河添藤七左衛門・上村覚右衛門連署上書
慶安四年十一月廿二日 / 冊子 37頁
河添藤七左衛門・上村覚右衛門が、豊臣秀吉が川内泰平寺を陣宿とした際、龍伯(島津義久)が泰平寺へ出向いたものの供人が不足したため、伊集院にいた両名の父祖が供奉して御輿を担いだと聞き伝えていることを、後日の由緒として申し上げた連署上書。
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『旧記雑録』前編・後編・附録10冊と追録1~8(暫定版)、『旧記雑録拾遺 伊地知季安著作史料集1~9』『家わけ1』(暫定版)、関連史料(外伝)『島津世禄記』の46,754件を横断検索できます。検索範囲は史料群・巻を組み合わせて選べます。結果は50件ずつ表示します。
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慶安四年十一月廿二日 / 冊子 37頁
河添藤七左衛門・上村覚右衛門が、豊臣秀吉が川内泰平寺を陣宿とした際、龍伯(島津義久)が泰平寺へ出向いたものの供人が不足したため、伊集院にいた両名の父祖が供奉して御輿を担いだと聞き伝えていることを、後日の由緒として申し上げた連署上書。
慶長十一年 / 冊子 53頁
国老用人記の記事。慶長十一年、島津義久が帖佐から平松へ移った後、二年間在城した際の家老として、新納旅庵・新納弥七左衛門・伊勢平左衛門・上井次郎左衛門を挙げ、御使衆として新納本右衛門入道一甫を記す。
九月十一日 / 冊子 379頁
九月十一日、島津義弘が寺沢志摩守へ、派遣された焼物師が当地で見事な焼物を完成させたことを喜び、須戸七左衛門尉を介して謝意を伝えた書状。
(慶長十七年)九月十一日 / 冊子 379頁
慶長十七年九月十一日、島津義弘が寺沢志摩守へ、須戸七左衛門尉の来訪と夕刻の会談を喜び、今後も意思を通じるよう依頼した書状。
年月日未詳 / 冊子 190頁
北郷讃岐守忠能が二月五日に死去した後、家臣の土屋七左衛門宗武が同月十七日に後を追って殉死し、紀藤丹波守光繁も同様であったことを記す。
(寛永十四年)十二月十七日 / 冊子 713~714頁
上使衆の早打に託された先月二十三日付の御状が今月十一日夜に酒井讃岐守から兵部少へ届いたことを述べる。上使は十二日夜半に到着し、翌朝御奥で対面して雑煮の寄合と七五三の振舞を受け、黄門様の胸や手の様子を見た。北郷式部大輔と孫庵が相伴し、上使は引き留められたが十三日夜に出立した。先行して注進した者は海道で上使に追い越され、船で進んだ黒葛原周右衛門・松田七左衛門は五日前に到着したとし、一連の順調な到着を神仏の加護として祝う。島津久慶・伊勢貞昌・鎌田政統の連署で、三原左衛門佐・川上左近将監・島津下野守宛。寛永十四年十二月十七日付。
正月十二日 / 冊子 45~46頁
有馬純房が、天山三次の成敗を命じられた経緯を報告した書状。大井七左衛門とともに正月四日に伏見から大坂へ下り、翌五日に三次へ切腹を申し渡して無事執行し、七日に伏見へ戻った後、九日に殿様に供奉して再び大坂へ下ったと述べる。
正月十二日 / 冊子 112(本文はNo.125・冊子頁45~46参照)頁
有馬純房が、天山三次の成敗を命じられた経緯を報告した書状。大井七左衛門とともに正月四日に伏見から大坂へ下り、翌五日に三次へ切腹を申し渡して無事執行し、七日に伏見へ戻った後、九日に殿様に供奉して再び大坂へ下ったと述べる。No.125と同文。
正月廿九日 / 冊子 340~341頁
島津貴久が左衛門大夫へ新春を賀し、弥七左衛門尉を雇い入れたいので、必要が済み次第こちらへ送るよう求めた書状。当座の用務があれば事情を聞いたうえで差し遣わすとしている。
元禄15年正月吉祥日 / 冊子 373頁/原整理番号 188-7
元禄十五年正月、青山六郎左衛門が蒲地七左衛門の照会に答え、蒲地家の縁戚・軍役・移住を四条にまとめた覚書。第一条は、母の妹が喜入摂津守の奥方で、本人が国分から摂津守に伴われ、十一歳から十九歳まで祖母のもとに居たこと、外祖母が大口春田に隠居し、兄蒲地八左衛門らも同所に居たことを記す。第二条は、福山坂で女方をめぐり金八を討つよう命じられた伊集院嘉左衛門が若年だったため、龍伯が功者の蒲地帯刀・四郎左衛門に立会いを命じ、両人が金八を討ち果たした件。第三条は庄内陣の際に押えとして敷根内脇元へ移され諸事差配を勤め、陣後に国分へ移った由緒、第四条は本人十五歳の年に父蒲地四郎左衛門が中納言によって鹿児島へ召し移されたことを伝える。
五月十一日 / 冊子 369頁
現地に新しい問題がないかを案じ、兵部と内議したうえで七左衛門を使者にしたので詳しく相談するよう求める。自身は老齢で望みはないが家名を落とすことは無念だと述べ、疑念を招かぬよう肥前守らとも談合して対処するよう指示した島津家久書状。
年月日未詳 / 冊子 820~821頁
忠恒は十月十四日に壱岐勝本を出帆し、強風を受けながら対馬府中へ到着して池田紀伊介の宿に入った。二十六日に対馬皇浦を発ち、同日夜に釜山浦へ着くと、翌日には白浜次郎五郎らを早舟で唐島へ送り、到着を義弘側へ報告した。 二十八日には唐島から樺山権左衛門・喜入摂津守らが迎えに来た。忠恒の朝鮮渡海を日付・風向・宿泊地・使者・迎船まで詳しく記す航海記事。
年月日未詳 / 冊子 353~354頁
上原氏二代目の源右衛門は国分で島津義久に近侍し、平田狩野らと兵具方を勤めたため、他の者が高麗へ出陣して加増を受けた際にも義久のそばに留め置かれた。忠恒への代替わりに際して墨色の「あめの御旗」を持つ使者を務め、その加増として五十石を与えられ、義久は本来百石を与える意向であったと伝える。
年月日未詳 / 冊子 238頁/原整理番号 173-4
馬追の日に付ける人員の記録。四月四日に担当者を追加・改定した旨を記し、長江浦・池田・庄屋など関係者の名を列挙する。
十月廿六日 / 冊子 403頁/原整理番号 171
川上芳庵の伝授状。馬術を含む家伝の秘事を相手に残らず授けたとし、秘伝を他家へ漏らさず家中に伝えるよう述べる。寛文二年六月二十六日付。
「寛永十六年」十一月十五日 / 冊子 64頁
島津光久が島津久慶へ、細川忠利の馬別当浅野七左衛門尉が良馬を求めて祁答院筋を通行するため、宿所を怠りなく用意し、厩の替馬や軍役向きの馬を見せ、購入後は長く滞在させず早く出立させるよう命じた書状。あわせて大和守の上洛は久元・貞昌へ伝えたとする。
承応三年五月二十三日 / 冊子 242~243頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0506
町田久則が、橋口七左衛門・長友主水・前田蔵人三人の禄高・屋敷を列記する。三人は新納加賀の大口地頭所で諏方采女が数年預かっていたが、今回大村地頭所へ召し移すので支配するよう、高奉行の高城喜左衛門・有馬治右衛門へ命じる。末に五月二十三日町田久則印、筑前・図書の印がある。
文政6年1月12日(年は朱注) / 冊子 648~649頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1909
正月十二日、高輪屋敷の近くで火事があったため、御臺から様子を尋ねるための来訪があったことを記す覚書。御広敷添番西郷七左衛門、御広敷伊賀者井上主左衛門、御小人小菅興十郎・丸山吉兵衛の名と役職を列記する。続けて「右廣敷に向け被成下」とあり、後でそれぞれへ挨拶を申し出たこと、文使から引き渡したとの但書を記すが、この箇所で渡した物の具体的な品名は記されない。文政六年は朱注。「全上」は重豪公御譜中を受け、正文は文庫所在。
寛永11年3月 / 冊子 217~220頁/原整理番号 148
切支丹宗旨との関係を疑われた大迫吉之丞が、郷田源七左衛門や有馬主馬之允との往来、寺僧・船・宿泊等の事情を列挙して関与を否定し、証拠書物を提出した口上覚。
年月日未詳 / 冊子 88頁/原整理番号 145-4
伊地知杢右衛門重政に属する西田七左衛門・江平宇左衛門以下、家中・付衆を含む計三十一人を列記した覚。傍注による所属・別名を含むため、本文呼称と注記を区別して扱う。
島津義久代、朝鮮出兵期、島津家久への代替り時、原山御狩時 / 冊子 257頁/原整理番号 101
正本家蔵の上原氏覚書。本名字を伊作田入道甫済と伝え、市来の伊作田名と同所の小原城に由来する名乗りだが、系図がないため何代目から上原を称したかは不明とする。源右衛門の名は三代が相伝し、二代目は国分にいた島津義久へ特に奉公し、平田狩野、のち三原七左衛門・川上彦左衛門・川越三右衛門と兵具方を務めた。朝鮮出兵には義久の側に留め置かれたため出陣加増を得なかったが、家久への代替りに際して墨色の『雨之御旗』を運ぶ使者となり、加増五十石を受け、名寄も残るという。妻は吉田作州の娘で、一人娘が鹿嶋駿河守の妻となったため、弟源六左衛門―源兵衛の子・喜左衛門を兄方の養子とし、現源右衛門の父とした。原山の御狩では、本文に伏字を含む出来事で義久に働きを賞され、鉄砲・銀を拝領し、のち兼光作の長刀も受けたが、喜左衛門の江戸上洛中に二品とも家内から盗み出され、行方不明になったと記す。さらに大隅国曽於郡地頭となり、国中の城下ろしの際に城門道具を与えられた記事へ続くが、末尾は『自是切テ無し』として欠落する。
年未詳12月22日(付属記事:慶長4年~同6年2月3日) / 冊子 267~268頁/原整理番号 107-7
年未詳十二月二十二日、伊集院右衛門入道幸侃が平田狩野介宗應と上原源右衛門尉尚氏へ、重久名の件が持合で未解決となり各所に難しい問題が生じているため、二人で談合して処理するよう求め、詳細は追って協議すると伝えた書状。付属する由緒記事は、慶長四年に島津義久(龍伯)が尚氏を兵具奉行とし、平田宗應・三原七左衛門・川上彦左衛門らと兵具方を掌らせたため、尚氏が朝鮮出兵を免除されたと記す。前年に島津義弘・忠恒が朝鮮から帰国し、忠恒が朝鮮での功により五万石を加増され少将任官と宝刀を受けると、龍伯は国政を忠恒へ譲る意向を強め、二月に尚氏へ時雨御旗を持たせて京都の忠恒へ届けさせ、忠恒は二十日に受領して謝恩した。尚氏は初め朝鮮へ出役しなかったものの、この使者勤仕を忠恒から賞され、隅州敷根小牧門三十二石五斗・末吉深川十八石を加増された。本文は加増を五十一石と記す一方、内訳の通計を五十石五斗とし、慶長六年二月三日に比志島国貞・平田増宗・鎌田政近・島津忠長が目録を授けたとする。龍伯は尚氏の使者勤仕には百石が相当で五十石では少ないと不満を述べたとの季安按も付される。
年月日未詳 / 冊子 268頁/原整理番号 107-8
二代目上原源右衛門が、島津義久の国分在住期にとりわけ奉公し、初め平田狩野、のち三原七左衛門・川上彦左衛門・川越三右衛門らと相役となって兵具方を務めた由緒書。源右衛門は義久の側近くに召し置かれたため高麗出兵に伴う加増を受けなかったが、島津家久(忠恒)への代替わりに際し、黒色の『雨の御旗』を奉持する使者を命じられ、その加増として知行五十石を与えられ、名寄も現存すると記す。国分へ帰って報告した際、義久はこの使者役には百石を与えるつもりだったのに少分しか下されなかったとの意向を示したと伝える。兵具方勤仕・朝鮮出兵不参加・御旗奉持・五十石加増を一続きの奉公由緒として説明する文書である。
年月日未詳 / 冊子 705~706頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書1827
幕府の廻国上使三名が薩摩・大隅・日向の三州を巡見し、藩が宿泊・案内・警固・接待を分担して国境から迎送した経過と、帰府後に島津光久が桜田邸で三使を饗応したことを記す記事。
天明五年三月六日 / 冊子 801頁/原整理番号 2195の12/整理ID 2195-12
三月六日の能組。翁・三番叟、難波(宝生太夫)、田村(幾衛)、巻衣(金剛太夫、五段神楽)、石橋(彌五郎)、祝言高砂(左織)を列記する。続く狂言は八幡前を八右衛門、内沙汰を仁右衛門、悪坊を伊兵衛と記す。各曲の配役・囃子方の名を併記する。
〈宝暦二年〉十二月十三日~翌三年五月六日 / 冊子 384頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書1169
退休後、病気のため寛延二年以来在国して四配館で温泉療養を続ける継豊へ、宝暦二年十二月十三日、家重が鷹の捕らえた鶴一隻と老中奉書を与えた記事。西尾隠岐守忠尚が駅路の証印を出し、継豊の家臣横山新右衛門安當・汐湯次郎左衛門盛尊が歩士三人・軽卒数人の警衛を伴って即夜江戸を発ち、東海・山陽・西海の駅路を昼夜進んだ。翌三年正月十一日に四配館へ着き、継豊が拝戴した。継豊は内田八右衛門長貞・有川七左衛門貞典に報翰と忠尚の駅路証印を持たせて江戸へ送り、別に番頭兼組頭の肝付弾正兼昌を謝使として遣わした。長貞・貞典は西海・山陽・東海の駅路を先行し、二月九日に江戸へ着いて用番堀田相模守正亮へ継豊の報翰を呈し、駅路証印を返納した。兼昌は正月十九日に豊州小倉へ着き、二十日に乗船、二十三日に防州上之関へ着いたが、逆風のため数日滞留した。二月四日に上陸して山陽道を進み、九日に摂州大坂、十八日に江戸芝邸へ到着した。二十二日には老中各邸へ継豊の喜びの書翰を呈して使者の勤めを果たした。三月一日、兼昌は登営して白書院で家重に拝謁し、継豊の献物一種一荷を呈した。家治への使節の勤めは鳥居伊賀守忠胤が取り次いだ。兼昌自身も家重へ太刀一腰・馬代白銀一枚・紗綾二巻を献じ、続いて西城で家治に継豊の献物一種一荷を呈し、自身から太刀一腰・馬代白銀一枚を献じた。この奏達は太田摂津守が取り次いだ。六日に再び登営し、内藤大和守頼由の奏達を受けた。八日には檜之間で本多伯耆守が出席し、継豊宛奉書と紗綾三巻を兼昌へ下付した。同日、西城の秋元但馬守凉朝からも継豊宛奉書を受けた。兼昌は三月十九日に芝邸を発ち、五月五日に薩府へ帰着、六日に府城と四配館で復命した。出典は継豊公御譜。
明和二年(日付記載なし) / 冊子 79~80頁/原整理番号 181の49/整理ID 181-49
日光の副使衆の旅宿と宿坊を列記した書立。「御名」の項は遊成院とあり、編録にママの注記が付く。他家十五件は、藤堂和泉守が教城院、松平陸奥守が観音院、松平土佐守が禅知院、有馬中務大輔が華蔵院、上杉大炊頭が實教院、松平大膳大夫が観音院、伊達遠江守が観音院、松平阿波守が實教院、松平相模守が安居院、松平信濃守が照尊院、宗対馬守が藤本院、佐竹右京大夫が實教院、松平光丸が浄土院、松平筑前守が教城院、細川越中守が浄土院と記す。松平筑前守の名にも本ママの注記がある。旅宿・連絡先として、藤堂の項に本町・武井岡右衛門・教城院、土佐守の項に御幸町・小野伊兵衛、有馬の項に日光御目代山口惣兵衛の家来・出町壱町目・神山又助、上杉の項に稲荷町一町目・嶋田内蔵、大膳大夫の項に下鉢石御幸町・南間大助、伊達の項に善教坊、相模守の項に鉢石町・永井舎人、信濃守の項に鉢石稲荷町・勧徳房、宗の項に多門寺、筑前守の項に鉢石・申橋主計、細川の項に入町・高野七左衛門を掲げる。宿坊のみの項もあり、すべてに別の旅宿や町名を補うことはできない。日付と差出人の署名はない。
明和四年丁亥(正月~十二月の記事) / 冊子 154~155頁/原整理番号 356/整理ID 356
明和四年の公辺行動を月日順に記す。正月元日に御座間へ出て寺で廟を謁し、三日に御座間・大御書院で賀正を受け、十日に増上寺・上野を訪れる。十三日は雨雪、散楽の講を始め、公が翁を舞い松山侯が小鼓を担う。十五日に造朝。三月十日には重さ七分の雹が降り、前夜に夫人が女児を流産したと記す。十八日に護摩所へ首途の礼。四月三日、関山金暉が命を承け相良長興に四書五経・新刻蒙求・楚辞箋註・通俗忠儀水滸伝・小学・孝経大儀を買わせ、ほぼ百冊となる。十六日、大家から右近将監、西丸から周防守を使者として品が賜られ、帰国を命じられる。十八日に朝謁して拝恩し、芝邸から四月二十一日に出発する。桂織部久中を国老、新納四郎久詮を大目付とする記事がある。五月七日伏見、十日大坂邸、十三日出船、二十五日笠紗島、六月六日に自国から分かれて築地に着船し府城へ至り、小松仙十郎を江戸へ謝恩に派遣する。六月十二日南泉府、十五日臨朝、二十三日稲荷・福迫・護摩所・霊府表御看経所、七月十五日浄光・福昌・恵燈三寺を訪れる。七月二十七日、伊地知季周らの演者が散楽を奏し、公が喜ぶ。九月六日に桜島へ行き十四日に戻り、閏月朔日は舟で児水へ、綾君は温泉のため陸行し十月二日に戻る。十一月三日に綾君のもとで流馬を観、二十四日は公と綾君が垂水邸へ行く。十二月四日島津鐵熊宅で罪人の供述を聞き、六日西田館を訪れる。十七日は大雄山から築地へ戻り亭で宴飲し、貴傅・仁礼らを賓客、鎌田愛太夫・田中七左衛門・侍医を給仕、島津玄蕃・入来院大和を庖丁人頭、町田監物・山岡齋宮を庖丁人として各々盛装で集まり、五章を演じ丑刻に帰城する。十八日は綾君と築地館を訪れて餞別を受け、十九日は諏訪・安養院・祇園へ行き舟で戻り、二十一日は山下館で妙心君の餞別、二十四日は磯で散楽、二十五日は予告なく高橋此面宅を訪れる。
文化12年3月12日(年は本書1416・目録) / 冊子 456頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書無番号_0098
印刷(の1)。御用人から昨日夕方届いた切紙により今日中に1人出るよう指示され、自分が出向いた。大御隠居と甘露寺大納言との続合手扣書を確認し、明朝の御登城前までに差し出すよう用人から告げられ、承知と申し述べたという。取調後手扣書が下がったので今朝持参して差し出し、下野守が御落手したと用人から聞いた首尾を報告する。3月12日、早川渡署、典膳様宛。朱注の御用番青山下野守・御用人那波七左衛門を採録する。御登城前という期限を城前へ赴く指示に変えず、内見・取調・返付・提出・受領を分ける。
文化12年3月16日(年は本書1416・目録) / 冊子 456頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書無番号_0099
印刷(の2)。御書付1通・御付札有と掲げ、当4月の日光法会に付き甘露寺大納言が参向するため、芝・高輪両御屋敷での御扣の件とする。用人の切紙により今日中に1人出るよう指示され、自分が出向いたところ書付へ御付札を付け用人を通じ渡されたので差し上げると報告する。御用番青山下野守・用人那波七左衛門を表示。3月16日、近藤隆左衛門、典膳様宛。追書は承知の上表方使者をもって御受すべきとし、今夜は夜陰となるので翌朝御受を伝えるよう出会用人へ相談したとする。御扣書の返付と受けの予定を分け、御付札の具体的な許可文言や実際の滞在済を補わない。
年月日未詳 / 冊子 490頁/原整理番号 491
加世田士人相徳新助の蔵本による人名書上。三原左衛門が使者として島原へ渡った際、加世田から従った相徳新助・田実五右衛門・宮原佐吉兵衛・松田与七左衛門ら多数の名を列挙し、これらの人数が島原へ渡ったと記す。
年月日未詳 / 冊子 713~714頁/原整理番号 747の2
島原へ出陣する供人数の名簿。西田七左衛門以下を列記し、13人と6人、詰夫10人、惣合29人、外町衆4人と記す。計33人を杢右衛門が召し連れた名書で、加久藤地頭仮屋にあった横折の原本を天保九年二月に見出したとの採録注を付す。詳細は二十八・二十九日条を参照するという。
(貞享四年)十一月十日 / 冊子 803~804頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書2112
紀州から送られた呉国船を警固した大船頭・与力・役人・医師・船頭・水主・下役人らの氏名と人数、船数を列挙した書上。
文政5年12月15日(末尾年は朱注) / 冊子 642~643頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1897
十二月十五日、吹上御庭拝見が滞りなく済んだ内祝として、亀之甲舞台で能を催し、有馬玄蕃・水野甲斐(忠実注)・有馬臺作を招いた記録。能組には岩船・俊成忠度・綾鼓・船弁慶・海士・乱を挙げ、虎之助・又三郎・玄蕃頭・桃次郎・甲斐守・豊後守などの名を各曲の下に配列し、狂言・間として末廣・宗八・福の神および船弁慶間の幸之助を記す。「乱」の欄には溪山の名がある。囃子方や地謡等に当たる名列もあり、曲ごとに出演者の名列を添える。夕暮れまで無事に済み、赤羽からの供頭へ初めて見せ、装束所に二、三人が来たため甲斐の仕なども一緒に見せたと結ぶ。名列の役割の細分と、卯太郎・覺次郎と読める二名の第一字は未確定。この記録の十二月十五日と、次の贈答覚書の十月十五日とは月が異なる。
7月(軍賞申渡群、年・日不記) / 冊子 306~309頁/原整理番号 435/整理ID 435
全七頁の軍賞申渡群を十四内容に分ける。祇園洲で敵艦を引き受けた島津權五郎に鉄炮一挺・陣羽織一枚、川上右膳ら四名と物主二名に陣羽織の賞を記す。税所清太は砲の損傷後に加勢し手傷で即死したとし、切米八石・祭祀料金三十両を命じる。祇園洲・沖小島守衛の八名には各十五両、さらに七名には各十両。弁天波戸・砂揚場・水軍隊・新波戸・大門口の戦兵に各二両とするが人数は記さない。川上十郎太に十両、陣中死去の重久甚五郎に弔料二十両、祇園洲と沖小島の惣人数に各八両、青山愚知に切米四石・鉄炮一挺、櫻島三ヶ所の戦兵に各二両を記す。末尾は姓名不知の始羅郡山田郷士二人に切米四石宛(十五ヶ年)・十五両宛を与えた由とし、詳しい書付は不知で追って記すとする。人数不記の隊は総額を作らず、切米・金銭・品物と弔料祭祀料を分ける。各条は七月帯刀。
年月日未詳 / 冊子 394~395頁/原整理番号 359
二十二日、天草四郎ら一万余の一揆勢が富岡城を再攻撃した経過を記す。十九日の退却後に攻撃を予告した一揆勢は志岐村で竹束などを準備して押し寄せ、城兵は鉄砲・大木・大石で防戦する。攻撃が水口へ回ると原田伊豫や島田・並河らの指揮下で諸士が出撃し、岡原・上月の戦死、古川の負傷と十六歳の九郎市による救出などを列挙する。多勢に圧迫された守備側が本丸内へ引き入るところまで叙述する。
11月27日 / 冊子 425~426頁/原整理番号 396の4
十一月二十七日、串木野から立てた水手五十五人を列記し、三原源右衛門・永山覚右衛門へ受取りを命ずる。助兵衛尉・吉兵衛・惣右衛門から作左衛門・孫市までの五十五記載が本文の合計と一致する。助七・太郎作・次兵衛尉など同名が重複する箇所も名簿上の別記として保持し、推定で統合しない。
(寛永十四年)11月28日 / 冊子 433~434頁/原整理番号 405の6
串木野衆の春田大左衛門主従二人に真米・赤米各一斗を掲げ、奥書は前文書と同じとする。続いて各船の舟頭・加子と飯米を列記し、串木野から天草へ仕立てた大小九艘へ十一月二十八日以後二十日分の海上飯米を渡したと記す。舟頭は一日一升、加子は一人七合五勺で、平田民部少輔の帰宅に伴う次飯米の手配と九艘の送状を添える旨を是枝喜右衛門へ知らせる。
年月日未詳 / 冊子 440~442頁/原整理番号 416
熊本勢の接近を受け、一揆勢が天草上津浦を退き、島原側と合流して原城へ籠る経緯を記す。伊勢貞昌の本月十五日の江戸状も引用し、薩摩への出兵指示や肥後勢の進出を伝える。続いて天草四郎を本丸大将とする各郭の大将・番頭・鉄砲大将、武者・旗・鑓・使武者・夜廻・普請などの担当者と配置人数を詳記する。兵糧・兵器の取り込み、夜回り、防火、布製小旗、石積み・堀裏の穴など籠城防御の実施状況を述べ、総人数や一部の人物・日付には他史料の異説を併記する。
年月日未詳 / 冊子 445~447頁/原整理番号 423
原城一揆籠城の記録。寛永十四年十二月朔日から原古城を修築し春か城と称したとして、各郭の大将・軍人衆・奉行・使番・防火担当などの名と配置人数を列記する。兵勢二万三千余に童女一万余が加わったとし、防壁・銃眼・石や武器の配置、交替警備、矢文と火矢の警戒、四郎の巡回と法度伝達を詳述する。巻尾には高来郡などの村名を付し、一揆衆が在村の名を名字として名乗ったと説明する。
(寛永15年)正月より3月まで / 冊子 654~668頁/原整理番号 673
寛永十五年正月から三月まで、鹿児島衆から有馬へ出陣した諸士について、一人ごとに主従の内訳、従軍期間、延べ日数を列記した人数究帳。末尾で総人数五万七千七百四十一人、その内訳を人躰三千七百五人・小者夫五万四千三十六人と集計し、寛永二十一年正月二十六日に一日賦として照合した旨を記す。
寛永18年2月12日 / 冊子 714~715頁/原整理番号 747の3
加久藤地頭仮屋に伝わる有馬陣立差出。伊地知重政の主従21人について、与力・供人を帰還日別に列記し、正月十六日からの在陣日数を計算する。二月八日唐津から帰還した組、二月十七日・二十三日および三月八日に有馬から帰還した組を記し、惣合日数1342日とする。寛永十八年二月十二日付、谷口次郎左衛門と伊地知弥右衛門の署名がある。
年月日未詳 / 冊子 747頁/原整理番号 779
正月十八日を中心に、米之津へ参着した各郷の人躰・卒者・夫丸と、主だった者が連れた人数を記す。恒吉・日当山・飯野・曽木・加久藤・須木・馬関田・踊・高原・出水・山之口・小林・諏訪神・曽於郡・野尻・真幸吉田・志布志・清水・蒲生・百引・庄内高城・東郷・高岡・高山・横川・穆佐・串良・垂水・伊集院などを列記し、十日または二十日分の飯米支給を注す。高山の名簿に載る以益について白坂氏譜を引いて帰還時期を考証し、兵糧不足による減員帰還と読む。末尾は十九日条への分載と十八日着津者の補記。
年月日未詳 / 冊子 747頁/原整理番号 780
蒲生有馬氏に正文が所在する覚書。谷口助右衛門らの氏名を三段組で列記し、随所に下人の名前や本人名の訂正・異記を添える。末尾の合計は人躰八十人、小者四十九人。文書独自の日付・宛先・作成者は記されず、名簿の対象集団や出陣先は、この覚書単独からは断定しない。旧切り抜きで774~782へ分散していた名簿を、本文の連続する三つの全高切片に復元した。
年月日未詳 / 冊子 752~755頁/原整理番号 794
村田市助家蔵の模本から、三原喜太郎・里村十左衛門や谷山・加治木・財部・末吉・大崎・志布志・頴娃・指宿・飯野・高原などの人躰、卒者・夫丸、個人別の随伴人数と着津日を記す。飯米は十日または二十日分を渡し、長嶋ふくら蔵元と米津で分けて支給する例もある。末吉衆中の検見崎兼堯について、家系・移住と島原出陣時の行動を元禄七年の系図申出により補注する。末尾は二十三日条へ続く旨の注。
寛永廿一年正月廿一日 / 冊子 441頁/原整理番号 551-2
前件の兵糧不足銀を支給するため、吉田二郎兵衛尉・黒田三左衛門・土持左馬権頭から正月十七日に通知を受けた九名は、市来八左衛門保管の米受取証文が火災で焼失していたため、関係者を三日間集めて出陣日数と人数を照合し、算用した旨を添える。鹿児島への使者は佐濱車右衛門である。
永禄12年、天正6年11月11日、寛文5年 / 冊子 325頁/原整理番号 123
市来家氏流の家守以下を一頁に示す系図。新納忠元の妹を母とする家満は天正六年十一月十一日に新納院高城で戦死し、その子家繁は永禄十二年生まれで、頴娃・庄内・高城・伊作・蒲生などの地頭を歴任して多くの忠功を立て、宗友は蒲生地頭、家良は兵具奉行、家実は光久へ太刀・青銅を進上して御納戸奉行・穆佐地頭・御側御目付・鹿屋地頭を務めたとする。後代では、家張が高奉行、家的が三十六歳で大坂に死去し、家年が嫡宗家親の養子となったこと、家貞が兄二人の死後に家督を継いで江戸で死去したこと、家重が寛文五年に生まれ、兄二人の死により家督を継いだことなど、戦死・役職・養子・相続を記す。
年月日未詳 / 冊子 361~362頁/原整理番号 65
馬越から一山を見廻った時、大口の四千人ほどが二手に分かれて襲来したことを記す。小苗代原では肝付が諸隊に指示し、弓と鉄炮で戦った。一山地頭の忠元は白坂口へ出て的場五藤と戦い、大太刀を振るったが、五藤は負傷して退いた。続く諸隊の働きと忠元の鎧の損傷、敵の撤退を記し、三原・長谷場を使者として軍労に礼を述べたことを伝える。
(明暦二年)九月十二日 / 冊子 303~304頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0658
久加・久詮が国元役人四人へ、長崎の唐船唐人に対する切支丹宗門の訴人を尋問し、澳門の日本人子供に宗門と唐の学文を教えて唐人として日本へ渡す企てがあるとの情報を伝える。幕府の上意として、今後唐船は陸地につけず海上で船中を改め長崎へ送る取扱いを示す。松田七左衛門へ道具衆一人を添え、この指示を長崎奉行へ追って使者で伝えるよう求める。
(延宝三年)後四月廿二日 / 冊子 662~663頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書1666
論山の評定に出すため、梶山・庄内側から上方へ赴く証人を二組に分け、論山の由緒を知る者として弥七左衛門・越右衛門・八左衛門・万兵衛・大右衛門・助兵衛・権右衛門らを列挙した書上。