真梁譲状
永享二年八月廿八日 / 冊子 349頁
真梁が薩摩国高城郡内の新開一町・草道名内の田地、馬屋・家屋などを重政へ譲与し、嫡子がない場合の相続方法も定めた譲状。
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『旧記雑録』前編・後編・附録10冊と追録1~8(暫定版)、『旧記雑録拾遺 伊地知季安著作史料集1~9』『家わけ1』(暫定版)、関連史料(外伝)『島津世禄記』の46,754件を横断検索できます。検索範囲は史料群・巻を組み合わせて選べます。結果は50件ずつ表示します。
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永享二年八月廿八日 / 冊子 349頁
真梁が薩摩国高城郡内の新開一町・草道名内の田地、馬屋・家屋などを重政へ譲与し、嫡子がない場合の相続方法も定めた譲状。
永享十年三月十四日 / 冊子 379~380頁
河内守重政が松五郎へ、薩摩国高城郡・東郷および相模国小津合郷などにある代々相伝の所領、屋敷、田地を永代譲渡した譲状。松五郎に子がない場合は重政の兄弟の中へ譲ることも定め、遠隔地を含む所領の継承順位と一族内相続の条件を明記する。
八月五日 / 冊子 109頁
甲斐重政が、今月三日の晩に長崎へ到着し、八人分の揚物・荷物を現地奉行へ引き渡した経過を報告した書状。八人への尋問が続いていること、返事を受け次第帰還して詳しく報告することを伝える。
(寛永八年)四月廿九日 / 冊子 208~209頁
先に相談された一件について最上土佐守へ申し入れたが確答がなく、康心へ善鏡坊を介して内談し、和解・合点に向けて調整するよう勧める。追而書では家久・光久兄弟と忠直・忠紀の受領・任官を祝し、祝儀の様子にも触れる。
寛永十四年八月五日 / 冊子 669~670頁
八月三日に長崎へ着き、呂宋から来た伴天連や異国居住の日本人をめぐる捕縛・尋問の状況を長崎奉行へ報告したことを伝える。船の購入や渡航経路を厳しく調べ、浦々で不審な船売買を警戒するよう求めた書状。
(寛永十四年)八月八日 / 冊子 671頁
長崎奉行から九州諸大名へ回す書状を飛脚で送るよう命じられたため、同心二人に船を仕立てて進上させたと報告する。秋月領の捕縛者を待ちながら、拷問を受けた八人の供述や、先に来た南蛮人の伴天連一人が責め死にしたとの情報も伝えた書状。
年月日未詳 / 冊子 88頁
慶長十一年八月、一向宗禁制の沙汰を受け、菱刈表にいた新納忠元が伊地知民部少輔重政以下四十八名を集め、互いに信仰を糾明させて誓詞を提出させ、取締りを行ったことを記す『忠元勲功記』の記事。
年月日未詳 / 冊子 777~778頁
島津光久の子女について、万千代丸と称した忠紀、重永、久雄らの出生、官位・拝領、母、養子縁組、没年月日と法号を列記した系譜記事。忠紀は家光らから刀剣を賜り島津久敏の家を継ぎ、重永・久雄もそれぞれ家臣家の養子となった。
三月廿四日 / 冊子 402頁/原整理番号 516
伊勢貞長は伊地知重政へ、札改めで加久藤に潜伏していると判明した走者を至急返すよう重ねて求める。一人は貞長が召し使った時は八介と称し、名を変えて隠れている者で、ほかにもう一人いるため両人を送ることとする。本文前段では三日以内に昼夜を問わず送るよう命じ、後段では鹿児島へ三月中に送り、拒めば縛って送るよう指示する。走者は今回の札改めで全員調べ出して元主へ返すべきであり、貞長自身の在江戸・上洛前に済ませたいとして一刻も急ぐよう迫る。
「寛永十七年」六月二日 / 冊子 112~113頁
伊地知重政と相良頼員が国元の重臣らへ、江戸から帰国途中の島津大和久章が五月朔日に京都三条へ着き、十七日昼に外出したまま戻らず、行方不明となったことを急報した連署書状。役人衆から五月二十二日に知らせを受けて上京し、手分けして捜索したが見つからず、江戸へも有馬左近将監を通じて報告したとする。追而書では久章の荷物に国元から持参した道具の不足があり別紙で報告したこと、詳細は下国する富山弥一兵衛に申し含めたことを記す。
〈寛延二年〉二月二十一日~三月十六日 / 冊子 144頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書0399
二月二十一日、宗信が妹菊姫と、福岡城主松平筑前守継高の嗣子修理大夫重政との婚姻を願った。三月十六日、執政の奉書に従って宗信が登城し、黒田河内守長邦も継高に代わって登城した。白書院の縁頬で執政らが列座する中、堀田相模守正亮が婚姻を許す台命を伝え、宗信が拝謝した。同日、宗信は西城にも登り、奏者衆柿木土佐守玄綱を通じて婚姻許可の謝礼を述べた。各執政の邸へ出向いて礼を述べ、家老の使者を若年寄の邸へ遣わして謝礼した。
〈寛延二年〉三月十六日 / 冊子 149頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書0419
継豊公御譜は、三月十六日に宗信の妹で継豊の娘である菊と松平修理大夫重政との縁組が許されたと記す。薩摩にいた継豊は知らせを受け、老中へ使者の書状を送り、酒肴を献じて謝礼を述べた。
年月日未詳 / 冊子 117頁/原整理番号 186-2
『伊地知重政付衆小原織部取払留』。伊地知重政付衆の飯米、魚などの買物、使者の賄、俵を町から船手まで運ぶ賃銭等を日付・品目別に記す。本文には二月十一日・二月十三日や正月十七日からの期間も記されるが、目録年月日は空欄を維持する。
二月廿九日 / 冊子 315頁/原整理番号 346
伊地知杢右衛門重政が、寛永十五年二月二十八日未刻、有馬原城本丸へ一番乗し、鑓を合わせて敵一人を討ち取ったことを届ける証文。出水衆の指宿内蔵助・井尻三郎右衛門尉を証人に挙げ、翌二十九日、上原左太右衛門尉・新納佐左衛門尉宛に差し出した。編者注は『旧記雑録後編五』二一六四号文書と同文とする。
二月廿九日 / 冊子 336頁/原整理番号 379-1
季安家蔵本。本文は三四六号文書と同文であるため省略した、との編者注のみを収める。目録は二月二十九日、『伊地知重政差出』とするが、本文・署名・宛所は本箇所に掲載されない。三四六号本文との直接照合は今回実施していない。
三月二日 / 冊子 359頁/原整理番号 409
伊地知重政が大重伝左衛門尉久永へ、寛永十五年二月二十八日に有馬の原城本丸へ乗り入り、敵の首を討ち捕らえた働きを確かに見届けたとして、後証のため暮春二日に与えた証文。
月日 / 冊子 360~361頁/原整理番号 415
伊地知重政が伊尻三郎右衛門尉祐永へ、寛永十五年二月二十八日の原城本丸への城乗時、祐永の最初の鑓合を脇から見届けたと証明した文書。その後に先へ進んでからの手柄は知らないと、実見範囲を限定して三月二日に証文を与える。
寛永十五年六月朔日 / 冊子 393頁/原整理番号 495
伊地知重政は、有馬城攻めの二月二十七・二十八日の両日、持場に詰めていたが、落城の混乱時に下知を受けないまま本丸へ赴いて見物したのは不届であったと申告し、しかるべく取り計らうよう南林寺へ頼む。
寛永廿年九月廿二日 / 冊子 178頁/原整理番号 83
寛永二十年九月二十二日付、加久藤地頭伊地知重政の書状。毎年の上納品の未進について御算用所から送られた書付を、受取をもって清算し消し込んだと知らせる。今後は定めの時期に遅れず上納させるよう、白坂大炊左衛門らへ命じる。
(寛永二十年)九月廿二日 / 冊子 15頁/原整理番号 7
伊地知重政が加久藤の関係者へ、長年の上納品と未進について勘定所から渡された書付は、受取を得て全体の算用を済ませ、消し込めたと伝える。今後も時期ごとに上納を怠らぬよう命じる寛永二十年九月二十二日付の書状である。
寛永十七年五月廿六日 / 冊子 73~74頁/原整理番号 28
京都にいた大和守久章が五月十七日に従者二人を連れて三条宿を出たまま帰らず、同二十二日に届けを受けた伊地知重政らが宿や周辺を捜しても行方が分からないと、江戸詰の関係者へ報告する。持ち出した道具の書立てと詳しい事情を別紙で知らせる旨を添える五月二十六日付書状。
慶長十一年八月十一日 / 冊子 266頁/原整理番号 21
一向宗の取調べに際し、伊地知重政が自分は同宗に入らず、以後も異心を持たず、忠勤に努め、野心・不忠をしないと誓う起請文。
年月日未詳 / 冊子 336頁/原整理番号 21
伊地知重政の申状が、第五代小次郎松元は重政へ改名し、本来は伊地知美作守重常、法名は光林澤公居士と記す。伊集院内の須木城の主として在番し、渋谷方の敵である蒲生勢が吉田城へ現れたため、麓の川原へ出て戦った。その時が大刀を用いる戦いの始まりであったという。
(寛永18年)5月14日 / 冊子 34頁/原整理番号 33
甲冑師岩井藤兵衛が伊杢右衛門へ、上洛する児玉四郎兵衛に「こ手・ふんこみ・すねあて」の三色を託し、代銀八十目の約束履行を求める。是枝喜右衛門の注文品は未完成で留め置いたという。後掲解説は宛先を京都御蔵奉行の伊地知杢右衛門重政とし、寛永十八年五月に受けた文書と説明する。
寛永十七年七月十日 / 冊子 86頁/原整理番号 37
一乗院が相良頼員・伊地知重政へ、大和守久章が十日の申刻に蓮金院へ登ったとの報を受け、川上因幡守に急ぎ知らせるよう求める。本人の存分はまだ聞いておらず、蓮金院からも連絡するという七月十日付書状写。
寛永十七年七月十日 / 冊子 86~87頁/原整理番号 38
蓮金院秀伝が相良頼員・伊地知重政へ、大和守久章が同日申刻に蓮金院へ来るとの知らせを受けたため、急ぎ一報すると述べる。事情の詳しい返書を求め、直接世話をする旨を追而書に記す七月十日付書状写。
二月廿九日 / 冊子 353頁/原整理番号 395
本文書は346号文書と同一文書であるため省略したとの編者注。さらに全文が斜線で抹消されており、本文・署名・宛所は本箇所に収録されない。
請二〇八寛永十五年六月朔日 / 冊子 415頁/原整理番号 208
伊地知本右衛門宛て書状。有馬城の普請に関する書付を受け、落城後で手元に用意がないため、本丸での見物・確認を頼む。寛永十五年六月朔日付、南林寺。
弘化二年十一月四日 / 冊子 599~600頁/原整理番号 2
嘉翁祐慶居士の二百回忌に捧げられた追薦法語。生前の徳行と子孫の追慕を述べ、供養と冥福を祈る。末尾に玉龍山の僧による拜薦の署名がある。
寛永十七年六月二日 / 冊子 83~84頁/原整理番号 33
相良頼員・伊地知重政が国元の家老らへ、大和守久章が五月十七日に京都三条宿を出たまま戻らず、二十二日に知らせを受けて手分けして捜したが、六月二日現在も行方が分からないと報告する。江戸へも同様に注進し、発見後は追報すると伝える。
文書本文の日付:元和九亥年正月□日 / 冊子 491~492頁/原整理番号 七七二/整理ID TMP-P03-NENE-KAGODAI-KENMU-ASHIKAGA-D0772
重政・重張は関ケ原御陣以来の遣銭の申立に対し、高五拾石の知行を相渡す。 銀利を算用のうえ、元和九年亥の秋の毛から十八年申の秋までの十年分を記す。 知行を相替える際は返地を認める条件と、天下徳銭等の取扱いを記す。 重張・重政の花押、元和九亥年正月□日、鳥濱進衛門尉・須美越左衛門尉を末尾の配置順で保持し、山之坊を宛所とする。
年月日未詳 / 冊子 103頁
北郷久加が島津光久の江戸参勤に供奉し、北郷次郎兵衛久利と祭主與左衛門重政も従ったが、勤仕中に長野金山の件によって帰国したことを記す譜記事。
宝暦五年十二月七日 / 冊子 596頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書1763
菊姫を筑前福岡城主松平筑前守継高の嫡男松平修理大夫重政へ嫁がせることは、それ以前に幕府の許可を得ていた。宝暦五年十二月七日、菊姫が本文の「芝守殿」から溜池邸へ嫁入りし、婚礼を整えて成婚した記事。配偶偶にはママの注、于歸にはユイナノトキの読みを付す。出典は継豊公御譜。
文化5年戊辰3月17日死去、26日葬送、4月5~7日中陰法事 / 冊子 293頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書0936
有邦公(島津継豊の注)の女子で菊姫と称し、松平修理大夫重政(筑前福岡城主の注)へ嫁いだ人物を記す。重政の死後に髪を断ち真含院と称し、文化5年戊辰3月17日、江府溜池邸で病死した。諡は真含院殿實高慈清大禪定尼。26日に渋谷祥雲寺へ葬り、4月5日から7日まで3日間、同寺で中陰法事を行った。斉宣も大圓寺でこれを営んだとする。出典は今御譜中。出生父の呼称・婚姻・断髪後の名・死去日と場所・葬送・中陰法事を順に分け、菊姫と真含院を別人として扱わない。
文化5年戊辰3月17日死去、同月26日葬送・代拝 / 冊子 293頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書0937
我曽祖父有邦公の女子で菊姫と称し、松平修理大夫重政へ嫁いだこと、重政死後に髪を断ち真含院と称したことを掲げる。文化5年戊辰春3月17日に江府溜池第で病死し、真含院殿實高慈清大禪定尼と諡し、26日に渋谷祥雲寺へ葬った。重豪は若年寄島津安房久備を寺へ遣わして香を焚き代拝させた。久備には、仮に家老となった後に寺でこのことを行った旨の注がある。出典は重豪公御譜中。前の今御譜記事と同じ死去・葬送だが、ここでは重豪による久備派遣・焚香代拝を中心に採録する。
文政5年12月18日(年は朱注) / 冊子 640~641頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1895-3
松平備前守が、松平豊後守家との由緒を説明して桃次郎の聟養子願に添える訳書。故筑前守継高の嫡子である故修理太夫重政の妻が、故松平大隅守継豊の娘であったと述べる。この縁故により、別紙のとおり嶋津桃次郎を聟養子にしたいと願っている旨を記す。十二月十八日付、文政五年は朱注。目録は黒田斉清訳書并覚書とし、掲載訳書の署名は松平備前守。前枝の「黒田斉溥」という人物注との異同を残し、養子願書とは別の枝として扱う。
年月日未詳 / 冊子 210~211頁/原整理番号 129
伊地知重政・重堅の経歴、大口・羽月・山野での役務、朝鮮番船での戦死、宗門禁制下の移住などを考証する伊地知季安の記事。
年月日未詳 / 冊子 261頁/原整理番号 213
『元寛日記』の記事。寛永十四年三月二十三日、鎮西肥前島原の郷民が一揆を企て騒乱となり、吉利支丹の拠点原城を松倉長門守重政が支配していたことを記す。
年月日未詳 / 冊子 261頁/原整理番号 214
『平塞録』の記事。松倉長門守重政と父豊後守重政の島原領支配、六万石の軍役と重税、寛永七年十一月十六日に五十七歳で死去した重政の苛政、鉄砲大小三千挺の所持を記す。
年月日未詳 / 冊子 713頁/原整理番号 747の1
十六日、加久藤地頭伊地知杢右衛門重政が加久藤衆50人とその内若42人、自分の内若33人、自力立など21人を合わせ、およそ150人を率いて加久藤を出発し、その夜は羽月西田村に宿泊したと記す。
年月日未詳 / 冊子 14頁/原整理番号 14-1
普請奉行伊地知杢右衛門重政が大将島津久賀・喜入忠政へ、相役の村尾重候・相良頼屋がすでに島原へ赴いているとして、自身も行って任務を共にしたいと願い出る。久賀・忠政は島原の島津久元らへ照会しつつ、上津浦には軍衆を指揮し諸侯陣屋への使者も務められる熟練者が少ないため、重政を手元に留めたとする伊地知季安の記事。
正月廿七日 / 冊子 14~15頁/原整理番号 14-2
島津久賀・喜入忠政が三原左衛門佐らへ、石火矢で城の屏・土手が崩れ、落人も出て近日落去が見込まれると報告する。上津浦では陣屋を建て始めたが周辺に百姓や海人もなく不便で、兵糧不足を踏まえて不要な人数を早く帰し、出水の三千三百六十八人も帰還させるよう協議を求める。また、島原行きを願う普請奉行伊地知杢右衛門尉重政は、当地で軍衆指揮や使者を担える熟練者として留めたいと照会する連署書状。
年月日未詳 / 冊子 29頁/原整理番号 43
伊地知季安が、鹿児島から島原の陣所へ、世子は日州筋から下り、鹿児島に一夜逗留した後、紫尾山を越えて獅子島へ渡り、情勢次第で有馬へ渡海するとの注進があったと記す。陸上の軍勢は世子を待って出陣に従い、普請奉行の伊地知重政・長谷場純正らは急行して陣屋などを整え、賦方の村田経乗・福崎新兵衛らも来る予定だと、島津久元・山田有栄が上津浦へ問い知らせたという記事。
年月日未詳 / 冊子 87頁/原整理番号 145-1
伊地知季安の記事。普請奉行伊地知重政が世子の有馬参陣説により島津久元から陣営設営のため召され、風潮不順で待機後、五日頃に上津浦から渡海した経緯を考証する。八日に供衆の多くを帰した記録などから、時期・人数には詳らかでない点を残す。
年月日未詳 / 冊子 88頁/原整理番号 145-4
伊地知杢右衛門重政に属する西田七左衛門・江平宇左衛門以下、家中・付衆を含む計三十一人を列記した覚。傍注による所属・別名を含むため、本文呼称と注記を区別して扱う。
年月日未詳 / 冊子 116~117頁/原整理番号 186-1
伊地知季安の記事。伊地知重政は米之津まで主従三十五人を率い、その後人数を減らして上津浦で三十一人分の兵糧を受け、さらに帰還者を出して約二十四人で島原へ渡海したと考証する。九人ほどは自力で賄った可能性を示し、この日初めて島原で受けた支給を次条に掲げる。
年月日未詳 / 冊子 131頁/原整理番号 214-1
伊地知季安の記事。この日、伊地知杢右衛門重政が島原の陣屋で、鹿児島の士である土持平左衛門綱辰・田中善兵衛・吉田次郎兵衛康清・中上内蔵丞を饗応したことを記す。
年月日未詳 / 冊子 145頁/原整理番号 253-1
十七日、伊地知重政が有馬の陣屋で加久藤から来た詰衆を饗応したことを、付衆・小原織部の取払帳に基づいて記す。
年月日未詳 / 冊子 146頁/原整理番号 254-1
伊地知季安の記事。この日、伊地知重政が内衆三人を有馬から帰したと記す。
年月日未詳 / 冊子 146~147頁/原整理番号 257
加久藤地頭・伊地知重政が召し連れた人数は削減により帰されたが、西田杢允時栄と赤川弥七郎は城攻めで働く志が強く、一人が小者八郎左衛門を伴い、三人でこの日加久藤を発って島原へ赴いた。いずれも自力で参陣したと記す。