島津義久譜
天正三年四月廿一日 / 冊子 435頁
天正三年四月二十一日、琉球使節を慰労するため島津義久が犬追物を催したことを記す。
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『旧記雑録』前編・後編・附録10冊と追録1~8(暫定版)、『旧記雑録拾遺 伊地知季安著作史料集1~9』『家わけ1』(暫定版)、関連史料(外伝)『島津世禄記』の46,754件を横断検索できます。検索範囲は史料群・巻を組み合わせて選べます。結果は50件ずつ表示します。
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天正三年四月廿一日 / 冊子 435頁
天正三年四月二十一日、琉球使節を慰労するため島津義久が犬追物を催したことを記す。
天正三年四月廿一日 / 冊子 435頁
琉球使節慰労の犬追物手組で、義久・歳久・征久ら射手の配置と射犬数、検見・喚次を記す。琉球衆の桟敷を馬場西北の犬橋辺に設け、雪辱和尚も同席した。天界寺南叔が漢詩を作り、雪辱・東雲以下が和韻し、義久ら一族は和歌を詠んだ。本文日付は天正三年四月二十一日と読める。
天正三年四月廿一日 / 冊子 435頁
琉球使節を慰労する犬追物で、使節の桟敷を馬場西北の犬橋辺に設け、雪辱和尚が同席した。天界寺南叔の漢詩に雪辱和尚・洛陽人東雲以下が十首を和し、義久・不断光院・浄光明寺・珠玄・珠長ら一族が和歌を詠んだ文化的接遇を記す。
天正三年四月廿一日・冬 / 冊子 435~436頁
天正三年四月二十一日、琉球使節慰労の犬追物で島津征久が二の角に立ち、犬十一匹を射たことを記す。さらに同年冬、亡父心翁大安大居士の追福のため廻の坂傍に石塔を建て、一寺を創建して大安寺と号した。
天正17年8月21日 / 冊子 451頁
島津竜伯(義久)が大慈寺へ、琉球へ渡り、琉球使節とともに帰着して上京する運びとなった働きを喜び、先年の豊州方面での度重なる苦労も賞した。 これらの奉公と大慈寺の懇望を受け、同寺の寺役を天正十七年から十年間免許した書下。島津氏の琉球外交・豊州出兵と寺院保護が結び付く史料である。
(寛永十一年)閏七月八日 / 冊子 442頁
酒井忠勝・土井利勝が、琉球使節の将軍拝謁を翌日の四時分と定め、将軍が長袴で臨むため心得て登城するよう島津家久へ伝えた奉書。
(慶長十年)十二月五日 / 冊子 39~40頁
山口直友が島津忠恒(奥州様)に、南部酒二樽を進上するとともに、平戸へ琉球船が寄港した件について差し上げられた使節二人から御書と口上の趣旨を承り、忠恒の内意どおり使者を本多上野介(正純)のもとへ派遣して関東へ伝えたと報告した書状。上意を受けた後に返事があるはずなので、改めて申し上げるとする。また、石船が忠恒の配慮によりようやく出来上がりつつあることを喜び、引き続き油断なく進めるよう求める。忠恒から贈られた経筒形の花入への謝意を述べ、詳しくは使節二人と相談したため細筆を省くとする。
十二月十二日 / 冊子 494~495頁
琉球人の日光参詣に伴い島津光久が登山したことを日光門跡が聞き、寒中の苦労をいたわって干柿一箱を贈った旨を取り次いだ六角杢頭書状。
(寛永三年)四月廿八日 / 冊子 7~8頁
島津家久が中山王尚豊へ、見舞いの書状と目録記載の贈品に礼を述べた書状。三月に帰国したが、徳川秀忠・家光の上洛に伴い再び上洛する予定を知らせ、琉球使節が明へ渡って従来どおりの関係を確認したことを喜ぶ。
年月日未詳 / 冊子 24~26頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0038
琉球使節の行列・供揃を図式で示す。国頭按司の乗物、琉球衆三十人の乗馬、琉球供衆、薩摩側の案内・警固に関わる諸役、与力小荷駄衆、道具衆等の配置と人名を複数段に列記する。
享保三年九月十一日 / 冊子 359頁/整理ID 956
島津吉貴が琉球使節を伴って参勤するに至った経緯を述べ、九月十一日の出発と江戸へ向かう道中での使節の動向を記した記事。
享保三年十月十四日 / 冊子 361頁/整理ID 965
十月十四日の豊前大里到着から、吉貴と琉球使節が海路を進み、播州坂越を経て大坂に至る旅程や乗船の事情を記した記事。
享保三年閏十月十四日 / 冊子 364頁/整理ID 977
吉貴が琉球使節とともに大坂を発ち、翌十五日に伏見へ着き、随行の船や使節の警衛を記した記事。
享保三年閏十月十八日 / 冊子 365頁/整理ID 980
吉貴が琉球使節を率いて伏見駅を出発し、江州・濃州・東海道を経る道中で駅馬百匹と担夫四百五十人を手配したことを記す記事。
享保三年十一月八日 / 冊子 369頁/整理ID 989
十一月八日に吉貴が琉球使節を率いて江戸の芝邸へ着き、翌九日に久世重之の来訪を受け、使節側も拝謁して先例どおり献品した経緯を記す記事。
享保三年 / 冊子 369~370頁/整理ID 990
岩倉・梅園が薩摩守へ、琉球使節を伴って参府したとの知らせを喜び、無事と将軍への御礼について述べる仮名消息。月日は本文に明示されない。
享保三年 / 冊子 372~373頁/整理ID 1000
岩倉・梅園が薩摩守へ、琉球使節を伴う登城と御礼、廩米二千俵の拝領を喜ぶ仮名消息。月日は本文に明示されない。
享保三年 / 冊子 374頁/整理ID 1003
吉貴が琉球使節を伴って薩摩を発ち江戸へ着き、吉宗への参勤御礼と使節の謁見、吉貴・継豊の登城や献品が行われた経緯を記す記事。
享保三年 / 冊子 374~375頁/整理ID 1004
吉貴・継豊と琉球使節が十一月十三日・十五日に登城して吉宗に拝謁し、薩摩の献品や琉球使節の進物を差し出した経緯を記す御譜中の記事。
享保三年十二月~享保四年三月 / 冊子 385頁/整理ID 1036
前年十二月二日に越来王子ら琉球使節が江戸を発ち、東海道を西へ進み、当年二月六日に薩府へ着き、同三月十九日に琉球へ帰った経過を記す記事。
天明七年丁未十二月 / 冊子 1005頁/原整理番号 2706/整理ID 2706
近年に琉球使節が来る事情を大家が考慮し、斉宣の鎮火番を特に免除して、細川越中守を代役としたと記す。天明七年丁未十二月の記事である。
年月日未詳 / 冊子 581頁
琉球人が殿中へ参上する際の作法、新納殿名の披露、忠幸の祝儀など、御屋形での儀式・応対事項を掲げた式事目録。
天正三年正月~十二月 / 冊子 395~428頁
天正三年正月から十二月までの上井覚兼日記抜書。年始儀礼・椀飯、重要政務五箇条、下大隅・菱刈の移衆と所替え、三月の犬追物、琉球紋船使節との先規違背・進物をめぐる交渉、寺社・地頭職・所領配当、肝付氏の後継と伊東氏との断交、近衛前久の来薩準備、歳末の福昌寺事件など、家中政務と儀礼・外交を日次で詳述する。
天正17年11月15日 / 冊子 454頁
島津義弘が、琉球への渡航で国のために尽力し、無事帰朝して上洛まで果たした大慈寺関係者の功績を認めた書下。 その褒賞として大慈寺の寺役を十年間免除し、外交使節を担った寺院の負担軽減を承認している。
年月日未詳 / 冊子 337頁
島津家久譜の記事。尚寧王が中山へ帰国した後、琉球から明国へ旧例どおり使節船を派遣し、山川着岸後に山口直友を介して進貢使節・護送・進貢品などを取り扱ったことを記す。
(元和元年)正月十一日 / 冊子 570頁
琉球から中国へ派遣された船が帰朝し、家久が早々に報告して砂糖百斤・焼酎など三種を進上したことに謝す。献上品を披露し、将軍が喜んだ旨を伝える本多正信書状。
(元和元年)六月廿六日 / 冊子 595~598頁
長雨による帰国の遅れを案じつつ、幕府への奉公、領国内の人馬・軍役、大坂落人の捜索、琉球の銀納・進貢、国元の統治と諸国情勢など多数の案件を条項別に指示・報告した島津惟新の長文書状。
(元和元年)閏六月十六日 / 冊子 601頁
六月二十六日付の書状を七月十五日に受け、大坂落人と領内諸島での捜索・処置、城破却、幕府への奉公、琉球から帰る船と国元への連絡などを条項別に報じた島津家久の書状。
(寛永六年)二月廿一日 / 冊子 83頁
島津家久が中山王に、前年九月に江戸へ出立し十月下旬に帰国したこと、江戸での首尾が良かったことを報告する。六月十四日付の書状を披見した旨を述べ、琉球側からの贈物・使節に謝意を示して今後の交流を伝える。
(寛永六年)二月廿一日 / 冊子 83頁
島津家久が中山王に、前年春の祝儀使と贈物への礼を述べ、年金武王子・江薫之方らに関する知らせを受け取ったことを伝える。今後も双方の誠意ある往来を望み、細部は下野守へ申し含めたとする書状。
〈宝暦二年〉十一月八日~十一月九日 / 冊子 374頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書1133
宝暦二年壬申十一月八日、重年が琉球使と従者を率いて大坂の仮館を出発し、川をさかのぼってその夜は枚方に泊まり、翌九日に城州伏見の仮館へ着いた記事。諸役人が船を出して河流に沿って配置し、琉球使の船を警衛させる扱いは先の行程と同じであった。重年は伏見の仮館で二日滞在した。
年月日未詳 / 冊子 284頁/整理ID 753
吉宗の将軍就任を受け、琉球の賀使を江戸へ迎える件について、吉貴が戸田忠真に事情を伝え、幕府へ取り次いだことを記す記事。
「寛永廿一年」九月三日 / 冊子 349~351頁
町田久則・山田有栄の連署覚書。琉球使節の江戸参府・帰国に伴う神奈川・小田原・箱根・三島などでの宿泊、洪水時の渡船、道中警固、荷物輸送、医師手配、諸役人への挨拶・贈答と返礼を詳細に記す。各地の代官・宿役人・家老との折衝、旅程上の便宜、金武・国頭両王子への供応や人員配置を列挙した道中事務記録。
寛永廿一年九月廿五日 / 冊子 356頁
島津久通外三名の連署覚書。琉球使節が江戸で無事に拝謁し、中山王や使者が拝領物を受けたことへの御礼として、翌春から夏の間に中山王から島津光久へ使者を派遣するよう指示する。将軍・若君と幕府年寄へ進上する品数・書状・使者の作法を示し、過重な品は避けるよう定める。
享保三年十一月十一日 / 冊子 372頁/整理ID 998
十一月十一日、吉貴が琉球使節を伴って江戸に登城したことにより、廩米二千俵を賜った経緯を記す記事。
享保三年九月~享保四年二月 / 冊子 385~403頁/整理ID 1037
琉球使節の将軍代替拝賀に関する参府・登城・口上、御目見、饗応、音楽、帰国時の御礼を収める集合資料。個別文書は目録1037-1~1037-11。
〈寛延元年〉十一月十四日~十九日(伏見到着十九日) / 冊子 111頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書0329
宗信が寛延元年十一月十四日に坂越を出て、陸路で尼ヶ崎へ行き、大坂港で琉球使節の船と会った経過を記す。龜井隠岐守茲胤・松平周防守康福・松浦肥前守誠信が台命を受け、河船三艘と小艇四十艘を用意し、輸送と船の警護に当たった。宗信は大坂の仮館で三日休み、注には島津加賀守忠雅の仮亭に泊まったことを記す。十八日に宗信が使節・従者を率いて大坂を出て淀川を遡り、その夜は枚方に泊まり、翌十九日に伏見の仮館へ着いた。伏見では二日休み、諸有司の船が前例どおり警護した。
〈寛延元年〉十一月二十二日 / 冊子 112頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書0333
宗信公御譜は、宗信が琉球使節を率い、十一月二十二日に伏見の宿所を出て江州・濃州を経る東海道を東へ進んだと記す。道中のため伝馬百匹と担夫六百二十四人を給された。
〈寛延元年〉十二月十一日~十三日 / 冊子 115~116頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書0346
寛延元年十二月十一日、宗信が琉球使節と従者を率いて江戸の芝邸へ着き、夜に堀田相模守正亮の屋敷へ赴いて将軍家の安否を伺い、吉宗・家治に関する執政の屋敷も訪れたことを記す。十二日には上使本多伯耆守正珍が芝邸で遠来をねぎらい、宗信は各執政に謝礼した後、登城して黒書院で家重に拝謁し、述職の礼を述べた。家重には太刀一腰・白銀五十枚・白縮緬二十巻・馬二匹、吉宗には太刀一腰・白銀五十枚・馬一匹、家治には太刀一腰・馬代白銀一枚・紗綾五巻を献じた。家治への献上には島津兵庫久門の太刀一腰・馬代白銀一枚、家老鎌田典膳政昌の太刀一腰・馬代白銀一枚・紗綾二巻も記す。十三日に再び登城し、白書院で四位上中将への叙任の礼を述べ、西城でも謝礼した。同日、上使の大目付河野豊前守通喬が芝邸へ来て廩米二十俵を賜った。
寛政2年9月6日~12月23日(本文) / 冊子 14頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書0035
琉球使節を伴う島津斉宣の参府と登営・朝謁を記す記事。寛政2年9月6日に府城を発ち、斉宣は向田から陸路、琉球使節は船で赤間関へ向かう例に従い、定めた日に大坂で合流した。11月21日に使節を連れて芝邸へ入り、将軍は松平和泉守を遣わして慰労した。25日に朝覲の礼を行い、27日には松平伊豆守信明から官位の昇進を伝えられ、従四位上・左近衛中将に任じられる。また山田肥後守を使者として廩米二千俵を賜る。12月朔日に昇進の恩への御礼、2日に琉球使節を伴う朝謁、5日に再度の朝謁と宴楽、15日に黒書院での朝謁を記す。23日には家斉の御内書によって時服三十・鯛一匝を賜り、歳抄を賀したとする。
寛政4年1月18日(本文。前年5月の経緯を含む) / 冊子 31頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書0101
島津斉宣の参勤時期を延ばす特命に対する重豪の御礼を記す記事。前年寛政3年5月に斉宣が帰国の告を賜って今年の朝覲時期を伺ったところ、琉球使節を率いた特例として通常の時期を延ばし、秋7月に江都へ到着するよう老中奉書で命じられたとする。斉宣は使者を遣わして謝恩し、寛政4年正月18日には重豪も留守居を老中各邸へ遣わして優命への御礼を述べたと記す。
寛政4年(本文の壬子。前年5月からの経緯を含む) / 冊子 34~35頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書0113
島津斉宣が参勤を前に、父・重豪に引き続き国政を介助するよう請い、重豪が辞退を重ねた末に承諾した経緯を記す記事。前年辛亥5月に斉宣が帰国の告を賜って次の朝覲時期を伺うと、琉球使節を率いた特例として時期を延ばし、翌年秋7月に江府へ到着するよう老中奉書で命じられたとする。記事の壬子年には斉宣が夏5月に参勤のため発つ予定で、重豪の帰国後にも国政の助勢を求めることが今秋の願いに含まれていると説明する。斉宣が襲封してから弱冠のため重豪が聴政を助けてきた一方、重豪は客年の帰国前に、介助を始めて5年となり斉宣も成人・婚儀を経たので、以後は専ら政務を委ねる意向を示していた。斉宣と家老の再三の願いに、重豪は自分の辞退により士民が不安を抱くことを恐れ、介助の名目は認めたが実務は退いたままであったとする。今回も名だけの聴政はかえって支障になり、自分の勤務や国政の要点について相談するだけなら従来も心を尽くしているとして辞退したが、再び願いに従ったと記す。
年月日未詳 / 冊子 335頁
島津久通譜の記事。将軍家男子誕生の慶賀を申し上げるため琉球国王尚賢の使節が遠海を渡り鹿児島へ到着し、島津光久に随って江戸へ参府した経緯を記す。将軍・若君・光久・幕府要人へ献じた銀・金・香木・織物・酒・器物などの進物を詳しく列挙する。
年月日未詳 / 冊子 335頁
北郷久加譜の記事。正保元年四月、島津光久が琉球国中山王の使節を伴って江戸へ赴いた際、北郷久加も供奉したことを記す。
「正保元年」八月五日 / 冊子 346~347頁
寛永二十一年に正保へ改元され、禁裏御所の造営が命じられたことを記したのち、島津久通・北郷久加・山田有栄の連署書状を収める。若君誕生を太平の慶事として琉球に祝賀使節を命じ、金武・国頭両王子が薩摩から江戸へ参府して将軍家へ拝謁し、日光東照宮にも参詣した経緯を述べる。帰国する使節に銀子・衣服・織物などを与え、中山王・三司官へ国政を正し邪僻を改めるよう申し渡す。
正徳三年三月廿八日 / 冊子 84~85頁/整理ID 198
近衛基熙が薩摩守に、翌年の琉球人の関東参向に伴い当年の参勤を延引するとの知らせを承知し、重ねて祝意を伝える。
正徳三年四月十六日 / 冊子 86~87頁/整理ID 204
近衛家久が薩摩中将に、翌年の琉球人の関東下向に伴い当年の参府を延引するよう命じられたことを承知したと返答する。
〈寛延元年〉九月十五日 / 冊子 106頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書0307
宗信公御譜は、宗信が琉球使に続いて九月十五日に乗船し、十七日に家船が出港したと記す。北風が強く航行できなかったため久見崎で陸に上がって宿泊し、その後再出港して西海へ向かった。
享保三年 / 冊子 373頁/整理ID 1001
た澤ら五名が薩摩守へ、琉球使節の御目見えと廩米二千俵の拝領を喜び、丁寧な通知に礼を述べる仮名消息。月日は本文に明示されない。
年・月・日未詳 / 冊子 385~394頁/整理ID 1037
琉球使節が将軍の代替を拝賀する参府に関し、船での移動、江戸城への登城、御目見の席次・礼法、献上品と随行者の勤務を細かく定める。