北郷久直譜
年月日未詳 / 冊子 499頁
寛永十二年十月、北郷久直が島津家の人質として江戸へ赴き、家老北郷久永が随行したこと、翌年正月に徳川家光へ拝謁し、遠路参勤の苦労をねぎらわれたことを記す譜記事。
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年月日未詳 / 冊子 499頁
寛永十二年十月、北郷久直が島津家の人質として江戸へ赴き、家老北郷久永が随行したこと、翌年正月に徳川家光へ拝謁し、遠路参勤の苦労をねぎらわれたことを記す譜記事。
年月日未詳 / 冊子 703頁
寛永十四年十一月、切支丹一揆が肥前有馬城に籠り、幕府上使と近国の兵が集まったこと、薩摩から島津下野久元が先勢として出陣したことを記す。北郷久直も兵器を整えて出陣命令を待ち、十二月三日に松平定行から書状を受けた。
(寛永十五年)二月廿八日 / 冊子 763頁
寛永十五年正月、北郷家臣の津曲狩野介兼業・古垣四郎右衛門忠興ら三百人が先手として出水・米津へ進み、原城落城を聞いて帰陣したことを記す。二月二十三日の島津家久死去後、島津光久が江戸に留守の間、久直が分国中の諸役人へ下知を加える任を命じられたとする譜記事。
年月日未詳 / 冊子 815頁
鹿児島沖で琉球船が難風に遭ったため、北郷久直が家老衆へ救助を申し入れ、島津光久が久直に救済を命じる書状を与えたことを記した北郷久直譜の記事。
年月日未詳 / 冊子 3頁
北郷久直が島津家久の位牌を龍泉寺に安置し、香華料として高三十石を寄進したことを記す譜記事。
年月日未詳 / 冊子 738~740頁
島津家久の第三子忠直(北郷久直)が忠能の娘を娶って都城の北郷家を継いだ経緯を記す譜。家督相続祝儀への島津家久返書、江戸桜田屋敷火災への島津光久返書、帰国前の酒井忠利・忠吉書状を収める。
年月日未詳 / 冊子 739~740頁
江戸桜田の島津屋敷火災に際して北郷久直が急使を送り、島津光久が被害と無事を報じた返翰、久直の帰国前に酒井忠利・忠吉が贈った書状を収める譜。
年月日未詳 / 冊子 739~740頁
北郷久直が寛永十四年七月に帰国する前、江戸で酒井忠利・忠吉から受けた訪問・餞別祝儀関係の書状を収める譜。
年月日未詳 / 冊子 677頁
島津光久の家族関係として忠朗・久直・女子を掲げ、女子は元和四年九月十三日に忠朗と同腹の母から生まれ、寛永十四年三月二十四日に二十歳で早世したと記す譜記事。
年月日未詳 / 冊子 718頁
「光久公御譜中」の系譜に、光久・忠朗・久直と並ぶ女子について、元和五年十月二十日に誕生し、母は家臣鎌田政重の娘、寛永十一年八月十八日に十六歳で早世したと記す。島津光久本人の出生記事ではない。
年月日未詳 / 冊子 823頁
寛永元年十一月、島津家久が息子忠元・久直と夫人を伴って江戸参勤へ出発し、獅子島に船をつないで吉日と順風を待ったことを記す。この時、樺山久高が美濃守に任じられて武具を賜り、息子休太郎も安芸守に任じられたとする樺山久高譜の記事。
年月日未詳 / 冊子 828~829頁
島津家久の正室を中心に、その出生・母方、家久との間に生まれた島津光久・北郷久直・島津忠記・女子らを示し、さらに家臣家へ嫁した女子や子孫の出生、死亡、法名、養子関係を系図形式で記録した薩州家譜。
年月日未詳 / 冊子 194~195頁
北郷時久入道一雲から忠虎・忠能・忠亮へ続く北郷家の系統と、その周辺の式部太輔久直・次郎左衛門久定・外記忠長・筑後忠顕らについて、生没年・年齢・光久との続柄などを付記した系図。
年月日未詳 / 冊子 427頁
北郷忠亮の死後、島津家久が三男久直を忠亮の姉に配して後嗣としたこと、家久が暇を得て江戸から上洛する際の動向や久元の召し寄せを記す。
年月日未詳 / 冊子 732頁
北郷忠能以下の嫡流系図。忠能の死に紀藤丹波・土屋七左衛門が殉死したこと、翁久・忠亮の早世、島津家久の第三子久直が北郷家へ入ったこと、島津光久の子久定・忠長・忠智へ続く相続を記す。
年月日未詳 / 冊子 732~733頁
島津光久の子忠長について、正保二年に江戸で生まれ、初め喜入美作家の後嗣となったが久定早世後に久直の娘を娶って北郷家を継ぎ、光久の厳命で本氏を島津と称した経緯を記す譜。
八月廿六日 / 冊子 739頁
江戸桜田屋敷付近の火災を船中で聞いた北郷久直が飛脚を送った配慮に謝し、光久の近辺から出火して家財をほとんど運び出せず、正宗父子や馬廻衆も類焼したが、上下に死傷がなかったことを喜んだ島津光久書状。
正月六日 / 冊子 739~740頁
北郷久直の私宅訪問時に登城中で会えなかったことを惜しみ、持参された太刀一腰・馬代銀十枚は他方からも受け取っていないため、恐縮ながら返却すると伝えた酒井忠利書状。
六月十五日 / 冊子 740頁
北郷久直の訪問と帰国交替の祝儀として太刀・馬代銀十枚・帳子五つのうち単物二つを贈られた配慮に謝し、登城中で会えなかったことを惜しみ、後日の面会を期した酒井忠吉書状。
七月六日 / 冊子 738頁
北郷家督相続の祝儀として遠路から使者と太刀一腰・馬代銀三十枚が届いたことを喜び、返使伊東二右衛門と樽・肴・雉子・肩衣・袴を贈り、秋中の帰国を待つと伝えた島津家久書状。
寛永十七年正月廿四日 / 冊子 95~96頁
島津光久が弟の北郷久直へ、島津家と連枝の結束を守り家の長久を図るよう諭した覚書。軍役を第一として倹約に努め、学問・弓馬以外の遊興や夜行を慎み、登城・祖先忌日の礼を守ること、国法違反・兄弟間の不和を速やかに報告し、争論や私的殺害を避けて老中へ相談し、横目の監察を怠らないことを命じる。
二月七日 / 冊子 91頁/原整理番号 150
川上久国・三原重庸が北郷久直へ、薩州様が上関から有馬へ直行し到着した頃と伝え、加勢の程度は未決定と報じる。黄門様は十四・五日頃からやや軽快し少量ながら食事を取る一方、咳で横臥しにくいとし、加勢を出す際には有馬側が好まない者を含めないよう追伸する。
年月日未詳 / 冊子 104頁
北郷久直が太守島津光久の質として江戸へ赴き、家老の北郷蔵人久孝が従ったことを記す譜記事。
年月日未詳 / 冊子 124頁
北郷久直譜の記事。寛永十七年七月朔日に北郷久直が徳川家光へ拝謁し、その際に松平越中守定綱・酒井讃岐守忠勝・松平伊豆守信綱から久直へ書状が贈られたことを記し、続く三通をその正文として掲げる。
年月日未詳 / 冊子 152頁
北郷久直譜の記事。寛永十八年四月十九日、江戸屋敷にいた島津光久が久直へ諸事を指図するよう命じたこと、伊勢兵部貞昌が同月二日夜に江戸で病没し、その訃報が十八日夜に光久へ届いたため、光久が深く悲しみ、久直にいっそう諸事を勤めるよう命じたことを記す。関連する光久書状二通の正文が存在するとしている。
年月日未詳 / 冊子 738頁
島津光久譜中、忠広が元和六年十二月十八日に生まれ、光久の同母弟で、初め忠弘と称し、東市正を経て入道後に萬山と号したことを記す系譜記事。
建武四年十一月廿四日 / 冊子 703頁
島津大隅愛寿丸が市来院城郭で軍忠を尽くした軍忠状。九月十九日の合戦で愛寿丸の若党七尚元以下が軍忠を励み、隠岐七郎行貞・知覧院三郎久直らの見知を得たとして、恩賞のため証判を求める。
七月二日 / 冊子 124頁
松平伊豆守信綱が北郷久直へ、前日の来訪時は登城中で面談できなかったが、将軍への御目見が首尾よく済んだことを喜び、祝儀として太刀・馬代銀と帷子五のうち単物二を持参したことへの礼を述べた書状。後日の対面を期すとしている。
七月二日 / 冊子 124頁
松平越中守定綱が北郷久直へ、先刻の訪問を喜びながら、その際は退出していて面会できなかったことを詫びた書状。琉球布などの贈物に対する謝意を伝え、改めて閑談したいとしている。贈物名の一部は判読に注意を要する。
七月二日 / 冊子 124~125頁
酒井讃岐守忠勝が北郷久直へ、将軍への御目見が首尾よく済んだことと私宅への来訪を喜び、参府祝儀として太刀・馬代銀子一枚と帷子五のうち単物二を贈られたことへの謝意を述べた書状。別府長次郎を通じて伝える事情にも触れ、後日の対面を期している。
「寛永十八年」四月十九日 / 冊子 151頁
島津光久が北郷式部大輔久直へ、伊勢兵部貞昌が四月二日夜に死去したとの知らせが届き、驚き悲しんでいることを伝えた書状。久直の身を案じ、今後の諸事に十分注意して勤めるよう求めている。
四月十九日 / 冊子 152頁
島津光久が北郷式部大輔久直へ、当面の国元の仕置を新納右衛門佐久詮に任せているため、その指示に少しも背かず相談して処理するよう命じた書状。久直から江戸在勤経験者へも申し渡し、久詮には遠慮なく下知するよう含めておくことを求めている。
年月日未詳 / 冊子 369~370頁
出典見出し「綱久公御譜中」の系譜記事。綱久の子女として女子三人と久統を掲げる。久統はのち久定と称し、又作次郎・左衛門と名乗った。正保元年十二月二十二日生まれで、母については島津美作久憲室と同母と記す。家臣北郷式部大輔久直の後嗣となり、寛文二年七月五日に早世した。
年月日未詳 / 冊子 19頁/原整理番号 22
『不忘危』は、島津久直が七月十五日に佐土原を発して肥後へ向かい、大雨による道路・橋梁被害のため二十二日に到着した行程を記す。伊集院忠兼の日記を引き、家中の旗・馬・弓・鉄砲・鑓・人数の備立と、城受取上使石川主殿頭の旗寸法・意匠を載せる。
寛永11年11月26日 / 冊子 39~41頁/原整理番号 43
島津家久が北郷式部太輔(久直)へ、知行高一万斛ごとの出陣馬数と家中の軍役を定め、馬数の超過と飼犬十疋超を禁じる。衣裳・鷹・大酒などの奢侈を戒め、諸士・下人の召仕、弓箭の備え、学問・信仰、百姓・町人の扱いを整えて北郷家の繁栄と忠節を求める条々である。
(寛永十三年)五月十五日 / 冊子 542~543頁
家臣・役人の合議、公平な人事と賞罰、家中の監督、倹約、忠孝、薩州と北郷家双方への偏りのない配慮など、家久が三男北郷久直へ統治上の心得を説いた条書。
(寛永十五年)八月三日 / 冊子 815~816頁
鹿児島沖に停泊する琉球船が大風で転覆しないよう、積荷を早急に降ろさせ、奉行衆や庄内衆へも手配して作業を進めるよう北郷久直に命じた島津光久の書状。
年月日未詳 / 冊子 94頁
寛永十七年正月元日の城中における着座順を抄出した名書。北郷式部太輔を筆頭に、兵庫頭、桂又十郎以下の家臣を『上』の区分と組み合わせて列記し、各人の席次・序列を示している。
正保二年六月三日 / 冊子 21頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0030
『綱久公御譜中』。島津綱久の子忠長が正保二年六月三日に誕生し、のち太守島津光久の命で北郷久定の遺跡を継ぎ、北郷を称した経緯を記す。
本文文書日付:建武四年十一月廿四〔小字日〕 刊本小字:日 / 冊子 622頁/原整理番号 一三〇/整理ID TMP-P04-NIKAIDO-D0130
島津愛壽丸の軍忠状は、薩摩国凶徒との合戦を記す。 凶徒等が市木院城郭に立籠ったと記し、「今年九月廿九日」の合戦を述べる。 隠岐七郎行貞・知覧院三郎久直らの見知と、「爲備後證、目安状如件」の文言を記す。
天正三年八月十八日 / 冊子 438頁
島津義久が、十三日夜に金峯山神前へ落雷があったことについて、当家にとって吉兆か凶兆かを問うた直書。
子8月26日(割当書) / 冊子 378~379頁/原整理番号 542の1/整理ID 542-1
子八月廿六日、長州討手の先陣惣督を嶋津又六郎、副惣督を主殿、一陣惣物主を隼人とし、一・三・六番の物主に刑部・織之介・登を割り当てる書付。大口の山田司、志布志の福崎助七、国分の川上左太夫、清水の武宮十五衛門、二番の仁禮舎人、田布施の喜入雄次郎、末吉の川田掃部、高城の長束十郎、阿多の柳半之丞、帖佐の伊集院喜左衛門、大崎の益滿與右衛門を列記する。末尾にこのとおり長州討手を命じた旨と三原傳左衛門の名がある。担当・役職・組の対応を示し、各組の実出兵人数は記されない。
寛永9年8月19日 / 冊子 25~32頁/原整理番号 31
東表出陣時の一番から五番・御旗本まで、各大将と諸所衆の乗馬、鉄炮、弓、鑓、手明、夫丸を知行高とともに列挙する。江戸へ提出する目録として、総人数二千八百四十五人、乗馬衆六百七十四人、鉄炮千八百六挺、弓六百四十七張、鑓六百五十三本、昇四百二十本を集計する。
巻七/冊子 103~104頁
元和五年、家久の嗣子忠元(のち光久)の弟忠平が四歳で江戸幕府の人質となっていたこと、家久の妹が赦免されて帰国したことを記す。妹は娘を松平河内守定行へ嫁がせた後、京都・大坂を経て薩州谷山へ着いた。寛永元年十二月、家久は妻妾、嗣子忠元、弟久貞らを伴って江戸へ赴き、その後忠平は帰国を許された。翌年、忠元の母は江戸屋敷で死去する。寛永三年八月、家久は秀忠の命により権中納言・従三位へ叙任され、宣旨を収める。同年九月、家光が二条城行幸を迎えるため参内した際、家久は騎馬で供奉し、還御後に勅賜の馬を受けた。人質の解除、家族を伴う江戸参府、官位昇進、二条城供奉をまとめた記事である。
十二月十六日 / 冊子 354頁
寒中の検地・改役は困難であるが油断なく勤務するよう励まし、具体的な指示は奉行衆から伝えると申し渡した島津家久直書。
四月廿九日 / 冊子 449頁
国中の支配を近日中に完了させるとの報告を喜び、苦労ではあるが万事に念を入れて速やかに決着させることが肝要だと命じ、詳しくは蔵人に述べさせるとした島津光久直書。
(文禄元年)7月18日 / 冊子 595頁
島津義久(竜伯)が歳久へ、邪答院での以前の振る舞いと今回の不慮の事件を理由に、切腹させるとの秀吉の朱印命令が届いたことを告げる。 上意に従って早々に切腹すれば妻子眷属は保全され、家と国のためにも名誉ある最期として後世に名を残せると説く。兄義久が弟歳久へ処断を直接伝えた、歳久事件の核心文書である。
正保二年十月十四日 / 冊子 29頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0042
島津光久が北郷久加に対し、新たに諸役人の主執を命じたので、役人の身分に遠慮せず吟味・差引きを厳正に行うよう指示した直書。
(万治二年)四月廿九日 / 冊子 380頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0838
島津光久が島津久頼・新納久詮へ、国中の支配が近日中に決着するとの報告を喜び、仁太の件も入念に速やかに解決するよう申し付け、詳しくは鎌田蔵人が述べると伝えた直書。
(寛文二年)三月九日 / 冊子 447~448頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0968
島津光久が島津図書久通へ、金山採掘に他国者を加える許可を得たため、無用な入来者で領内の人数が七、八千人以上に膨らみ風儀が乱れぬよう人数を統制し、金山奉行と相談して採掘を繁栄させる方策を整えるよう命じた直書。