島津義久宛行状
天正五年十二月五日 / 冊子 524頁
島津義久が福永丹波守に、談合のとおり忠節を尽くすとの懇望を神妙と認め、相違なく奉公すれば望みどおり野尻一所を安堵し、その他の所領も時宜を見て宛行うと約した状。
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『旧記雑録』前編・後編・附録10冊と追録1~8(暫定版)、『旧記雑録拾遺 伊地知季安著作史料集1~9』『家わけ1』(暫定版)、関連史料(外伝)『島津世禄記』の46,754件を横断検索できます。検索範囲は史料群・巻を組み合わせて選べます。結果は50件ずつ表示します。
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天正五年十二月五日 / 冊子 524頁
島津義久が福永丹波守に、談合のとおり忠節を尽くすとの懇望を神妙と認め、相違なく奉公すれば望みどおり野尻一所を安堵し、その他の所領も時宜を見て宛行うと約した状。
八月十一日 / 冊子 53頁
島津久元・喜入忠政・川上久國が、野田感応寺の重物である絵二軸の管理について連署した書状。黄門様の御覧後に旧寺へ返されたため、他所へ出さず厳重に保管するよう住持へ申し渡すことを執印丹波守に命じる。
文明二年九月四日 / 冊子 471頁
村田経安・丹波守義忠が、志布志大慈寺修造のため関所駄口米を充てる島津立久の命を施行し、先例どおり沙汰するよう伝えた連署施行状。
永禄十一年八月十九日~永禄十二年三月十八日 / 冊子 200~201頁
永禄十一年八月十九日、大口勢が堂崎の通路に陣を構え、伊東勢も桶比良に進出して加久藤・馬関田の村々へ放火した。貴久・義久は菱刈表から援兵を送り、伏兵で誘い出そうとしたが大雨で失敗した。のち大口方が田中河内に伏兵を置き、番替え中の川上丹波守・堀之内某を討ち、救援した是枝大膳坊も戦死した。長陣に疲れた相良方は出水感応寺の僧を介して和議を求めた。
天正四年十二月七日 / 冊子 503頁
野尻地頭福永丹波守が島津方の高原地頭上原尚近へ人質を出して内応し、天正四年十二月七日に島津軍が野尻へ入った経緯を記す。伊東義祐は綾城で抗戦を望んだが領内放火を受け、一日で国を捨てて豊後の大友氏を頼ったという。
天正五年 / 冊子 508~509頁
天正五年の記事を編年で記す。南林寺・興国寺への旧肝付領寄進、相良氏との隣好、琉球王の三州平定祝賀、犬追物を載せる。十二月には野尻地頭福永丹波守の内応を契機に野尻・戸崎・紙屋・富田・佐土原などを攻略し、伊東義祐が豊後へ逃れ、日向各地が島津方へ降った。
天正五年十二月七日以後 / 冊子 522~523頁
野尻地頭福永丹波守の伊東義祐への怨恨を上原尚近が察し、竹内備前守らを介して内応を誘った経緯を詳述する。伊東方に謀書を拾わせて福永への疑念を煽り、十二月七日夜に六十五人の先陣が野尻城へ入り、義弘も入城した。戸崎・紙屋・富田・佐土原へ進み、伊東義祐の豊後逃亡後、五日ほどで日向を制した。
天正五年十二月三日 / 冊子 524頁
天正五年十二月、日向山東がことごとく島津領となり、義久が大隅正八幡宮へ参詣したことを記す。福永丹波守が内通を申し出た際、新納忠秀入道慶雲が高原から野尻城へ急行したことも載せる。
天正五年十二月 / 冊子 524~525頁
伊東義祐の暴政に反発した福永丹波守・野村但馬守らが蜂起し、民家への放火を合図に島津方へ内応したため、義祐が豊後へ逃れた経緯を叙述する。上原尚近が報告すると、正八幡宮参詣中の義弘は直ちに野尻へ進み、評議後に本城へ迫って日向諸城へ番兵を置いた。
天正五年十二月六日~十一日 / 冊子 525頁
天正五年十二月八日、野尻城主福永丹波守が伊東義祐への遺恨から島津方へ内応し、義弘を城へ迎えたことを記す。十一日には義久が十万余騎を率いて進み、日向一国を取得し、義祐は豊後の大友氏を頼って逃れた。
天正五年十二月八日以後 / 冊子 525~526頁
福永丹波守が伊東義祐に背いて野尻城へ義弘を迎え、義祐が豊後の大友氏を頼って退去し、日向一国が島津領になったと記す。異書として、十二月七日夜から島津勢が入り、八日未明に義弘が城を受け取り、義久も大軍で日向へ進んだ経過を載せる。
天正五年 / 冊子 526頁
高原地頭上原尚近が、伊東義祐から疑われ子の元服にも面目を失った野尻城預り福永丹波守へ、伊東家の宿運は傾き、島津方へ参るべきだと密かに勧誘した経緯を記す。福永は譜代の主人を離れる葛藤を経て、身の危難と遺恨を晴らすため島津家への帰属を決めた。
天正五年十二月七日~十一日 / 冊子 526~527頁
高原地頭上原尚近が、伊東義祐に遺恨を持つ野尻の福永丹波守・野村文綱と内通を結び、十二月七日夜に三百余騎を野尻城へ招き入れた。翌日義久が十万余騎で入城し、戸崎・佐土原も落ち、義祐は山中を経て豊後の大友氏のもとへ逃れ、日向は島津領となった。
天正五年十二月七日~九日 / 冊子 527~528頁
上原尚近が偽書を用いて伊東義祐に福永丹波守を疑わせ、対面拒否や嫡子藤十郎の元服をめぐる遺恨から福永・野村一族を島津方へ内応させた。十二月七日夜、島津勢三百人が野尻城へ入り、翌日戸崎も退去・放火された。義祐は紙屋まで出たが領内の火煙を見て佐土原へ戻り、九日未明に米良を経て豊後へ落ちた。
年月日未詳 / 冊子 190頁
北郷讃岐守忠能が二月五日に死去した後、家臣の土屋七左衛門宗武が同月十七日に後を追って殉死し、紀藤丹波守光繁も同様であったことを記す。
(寛永八年)七月十日 / 冊子 217頁
家久の無事帰国を祝うため使者を送り、取り成しを頼むとともに、忠興へ太刀一腰と馬代銀三枚を進上した。有馬丹波守に口上を含ませた有馬直純の書状。
六月廿四日 / 冊子 18頁
島津忠嘉が、帖佐衆中の安楽五郎左衛門尉と伊地知丹波守との入組を処理するよう求めた書状。両者は以前にも公儀へ事情を申し上げ、再び参上したので、事情を知る相手方から当奉行衆へ相談し、解決に導くよう頼む。
天正五年 / 冊子 517頁
天正五年、伊東家臣福永・野村らの内応を受けて島津軍が日向諸城を攻略し、伊東義祐が豊後へ逃れ、日向一円が義久の領土となったことを記す。この報が京都へ届くと、近衛前久が北郷時久へ祝賀の書状を送ったという。
慶長十八年十二月廿日 / 冊子 524頁
七分出銀として銀四十三匁二分八厘を受け取り、別に九匁一分二厘七毛八忽が未進であることを記した三名連署の銀子請取状。
慶長十九年三月十一日 / 冊子 524頁
七分出銀として銀九匁一分二厘七毛八忽を受け取ったことを記した三名連署の銀子請取状。
(寛永十五年)正月廿一日 / 冊子 742頁
使札への礼を述べ、去る朔日の戦況はすでに報告したとおりで、その後は別条がないと伝える。島津下野守・三原左衛門佐が派遣され、今後変事があれば両人を通じて連絡するとした書状。
(寛永十五年)二月五日 / 冊子 751~752頁
家久の病状を案じ、養生を勧める。攻城側は築山を設け、石火矢・大筒で城を攻撃して城中が大いに苦しむ様子であり、松平伊豆守・戸田左門の指揮によって近く落城するだろうと報告した書状。
天明四年三月二十二日 / 冊子 739頁/原整理番号 2084/整理ID 2084
松平薩摩守は持病で下半身が冷えるため、病状が出た際の足袋使用を御用番田沼主殿頭へ伺い、許可を得た旨を届ける。三月二十二日付で「御名」と記した書付は、同日、留守居本城源七郎を通じて西丸御老中鳥居丹波守へ差し出された。前件の伺い・許可を受けた届書である。
天明四年七月二十九日 / 冊子 746頁/原整理番号 2103/整理ID 2103
島津重豪が、妾腹の娘が病死したため、七歳未満の先例に従い翌月朔日まで三日間遠慮すると届ける。七月二十九日早朝に留守居渋谷五郎右衛門を通じて御用番久世大和守へ提出し、牧姫の死去について西丸老中鳥居丹波守へも口頭で伝えた。西丸への届出は通常の先例にはないが、当時の縁女との関係から行ったと記す。
天明四年七月晦日 / 冊子 746頁/原整理番号 2105/整理ID 2105
島津重豪が遠慮中のため八朔の太刀献上を差し控え、遠慮明け後に改めて伺うと届ける。七月晦日付。朱書は、留守居渋谷五郎右衛門が西丸老中鳥居丹波守へ提出し、取次奥村十太夫を通じて受領を確認したと記す。前件2104の登城辞退を含む御用番宛届書とは宛先と文言が異なる。
天明六年十一月十九日 / 冊子 904頁/原整理番号 2481/整理ID 2481
松平薩摩守は、領内の大風洪水による損失を既に届け出ていたが、それ以前にも虫害等があったため再調査したと報告する。調査前までの損高に十四万五千石余を加え、合計三十九万八千石余になったと国元の家来から知らせがあったため、追加して届け出る。朱書注記によれば、この届書は御用番鳥居丹波守へ留守居本城源七郎から差し出され、受領された旨を取次の三村元次郎を通じて聞いた。
天明八年三月五日(朱返答三月六日) / 冊子 1011頁/原整理番号 2725/整理ID 2725
松平豊後守が、当日領知の判物を頂戴したことに伴い、同氏上総介の勤め方をどのように心得るべきか伺う。三月五日付。付札は月番老中丹波守へ使者を差し出すよう指示し、三月六日の付記では、御内証からは礼に及ばない旨を記す。併記の例書は、延享三年寅に故大隅守が領知判物を頂戴した際、故上総入道が国元におり、伺ったうえ飛札で礼を申し上げた先例を挙げる。人物注はそれぞれ島津継豊・島津吉貴とする。朱書によれば、この例書と伺書は一包にして伺書の日付当日に差し出された。
永禄十一年八月十九日 / 冊子 201~202頁
永禄十一年八月十九日、大口勢が深水三河守を大将として堂崎に陣を取り、伊東勢も桶比良へ進出した。義弘は飯野へ戻り、菱刈表から援兵が送られたが、大雨で誘引・伏撃策は実行できなかった。大口方は馬越・田中河内で番替え部隊を襲い、川上丹波守・堀之内二郎左衛門と是枝大膳坊が戦死した。日新は長陣と損耗を避けるため山野を相良方へ譲って一時和睦するよう勧め、感応寺和尚の仲介で和議が成立した。
天正五年十二月七日~晦日 / 冊子 529~530頁
天正五年十二月七日から晦日までの日向進発を日次に記す。正八幡宮参詣中に福永丹波守の内応を知った義久が海路で出陣し、義弘の野尻入城、紙屋以下諸城の服属、正八幡宮への戦勝奉告、高原・紙屋・都於郡への進軍、福永への恩賞と鉄砲拝領、相良・佐伯方との使者往来、高城衆の降伏と人質収容を経て年を越した。
享保十四年八月十八日 / 冊子 901頁/整理ID 2303
鳥居丹波守は在所への休暇を許されたが、竹姫の入輿準備について申合せる用事があるため、入輿と祝儀の進行中は丹波守を江戸に留めるよう松平大隅守が願い出る。
天明六年十二月廿七日(年は朱書) / 冊子 917頁/原整理番号 2520/整理ID 2520
歳暮の祝儀として小袖一重が届いたことを喜び、詳しいことは鳥居丹波守が述べると薩摩中将へ伝える。十二月廿七日付で、刊本は家斉公の墨印を示す。
年月日未詳 / 冊子 772頁
天文八年三月十三日の紫原合戦で敵軍を討ち取った後、平田宗秀の城からの申請を受けて本城へ進み、伊集院方の城を攻略した戦闘経過を記す。
永禄六年七月七日 / 冊子 124頁
島津家の重宝・文書類を列挙した目録。御幡、十文字立物、銀、兵書十六巻、鳳凰の羽、鎧・甲・太刀・鞍鐙、諸大名目録、神仏画像、論旨・御内書・足利尊氏判形などと、櫛間院給分坪付の関係者を記す。
永禄十一年二月廿一日~十二月十九日 / 冊子 185~186頁
永禄十一年二月二十一日の飫肥方面の合戦を中心に、同年各月の戦死者を日付別に列挙する交名抄。北郷忠俊・久周、本田親豊、土持頼綱、和田匡郷ら多数のほか、三月九日の寺山直久、同月二十三日の佐多経久、八月・十二月の戦死者を記す。
天正四年八月十九日以後 / 冊子 499~500頁
高原城攻めを叙事的に記す自記。島津軍が諸口から門壁を破り、多数の死傷者を出しながら断水して城を孤立させた。伊東援軍は猿瀬に陣したが救援できず、城兵は降伏して退去、三山・小林・温水・須木も放棄され、義久・義弘は番兵を置いて凱旋した。
寛永五年六月廿三日 / 冊子 64頁
親王の薨去により家久の暇が延引する可能性、江戸での大規模普請に伴う国元普請の抑制、仁礼景親への百石加増、祭礼への子弟参列を指示する。また比志島国隆の旧臣は当面の奉公を認めつつ行動を監視し、他国へ出ることを禁じる。
(寛永十五年)四月廿一日 / 冊子 801頁
島原の大筒・石火矢・鉄砲・玉薬などを薩摩船で大坂へ運ぶ件について、十~十二反帆ほどの船二十四、五艘と予備四、五艘を用意するよう求めた下曾祢三十郎ら三名の連署書状。
(寛永十五年)五月廿八日 / 冊子 808~809頁
島原から到着した船に石火矢・大筒・玉薬を積み、二十四艘で大坂へ回航したこと、別の一艘には当地の諸道具を積んで江戸まで届けるため、薩摩側の使者・船頭と相談して出したことを報じた三名の連署書状。
天明八年五月十五日(年次朱書) / 冊子 1014頁/原整理番号 2736/整理ID 2736
松平豊後守が、自分と同氏上総介の端午祝儀の献上物、および蓮光院への差上物は忌中のため控えていたが、忌が明けたので、献上の日取りを指図されたいと伺う。五月十五日付。付札は翌十六日に献上すべき旨を回答する。朱注によれば、御用番鳥居丹波守へ本城源七郎を使者として差し出し、即日付札による指示を受けた。
天明六年四月二十七日 / 冊子 860頁/原整理番号 2374/整理ID 2374
重豪は、病中のため参勤御礼の献上物を使者に託し、家来二人を登城させて献上させる伺いについて、水野忠友から許可を受けた旨を承知したと届ける。書付は留守居本城源七郎が西丸老中鳥居忠意へ提出し、承知された。
天明七年正月十八日(年は朱書) / 冊子 921頁/原整理番号 2532/整理ID 2532
持病の疝積に加えて脚痛が近年いっそう堪えがたくなり、療養のため在府し、相州塔ノ沢で入湯したものの効験がなく、引き続き勤めることが難しいと述べる。このため自分の隠居と同氏豊後守への家督継承を願う。事情により由緒ある役目を命じられ、無理を押して勤めてきたが、病状のため思うに任せないとしつつ、国政については病中も補佐する意向を添える。正月十八日付で松平薩摩守から老中四名へ宛てる。
天明七年十月十五日(年は朱書) / 冊子 1002頁/原整理番号 2697/整理ID 2697
公方の機嫌がよいことを喜ぶと述べ、御縁女を近衛右大臣の養女とする願いがそのとおり認められたことを、松平豊後守から聞いてありがたく思うと伝える。この謝意を豊後守からの使札で申し上げている。折を見て御前でも適切に執り成してほしいと依頼して結ぶ。十月十五日付、松平越中守ら六名の老中へ宛てた書状である。
天明七年十月晦日(年は朱書) / 冊子 1003頁/原整理番号 2699/整理ID 2699
翌朔日五時に登城して参府の御礼を申し上げるよう命じられたことを承知したと答える。十月晦日付、松平上総介から松平越中守ら六名への請書である。ここには命令の受領と了解を記し、実際に登城したかどうかは述べていない。
寛永14年10月28日 / 冊子 291~292頁/原整理番号 250
松倉長門守居城で火事と鉄砲音が起こり、国境から急報が届いたため、島原一揆の情勢を確かめるよう求める連署書状。切支丹宗門の者が蜂起したとの注進を伝え、十月二十八日付で結ぶ。
寛永14年10月28日 / 冊子 292頁/原整理番号 251
飛札で島原の様子を注進し、松倉長門守家老中からの書状を参照して隣国加勢の法度を伺う連署書状。切支丹宗門の者を成敗すべきことを申し、十月二十八日付で結ぶ。
寛永14年10月28日 / 冊子 292~293頁/原整理番号 252
松倉長門守領島原の一揆により籠城中であるため、切支丹一揆百姓を退かせる加勢を重ねて求める連署書状。島原から四、五里の場所に馬を集め、城を堅固に守るよう申し、十月二十八日付で結ぶ。
正月7日 / 冊子 578~579頁/原整理番号 602
川上久国が、肥後・筑前などの軍勢が遅れ、船不足で渡海が進まない状況を報じる。出水方面へ人夫・兵糧の手配を加え、浦役人を油断なく督促するよう求める。
記事成立日:未確認 / 冊子 179頁/整理ID TMP-P02-CONT-A23
北條越後守仲時・同姓丹波守の在判書二通があるとして、以下に掲げる。
正徳二年八月三日 / 冊子 20~21頁/整理ID 60
松平正久が薩摩守に、領知判物を頂戴し、四月十九日に名代の鳥居丹波守が御前へ召し出された旨の書状を拝見し、慶賀を述べて返答する。
正徳五年二月廿三日 / 冊子 207頁/整理ID 473
小笠原忠雄が、長崎表の御用で仙石丹波守・石河三右衛門が来着し、老中連名の奉書を持参したことを報じ、長崎奉行らとの連絡について伝える。