島津忠長外二名連署加増目録
慶長五年九月六日 / 冊子 573~574頁
島津忠長・比志島国貞・鎌田政近が連署し、薩州鹿児島郡武村の浮免五石一升をはじめとする加増地を梅北与左衛門尉へ宛行う目録。庄内で自力百日在陣した功による加増で、田畠の反別と石高を列記する。
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『旧記雑録』前編・後編・附録10冊と追録1~8(暫定版)、『旧記雑録拾遺 伊地知季安著作史料集1~9』『家わけ1』(暫定版)、関連史料(外伝)『島津世禄記』の46,754件を横断検索できます。検索範囲は史料群・巻を組み合わせて選べます。結果は50件ずつ表示します。
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慶長五年九月六日 / 冊子 573~574頁
島津忠長・比志島国貞・鎌田政近が連署し、薩州鹿児島郡武村の浮免五石一升をはじめとする加増地を梅北与左衛門尉へ宛行う目録。庄内で自力百日在陣した功による加増で、田畠の反別と石高を列記する。
十月廿一日 / 冊子 691~692頁
伊集院与左衛門が、伯囿方との御談合、谷山・川邊方面の敵情、伊東・新納両軍の動き、追撃と戦死者などについて報告・回想した覚書。
年月日未詳 / 冊子 782~783頁
島津忠俊・勝久の時代に伊集院与左衛門らが果たした奉公を聞き取った記録。各地への軍役動員、城攻めと弓矢の働き、伊集院伊賀ら一族との関係、知行地の保持と戦功に対する恩賞を挙げ、主家交替期の奉公実績と所領の由来を伝える。
年月日未詳 / 冊子 783頁
伊集院与左衛門が、自身が伯囿・虎寿・義運らに仕えた経緯を回想した聞書。城への召集と戦闘参加、樺山玄佐・摂津守らとの関係、奉公に対する知行・恩賞の授受を述べ、主家の交替の中で家中における立場を維持した事情を伝える。
年月日未詳 / 冊子 783~784頁
伊集院与左衛門が伯囿・義運・島津勝久らへの奉公を申し立てた文書。城への召集、鹿児島衆とともにした合戦、敵勢との交戦での働き、勝久から受けた処遇を述べ、家族と所領を維持するため、過去の軍功に基づく恩賞と知行の確認を願う。
文禄2年後9月23日 / 冊子 726頁
諸県郡の逃亡・没収地を久保の蔵入地とする処置は、久保が死去しても変更せず、従来どおり収納するよう命じる。 給人や鎌田杢助が替地を理由に収納を拒む場合は、その旨の墨付を取って証拠を残すよう指示した、久保没後の所領管理に関する義弘書状。
文禄2年後9月廿二日 / 冊子 746頁
諸県郡の逃亡・没収地を久保の蔵入地とする処置は、久保が死去しても変更せず、従来どおり収納するよう島津義弘が命じる。収納を拒む給人がいれば、墨付を取って証拠を残すよう指示する。 No.1181と同文のため本文を省略した、久保没後の所領管理に関する義弘書状の重出。
慶長三年五月廿二日 / 冊子 211~212頁
石田三成と島津義久が上方の算用所運営について定めた連署書下。用事のない者や自分の算用を持たない代官の出入りを禁じ、呼出しに病気・他行を理由として遅参した者には知行高に応じた過怠銭を科すこと、算用中の悪口・軽率な振舞いを処罰すること、算用場の食事を一汁一菜とすること、万物奉行の下知に従うことなどを命じる。
慶長三年五月廿二日 / 冊子 212~213頁
石田三成と島津義久が上方での会計手続きを列記した連署覚書。薩摩から上る米の大坂での受取・売却、算用聞の切手、売却代金の義久への送付、呉服・作事方の買物、摂津・播磨知行の免目録、口米、台所の飯米・塩噌・炭薪油などを規定する。算用聞四人が三か月ごとに帳簿を監査し、帳目録を作らない場合は知行物成の五分一を没収すると定める。
元亀二年秋(十一月廿日) / 冊子 249頁
元亀二年秋、伊地知重興・伊東・肝付・禰寝の連合軍が鹿児島内海へ侵入した際、瀧ケ水で戦功を挙げた者の交名。平田美濃守、鉄砲上手の勝部与左衛門、平田藤九郎、南雲壱岐守・新次郎、指宿四郎二郎ら八、九人を掲げ、平田美濃守の実名に関する編者の考証を付す。
元亀二年九月廿七日・十一月廿日 / 冊子 256頁
元亀二年の島津方戦死者を日付別に記す。九月二十七日に島津五郎四郎忠俊、十一月二十日に萩原又左衛門・武石見守・和気与左衛門らが戦死したことを掲げる。
元亀二年十一月廿日 / 冊子 308~310頁
伊地知重興が肝付・禰寝・伊東方と結び、三百余艘で鹿児島湾へ侵入した海戦を詳述する。鹿児島では伊集院善左衛門が鉄砲で戦死したが、帖佐地頭平田美濃守ら約五十人が瀧水の要害を守り、勝部与左衛門が鉄砲で馬場玄蕃・田上助左衛門らを倒した。敵は上陸を断念し、島津家久の指揮する瀬戸村も避けて下大隅へ退却した。
元亀二年十一月廿日以後 / 冊子 310頁
瀧水合戦後、平田美濃守が従軍者を伴って鹿児島へ参上し、島津義久から異例の武運を賞賛された。伊地知方使僧の証言により、白檀磨きの鎧武者は老臣伊地知伊賀守、戦死者は馬場玄蕃・田上助左衛門と判明した。勝部与左衛門の鉄砲技量や田上兄弟の武名、のち禰寝重武が帰順して逃走者の姿を証言したことも記す。
寛永十五年二月廿九日 / 冊子 772頁
二月二十八日の有馬春之城攻撃で、平山七兵衛が本丸石垣を約三間登り、塀を乗り越え、敵一人と槍を合わせて槍下に突き伏せた場面を実見したとして、宮原与左衛門・村尾源左衛門が二月二十九日に連署して証明した実見証文。
二月廿九日 / 冊子 773頁
有馬原城の高さ三間ほどの石垣を登って塀に取り付き、市来八左衛門尉が槍で突き落とされたところを助け、貴島八左衛門尉へ引き渡したことを、上原佐太右衛門尉の証跡を挙げて届けた寺師与左衛門の差出。
正月十三日 / 冊子 429~430頁
島津義久が友枕斎へ宛てたと目録上整理される書状案。当地には用職の稽古に通じる者がいないため、本田与左衛門尉に太刀目録の様子を尋ねようとしたが病気で出仕しなかったことを述べ、平田弓兵衛尉から指南を受けるよう依頼する。友枕斎は伊勢貞知(友枕斎如芸/有枕斎)と比定される可能性が高い。差出人署名はないが、「友枕斎」は日付左側の宛所相当位置に記載されている。
慶長十三年七月廿一日 / 冊子 177頁
慶長十三年七月二十一日、大村与左衛門尉が小笠原宗仲から相伝された細工の技法を、子一人以外へは伝えず他言もしないと諸神仏に誓った起請文。成正院を取次とする。
(寛永四年)二月廿四日 / 冊子 31~32頁
伊勢貞昌が、年末に当地へ赴いて越年するよう命じられた旨を寺田与左衛門方の内儀から聞き、急な出立に備えるよう早打で知らせる。老中にも書状を送り、又三郎・又十郎の息災と御姫様の出産後の状況も報じる。
寛永十五年二月廿九日 / 冊子 317~318頁/原整理番号 355
村尾源左衛門重候・高尾野衆南郷狩野介・出水衆宮原与左衛門が、福崎新兵衛の原城本丸での働きを実見した証文。寅二月二十八日、福崎が高さ三間ほどの本丸石垣を登り、屏を越えて敵三人と鑓を合わせ、一人を鑓下に突き伏せたのをその場で見届けたとする。寛永十五年二月二十九日付で福崎新兵衛宛。編者注は『旧記雑録後編五』二一六六号文書と同文とする。
二月廿九日 / 冊子 320頁/原整理番号 366
寺師与左衛門が、有馬原城の高さ三間の石垣を登って屏に着いたことを届ける差出。市来八左衛門尉が落とした鑓を拾い、衆中の貴嶋小左衛門尉へ渡したとし、上原左太右衛門尉が証跡を知るとする。寅二月二十九日付で、本文に宛所はない。編者注は『旧記雑録後編五』二一六二号文書と同文とする。
元亀二年十一月廿日~天正元年 / 冊子 305~307頁
肝付・伊地知方の大船団が桜島を経て鹿児島湾へ侵入した海戦と、その後の下大隅征討を長文で記す。伊集院善左衛門が海戦で戦死した後、瀧水では平田新三郎ら約五十人が上陸を阻み、島津家久が瀬戸村で追撃して敵船を軽石へ退けた。続いて早崎・小浜城を攻め、伊地知美作守が退去した城へ家久が入り、牛根城も攻撃したが諏訪神事のため一時帰陣したとする。海戦年次には本文内注記との相違がある。
年月日未詳 / 冊子 296頁
川上久辰の自作文。十一月十五日を期限とする帰陣命令後、小西行長が順天で明・朝鮮水軍に港口を封鎖されたため、島津義弘・立花宗茂らが救援へ向かったと記す。十七・十八日の戦闘で、久辰・久首は小舟から敵船へ攻めかかるが、大船へ乗り移れず矢石・火器を浴び、川上源太左衛門らが戦死、桑波田五郎兵衛らが負傷し、弾薬が尽きて退いたという自身の部隊の戦いと被害を具体的に述べる。
(慶長四年)九月朔日 / 冊子 431~433頁
島津義弘(惟新)が又八郎(忠恒)へ、庄内出陣が長引けば肥後・筑後の風説と重なり危険となるため、内府の調停も見極めて慎重に対処するよう諭した書状。愛宕へ大百味を奉納して祈念・占いを行い、敵方が当月放火するとの占いにも警戒を促す。前年五島へ着船した唐人に関わる大明からの使者船が、日本人・唐人約百五十人の海賊に襲われ、唐人約四十人が殺され、残りが島へ置き去りにされた事件を述べる。生存者の訴えを踏まえ、船と海賊頭領を引き渡せば明へ帰還して日本の法度を伝え、翌年以降の商売往来につながるとの見通しを内府へ報告した。
八月廿三日 / 冊子 568~569頁
福崎重親が、八月十四日に細島を出船し、同月二十一日に大坂へ着いたことを知らせる。島津義弘(惟新)は美濃の城を攻めるため大坂から奥へ進み、自分たちも二十四日に後を追う予定とする。京都・伏見・大坂の無事、先着・後船の薩摩衆や大坂残留者を報告し、伏見城が八月一日に陥落して福永弓左衛門・井尻甚六が戦死し、抜水与兵衛が負傷したことも伝える書状。
(寛永六年)十月十八日 / 冊子 118~119頁
伊集院長衛門の出立と大炊頭からの書状、関係者の聞き取りや証人の召し出し、当年の国許での越年と礼状の返書などについて、経緯と今後の対応を報じた書状。
十一月十九日 / 冊子 290~291頁
天下の訴訟が決着したと本多佐渡守から連絡があったため、境界問題もその意向に従い、芦北郡の百姓を直接返還するよう求め、異存があれば延期も家久の判断に任せるとした加藤清正書状。
慶長六年五月廿五日 / 冊子 99頁/原整理番号 5
本田助丞が上洛に伴う小者・夫丸五人の雇賃、飯米、衣裳や小袖などの調達費を項目別に書き上げる。銀の合計は二百五十六匁八分七厘で、慶長六年五月二十五日に有川与左衛門へ差し出した勘定覚。
目録年月日記載なし / 冊子 364~365頁/原整理番号 34
「覚」は、花尾山周辺の杉・楠などの樹木、石碑、社寺の建物や道筋について箇条書きにした書付。木材の伐採・利用や建物の修繕に際しての扱いを記し、二月二日付で有川与左衛門に宛てる。
明暦元年8月30日(目録) / 冊子 540~541頁/原整理番号 81
評定所の廻状として、諸宮・寺家の帳面を差し出すよう指示し、石塔と寺社の取扱いを伝える。本文末尾には明暦元年九月九日の日付がある。
明暦3年4月9日 / 冊子 588頁/原整理番号 631
『鹿籠案文中』所収の連署覚書。寛永十五年正月の喜入摂津守忠政による天草出陣時の物頭任命・人数召集を記した文書など五通と、御大追物御手組二十一人の書付を提出したことを伝える。
(寛文三年)正月廿七日 / 冊子 462~463頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書1016
喜入摂津守と千世松の居所・移転を調整し、北郷家来小杉宗文の跡目を親類の北郷与左衛門へ継がせる意向と、移転日を翌月八日とする案を伝えた記録。
寛文三年三月二日 / 冊子 464頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書1021
島津光久の江戸参勤に島津忠長が供奉し、旅家老の小杉与左衛門頼利が従ったこと、頼利が翌寛文四年五月二十二日に下国で死去したことを記す系譜記事。
年月日未詳 / 冊子 504頁/原整理番号 512
『加世田小川監物日記』二十三日の記事。殿役蔵の諸出物改めのため寺師与左衛門が召し回され、十左衛門方へ宿泊させたこと、御条書を写し置き、納物を差し出すよう申し渡したことを記す。
二月五日 / 冊子 75~76頁/原整理番号 121
川上久国・三原重庸が江田市右衛門尉へ、御用のため参上するよう昨日物奉行から伝えたのに未着であるとして、必ず今晩到着し、渋谷与左衛門尉と物奉行衆に会うよう急命する。遅延を禁じ、次飛脚で送った。
年月日未詳 / 冊子 318頁/原整理番号 356
村尾源左衛門重候と出水衆中の三原与左衛門(『宮カ』との編者傍注あり)が、平山七兵衛の原城本丸での働きを実見した証文。二月二十八日、平山が高さ三間ほどの本丸石垣を登って屏を越え、敵一人と鑓を合わせて鑓下に突き伏せたのを見届けたとする。本文は寛永十五年二月二十九日付で平山七兵衛宛だが、目録年月日欄は空欄。編者注は『旧記雑録後編五』二一五六号文書と同文とする。
二月九日 / 冊子 108頁/原整理番号 170
川上久国・三原重庸が山川の寺師与左衛門へ、竹下善左衛門が琉球から持ち上った南蛮人の道具を有馬へ運び、島津久元・伊勢貞昌・山田有栄へ確実に披露・引き渡すよう命じる。
寛永十五年二月廿九日 / 冊子 353頁/原整理番号 397
福崎新兵衛ら六人が、寛永十五年二月二十八日に有馬原城で山本左近将が本丸の高さ三間ほどの石垣を登り、屏を乗り越え、弓で敵を多数射伏せたのを実見したとして、翌二十九日に連署して山本へ渡した証文。
寛永十五年二月廿九日 / 冊子 354~355頁/原整理番号 401
壱岐兵左衛門尉ら六人が、寛永十五年二月二十八日に有馬原城本丸で入来院源左衛門尉が石垣上から屏越しに二度鑓をし、さらに屏を乗り越えて二度鑓をして敵四人を鑓下に倒したことを実見したとして、翌二十九日に連署して入来院へ渡した証文。
天保八年二月十六日~五月九日 / 冊子 4頁/原整理番号 9/整理ID 9
天保八年二月十六日、島津斉興が上使の梶斐与左衛門から御鷹の鶴を賜った記事。三月十三日には水野越前守忠邦を上使として例年どおりの品々を賜り、内府徳川家慶からも上使太田備後守資始を通じて例年どおりの品々を受けた。十五日に登城して謝意を述べ、懇命を受けて例年どおり馬を賜る。三月二十二日に江戸を発ち、五月九日に鹿児島へ着いたことまで記す。
11月23日 / 冊子 403~404頁/原整理番号 368の1
十一月二十三日、大迫休左衛門・唐仁原隼人佐・森田与三左衛門・久松四郎左衛門・森田八左衛門・野田内蔵丞・宇多与左衛門の各主従へ、真米・赤米各一斗五升を掲げる。小浦・片浦から出水へ向かう人衆乗船の上乗として、加世田衆中に同日以後三十日分の飯米を片浦で渡したことを記し、到着後も算用して支給するよう是枝喜右衛門へ伝える。
11月24日 / 冊子 413頁/原整理番号 376の3
十一月二十四日、大迫休左衛門・唐仁原隼人佐・森田与三左衛門・久松四郎右衛門・森田八左衛門・野田内蔵丞・宇多与左衛門の各主従へ、真米・赤米各一斗五升を記す。加世田衆中の上乗に十一月二十三日以後三十日分の飯米を渡すよう、三原源左衛門・永山覚右衛門へ命ずる。天草一乱に伴い小浦・片浦から出水へ遣わす乗船のための支給である。
享和元年酉5月(書付末。旧行事は正保3~4年) / 冊子 191~194頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書無番号_0042
大猷院の代、大隅守光久が家伝犬追物の上覧を願い、正保4年11月13日に武州王子村で行った旧記を、享和元年5月にまとめる。前年4月7日には試しとして老中・大名・旗本を芝屋敷へ招き二手組で実施。正保3年4月18日の国元への暇と帰国挨拶、翌年3月射手参府、9月12日の上覧命令・13日光久登城、18日会場普請の命令と家老・地引担当、28日の上覧許可再通知、11月3日射手の修行、10日の酒井讃岐守による図書召出しと13日実施決定を記す。光久側の膳進上願は不要とされ、射手は12騎ずつ三手に分け計36騎、別に射手以外の検見・喚次ら12騎と記す。会場は竹垣、東西42間・南北40間、三か所の口。烏帽子・素袍・小刀・籠手・鞢・行縢・沓、馬上弓・蟇目矢、奉行・記録役と二童子の装束を記す。己上刻、尾張・紀伊・水戸父子らが桟敷、光久・又三郎が御目見・献上、12騎ずつ三手組の犬追物を開始。一手組の追加希望も叶い、終了後は茶亭で再召、光久へ脇差、又三郎へ腰物、射手・掛役へ膳と時服を賜った。申上刻過ぎ帰還、16日に父子・家老・射手が登城謝礼し太刀等を献上、時服を頂戴、12月2日にも上覧御礼、二丸大納言への御目見・献上・腰物拝領を経て本丸へ登城した。各準備日、人数、寸法、当日の進行と複数回の謝礼を分ける。
11月22日 / 冊子 401頁/原整理番号 363
片浦から出す五枚帆二艘・四枚帆二艘(各水手八人)の主取・加世田衆中上乗を記す。続いて小浦から出す五枚帆一艘・四枚帆三艘(水手八人・八人・七人・八人)の主取と上乗を列記する。さらに船頭太兵衛尉の八端帆一艘(船頭・水手十一人、上乗なし)を小松原から出すよう命じ、この船は肥前商人から借り、積んだ「しやうのう」を下ろして出水へ向かわせると付記する。
11月23日 / 冊子 404~405頁/原整理番号 368の2
片浦から出す五枚帆一艘・四枚帆三艘(水手計三十二人)と、小浦から出す五枚帆一艘・四枚帆三艘について、船主・上乗・主取を列記する。さらに小松原三人・小湊三人の加子六人をそちらの船に早く乗せ、残る十一人は片浦から送ると伝える。十一月二十三日、小湊庄屋佐藤大炊左衛門宛。六人は商買船に雇われ小浦へ来ているが、船は他国船なので加子だけを小湊船へ乗せると付記する。
寛永14年11月24日 / 冊子 408~409頁/原整理番号 373
寛永十四年十一月二十四日、鎌田政統・伊勢貞昌・島津久慶が、肥後・有馬関係の書状と飛脚の受渡しについて下野守ら四人へ報じる。山田平左衛門の到着、十八日に着いた注進飛脚、年寄衆への報告と返書、新納勘解由の帰国予定、後藤豊後方への伝達を述べる。奉書を次の飛脚で大坂へ送る予定とし、御蔵元から届いた書状は確認のうえ転送するよう求める。追伸で新庄右近の急な下着と道中の人馬手配を気遣う。
11月27日 / 冊子 425~426頁/原整理番号 396の4
十一月二十七日、串木野から立てた水手五十五人を列記し、三原源右衛門・永山覚右衛門へ受取りを命ずる。助兵衛尉・吉兵衛・惣右衛門から作左衛門・孫市までの五十五記載が本文の合計と一致する。助七・太郎作・次兵衛尉など同名が重複する箇所も名簿上の別記として保持し、推定で統合しない。
年月日未詳 / 冊子 425~427頁/原整理番号 533
相良清兵衛の口事に伴う大童伴兵衛方籠城の経過と損害を記す日記。伴兵衛親子三人をはじめ、親族、山伏四人、出家一人、内の者二十人余、女五十二人ほどが清兵衛宿所を構えて籠城し、寄手がこれを攻めた。寄手側の損害は合計百二十一人で、内訳を死者百十人・負傷十一人とする。七月十二日の事件記事に続き、松平石見守家中など別件の切腹者・預け先や妻子に及ぶ処置、隠岐国仕置衆等に関する七月十七日付の伝聞も併載する。目録年月日は空欄のため、これらの日付をB列へ補入しない。
六月廿四日 / 冊子 430頁/原整理番号 541
長崎・天草・島原方面の使者船仕立て費用を記す。三枚帆一艘について、水手四人には一人六匁ずつ計銀二十四匁、水手六人には計銀三十六匁を支給し、別に一人一日赤米七合五勺ずつを渡した。往来日数に応じるため米の総数は確定できず、同様の数十行は編者が省略した。平田民部宗直家伝来の九冊を御船手へ提出した後、平瀬武方が抜写した本に基づく。
慶長六年五月二十五日 / 冊子 762頁
本田助允が、有川貞政から受け取った銀子・米・銭・衣裳調料などの内訳と、その配分先・数量を列記した会計覚書。
正保三年三月廿六日 / 冊子 243~244頁/原整理番号 174-9
正保三年三月二十六日付の書付。加久藤で新たな役席が設けられる際の座次や、飯野・馬関田など近隣諸所との関係をめぐる異議と相談を記す。従来の取決めや過去の例を挙げ、関係者間で確認して裁定するよう求める。