寺沢貞成広高書状
(慶長四年)正月五日 / 冊子 346頁
寺沢広高が、正月七日朝に徳川家康へ茶を進める予定であるため心得るよう、羽柴左近ら四人へ知らせた書状。前日の六日夕刻に家康の門前まで礼に出るのがよいと助言し、兵庫頭の願いについて又八郎のもとまで出向くよう伝える。
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(慶長四年)正月五日 / 冊子 346頁
寺沢広高が、正月七日朝に徳川家康へ茶を進める予定であるため心得るよう、羽柴左近ら四人へ知らせた書状。前日の六日夕刻に家康の門前まで礼に出るのがよいと助言し、兵庫頭の願いについて又八郎のもとまで出向くよう伝える。
(天正15年)11月18日 / 冊子 363~364頁
手火矢一挺の贈与に礼を述べ、肥後一揆の多くが退散し、討捕や一部赦免によって事態が収束へ向かうと報告する。毛利輝元の着陣を控え、先手の太田藤四郎らが南関へ入り、和仁城を十余か所の付城で包囲する計画や山鹿・阿蘇への対処を義弘へ知らせた書状。
(天正15年)11月18日 / 冊子 364頁
本文はNo.401と同文のため省略されている。手火矢一挺の贈与に礼を述べ、肥後一揆の多くが退散し、討捕や一部赦免によって事態が収束へ向かうと報告する。毛利輝元の着陣を控え、太田藤四郎らが南関へ入り、和仁城を十余か所の付城で包囲する計画や山鹿・阿蘇への対処を島津義弘へ知らせた佐々成政の書状。
寛永十二年正月十二日 / 冊子 470頁
父福永藤四郎の成敗後に召し出された福永長兵衛について、旧知行百十七石のうち既に下された二十五石へさらに二十五石を加え、合計五十石を支配させることを定めた曳付。
年月日未詳 / 冊子 346~347頁
慶長四年正月七日早朝、徳川家康が島津忠恒・羽柴左近将監ら五人を茶席へ招いた記事。前年十月一日の泗川の戦いで明・朝鮮の大軍を破った功を賞し、同九日に五大老が感状を与えて忠恒を少将に任じ宝刀を授け、五奉行も新恩の目録を与えたことを記す。
寛永十二年七月九日 / 冊子 484頁
島津家久が三与に、父藤四郎の知行から以前に与えた二十五石に加え、今回五石を加増し、下屋敷の土地などを配した知行目録。
明和二年四月十六日 / 冊子 85頁/原整理番号 181の70/整理ID 181-70
四月十六日、大目付筒井大和守と御目付新庄織部・夏目藤四郎・松平縫殿頭・松平庄九郎の五名が連署し、各家留守居へ廻達する。明十七日に本坊で御太刀・馬代を献納するため、晝八時に本坊玄関へ揃うよう通知する。追啓では、隠居の者も献上物がある場合は同様に心得るよう申し添える。廻状は順に廻達し、末尾から松平庄九郎の旅宿へ返すよう求める。朱書には、日光山から来た廻状を写し取り、本書を細川越中守の家衆へ順達した旨を、四月二十一日に東郷源五が申し出たとある。発給日十六日、集合・献納予定十七日、朱書の取扱報告二十一日を区別する。
明和二年四月二十一日 / 冊子 86頁/原整理番号 181の71/整理ID 181-71
東照宮百五拾回御神忌法会に際し、日光山へ使者高橋此面を派遣して、御太刀一腰と御馬代黄金拾両を献納した首尾を記す。四月十七日、東郷源五が日光の本坊へ使者を案内した。御門主は御書院に出座し、老中松平右近将監、寺社奉行土岐美濃守・酒井飛弾守、大御目付筒井大和守、勘定奉行小野日向守、御目付松平庄九郎・松平縫殿頭・夏目藤四郎・新庄織部が出席した。別紙の御順書のとおり、使者が御太刀目録を持参して御書院の敷居内に備え、敷居外で平伏して退去し、奏者は東叡山執当であった。献納を済ませ、本人が案内した首尾を四月二十一日に左中様へ報告し、御順書一通を添付して差し上げる旨を申し添える。
明和二年四月二十七日(廻状。前置覚は四月十三日等) / 冊子 91~92頁/原整理番号 181の80/整理ID 181-80
前置する経費覚は、日光の宿料金三十五両から五両減、諸小屋掛代銀七百二十八匁四分、金換算欄の十一両貳部と六匁六分、減銀五百九十一匁、合金十四両壱部と十匁一分減、小判金一両に銀六十二匁八分の換算を記す。四月十三日の小判金四十六両・壱部金二切・銭三百八十文も載せる。宿料・小屋掛等は差し越された金と用心金から払い、帳一冊を添え、御国足軽二人・外足軽二人へ壱部金一切ずつを渡す。不足した旅込賃も用心金から上納方の方法に従って渡す。金子五百・三百・二百・百疋と、宿主武井岡右衛門・遊城院同宿・町人及び家来・案内世話の記載があり、朱注には岩下を取次とする東郷の申出と酉六月十三日の日付もある。続く廻状は法会終了後の能見物の規則を定める。初度・二度目は万石以下の下供・刀持・草履取を中之口から入れ、供部屋のない者を寺澤御門辺に置き、退散時に繰り入れる。三度目は四品以上の刀持・草履取を玄関前や冠木御門外の壹部屋脇御門内に置き、その他の供の入場・待機と四品以上の退散後の繰入を区別する。留守居は主人の登城後速やかに供廻籠の場所へ退き、御座敷向に留まらず、御徒目付・御小人目付の指図を守り、同席中にも通達する。四月二十七日、新庄織部に続き夏目藤四郎・松平縫殿頭・松平庄九郎・曲淵勝次郎が連署し、順達後、末尾から本丸御徒目付当番所へ返すよう追啓する。
明和二年四月二十七日 / 冊子 92~93頁/原整理番号 181の81/整理ID 181-81
曲淵勝次郎・松平庄九郎・松平縫殿頭・夏目藤四郎・新庄織部から別紙一通を受けたため、大膳大夫・相模守へ申し聞かせたところ、同席の各家から通達するよう命じられたとして、写しを順に廻す。各家からの返答は不要ではないかと思うと述べ、通達が済んだ後は差出側から届ける予定とし、廻状を確認したうえで返すよう求める。嫡子がいる家には御付の家衆へも知らせるよう追記する。四月二十七日、池田家の塩見幸左衛門と、毛利家側の嶋田市三郎・吉田半兵衛・都野彌右衛門・有福庄右衛門の記載に続き、順不同の宛名を載せる。朱書には、昨夜中に大膳大夫の家から届いたものを書写して差し上げた旨を、翌二十八日に有川勇馬が左中様へ報告したとある。本文の順達と朱書の到来・書写報告を区別する。
天正16年(1588)・文禄元年(1592)・寛永9年(1632) / 冊子 389~390頁/原整理番号 3
藤原姓菊池氏の末流とする志岐氏の略譜。警固太郎経隆の嫡男経政を山鹿太夫兵藤四郎の嫡流とし、肥前国志岐六箇浦を領した重弘、志岐城主でのち入道麟泉と号した鎮経、親重へ系線をつなぐ。親重は天正十六年、加藤清正・小西行長に志岐城を攻められて降伏し、豊臣秀吉の命によって清正の従軍として肥後へ移り、文禄元年には清正に従って朝鮮・高麗へ渡海し、清正から四百二十石を与えられた。親重の子親益・親昌は島津義虎の娘を母とし、寛永九年に清正嫡男の肥後守が没落すると、親昌は肥後を去って薩摩へ来住し家臣となった。
正平12年10月5日(1357、同文参照)~永和3年10月28日(1377)の記事 / 冊子 431頁/原整理番号 13-3
冒頭は『諸家系図文書』10の5号文書と同一のため、正平十二年十月五日付島津師久書状を省略する。参照先は加治木合戦中の師久が牛屎左近将監へ援軍を求めた書状である。続いて康安元年九月二十六日、牛屎左近将監高元が一族、和泉下司諸太郎兵衛尉政保、隅州馬越藤四郎行家、肥州芦北七浦等の一族と同心し、官領武州の合戦に関して肥後路で約三年間戦った軍歴を記す。永和三年十月二十八日には将軍家方として四十五人が一味同心の一揆契約を結び、そのうち当家一門七人として高元、羽月石見守元豊、山野左衛門尉元詮、牛屎河内守元息、太田沙弥元清、青木沙弥元生、鳥越隼人佑義元を列挙する。系線は元息(法名祖英)から元勝(同彦太郎・法名聖元)へ続く。
〔元禄十二年〕六月十日 / 冊子 227~232頁/原整理番号 8の2
猿渡信安が二男助左衛門の初御目見願いに添えた家筋由緒覚。猿渡藤三郎の子藤四郎が武蔵守と称し、島津忠久に従って薩摩へ下向したとの伝承から説き起こす。歴代の地頭職、伊東氏・龍造寺氏との戦いや高麗陣での軍功、感状・知行・養子関係を詳述し、村山自伯らの系譜主張や焼失・散逸した証拠書類の照合経緯まで記す。
〔元禄十四年〕四月十日 / 冊子 236~240頁/原整理番号 12
猿渡信安が家の本姓を平氏から藤原氏へ改め、近衛家から由緒書を受けることについて内意を伺った口上覚。祖先猿渡藤四郎が近衛基通から藤原姓を受け、六代後の猿渡越中も近衛龍山から由緒書を得たとする。古系図・証文の焼失を述べ、歴代の合戦・地頭職・高麗陣での軍功を列挙し、近衛家による証明の許可を願う。
〔元禄十四年〕五月 / 冊子 240~241頁/原整理番号 13の1
猿渡信安が猿渡家の本姓を平氏から藤原氏へ改める願いを述べた内意口上覚。元祖猿渡藤三郎、嫡子太郎信景、二男藤四郎実信から薩摩下向後の系統を説明し、近衛龍山から藤原姓を許された由緒と、焼失した御書・系図の再証明を求める。近衛家へ由緒書を提出し、諸大夫を通じて改姓願いを申し上げたいとする。
元禄十四年十月五日 / 冊子 247頁/原整理番号 23の1
猿渡信安が二男助左衛門の初御目見を改めて願った口上覚。前年六月以来の願いと太刀進上の希望、提出済みの家筋由緒を述べ、猿渡藤三郎・藤四郎実信以来の系統や代々の戦死・奉公を示す。家筋の由緒書を添え、助左衛門の御目見実現を願う。
建仁三年九月二日条ほか / 冊子 255頁/原整理番号 24の3
『吾妻鏡』建仁三年九月二日条などから比企能員一族の討滅記事を抄出し、猿渡藤三郎・藤四郎の動向を考証する。能員の子息・親類が誅された記事と猿渡家伝を比べ、藤四郎が頼朝から旗を受け、近衛基通から藤原姓と二引の旗紋を許されたという由緒の年代・整合性を検討する。
年月日未詳 / 冊子 478~479頁/原整理番号 81
市来家尚が市来家の由緒を記した覚書。源頼朝の知人柄木藤四郎の妹丹後局が島津忠久を住吉で出産し、その後八文字民部太輔に与えられたという伝承を記す。市来伴右衞門家尚の署名を付す。
年月日未詳 / 冊子 542頁/原整理番号 7
川上上野介久尚家蔵の系図を抄録し、丹後局を比企藤四郎の姉で惟宗卿の娘とする伝承を記す。忠久の母の出自を比較する材料として掲げる。
年月日未詳 / 冊子 542頁/原整理番号 9
忠久下向の供人数帳から、丹後御局を冷泉天皇の末裔で惟宗卿の養藤四郎の子とする記載を抄録する。母の系譜に関する異伝として掲げる。
年月日未詳 / 冊子 542頁/原整理番号 10
平山次郎右衛門家蔵の系図から、丹後局を三浦介の息女で比企藤四郎の姉とする記載を抄録する。三浦と義朝の最期の自書に触れ、藤四郎は頼朝の近習と注記する。
〔元禄十四年〕五月 / 冊子 241頁/原整理番号 13の2
猿渡信安が藤原姓拝受の根拠としてまとめた家の由緒覚。元祖猿渡藤三郎を比企能員の甥とし、源頼朝への奉仕、建仁三年の比企氏滅亡、子孫の薩摩移住を記す。猿渡越中信光が近衛龍山から藤原姓を許されたこと、歴代が合戦で軍功を挙げたことを述べ、近衛家の証明を願う。
元禄十四年十月五日 / 冊子 247~252頁/原整理番号 23の2
猿渡信安が、祖父代の火災で古系図・文書の多くを失ったため、残存する家伝・旧記と関係家の資料を照合してまとめた家筋由緒覚。比企能員・猿渡藤三郎以来の系譜、薩摩下向、地頭職、合戦・高麗陣での軍功、戦死、相続、近衛家から藤原姓を得た由緒を詳述し、記録所へ提出した『通考家譜』とその大意の作成経緯を記す。
正徳元年十月朔日 / 冊子 975頁/整理ID 3133
井伊直該が松平薩摩守へ、吉貴の帰国と将軍の機嫌がよいことを伝える。暇を賜り、馬・白銀・時服を拝領したことを喜び、国許到着の礼として鎌田藤四郎が目録の品を献じた件を承知したと答える。
正徳元年十月二日 / 冊子 975頁/整理ID 3134
本多忠良と間部詮房が松平薩摩守へ、吉貴の帰国と将軍の機嫌がよいことを伝える。暇・馬・白銀・時服の拝領、国許到着の礼として鎌田藤四郎が目録の品を献じた件を承知したと記す。No.3133と同趣旨だが二名の連署である。
正徳元年十月三日 / 冊子 975頁/整理ID 3135
阿部正喬ら四名が松平薩摩守へ、吉貴の帰国、暇・馬・白銀・時服の拝領を喜ぶ。国許到着の礼として鎌田藤四郎が目録の品を献じた件を披露し、藤四郎が御前に召し出されたことを伝える。
正徳元年十月六日 / 冊子 976頁/整理ID 3137
土屋政直が松平薩摩守へ、吉貴の帰国と将軍の機嫌がよいことを伝える。暇・馬・白銀・時服の拝領、鎌田藤四郎による目録の品の献上を承知したと答える。No.3133・3134と同じ件を土屋一名が返答したもの。
文和四年四月八日 / 冊子 870-871頁
家高が弥藤四郎へ、薩摩国入来院清色名内南方の祖父致重跡を譲る譲状。屋敷、小薗、水田、山野、河川などの境界を東西南北の目印で詳記し、地頭・領家への年貢・公事負担を守ること、子孫への重代相伝、違乱禁止を定める。
明和二年(月日未詳) / 冊子 68~70頁/原整理番号 181の27/整理ID 181-27
日光法会の本使・副使が参着後に勤める届出・見廻り、贈物、太刀奉納と出立の手続を列記する。本使・副使同道で松平右近将監に参着を届け、寺社奉行酒井飛騨守・土岐美濃守、大目付筒井大和守、目付夏目藤四郎・新庄織部・松平縫殿頭へ届出・見廻りの口上を述べる。日光奉行神尾若狭守・浅野美作守には副使が出向いて届出・見廻りを勤め、日光門主へは本使・副使同道、若君の名代井伊掃部頭・酒井備前守へは副使が参上する。包昆布二種の記載があり、朱書には当家から日光門主へ両肴・干菓子一箱を贈ること、名代方への使者は当家の記録では見当たらない旨などを補う。御家格に応じた贈物として、御宮別当大楽院へ白銀五枚を白木台で、上野執当覚王院へ同五枚、日光宿坊信解院へ三枚、上野宿坊へ白銀二枚と国物一種を掲げる。朱書には当家の先例として、東叡山執当二人へ各金子五百疋、本坊留守居と日光目代へ各白銀三枚、日光在役の徒目付二人へ各金子三百疋を記す。太刀は奉納刻限の前夜に右近将監へ預け、奉納後は口上で届け、翌朝出立する旨も申し達する。付属の三月・東郷源五名の記録は、各役方への届出・見廻りの使者を相談して定めたとし、太刀奉納時の案内、役人の旅宿案内、日光滞在中の世話に対する先例も記す。朱書には遊戯院同宿への二百疋、町人平四郎への三百疋、武井岡右衛門家来への百疋などが掲げられる。
明和二年三月二十三日 / 冊子 71~73頁/原整理番号 181の32/整理ID 181-32
東照宮百五十回忌の日光法会に際し、御使番が三月二十三日、使者の参着後の挨拶、贈物、奉納・出立の手続を伺う。松平右近将監には家老衆が留守居の案内で到着届と見廻りを行い、諸事の指図を頼むことを問う。寺社奉行酒井飛騨守・土岐美濃守、大目付筒井大和守、目付夏目藤四郎・新庄織部・松平縫殿頭、日光奉行神尾若狭守・浅野美作守には、留守居が到着を届け、使者を出して見廻る案を掲げる。日光奉行への見廻りは先例が見えないとも記す。日光門主には留守居案内の家老使者が干菓子一箱・干椎茸一捲を贈る案を示し、当家古帳の一種に対して年番廻状と一統の相談では二種であるため、その扱いを問う。若君名代の井伊掃部頭・酒井備前守、若御年寄小出信濃守、御側衆田沼主殿頭への挨拶は、年番廻状の本使見廻りと当家先例を吟味して留守居の使者とする案。長坂の警固に赴く酒井修理大夫には留守居付を差し遣わし、勘定・作事奉行には留守居の使者、日光目代には留守居付から御用人への口達を問う。大楽院へ銀五枚、覚王院・信解院へ各三枚、遊戯院へ五枚を掲げ、信解院の贈物は旧例と年番廻状の相違を宿坊への照会や現地の位付に応じて取り計らうよう朱書が補う。日光目代・龍光院・光樹院・徒目付には旧来の贈物があるが、一統で不要との廻状により贈らない場合の不都合を懸念し、指図を求める。太刀奉納前夜と奉納後の届出、翌朝出立の口達を右近将監へ行う案、宿亭主や滞在中の世話人への謝礼を留守居の現地判断で定める案も伺う。末尾は年番廻状と古帳の先例を吟味し、他の事項は留守居と相談する趣旨。朱書には三月二十五日の御意と、二十九日に吟味どおり命じる旨を御使番・首尾懸へ申し渡した記録がある。
天明元年閏五月十八日 / 冊子 626~627頁/原整理番号 1772/整理ID 1772
御縁女引取りの際に御供を勤める面々を列挙する。一ツ橋家老一人、留守居番一人、広敷御用人一人、御目付二人、御徒頭一人、御先拂御徒頭一人、広敷番之頭二人、御用達一人など、役目別の人数を記す。続く名書には川田安右衛門・宮田十左衛門・平嶋西右衛門・金井定四郎・山本九太夫・増田藤四郎を掲げる。御供揃えを一時早めるよう屋敷に申し入れ、閏五月十八日付で結ぶ。
年月日未詳 / 冊子 352頁/原整理番号 54
貴久の代の宴席で忠元を居頭とした役配を記す書上。嗣の又八郎、初献の八郎四郎忠秀、二献の藤四郎忠明、三献の次郎五郎、相伴の民部左衛門尉を列挙し、それぞれの父子関係や後の官途を注記する。
年月日未詳 / 冊子 542頁/原整理番号 6
島津筑後家蔵の系図を抄録し、頼朝の子として頼家・實朝と忠久親王を並べる。忠久を白河法皇の猶子とし、母を延喜御門三代末の惟宗氏の女、比企判官藤四郎義數の娘と記す。十八歳の時に高倉宮の祝給を受けたとする注記も収める。
文書本文の日付:正安元年己亥九月廿八日 / 冊子 509~510頁/原整理番号 七九九/整理ID TMP-P03-NENE-WASEDA-D0799
「ふるその内藤四郎のその并五藤三かその」を挙げ、三ケ所を合わせ三つに分けると記す。 東側につけた三分一を四郎殿の方へ差し渡したと記す。 「けけう入道かその内五らう次らうのそのきたの藤内たらうのつくりその」についても三ケ所と記し、同様に東の三分一を四郎殿へ渡す。 本文は分割・差渡を記述し、日付と純忠、証人郡司平忠連の署判表示を備える。
十月4日京都本営送状、名簿は八月20日~九月17日等、降伏報知は9月22日 / 冊子 600~606頁/原整理番号 780/整理ID 780
雑録中の会津進撃に関する隊別死亡・負傷名簿と、京都本営の送状。九番・十一番・十二番隊等の戦死者を掲げ、十二番隊では三春の村人や庄屋支配下の者も含め、即死・戦死を記す。諸隊の死者には手負の後に三春病院で死亡した者があり、続く手負人数では深手・浅手・薄手と、負傷した日・場所を区別する。田村小太郎、伊佐敷金之進、加藤郷兵衛、上原正八郎らのほか、道案内、隊付夫卒、地元村人などを列記する。原文内の異日付や前の名簿との異同は残し、同名を別人として合算しない。末尾の十月四日京都本営送状は、戦死手負書一冊・降伏状一帖・問合二通を掲げ、去る九月二十二日に会津へ進撃して終に降伏したとの報知を述べる。通行允許を携えて到京した日須峯敬二郎ほか一人に封書を託して国許へ送り、披露等を取り計らうよう御国許陸軍所へ依頼する。死亡・負傷の区分と送付の叙述は各名簿・送状に帰属させる。
貞治二年五月二日 / 冊子 267~268頁/原整理番号 44
島津師久が豊後での合戦と薩摩の内乱を度々注進したが、道路の混乱で届かないことを詫び、豊州方への合力に向かった途中、政保・牛屎高元・行家ら和泉・葦北・七浦・渋谷の敵勢と戦って親類数十人に死傷者を出したと訴える請文。なお国の敵勢が過半を占め合力が進まず、弟氏久の隅州での防戦、大内弘世の渡海、菊池方の帰国、管領の周防滞在を報告し、急ぎ九州対治の沙汰を求める。兄弟で両国を守り軍勢を催促しているとして、謀略と御教書の披露を願う。付記には、貞治五年に師久が二階堂隠岐守直行へ阿多郡内観音寺と白河村の知行を認めた御判書がある。
年月日未詳 / 冊子 780頁
渋谷九郎重興が、五月十九日夜の東福寺城合戦、六月三日の熊野海賊数千人との海陸戦、親類藤四郎の負傷と戦死者、翌日の追撃を述べ、軍忠の証拠となる御判を求めた軍忠状。
明応4年7月5日 / 冊子 172~173頁/原整理番号 53
村田氏系図。藤原鎌足十二世の中関白道隆から七世の孫に当たる菊池領主兵藤四郎経頼の五男・経秀が村田五郎を号し、肥前村田庄地頭職を得たことを起点とする。経秀―秀朝―秀重、秀房―秀俊―武貞、秀家―秀永―秀保の系線を掲げる。如秀(異本『厳』)は師阿闍梨として薩州へ下り、功により肥前村田庄地頭職を賜り、経種へ続く。通善は初め薩州で臣となって島津忠国に仕え、経房―経安へ続き、経安は島津立久の国老で明応四年七月五日に誅された。経堯・武秀の系線には、父が誅された時の肥後出奔と菊池氏への依頼、その後の島津勝久代の帰参・国老、庄内・財部・帖佐との関係、帖佐・加治木での戦死記事を載せる。
建久3年 / 冊子 175~176頁/原整理番号 55
鮫島宗家流の系図。工藤四郎家光の子・宗家(鮫島四郎)が駿河国鮫島郷を領し、源頼朝に属して石橋山合戦で功を挙げ、建久三年に薩州阿多地頭職を与えられたことを起点とする。宗家・長家と女子・山門郡司秀忠の婚姻関係を図示し、その系譜説には宗家と秀忠が同時代人であることから誤りであろうとの考証注を付す。二代家高は刑部允・入道行願、三代家景(景家とも)は弥二郎で、妻を山門郡司忠秀の女とする。兼家の九代孫宗喬は日新公に仕え、彦次郎・入道蓮道は貞久公に仕えて加世田・知覧・指宿を領した。蓮性は師久公に仕え、民部忠宗は伊作家のため阿多へ落ち久豊公に仕えたと記す。後半は宗吉―宗満、宗遊―宗秀(実は弟)、宗秋―宗昌の系線を掲げ、宗秋を日新公に仕えた備後守・泊地頭、宗昌を『人物志』所載とする。