉は同浅手とし、二月二十八日付で合六人とする。
三月朔日 / 冊子 321~328頁/原整理番号 370
寅二月二十八日に有馬原城本丸へ乗り込んだ者と、市来八左衛門尉に従って戦場へ同行した者について、氏名と軍功・被害を列記した注文。市来八左衛門尉、三原大蔵太輔、平山七兵衛尉、新納佐左衛門尉、有馬九郎左衛門尉、福崎新兵衛尉らをはじめ、多数の人物ごとに鑓合、鉄砲・弓、首、討捕、手負、戦死、屏越、本丸乗などを記す。中途に『出水衆討捕、合頸数百三拾八』と総数を掲げ、その後も市来八左衛門尉の戦場同行者らを続ける。末尾には曽木衆有村掃部助、坂本四郎兵衛尉、福崎覚兵衛尉の本丸乗を記し、寅三月朔日付。作成者・宛所は記載されない。編者注は『旧記雑録後編五』二一七〇号文書と同文とする。
寛永十五年二月廿八日 / 冊子 343頁/原整理番号 381-7
寛永十五年二月二十八日の有馬原城本丸城乗における鹿児島衆の軍功帳。新納加賀守・市来八左衛門尉の鑓合、三原五郎兵衛・村尾源左衛門尉の弓射通、是枝喜右衛門尉・福崎新兵衛らの鑓合・刀討・首捕を記し、日高十兵衛には受傷を付す。ほか有馬九郎左衛門尉、大野監物、友野七郎、有馬久右衛門尉、平田弥左衛門尉を列挙する。
正平六年十二月廿三日 / 冊子 816頁
渋谷九郎左衛門尉重興が、当月五日に大将の目前で合戦して忠節を尽くしたことについて、幕府への注進と後日の証拠となる一見状を求めた軍忠状。
年月日未詳 / 冊子 45頁
『殉国名藪』が、貞治五年四月十六日に種子島対馬守頼時が菊池武光と肥後白岡で戦死し、家臣の九郎左衛門家信・下野小藤太秀遠も従ったことを記す。年紀には羽島久成申状との相違を注記する。
至徳元年十一月十六日 / 冊子 120頁/原整理番号 6
至徳元年十一月十六日の犬追物で、大手一組の射手と犬数、検見役島津九郎左衛門入道を記す。山田家蔵本の人物比定注記と、欠けた疋数を旧記雑録から補った注記を伴う。