宮内大輔今川三雄安堵状
至徳四年五月四日 / 冊子 132頁
宮内大輔今川三雄が延時筑前守に、薩摩国薩摩郡内延時名地頭職と庶子山野、本若松名・串木野・若松・橋間・寄田・火同丸・成岡名の各地頭職、成枝などの知行を安堵した文書。
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至徳四年五月四日 / 冊子 132頁
宮内大輔今川三雄が延時筑前守に、薩摩国薩摩郡内延時名地頭職と庶子山野、本若松名・串木野・若松・橋間・寄田・火同丸・成岡名の各地頭職、成枝などの知行を安堵した文書。
天正四年(六年か)七月九日 / 冊子 545頁
上井覚兼・伊集院忠棟が宮原筑前守へ、石城口でその子が奮戦したことを認め、子を早く帰らせる代わりに本人が急ぎ出陣するよう命じた。伊集院肥州・頴娃氏・吉田若狭守が負傷して帰ったため陣が手薄であり、時を移さないことが肝要と念を押す。本文の年次注記は天正四年を六年と訂する。
天正20年6月吉日 / 冊子 565~566頁
島津忠長ら五名が、日向国志布志の伊屋松門・山口・山の口・松か迫などに散在する田地を列挙し、合計一町七反八畝五歩として上原筑前守へ与えた連署坪付。 各小字の反別を細かく積み上げた土地台帳で、島津家中の給地配分と五名の連署による権利確認の実務が分かる。
天正20年12月29日 / 冊子 620頁
薩州河辺のうち、井新田之門を中心とする田畠・山畑十二町五反余、分米・大豆百三石余を記し、そのうち五十三石余を上原筑前守の領知とする目録。 平泉・河辺からの替地分と残る新知分を区別しており、土地交換を伴う知行再編の数量的な内訳が分かる。
六月十一日 / 冊子 34頁
長寿が、師匠以来奉公してきた僧について上原筑前守へ伝えた書状。その人物は普通の平僧ではなく、特別な奉公と命令を担ってきたとして、相応の知行を与えて遇することや、関係者と相談して処置することを求める。
永禄二年三月三日 / 冊子 69頁
財部筑前守が清水谷口方の扱いについて末吉で町田加賀守と相談済みであることを伝え、神前の宮代官任命や門川からの請取りを時機を見て進めるよう求める書状。
(文禄元年)6月18日 / 冊子 571頁
豊臣秀吉が、朝鮮渡海の遅れに不満を抱いた梅北国兼が佐敷辺で一揆を起こしたため、義久からの報告と首を討つ旨の命令を受け、現地諸将へ即時の成敗を指示した朱印状。 島津兵庫頭の不安を除くよう申し聞かせることも命じ、梅北一揆を島津家だけでなく豊臣政権の軍事命令として鎮圧したことを示す。
正月十一日 / 冊子 186~187頁
豊臣秀吉が正月朔日付の注進を十一日に受け、唐人・朝鮮勢が蔚山へ進出し、日本諸将が迎撃に向かったことを承知した朱印状。諸将に相談して敵を一人も漏らさず討ち果たすよう命じ、安芸中納言・増田右衛門尉・因幡衆・大和衆・紀伊国衆・但馬衆・九鬼大隅らを増援として順次派遣すると告げる。今後の戦況報告を待ち、その注進次第では秀吉自身も渡海するとした。
三月廿六日 / 冊子 448~449頁
光久が国元で越年するため江戸へ年始使者を出すよう命じたのに、家臣らが不要と相談して中止し、幕府対応が無調法になったことを厳しく叱責する。先例を挙げ、今後は公儀の時宜を誤らぬよう手順を書き留めて油断なく処置せよと命じた島津光久書状。
年月日未詳 / 冊子 61~62頁
文中元年六月二十三日に渋谷重門が高江峰城で戦死したことと、同じ戦闘で山田式部三郎忠房・宮里三郎太郎・酒勾筑前守らが戦死したことを記す記事。
年月日未詳 / 冊子 486頁
文明八年三月、指宿城攻めや鹿児島松尾坂の戦いで五代筑前守・福崎入道・飯肥平二郎・松元四郎左衛門らが戦死したことを記す記事。
年月日未詳 / 冊子 669頁
島津勝久が太守であった時期、帖佐城主邊川筑前守の謀叛を発端として、新城をめぐる争いと忠良らの移動・対応の経緯を記す。
年月日未詳 / 冊子 669頁
川上氏支流について、忠直・忠真・八郎三郎・筑前守らの系統、名乗りや続柄を列記した系図記事。
永禄十二年五月十日~九月 / 冊子 220頁
永禄十二年五月十日、島津忠親が河野筑前守・大岩根河内守を串良へ派遣し、島津義久と肝付家の和睦を取り持とうとしたが不成立に終わった。五月二十二日には義久の命で菱刈へ兵を送り、北郷小次郎を大将とした。九月、菱刈氏は降参して一命を許され、平城を安堵された。
天正二年八月八日 / 冊子 342頁
入来院重豊の陰謀が露見したが、義久は直ちに討伐せず、先非を改め忠節を尽くせば赦免すると諭した。重豊は八月八日、家臣山口筑前守・東郷美作守を遣わして降伏と所領献上を申し出る。義久は所領を欲するのではなく旧領のままでは衆人の疑いが残るとして、所領替えと誓紙提出を求めた。
年月日未詳 / 冊子 705頁
松浦筑前守が八代・小川街道ほか五、六か村の地頭職を違えて京都へ走った後、友野元真がその跡を命じられたとする奉公覚書。甲佐・堅志田・御船・隈庄・吉松、筑紫・岩屋の陣まで従軍し、小川・内田街道の三百余人を率いて奉公したと述べる。
年月日未詳 / 冊子 74~75頁
天正十三年閏八月十三日の肥後堅志田城攻めで、樺山規久が敵兵と接戦した記事。牧之瀬筑前守・長田筑前守・緒方仲右衛門尉らが各一人を討ち、川添惣右衛門尉は規久の目前で負傷した。個人名と戦果・負傷を列挙し、規久隊の近接戦闘を具体的に伝える。
年月日未詳 / 冊子 123頁
高知尾へ派遣された宮崎衆の田中筑前が帰還し、入田氏の薩摩方帰属は確実だと報告した島津義久譜の記事。これを受け、十一月二十四日に豊後方と対峙し、梅口・佐伯口から同時に薩摩軍を進発させる計画を記す。入田氏の帰属判断が豊後方面への二正面作戦へ直結したことが分かる。
(天正14年)3月23日 / 冊子 161頁
島津義久が島津義弘へ、義弘が筑前へ自ら出陣する意向を了承し、現地の反島津勢力を討つため速やかに行動するよう求めた書状。筑前・筑紫方面の帰趨を島津方へ引き寄せるため、関係者と相談して軍勢を進めるよう指示しており、兄弟間で共有された北部九州進攻の方針が分かる。
年月日未詳 / 冊子 571頁
義弘父子の朝鮮渡海途上、平戸に滞在した梅北国兼・田尻但馬守父子らが変心して一揆を起こし、国兼が佐敷城へ入り、田尻父子が松波瀬で放火した経過を記す。 松浦筑前らが田尻但馬・荒次郎・荒五郎以下百余人を討ち、国兼の一党も赤松太郎や球磨・彦北の兵に殲滅されたとして、梅北一揆の発生から鎮圧までを島津義弘譜にまとめる。
年月日未詳 / 冊子 583~585頁
島津義弘・久保に従って朝鮮へ渡る途中だった梅北国兼・田尻但馬守らが平戸付近で変心し、佐敷城を占拠して八代方面へ兵を出した梅北一揆の全経過を詳述する。田尻勢の放火、松浦筑前らによる迎撃、赤松太郎や球磨・彦北勢の追討、国兼の妻子・一族の捕縛と処刑、諸将からの報告と秀吉方の処置までを収める。一揆発生から鎮圧後の残党処分までを島津義久譜から通覧でき、朝鮮出兵に伴う家中統制の崩れと豊臣政権の介入を示す重要記事である。
文禄3年4月10日 / 冊子 777~778頁
木下宗固が京都の安泰を知らせ、能や茶湯が催された近況を伝える。羽柴筑前守が秀吉の御前で能を演じ、金春の能役者も来演したこと、参会者や席次・饗応の様子を記す。 豊臣政権中枢の芸能・社交の場を具体的に描き、上方出仕者が共有した宮廷的文化を知る書状。
年月日未詳 / 冊子 626頁
戦闘前に大谷吉継の陣が筑前中納言小早川秀秋に攻め破られた。同じ頃、島津陣の近くを二騎の馬武者が通過し、敵かとして討とうとしたところ、先へ行けば敵味方が分かると答えて通り過ぎた。後に大谷陣攻略を東軍へ知らせる使者だったのだろうと推測する。
正月廿六日 / 冊子 460頁
島津筑前守を使者として申し上げた件と、御服拝領を喜ぶ旨を了承し、さらに礼の使者を派遣した入念な対応を上聞に達したと伝えた三名連署書状。
「文明三年」十一月五日 / 冊子 473頁
右衛門尉行頼が島津氏に、琉球渡海船をめぐる紛争・船の留置と積載品の扱いについて、幕府の意向を踏まえて慎重に処理し報告するよう求めた書状。
永正十三年八月廿九日 / 冊子 612~613頁
永正十三年八月二十九日の犬追物について、各組の射手と射数を列記した手組。
永禄十二年五月六日~九月 / 冊子 219頁
戸神尾・稲荷山に二段の伏兵を置き、家久と大野・宮原勢が大口・相良勢を破って百三十六首を得たとする雑本の記事。八月十八日に大口城を包囲し、敵の降参後、九月に城内で太平の祝宴を行ったことも記す。
(慶長三年)十月晦日 / 冊子 268~269頁
島津義弘・小西行長・立花宗茂・宗義智が(慶長三年)十月晦日付で作成した連署覚書。東目の軍勢撤収後に順天・南海・泗川・固城の四方面から唐島まで退く日程を協議し、順天・泗川双方の和平成立と人質受領を条件に、先手から順次引き揚げると定める。泗川・固城の船を順天へ回し、泗川船は南海まで、固城船は唐島瀬戸まで送る輸送手順も規定する。
「寛永廿年」十月五日 / 冊子 256頁
川上久国ら四名が敷根筑前守へ、今回の御使を務めるにあたり敷根姓では差し支えるため、島津姓を名乗るよう光久の意向を伝えた連署書状。日付はインデックス記載の寛永二十年十月五日を保持するが、本文の日付は寛永二十年十月十五日である。
「寛永廿年」十月十五日 / 冊子 257頁
川上久国ら四名が敷根筑前守へ、京都への使者としての用務を終え次第、さらに江戸へ赴いて将軍へ祝言を申し上げるよう光久の命を伝えた連署書状。島津久通・新納久詮と相談し、添付の書状・案文に沿って手続きを進めるよう指示している。
「寛永廿年」十月十六日 / 冊子 257~258頁
島津久通・新納久詮が敷根筑前守へ、阿部忠秋・阿部重次から諸大名留守居へ示された異国船警戒の幕命を急報した連署書状。唐人・切支丹の上陸を許さず、阿蘭陀船も乗員・積荷・書付を厳重に改め、疑わしい者を鹿児島へ報告するよう命じている。
天正20年6月吉日 / 冊子 264~265頁/原整理番号 107-2
天正二十年六月吉日、島津図書頭忠長・伊集院幸侃・町田久倍・平田歳宗・本田三清の五名が連署し、上原筑前守へ日州求仁院志布志の永泰寺先にある田地を与えた坪付。伊屋松門、大丸三反九畦、地蔵免一反五畦、山の口、山乃くち、松ヶ迫、北の迫とその同所分を列挙し、合計を二町七段八畦五歩とする。五名の花押と上原筑前守殿の宛所を備え、『旧記雑録後編』二八九一号文書と同一であるとの頭注が付く。
天正20年12月28日(本文:雪月28日) / 冊子 265頁/原整理番号 107-3
天正二十年十二月二十八日、比志島紀伊守国貞・鎌田出雲守政近・町田出羽守久倍の三名が連署し、上原筑前守へ薩州祁答院内の新知を示した領知目録。黒木名の『かミの園門村田先』にある田方二町七段五畦を掲げ、そのうち七反を寄替分とし、さらに畠方三段を付す。三名の花押と宛所を備え、『旧記雑録後編』二〇一二号文書と同一であるとの頭注がある。
天正20年12月29日(本文:雪月29日) / 冊子 265~266頁/原整理番号 107-4
天正二十年十二月二十九日、鎌田出雲守政近・伊集院下野入道抱節・比志島紀伊守国貞・町田出羽守久倍・長寿院盛淳の五名が連署し、上原筑前守へ宛てた文書の断簡。紙の接合部分が離れて上文を失い、下文だけが残ったとの注記があり、現存部分には年月日、五名の署名・花押、宛所しか残らないため、具体的な用件は判明しない。本文欠損そのものと、前後の知行文書と同じ上原筑前守宛であることが特徴である。
年未詳6月11日(付属記事:文禄5年・同年12月2日) / 冊子 266~267頁/原整理番号 107-5
年未詳六月十一日、長寿院盛淳(署名は長寿)が上原筑前守へ、ある人物は師匠以来奉公し、上様の祈念などを命じられてきたため、平僧並みでも通常の寺家でもなく、知行の配分を含む相応の処遇を受けるべきだと伝え、老衆らとの談合を求めた書状。対象者名や知行内容の一部は原文の空格・欠字により確定できない。付属する上原氏系譜記事は、尚氏が島津義久の春山での狩猟に近侍して功を立て、鉄炮三挺と兼光の御長刀を賜ったが、尚毅の代に江戸邸で両品を盗まれたと記す。文禄五年、豊臣秀吉の命による城邑移転で義久が麑府から富隈へ移ると尚氏も従い、四十九石九斗二升五合を加増されて旧領と合わせ百石となり、十二月二日に伊集院幸侃から目録を受けた。内訳は大口郡山村二十九石九斗八升一勺一才、横河上乃村十九石九斗四升四合八勺九才、曽於郡重久村五十石七升五合である。
年月日不記 / 冊子 584頁/原整理番号 99
本田貞親は、市来・二階堂両家について、薩摩国の御家人として直接御奉公をする旨が京都からの返事で申し下されたと、市来筑前守殿御宿所の人々に伝える。忠久の下向や三州での奉公の儀を先に京都へ申し上げた経緯を述べ、先例に従って所領を保持することが肝要とする。年月日の記載はなく、二階堂家は本文の対象であって宛先ではない。
至徳四年閏五月四日 / 冊子 29頁/原整理番号 239
延時筑前守に対し、薩摩郡延時名地頭職ならびに山野・本若松名・串木野・若松・橋間・寄田・火同丸・成岡名地頭職成枝などの所領を安堵し、違乱があってはならないとした文書。至徳四年閏五月四日付。
年月日未詳 / 冊子 677頁
大永七年、加治木・野首原・帖佐などの戦いで戦死した山野助次郎、湯田仁右衛門、上井筑前守方秋、伊地知左近将監重貞らの没日と戦場を記す。
元亀二年十月九日 / 冊子 256頁
元亀二年十月九日、北郷時久が軍議のため鹿児島へ赴いた際の随行者を列挙する。北郷紀伊守忠徳・和田越中入道起雲・津曲備後守兼庚・亀津河内守・河野筑前守・大岩根兵部少輔が供奉した。
七月七日 / 冊子 557頁/原整理番号 6-3
前筑前守秀秋の七月七日付書状。平山左京亮に宛て、寺院や所務についての申し出を受け、先例に従った措置を指示する。
年月日未詳 / 冊子 471~472頁
文明年間の島津忠昌をめぐる政治・軍事情勢をまとめた国史記事。龍雲寺への禁牌発給、伊東氏との対立、大友氏方への軍事対応、五代友平・行頼ら家臣の動向を記し、さらに琉球渡海船の扱いをめぐる幕府との交渉を通じて、領国内統制と対外交通の課題を示す。
永正十一年九月十四日 / 冊子 604頁
永正十一年九月十四日、鹿児島殿中で蘭窓(島津忠治)の代に初めて行われた犬追物について、参加者別の疋数と検見・喚次を記した手組。
永禄九年五月十八日~七月十七日 / 冊子 145~146頁
永禄九年五月、北郷時久が松山へ初陣し、忠徳らと出立の儀礼を行った後、福島方面で伊東勢を待ち伏せして十一人を討ったことを記す。六月十六日の肝付勢による岩川攻撃と双方の損害、七月の時久の飫肥出陣、肝付勢による福島攻撃と守兵の戦果も載せる。
永禄元年~永禄九年 / 冊子 157~159頁
永禄元年から九年までの北郷氏と守護島津方の軍事行動を、年月日、城の攻防、戦死者数などとともに編年で記す。飫肥・末吉・廻・竹原山・松山・志布志・新山・福島・岩川などをめぐる伊東・肝付両氏との戦い、城の受け渡し、北郷時久の初陣に伴う神社奉納、各戦闘の討取・捕虜・負傷者を載せる。
永禄十二年正月廿日~五月六日 / 冊子 211~212頁
前年から相良・菱刈方が求めていた和睦は、日新没後の永禄十二年正月二十日に成立した。しかし三月十八日、大口城を守る深水頼兼が平泉へ向かう蒲池越中守と従者十七人を殺し、往来は再び断絶した。島津方は羽月城に肝付兼寛・新納忠元を置き、五月六日、家久を囮として戸神尾・稲荷山の伏兵へ敵を誘導し、前田豊前守らが四方から攻めて敵首百三十六を得、一人を捕虜とした。
永禄十二年正月廿日~五月六日 / 冊子 212頁
永禄十二年正月二十日に大口方との和睦が成立したが、三月十八日に深水頼兼が蒲池越中守主従十七人を殺害し、再び敵対した。義虎が維持できなくなった羽月城へ肝付兼寛・新納忠元を派遣し、五月六日、家久が大口城下で敵を挑発して戸神尾西まで誘い出した。戸神尾・稲荷山の伏兵が前後を遮断して敵を破り、百三十六の首級と捕虜一人を得て大口方の勢力を削いだ。
永禄十二年五月六日 / 冊子 217~218頁
五月六日、家久を一番の伏兵大将として戸神尾に、大野・宮原勢三千騎を稲荷山に置き、番替え部隊を餌に大口・相良勢を誘った。敵が荷物を奪おうと戸神尾へ殺到すると、家久の合図で伏兵が起こり、前田豊前守を太刀初めとして敵を崩し、百三十六首と捕虜一人を得た。家久の装束・武具・月毛の馬を詳しく描き、その姿を摩利支天のようだと称える。
永禄十二年五月六日 / 冊子 218~219頁
五月六日の戸神尾合戦を詳述する。家久が兵糧輸送を装い、三十余騎で大口方数千騎を誘引した。伏兵が早く起とうとした際、忠元・兼寛が団扇で制して好機を待ち、家久が敵中深く引き込むと一斉に挟撃した。相良・菱刈方は大敗し、武将の首百三十六、雑兵の首八百余を数え、討ち漏らされた者は大口城へ籠った。
永禄十二年五月六日 / 冊子 219~220頁
羽月城を守る新納忠元・肝付兼寛から伏兵策への同意を求められた家久が、五月六日に戸神尾・稲荷山へ兵を伏せた。敵が城から出なかったため家久は大口城下で鉄砲を放って挑発し、雲霞のように追う敵を戸神尾西へ誘導、自ら敵首を取った。合図で伏兵が四方から攻め、百三十六人を斬り一人を捕虜として大口方を弱体化させた。
永禄十一年正月~元亀二年九月 / 冊子 241~242頁
永禄十一年正月から元亀二年九月までの北郷家周辺の軍事・外交を日付順に記す。飫肥・酒谷城の伊東方への引渡し、泰心による北郷・肝付和睦、菱刈口での島津方戦死、大口・戸神尾合戦と首級数、肝付との和睦交渉、菱刈番衆派遣、大口城受取などを載せる。末尾は元亀二年九月に伊東方が下河内高小場へ陣を置き、時久が弓箭相談のため供衆を伴って鹿児島へ参上したと記す。