坪付
文明八年四月廿日 / 冊子 486~487頁
友久が田部三河介に、下ふるかわ・中ふるかわ・はしの口・屋敷内などの田地を段・坪単位で列挙して示した坪付。
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『旧記雑録』前編・後編・附録10冊と追録1~8(暫定版)、『旧記雑録拾遺 伊地知季安著作史料集1~9』『家わけ1』(暫定版)、関連史料(外伝)『島津世禄記』の46,754件を横断検索できます。検索範囲は史料群・巻を組み合わせて選べます。結果は50件ずつ表示します。
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文明八年四月廿日 / 冊子 486~487頁
友久が田部三河介に、下ふるかわ・中ふるかわ・はしの口・屋敷内などの田地を段・坪単位で列挙して示した坪付。
七月廿三日 / 冊子 662頁
大内義興が本田三河守に、近年匠作との関係が不安定だと聞いたので旧来の筋目を守ることが肝要であり、詳しくは杉三河守が伝えるとした書状。
文禄3年2月20日 / 冊子 768頁
近衛前久が見舞いの使者を差し下し、又八郎が疱瘡を患ったとの知らせを受けて深く案じ、油断なく療養することが肝要だと伝える。詳細は嶋田与兵衛尉から申し述べるとしている。 又八郎の病状をめぐり、公家の近衛前久が川上三河入道へ配慮と取次を依頼した具体的な見舞状。
正月九日 / 冊子 185~186頁
島津義弘が河上三河入道へ、前年十二月二十一日の蔚山新城攻撃と同二十六日の報知、その後の救援準備を知らせた書状。泗川の受持城を空けられないため、義弘父子の一人が城を守り、もう一人が諸将とともに蔚山方面へ赴く案を述べる。あわせて晋州・固城・泗川周辺の敵情、物見の報告、在陣衆の動向を伝え、城の守備と東方救援を両立させようとする。
六月十三日 / 冊子 91頁
酒匂伊景が村尾三河に宛てた書状。福田陣で承った谷山関係の一筆について、取り込みのため遅延したことを詫び、今回送付するので適切に処理してほしいと伝え、返答を求めている。
二月十六日 / 冊子 117頁
新納忠勝が杉三河守に、乱劇のなかで不適切な事態があったことに触れ、義伝芳院が事情を詳しく知っているので確認できると伝えた書状。従来の親交を踏まえて、今後も変わらぬ助力と取り計らいを依頼する。
六月十三日 / 冊子 144(本文はNo.229・冊子頁91参照)頁
酒匂伊景が村尾三河に宛てた書状。福田陣で承った谷山関係の一筆について、取り込みのため遅延したことを詫び、今回送付するので適切に処理してほしいと伝え、返答を求めている。No.229と同文。
(天正15年)12月5日 / 冊子 369頁
安国寺方の書状を受け、城中へ籠もった者たちを前日午刻に討ち果たし、男女を残さず処断したことを報告する。津曲与兵衛尉を派遣して阿蘇口の情勢も早急に確認するよう求めた、肥後国人一揆鎮圧の苛烈な実態を伝える書状。
文禄3年正月28日 / 冊子 763頁
島津忠恒が、秀吉への目見得はまだ済んでいないものの、石田三成の尽力で支障はない見込みだと報告する。拝謁と御礼を終え次第、朝鮮へ直接渡海する覚悟を示す。 自身の不在と入唐に備え、武庫の留守、栗野上下、城内を女性たちまで含めて油断なく守るよう命じた書状。
年月日未詳 / 冊子 655頁
世間騒動のなか、本田因幡守の娘婿方である太郎左衛門尉と本田三河守広久が結び、大永五年九月二日に清水隼人城と小濱生別府城を同日に奪取したことなどを記す。
「大永六年」七月十日 / 冊子 661頁
隈江匡久が山田安藝守に、梶山殿・三河殿の来訪を伝え、十三日の出動に備えて年齢層を問わず人衆を立てるよう求め、油断を戒めた書状。
十月六日 / 冊子 695頁
大内義隆が島津忠朝に、日向安国寺を渡唐の副使にする件について了承と意見を求め、詳しくは陶安房守・杉三河守から伝えるとした書状。
年月日未詳 / 冊子 11頁
弘治元年三月二十七日の帖佐攻めで、薩摩勢は別府川南、大隅勢は岩野原に布陣。島津尚久は薩摩南方衆を率いて牛渡で敵を遮り、自ら大太刀を提げて高樋橋口へ進んだ。強敵の鑓兵は家臣山本三河守が討ち、味方は城門を破って放火したが、尚久の厳命で神社仏閣は焼失を免れた。敵首二十六を挙げ、四月二日夜に帖佐・新城・山田の敵が退去した。
永禄十一年八月十九日 / 冊子 201~202頁
永禄十一年八月十九日、大口勢が深水三河守を大将として堂崎に陣を取り、伊東勢も桶比良へ進出した。義弘は飯野へ戻り、菱刈表から援兵が送られたが、大雨で誘引・伏撃策は実行できなかった。大口方は馬越・田中河内で番替え部隊を襲い、川上丹波守・堀之内二郎左衛門と是枝大膳坊が戦死した。日新は長陣と損耗を避けるため山野を相良方へ譲って一時和睦するよう勧め、感応寺和尚の仲介で和議が成立した。
元亀二年十一月廿三日 / 冊子 258~259頁
島津忠平が上原長門守の書状を読み、懸念していた一件に変化がないと知って安心した旨を伝える。詳細は川上三河守との相談内容に合わせ、適当な時機に面会して協議するよう求めた書状。
(天正15年)5月13日 / 冊子 329~330頁
福智三河守長通が兵庫頭へ、羽柴秀長が翌十四日に都於郡を出発し、中務殿も同行する予定だと知らせた書状。秀長が兵庫頭の病状を案じているため、可能なら鹿児島へ赴き、難しければ子息を出頭させるよう勧める。使僧へ自分の考えを残さず伝えたので、その説明を聞いて判断してほしいとも述べる、豊臣方との接触を調整する実務連絡。
(天正15年)5月16日 / 冊子 330頁
福智三河守長通が桑山修理亮の側近へ、二通の書状を披露したことを伝え、兵庫頭に翌日参上するよう返事を出すべきだと相談する。兵庫頭を同道して太平寺へ赴き、豊臣秀吉への礼参が遅れている件を協議するよう求めており、島津方家臣の出仕と礼儀を豊臣方が具体的に調整した書状。
(天正15年)11月5日 / 冊子 365頁
川上三河守らと同様に、遠慮なく諸事を相談し、物事が滞りなく進むよう奔走することが肝要だと伝える。家臣相互の協調と実務遂行を求めた簡潔な指示書状。
年月日未詳 / 冊子 711頁
文禄二年六月、諸将が大軍で晋州城を攻めた際、島津豊久も城内へ突入したことを記す。 横目の片桐主膳正・藤懸三河守が戦況を記録し、味方の戦死者も出たという、豊久隊の晋州城攻撃参加を示す譜記事。
年月日未詳 / 冊子 121頁
『島津常久譜』から、宇多与右衛門尉が上京して安宅三河守へ訴状を提出したため、五代右京亮らを招いて糾明した経過を記す。関係者の申状・答書を京都へ送り、太守兄弟から与えられた書状もあわせて記録したとする。
年月日未詳 / 冊子 612頁
島津義弘(惟新)の家臣鹿屋三右衛門が、関ヶ原から肥後路を経て帰国した経験と現地庄屋との旧交を生かし、八代方面に集結した黒田・加藤・龍造寺・立花らの兵数・軍法を探る。庄屋から、現地兵が少ないこと、伊集院源次郎が密使を送って船を求めたこと、海岸警備の必要、開戦時には肥後兵の多くが薩摩方へ属し得るとの情報を得て川上三河へ報告する。
七月十日 / 冊子 132頁
限江匡久(正久)が山田安藝守に、樺山殿・三河殿の来訪を伝え、来る十三日に廻へ出動するため殿四郎を出張させ、十五歳以上六十歳以下の者と出家を残らず動員するよう命じた書状。重ねて油断なく軍勢を整えるよう求める。
十二月五日 / 冊子 635~640頁
島津義弘の旗下で奉公する新納長住に対し、川上三河守らと同様に遠慮なく諸事を相談し、奉公が行き届くよう尽力することが肝要だと諭した島津義久書状。系図中に収載される。
年月日未詳 / 冊子 511頁
文明十六年十一月十七日、郡本と熊田原の両陣が帰還する途中で合戦となり、部隊が散開して諸士に戦死・退却者が出た経過を記す譜記事。
(永正十三年) / 冊子 612頁
永正十三年と注記された犬追物について、各組の射手と射数を列記した手組。
永正十四年九月十六日 / 冊子 615頁
永正十四年九月十六日の犬追物について、二日二番の射手と射数を列記した手組。
年月日未詳 / 冊子 867頁
天文十七年十一月五日夜、伊東勢が飫肥新山城を襲ったが、北郷家臣らが加勢して防戦し、敵を退けたことを記す。
年月日未詳 / 冊子 867頁
天文十七年十一月五日夜、伊東勢が飫肥新山城へ忍び寄って火箭を放ち、北郷・豊州方の家臣が戦死者を出しながら防戦したことを記す。
年月日未詳 / 冊子 368~369頁
島津忠国のため菱刈三河守元隆が川辺で戦死したこと、川田三郎太郎義清が肥後津奈木の戦いで宗徒数十人とともに戦死したことを記し、いずれも年月不詳として考証を付す記事。
年月日未詳 / 冊子 510頁
文明十六年の田野・飫肥・三俣方面における伊東方と新納・島津方の戦闘を日付順にまとめた殉死者記事。入佐孫六、伊東祐国、新納忠続、西牟田三河守、佐多忠山らの出陣・戦死を戦場と対応させ、連続する合戦で生じた人的損害を記録する。
(慶長元年)八月六日 / 冊子 37頁
安宅三河守秀安が島津又八郎(忠恒)へ、布二巻と書状への礼を述べ、大明勅使と豊臣秀吉の対面後に朝鮮在陣衆が帰朝する見通しを伝えた。しかし地震で伏見・大坂の城内対面所が損壊したため唐人の御礼が延期され、伏見城の天守・矢倉も損壊した一方、島津義弘の屋敷と石田治部少輔(三成)の家は無事であること、三成が注文した桑木の風呂材に満足したことなどを報じた書状。
文安三年二月日 / 冊子 414~415頁
文安三年二月に行われた犬追物の手組を記し、各組の射手・配置と検見役などを列挙する。陸奥守を中心に、島津・本田・村田・伴・祢寝・新納・肝付らが参加した。
永正十一年十二月九日 / 冊子 605頁
永正十一年十二月九日の犬追物について、殿以下の参加者と検見・喚次を配列した手組。
永正十三年八月廿九日 / 冊子 612~613頁
永正十三年八月二十九日の犬追物について、各組の射手と射数を列記した手組。
年月日未詳 / 冊子 654頁
本田次郎左衛門尉の専横、本田因幡守の娘と樺山信久の婚姻関係、曽於郡の給付と返還をめぐる経緯を記し、大永五年九月二日に因幡守と太郎左衛門尉がそれぞれ城を築いたとする記事。
(大永八年)七月廿三日 / 冊子 694頁
杉興重が島津忠朝に、国内の鉾楯を鎮めるため早急に無事の調停を進めるよう求め、詳しい事情は傳芳院から伝えると述べた書状。
(大永八年)七月廿三日 / 冊子 694頁
大内義興が島津忠朝に、国内騒乱の調停について意向を伝え、詳しくは杉興重から申し述べるとした書状。
(享禄元年)七月廿三日 / 冊子 694頁
大内義興が新納近江守に、近年の対立を和らげ和睦を整えるよう求め、詳しくは杉興重から伝えるとした書状。
年月日未詳 / 冊子 10~11頁
弘治元年春、平松城を拠点とする島津方が帖佐を攻めた経緯を記す。三月二十七日、軽鋭の歩卒五人が高樋口で敵一人を斬り一人を捕え、島津尚久らが牛渡で敵を遮断して追撃、計二十六の首級を挙げた。尚久は城下放火の際に神社仏閣を厳しく保護した。四月二日夜、帖佐・新城・山田の敵が祁答院へ退去し、島津方が掌握した。
永禄十一年八月十九日~永禄十二年三月十八日 / 冊子 200~201頁
永禄十一年八月十九日、大口勢が堂崎の通路に陣を構え、伊東勢も桶比良に進出して加久藤・馬関田の村々へ放火した。貴久・義久は菱刈表から援兵を送り、伏兵で誘い出そうとしたが大雨で失敗した。のち大口方が田中河内に伏兵を置き、番替え中の川上丹波守・堀之内某を討ち、救援した是枝大膳坊も戦死した。長陣に疲れた相良方は出水感応寺の僧を介して和議を求めた。
永禄十二年五月六日 / 冊子 218~219頁
五月六日の戸神尾合戦を詳述する。家久が兵糧輸送を装い、三十余騎で大口方数千騎を誘引した。伏兵が早く起とうとした際、忠元・兼寛が団扇で制して好機を待ち、家久が敵中深く引き込むと一斉に挟撃した。相良・菱刈方は大敗し、武将の首百三十六、雑兵の首八百余を数え、討ち漏らされた者は大口城へ籠った。
元亀三年五月四日 / 冊子 279~280頁
伊東方の大軍が加久藤を攻めた際、島津義弘が木崎原へ横撃して伊東文次郎・落合源左衛門らを破った戦いを記す。島津方は鎌田大炊助・野田越中坊・曽木播磨守らを失ったが、義弘自ら敵中へ斬り込み、古陣原・本知原の敵陣を次々に崩して小林方面まで追撃した。多数の戦死者を弔うため戦場に六地蔵を建てたことと、義弘の信心・武運を讃える。
天正六年十月九日~二十四日 / 冊子 597~598頁
大友軍が高城を包囲する一方、伊東旧臣らは日向四十八外城へ廻文を回し、十月十日に一斉放火して都於郡へ攻め入る計画を立て、警固船も折生迫へ向かわせた。しかし一味の一部が島津方へ内通したため九日に企図が露見して関係者が誅伐された。二十四日には平野・三納勢が放火と都於郡攻撃を試みたが、連判勢が失われて千人ほどに減り、島津方に撃退された。
天正九年八月十八日~九月二十日 / 冊子 698~699頁
五万三千余騎とする島津軍が八景尾・銭亀尾・熊牟礼・軽石尾などに布陣し、水俣城を昼夜包囲した長文記事。矢文連歌の応酬とその故事を記し、相良義照が水俣・津奈木・湯浦・佐敷・市之瀬を差し出して和議を求めると義久が許し、嫡子に島津家の通字を与えて四郎太郎忠房と名乗らせたとする。
天正十一年三月五日~二十六日 / 冊子 751頁
天正十一年三月の島津義久の政務記事。鹿児島で居所を得た南蛮僧を父・貴久以来の禁制により追放させ、八代では秋月・龍造寺の和平、田尻への兵船、八代への移転、大矢野氏の処置、出勢時期を評議した。さらに相良忠房の来訪・献上、八代を守護領として城門・郡郷を諸将へ配分する命令、忠房の起請文提出と饗応を記す。
(文禄2年)6月22日 / 冊子 709~710頁
朝鮮へ渡海して各地の城番を務める島津勢の配置や、久四郎をめぐる処置について報告し、帰国・上洛後の扱いを相談する。 鉄砲・刀・脇差などの武具の配分、酒宴や家中の振る舞いにも触れ、在陣中の軍務と親族・家中への細かな指示が入り交じる義弘書状。
三月三日 / 冊子 62頁
川上久國が、長期滞在中の饗応への礼と出立後の無事を川上篠右衛門へ報告した書状。天候に恵まれて細島へ着いたこと、翌夏には早々に下る予定を伝える。本文末尾は「三月念三日」(三月二十三日)、巻末目録は三月三日であり、切り抜き照合により原資料内の日付異同と確認した。
の1:安政6年9月25日;の2:今廿六日;の4:10月2日;外標:安政6年未12月 / 冊子 224~225頁/原整理番号 307の1~4/整理ID 306-1
印刷第307号の1~4を収める一件。の1は安政六年九月廿五日付武家諸法度を天保九年二月廿一日付と同文として略す注で、法度正文は載せない。の2は今廿六日、間部下総守が御條目写一通を家来へ渡し、御國持四品以上の各家へ順達するよう命じた旨の覚。受領した各家が銘々下総守へ使者を遣わして名面書どおりに順達し、この方へ返却されたら重役にも伝える。の3は相模守・大膳大夫以下、修理大夫・有馬中務大輔・細川左京大夫・南部美濃守等の名面書。の4は西筑右衛門の御名内宛報告で、先月廿六日に阿波守家来へ渡された御條目写一通が有馬中務大輔方から今日到来したため、国許の修理大夫へ知らせ承知のうえ御請を申し上げるとする。十月二日。外標は安政六年未十二月。
辰三月8日嶋津伊勢の報告。内田・吉見の二月20・21日書状、二月22日先陣通知等を収録 / 冊子 517~520頁/原整理番号 675/整理ID 675
嶋津伊勢が三月八日に、先月二十日の内田出頭で太守の大坂行幸供奉先陣等の勅命を受け、書付五通を取り次いだと家老ら五名へ報じる。供列について二十二日に御官名内留守居名で届け、中将にも知らせたという。所収書付には、親征に際して民の苦を救い復古を進めるため軍紀を守り、書役・小役にも規律を及ぼすこと、衣服・荷物・夜具・滞陣中の食事などを軽便にする心得、薩摩少将への行幸先陣、諸侯供列の人数、行在所と太政官代の場所を収める。衣服の書付は堂上方以上に渡されたもので、薩摩側へは取り消すよう吉見三河が申し越したという書状・首尾も添える。供列の写は中藩以上の銃隊五百~三百人、小藩の銃隊百五十~五十人に諸役付を連れ、近習・手廻りはそれぞれ十~十五人、六~十人とし、銃隊以外は用捨する。人数届は来る十二日中とあり、行在所・太政官代とも東本願寺掛所とする。
大永6年11月7日、同年某月28日 / 冊子 340~341頁/原整理番号 130-27
樺山玄佐の自記から、大永六年の島津忠兼・本田氏関係と河上氏系譜記事を抄出した記録。十一月七日、金吾様に同行した忠兼が鹿児島へ帰陣し、本田因幡守兼親と父三河守親安の無二の奉公により本田氏へ曽於郡を与えたが、ほどなく河上次郎左衛門の姉に関わる事情から召し返したため、本田氏が恨んで出仕を止め、新納殿を頼ったと記す。さらに新納殿が本田氏へ内通した時、大永六年某月二十八日に宮内の社頭が天火かによって全焼したとする。付随記事は、市来氏へ嫁いだ女子の年代矛盾、僧一人、源左衛門の坂元氏養子、厚地吉内左衛門家長の曾祖父が家林から厚地名字を許された由来を記す。