島津忠昌譜
年月日未詳 / 冊子 525頁
文明十七年四月十四日、吉田飯山で鹿児島衆と吉田衆が合戦し、吉田方の中村藤左衛門尉・山崎掃部助・小山二郎五郎らが討死し、宮原四郎左衛門尉も退却中に戦死したことを記す譜記事。
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『旧記雑録』前編・後編・附録10冊と追録1~8(暫定版)、『旧記雑録拾遺 伊地知季安著作史料集1~9』『家わけ1』(暫定版)、関連史料(外伝)『島津世禄記』の46,754件を横断検索できます。検索範囲は史料群・巻を組み合わせて選べます。結果は50件ずつ表示します。
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年月日未詳 / 冊子 525頁
文明十七年四月十四日、吉田飯山で鹿児島衆と吉田衆が合戦し、吉田方の中村藤左衛門尉・山崎掃部助・小山二郎五郎らが討死し、宮原四郎左衛門尉も退却中に戦死したことを記す譜記事。
年月日未詳 / 冊子 525頁
四月十四日の吉田飯山合戦について、鹿児島衆と吉田衆が戦い、吉田方の中村藤左衛門尉らが討たれ、残兵が退いた経過を記す文明記記事。
文禄4年12月朔日 / 冊子 924~925頁
義弘は島津又八郎(忠恒)へ、法元からの報告、佐左平次の帰朝、鹿児島衆の配置、帖佐の普請など、帰朝後の家中処置を細かく指示する。 船の手配、知行・人員移動、医師や鷹に関する用件まで盛り込み、領国再編の実務が同時並行で進む様子を伝える長文書状。
慶長三年(四月) / 冊子 203~204頁
島津家久の事書案。留守居の談合衆は諸事を容赦なく法に従って処理し、公領の町・浜に住む者へ公役を怠りなく課すこと、船役は船奉行が現地で船を確認して命じ、高麗渡海船の選定に贔屓・偏頗がないよう入念に行うことを定める。鹿児島衆には従前どおり普請へ出るよう命じ、怠惰や難渋があれば役人が厳しく申し付けて言上すること、代官衆の公役、濱市・帖佐・鹿児島三方の協議による決定も規定する。
慶長三年 / 冊子 307頁
島津家久が、領国留守中の行政・公役・船舶運用について定めた事書案。留守居の協議では容赦なく法度を施行し、公領内の町・浜の住民に公役を滞りなく負担させるよう命じる。船奉行は船元に出向き、高麗渡海船をえこひいきなく監督すること、鹿児島衆は従前どおり普請に出ること、怠慢者や難渋者を報告すること、代官衆は公役を確実に実施すること、濱市・帖佐・鹿児島の三者が協議して決定することを規定する。
(慶長六年)十二月五日 / 冊子 790-791頁
島津惟新が家の行末をよく吟味するよう諭し、図書殿の上洛をめぐって鹿児島衆が三原諸右衛門尉宅で武力行使を相談したとの風聞を問題視する。騒動を止め、船・酒宴・喧嘩などにも油断なく統制を徹底するよう命じる。
(寛永十一年)七月十九日 / 冊子 436~438頁
中西長門守秀長が児玉筑州へ、七月二十四日の京都出立予定を知らせ、借銀増加に伴う諸士知行の上地・再配当をめぐる自身の処遇について内々の取成しを求めた書状。上伊集院・鹿児島衆への配当、荒地・上地の扱い、北山村三百八十石や残余七百石余の知行、伊敷を宮之浦の御蔵入と交換して伊敷を拙子へ与える案などを挙げ、他方の下手同然となることへの不満と、公儀・黄門様への申開き、知行確保を訴える。
十一月一日 / 冊子 273~274頁
島津勝久が、河辺・谷山方面へ進軍して鹿児島衆と合流し、敵約二百人を討ち取り谷山神前城まで追い詰めた戦果を入来院殿へ報じた書状。
年月日未詳 / 冊子 370頁
ならし、押米、鹿児島衆中の外城移転、諸役人の乱れ、拝借、出銀未進について、処置を要する事項を列挙した某覚書。
年月日未詳 / 冊子 523頁
文明十七年閏三月朔日以降、匠作が菱刈へ入り、道秀父子・相良長輔・次郎五郎らと交渉した経過を記す。伊東・北郷・樺山・東郷・鹿児島衆の内談を重ね、敵対していた三国の和与を進めた。交渉成立後、匠作が四月二日に和泉へ到着するまでを日次で追う和平交渉記事。
年月日未詳 / 冊子 783~784頁
伊集院与左衛門が伯囿・義運・島津勝久らへの奉公を申し立てた文書。城への召集、鹿児島衆とともにした合戦、敵勢との交戦での働き、勝久から受けた処遇を述べ、家族と所領を維持するため、過去の軍功に基づく恩賞と知行の確認を願う。
寛永十三年九月廿日 / 冊子 582~583頁/原整理番号 10
寛永十三年の薩州鹿児島衆中屋敷御検地帳からの抄録。新堀より上の上屋敷・中屋敷の面積と、岩元清左衛門、白坂氏関係者ほか各屋敷の名請人・所在地を列記する。九月廿日、田尻嘉兵衛の名を記す。
年月日未詳 / 冊子 301~302頁
応永二十四年、河邊松尾城と鹿児島・谷山方面で起きた攻防を記す。伊集院・伊作方と久豊方が城を奪い合い、鹿児島・谷山の軍勢が出動し、多数の戦死者を出しながら援軍・包囲・退却を繰り返した経過を述べる。
年月日未詳 / 冊子 715頁
天文二年二月十日、知覧・川辺に現れた桑波田孫六を先約どおり鹿児島へ迎え、翌十九日に羽狩のため山へ登る留守を機に南郷城を平定したことを記す。
年月日未詳 / 冊子 720~721頁
鹿児島方面の合戦で新納勢が敗北し、敵方諸将が処刑・戦死した経過を箕輪伊賀が記す。相州家の危急を訴え、梅岳君・勝久らの動向を述べる一方、討伐された者の子が後年に召し出され、父祖の奉公を考慮して恩賞を受けた戦後処遇までを伝える。
(天文八年)十月一日 / 冊子 736頁
島津勝久が入来院殿に、河辺衆が谷山へ攻め入り鹿児島勢百人を討ち、郡山宇良を破った戦況を報じ、市来浦方面の措置と出陣を求めた書状。
年月日未詳 / 冊子 16頁
弘治元年六月の日記として、新梓・山田・吉田方面の戦闘、伏兵、敵兵や馬の討取り、塩硝・火矢の使用、若殿様の鹿児島帰還などを記す。
慶長十二年三月廿九日 / 冊子 11~12頁/原整理番号 1
慶長十二年三月二十九日付の島津紹益と樺山久高の連署条書。鹿児島からの墨付なしに狩場へ入ることを禁じ、御狩を正月・二月・三月・十月・十一月・十二月の年六度、地頭狩を年二度と定める。欠席者には一日一人につき鳥目百文を科し、行司・検者による見届けや鹿・猪の扱いも指示する。
「寛永廿一年」二月三日 / 冊子 319~320頁
天草立軍衆の人数覚。鹿児島衆・外城衆などを内衆と披官・小者に分けて人数を列挙し、天草出陣に関わる軍衆の総数を集計した記録。
寛永廿一年二月五日 / 冊子 320頁
有馬・天草両陣の軍衆人数極。鹿児島衆・外城衆などについて内衆と披官・小者の人数を区分して集計し、両陣に動員された人数の総計を示す。黒田三左衛門・土持左馬権頭の確認を伴う。
寛永廿一年二月五日 / 冊子 321頁
有馬立軍衆の人数極。鹿児島衆・外城衆・獅子島衆などを内衆・披官・小者に分け、各集団の人数と総人数を記録した動員集計。吉田次郎兵衛が人数を取りまとめている。
正月廿九日 / 冊子 28頁/原整理番号 42-3
喜入忠政・島津久賀が山田有栄・島津久元へ、平田民部少輔が当地へ来ておらず、そちらへ渡ったとの風聞が事実なら当地へ送るよう求める。「かう袮」の衆も船の配分不調により未着で、当地ではすでに四か所へ陣替えしたのに船奉行が不在だと訴え、山田にも暇ができ次第の来着を求める。また、命令なく有馬へ渡った者には兵糧・船を支給せず、後日処罰するとの鹿児島からの命令を伝える。鹿児島衆の出立総数は本文に「三□□十人程」と欠字を含み「百」の補記があり、割当中56人が当地へ来て少人数が「かう袮」に残ると報告する。出水衆約300人は渡海希望があるものの当地に置くよう命じられているため、その通り伝えたとする覚書。
年月日未詳 / 冊子 129~130頁/原整理番号 206
『国分賦所日記』。二月九日条の続きとして、高岡・穂佐・倉岡・野尻・綾の各衆を槍・鉄砲・弓・賄などに分け、五か所計百五十六人と記す。続いて二月十三日の人員を掲げ、合計七百三十六人、内訳を鹿児島衆百十六人・外城衆六百二十人などとし、別に昇差百五人・詰夫二十七人を記録する。
寛永十三年九月廿日 / 冊子 572~587頁
上薩州に属する鹿児島衆中の屋敷について、屋敷の種別・反畝歩数と名請人を順次記録した検地帳。寛永十三年九月二十日に田尻嘉兵衛と岩元清左衛門が検地担当として署名する。
寛永十三年九月廿日 / 冊子 587~591頁
薩州御城内の鹿児島衆中屋敷を対象に、各屋敷の種別・反畝歩数と名請人を列記した検地帳。田尻嘉兵衛と岩元清左衛門が寛永十三年九月二十日付で作成した。
寛永十三年九月廿日 / 冊子 591~623頁
下薩州に属する鹿児島衆中の屋敷を対象に、屋敷の種別・反畝歩数と名請人を多数列記した大部の検地帳。寛永十三年九月二十日付で、田尻嘉兵衛と岩元清左衛門が検地担当として署名する。
寛永十三年九月廿日 / 冊子 623~628頁
西薩州に属する鹿児島衆中の屋敷を対象に、屋敷の種別・反畝歩数と名請人を列記した検地帳。寛永十三年九月二十日付で、田尻嘉兵衛と岩元清左衛門が検地担当として署名する。
(寛永15年)正月より3月まで / 冊子 629~654頁/原整理番号 672
寛永十五年正月から三月まで、鹿児島衆から天草へ出陣した諸士について、一人ごとに主従の内訳、従軍期間、延べ日数を列記した人数究帳。大身衆から多数の家臣までを連続して記録し、末尾で被官・夫を合わせた人数九万五千三百七十六人と集計し、寛永二十一年正月二十六日に一日賦として照合した旨を記す。
(寛永15年)正月より3月まで / 冊子 654~668頁/原整理番号 673
寛永十五年正月から三月まで、鹿児島衆から有馬へ出陣した諸士について、一人ごとに主従の内訳、従軍期間、延べ日数を列記した人数究帳。末尾で総人数五万七千七百四十一人、その内訳を人躰三千七百五人・小者夫五万四千三十六人と集計し、寛永二十一年正月二十六日に一日賦として照合した旨を記す。
寛永13年9月 / 冊子 80~81頁/原整理番号 17-8
寛永十三年九月の鹿児島衆中屋敷帳から、松崎采女正について『下屋鋪四せ』『下々屋敷四せ廿三分』と記す抄録。続いて松崎貞悦の慶安五年以降の奉公歴を掲げる。慶安五年に上洛を命じられて三月六日に鹿児島を立ち、四月二十五日に江戸へ着いた。承応二年には琉球からの将軍継目祝使である国頭王子に関わり、島津光久に召し連れられて日光参詣へ供奉した。万治二年には進上用の腰物を選ぶため、堀尾正宗・貞宗・左文字・兼光・則光などを江戸へ持参した。寛文三年とみられる光久の上洛には道中跡払いとして供奉し、大坂・江戸の御番割に入った。六月には国許への急用使として江戸から鹿児島へ往復し、九月に再び江戸へ参着した。同年十二月には島津綱久から将軍への寒中伺候使者となり、酒井雅楽頭や老中阿部豊後守・稲葉美濃守・久世大和守を訪ね、江戸城で七島鰹節を進上した。その後も寛文四年の下向供奉、同五年の秋月佐渡家来欠落事件に関する使者、延宝二年の大坂町奉行石丸石見守への使者を務めた。
万治2年 / 冊子 81頁/原整理番号 17-9
万治二年己亥の鹿児島衆中高帳から、松崎采女殿の高七十三石三斗を抄出した記事。『高』に続く一字は原刊で黒く潰れ、編者が『直カ』と傍注する。本文注は本件を『旧記雑録追録一』859号文書の抄と推定する。
寛永15年正月19日 / 冊子 755~756頁/原整理番号 796
出水米之津と黒之戸で取り決めた天草出陣の軍勢を、鹿児島衆・諸外城衆合わせて11,268人と記す。内訳は人躰5,235人、卒者・夫丸6,033人で、野州老島津久元と山田民部少輔有栄が別に召し連れた衆は含めない。寅正月十九日付。後編五1197号の一部とほぼ同文とする注が付く。
二月十一日 / 冊子 116頁/原整理番号 185-2
入来院重国・喜入忠政・島津久賀が島津久元・山田有栄へ、当地には一所衆や鹿児島衆など若輩が多く、武功ある者が少ないため、召し寄せられた皿良善介・蒲川内蔵允の両人をこちらに置くよう求める。事情に応じて相談の上取り計らうよう依頼する。
年月日未詳 / 冊子 545~549頁/原整理番号 556
島原出陣に際して提出された軍衆人数の控え。鹿児島・高山・市来などの諸士について、家格・系譜・年齢・軍役帳の石高・従者数・兵種を列挙し、出陣人数と装備を記録する。
寛永15年正月19日 / 冊子 757~759頁/原整理番号 803
出水米之津と黒之戸で定めた天草出陣人数を、久元3,707人、久賀3,609人、久加3,692人、浮衆・船奉行と廻り245人、兵糧渡衆15人、総計11,268人とする。人躰5,235人、卒者・夫丸6,033人に分け、先に島原へ渡った衆や諸湊から直接渡海した者、未着者など、人数不明・除外の事情を細記する。寛永十五年正月十九日、賦所二名が花押を据え、相良ら四名に宛てる。
(寛永二十一年)十一月朔日 / 冊子 19~20頁/原整理番号 17
山奉行方が行司・取納役へ、当年の六度御狩の代銭、竹木代、制札関係の収入などを取り納め、十二月二十日までに鹿児島へ参上して勘定するよう命じる。狩の勤めを怠った者の扱いにも触れる十一月朔日付達書の抄出。
記載なし(関ヶ原退陣後の記事) / 冊子 46~47頁/原整理番号 2
伊勢貞昌の書置から、関ヶ原退陣後に龍伯が弓戦を望んだこと、家老衆の意見が割れたこと、徳川家康からの誓詞を受けて家久の上洛が進み、国分衆中の反対を押し切って島津家が存続した経緯を抜き書きする。
本文年月日未詳 / 冊子 356~357頁/原整理番号 4
三斗五升を基準に銀や扶持へ換算する例を示し、領主、郷士、城下の衆中への給地の配分を論じる。知行に伴う役儀と物成、土地と人の扱いを古例から説明する。
天正八年十月十五日 / 冊子 678頁
友野元真が肥後矢崎城攻めで先登し、園田清左衛門・林藤七兵衛・市来源番左衛門ら鹿児島衆とともに戦い、城口で敵を切り捨てた奉公を記す。
寛永十五年二月廿九日 / 冊子 772頁
二月二十八日の有馬原城本丸で敵四人を鉄砲で撃ち、さらに敵二人と槍を合わせたことを、大口衆・鹿児島衆・高尾野衆の証跡人を挙げて、有村掃部助が二月二十九日に届けた戦功証文。
正月廿六日 / 冊子 10頁/原整理番号 6-1
『島原軍衆人数差出留』の正月二十六日条。上津浦の土持左馬権頭以下、船廻りなどで各地へ到着した者の主従・人鉢・忰者夫丸を列挙する。鹿児島衆は計四百四十三人(人鉢四十人、御道具衆四十九人、忰者夫丸三百五十四人)。喜入舎人を米之津から帰したため除き、三口の合計を千八百四十六人(人鉢百六十六人、道具衆四十九人、忰者夫丸千六百三十一人)とする。
年月日未詳 / 冊子 195~196頁/原整理番号 318-2
外城衆等を区分した人数帳。米津から召し帰された衆は合計二千九百二十一人で、人躰千六百四十三人と夫丸千二百七十八人(内訳合計二千九百二十一人)。上津浦衆は原記載で合計二千七百八十一人、人躰千八百六十六人、夫丸九百五十七人と見え、内訳合計は二千八百二十三人となって一致せず、傍記もある。有馬へ詰める衆は合計欄に二千五百六十人とある一方、「廿七人」の傍記があり、人躰千五百五十八人と夫丸・倅者九百六十九人の内訳合計は二千五百二十七人で、318-1の記載とも一致する。鹿児島衆の上津浦・有馬分は合計三千百五十六人で、人躰二百五十人、御道具衆四十九人、倅者・夫丸二千八百五十七人(内訳合計三千百五十六人)。各区分に属する外城名も列記する。原記載の合計・内訳・傍記の不一致は計算だけで統一しない。
年月日未詳 / 冊子 212~213頁/原整理番号 323
薩軍の原城攻め陣営を記した伊地知季安の記事。薩軍は城から田地を隔てて五、六町ほど海手にある天神が森へ布陣し、家老兼出水地頭の山田民部少輔有栄と使役兼大口地頭の新納加賀守忠清を談合衆・将帥とした。市来八左衛門宗友、伊地知杢右衛門重政、木佐貫半右衛門、仁礼左近将監景頼、是枝喜右衛門快温ら役職者と鹿児島衆を列挙し、出水・大口・蒲生・加久藤・須木・高尾野・伊集院・串木野・志布志・高山・谷山・曾木・阿久根・鹿児島などの兵・雑兵を合わせて二千五百余人が戸田左門氏鉄の陣営にいたとする。二十七日朝、諸大名が二十八日の城攻めを評定中、鍋島二手が突然出丸へ攻め込んだ。薩軍は評定の場にいた指揮官の下知が届かず先行攻撃へ加われなかったため、陣で銃・槍などを整えて出動に備えたが、城攻めは進み、煙・火を見て戦意を募らせた。夜には空腹を見越して陣屋へ飯を取り寄せたと記す。
年月日未詳 / 冊子 214頁/原整理番号 329
田布施郷坂元安右衛門清長の書留。田布施諸士は同心して敷根筑前守の手に付き陣中で勤務した。諸所の衆は地頭に従って有馬へ詰め、戦功を挙げたが、鹿児島衆・外城衆は天草内高津浦の張番を命じられたため戦功がなかったという。有馬城落城の前後は船留が厳しく、その様子を知らなかったと記す。
二月廿九日 / 冊子 316~317頁/原整理番号 351
三原五郎兵衛重英が、寛永十五年二月二十八日に有馬原城本丸の石垣を登り、屏上から弓で敵三人を攻撃したことを届ける覚。証人として鹿児島衆田中五右衛門・高尾野衆宮原伴右衛門を挙げる。寅二月二十九日付で、新納佐左衛門尉・上原貞右衛門尉宛。編者注は『旧記雑録後編五』二一五七号文書と同文とする。
二月廿九日 / 冊子 319頁/原整理番号 359
日高十兵衛尉正盛・有馬久右衛門・藤井助四郎・友野七郎の四人が、先手として原城本丸の屏に着き、屏越しに鑓を合わせた状況を届ける覚。ただし日高と有馬は鑓を合わせようとしたところ早く石打ちに遭い『無生ニ罷成』ったため、実際には鑓を合わせなかったと明記する。鹿児島衆が後方の岡から見たことを証跡とし、『薩摩壱番鑓合』と掲げる。二月二十九日付で市来八左宗友・新納加賀守忠清宛。編者注は『旧記雑録後編五』二一五九号文書と同文とする。
年月日未詳 / 冊子 320頁/原整理番号 363
木佐貫半右衛門と川田弥左衛門が、寛永十五年二月二十八日、有馬城本丸で首一つを取ったことを連署で証する文書。首主は鹿児島衆木佐貫半右衛門、合討は曽木衆川田弥左衛門とし、証跡人に曽木衆坂元四郎兵衛尉と福崎覚兵衛尉を挙げる。本文に宛所はなく、目録年月日欄は空欄。編者注は『旧記雑録後編五』二一四九号文書と同文とする。
年月日未詳 / 冊子 321頁/原整理番号 368
曽木衆坂元四郎兵衛尉と福崎覚兵衛尉が、寛永十五年二月二十八日、有馬城本丸の内へ入ったことを連署で証する文書。鹿児島衆木佐貫半右衛門尉と曽木衆川田弥左衛門尉を証跡人に挙げる。本文に宛所はなく、目録年月日欄は空欄。編者注は『旧記雑録後編五』二一五〇号文書と同文とする。
元禄十三年三月十三日 / 冊子 342~343頁/原整理番号 381-3
有馬山の戦いと名を残す心構えを詠む歌・教訓に続き、島原・有馬出陣の経過を記す奥書。寛永十四年冬に邪宗の土民が有馬城へ籠城し、薩隅日三州の士が翌十五年正月十一日に出陣した。田布施の地頭鎌田左京政高が京都勤務中だったため、田布施諸士は同心して敷根筑前守の手に属した。諸所の衆は有馬で高名を挙げた一方、鹿児島衆・外城衆は天草高津浦の番を命じられて高名がなく、船留が厳重で落城前後の事情も知らなかったという。三月下旬に帰陣。坂元安右衛門尉清長が寛永十五年三月十一日に記し、破損したため孫の坂元七郎左衛門清愛が元禄十三年三月十三日に改めた。
年月日未詳 / 冊子 343~347頁/原整理番号 381-6
伊地知季安が、出水にあった別本の有馬原城攻め軍功一覧を掲げた記事。前後の次第は不詳として略し、鑓合、討捕、城乗、弓・鉄砲、手負、戦死などを鹿児島衆、出水衆、蒲生衆、加久藤衆、伊集院衆等の区分で列記する。『首数百三拾八討捕』との原記載を含む。末尾には当時の上使と在陣大名を列挙し、出水本にない書付を大野久左衛門所蔵本から見せてもらい書写したと注記する。