新納忠元書状
四月廿六日 / 冊子 31頁
新納忠元が、頼って来た走者の身の振り方について鎌田玄蕃へ回答した書状。本人の進退と行末をよく確かめたうえで内々に相談するよう求め、園田狩野介が祈答院へ出向いて不在のため、十分な返報ができない旨を伝える。
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四月廿六日 / 冊子 31頁
新納忠元が、頼って来た走者の身の振り方について鎌田玄蕃へ回答した書状。本人の進退と行末をよく確かめたうえで内々に相談するよう求め、園田狩野介が祈答院へ出向いて不在のため、十分な返報ができない旨を伝える。
三月十三日 / 冊子 31頁
新納忠元が、鎌田玄蕃允から届いた書状の日付と到着日に隔たりがあることを不審とし、眼病のため印判を用いたと断った書状。同名の外記殿の内衆について以前に返答していたが、外記殿の急逝後に事情が改まったため、本人の申し分を十分に聞き届けるよう求める。
十一月十二日 / 冊子 415頁
喜入季久が真木嶋玄蕃頭・一色式部少輔入道へ、入洛調略について内書を下されたことを頂戴し、冥加至極と謝意を表すとともに、沈香十斤と段金一端を進上して披露を求めた書状。
(天正13年)4月26日 / 冊子 50~51頁
久しく音信が途絶えていたところへ御内書を受け、島津義久が丁重に拝領の礼を述べた返書。入洛の企てを祝し、遠国のため力は限られるが、命令に従って忠勤を尽くすので、諸事の取り次ぎを依頼したいと伝える。返礼として打刀一腰と沈香三十斤を贈っており、中央の仲介者との関係を贈答によって固めたことが分かる。
二月廿三日 / 冊子 31~32頁
新納忠元が、長菊殿の被官をめぐる再度の問い合わせに答えた書状。当人は暇を得て日向へ赴き不在なので、帰還後に存分を聞いて返答するとし、以前に外記殿から成敗の内意を承っていた経緯も踏まえ、事実を聞き届けた後に相談すると伝える。
六月廿八日 / 冊子 396~397頁
山口玄蕃頭宗永が島津義久へ、渡海の時期と船の手配、朝鮮からの撤退経路、小西摂津守らの動向、兵庫頭の滞在などを伝え、無事の帰陣を願った書状。
兼務と東京先着は辰九月、任玄蕃頭は9月4日、周知は明治元辰10月20日 / 冊子 612頁/原整理番号 786/整理ID 786
通達留に小松に関する三つの命と備後の周知を収める。明治元辰九月の行政官の達は、小松帯刀に当官のまま外国副知事を兼務するよう命じる。辰九月四日の宣下は玄蕃頭に任じ、辰九月の行政官の達は小松玄蕃頭に東幸御用のため東京へ先着するよう命じる。備後はこの通り命じられたとの知らせを受け、向々へ周知するよう求める。末は朱明治元辰十月二十日。任命と兼務・先着の指示であり、九月の命を十月二十日発給としてまとめたり、実到着済みとしたりしない。
正月十一日 / 冊子 186~187頁
豊臣秀吉が正月朔日付の注進を十一日に受け、唐人・朝鮮勢が蔚山へ進出し、日本諸将が迎撃に向かったことを承知した朱印状。諸将に相談して敵を一人も漏らさず討ち果たすよう命じ、安芸中納言・増田右衛門尉・因幡衆・大和衆・紀伊国衆・但馬衆・九鬼大隅らを増援として順次派遣すると告げる。今後の戦況報告を待ち、その注進次第では秀吉自身も渡海するとした。
年月日未詳 / 冊子 89頁
竹原山敗戦後に敵勢が大牟礼山麓へ進んだ際、川上久朗が七尺三寸の大太刀を振るい、滝聞越後・河野玄蕃が槍で応戦して撃退した。非常時で公的恩賞がなかったため、久朗が私領を両名へ与え、のち検地時に返還された経過を記す。
永禄十一年三月廿三日 / 冊子 195~196頁
永禄十一年三月二十三日、球磨・大口・入来院・祁答院・東郷勢が曽木城を攻めたが、城将宮原景種・越中守と佐多勢が防いだ経過を記す。敵は曽木を退いて市山城へ向かい、負傷療養中の新納忠元が出陣して白坂口を守った。さらに永福寺口で本田掃部兵衛尉・河野玄蕃允・長谷場菊四郎らが防戦し、敵将を鉄砲で倒して退却させた。
元亀二年十一月廿日以後 / 冊子 310頁
瀧水合戦後、平田美濃守が従軍者を伴って鹿児島へ参上し、島津義久から異例の武運を賞賛された。伊地知方使僧の証言により、白檀磨きの鎧武者は老臣伊地知伊賀守、戦死者は馬場玄蕃・田上助左衛門と判明した。勝部与左衛門の鉄砲技量や田上兄弟の武名、のち禰寝重武が帰順して逃走者の姿を証言したことも記す。
天正四年八月 / 冊子 502頁
高原城を詰めた際、友野元真が市来玄蕃左衛門・谷山佐渡介・四本越中守とともに垂之口から城を越え、敵方の肥田木河内守と対した奉公を記す。
年月日未詳 / 冊子 214~215頁
七月二十九日以降、島津義久が豊後侵攻を見据えて川田駿河守らを派遣し、筑後・筑前の諸勢力と城々を処置した経過を記す。和田玄蕃助の帰参、筑紫上野介・蒲池氏・西牟田氏らの帰順、高良山や周辺諸城への入城・警衛、立花方面に兵を残す配置を列挙する。諸氏の服属が一度に完了したのではなく、使者・人質・守備兵の配置を重ねながら豊後への進路を整えたことが分かる。
年月日未詳 / 冊子 237頁
十月十日、北郷忠虎が府内から豊前境へ至る方面の軍に加わり、南郡へ攻め入った経過を記す。鳥嶽城攻略では先陣の兵が城内へ登り、忠虎方も指揮して敵を討ち取ったが、家臣の津曲玄蕃兼詮と前原弥七郎国実が戦死した。高崎城の記事ではなく、豊後侵攻中の鳥嶽城攻めと北郷家臣の犠牲を伝える戦功・戦死記事である。
天正16年9月18日 / 冊子 416~417頁
小早川隆景が中納言秀長に供奉して到着したことを知らせ、島津領国の用件を説明する使者を一人派遣するよう義弘へ勧める。 石田三成との内談が可能であること、翌月中旬に秀長が上洛し山口玄蕃頭が供奉する予定も伝えた、豊臣政権への取次書状。
慶長九年正月十四日 / 冊子 924-925頁
御蔵分の衆中借用額を日付・名義人・受取人別に列記した注文。慶長七年から同九年正月にかけての貫文単位の金額を記し、御祈念、御遊などの用途を含む。関玄蕃允以下、多数の担当者・受取人を掲げる会計記録。
二月廿九日 / 冊子 412頁
二月二十九日、島津忠嘉が鎌田左京亮へ、高麗入・大脇の二所をめぐる安楽五郎左衛門と鎌田玄蕃助の所領争いについて、両者を召して熟談・調停するよう求めた書状。
慶長十八年九月九日 / 冊子 412頁
慶長十八年九月九日、安楽某が所領を自力で確保した経緯、前年の陳述、鎌田玄蕃助への付託、島津豊後守への申訴などを列記した所領争論の覚書。
(慶長十八年)十月十五日 / 冊子 420~421頁
慶長十八年十月十五日、奈須祐金が伊勢兵部少輔へ、高橋同名玄蕃父子が討ち果たされた件と遠路からの見舞いに触れ、紀州・日向境の山を守ってきた経緯を述べ、今後の憐愍と取成しを求めた書状。
寛永元年五月八日 / 冊子 817頁
市来惟清が、島津家久の伴右衛門屋敷への御成りと連歌会に又三郎・又十郎も若年時に同席し、鎌田源八が執筆を務めたため、懐紙を子孫まで秘蔵するよう記した覚書。併せて、当日の膳・汁・魚・菓子などの献立と、座奉行を務めた国分十右衛門・相良玄蕃允らを記録した。
十二月十四日 / 冊子 18頁
安楽兼惟が、自力で高麗へ渡って鎌田主助のもとで二年奉公したこと、鎌田玄蕃に従って出陣し惟新の帰国に供奉したことを列記した申状。奉公の認定を豊州・惟新へ求めたものの、隠居や談合未決、中納言様・薩州様の上洛で返事が延びたため、今度は地頭を頼って披露と取り成しを願う。
八月二日 / 冊子 67頁
島津久慶と島津久元が、八朔に献上する太刀・馬の先後争いについて連署した書状。玄蕃頭との席次・進上順を黄門様が先例に基づいて裁定すること、双方が証文を提出し、東郷肥前守を介して決着させることを伝える。
八月二日 / 冊子 67頁
島津久元が新納仲左衛門尉に、八朔の太刀進上をめぐる玄蕃との先後争いについて知らせた書状。又八郎から届いた書状を確認し、御殿の丁寧な意向を承知したとして、関係者へ適切に披露するよう求める。
十一月二日 / 冊子 408頁
島津龍伯が兵庫頭へ、使者を亀山へ送り和田玄蕃助を添えて返事を待っていることを報告する。南蛮船の件で使僧を差し上せ、治少の濃州検地、三兵の判断、船元や幸侃をめぐる申し入れについて、念を入れて納得させることが肝要だと述べた書状案。
九月十八日 / 冊子 52~53頁
中納言殿に供奉して一両日前に下着したと報告し、入国祝儀の使者を一人差し出すことを勧め、石田三成とも内談したうえで、中納言の翌月中旬の上洛予定と山口玄蕃頭の供奉を伝えた書状。
年月日未詳 / 冊子 163頁
寛永五年正月二十七日、江戸の中納言家久から大野勝監・高崎玄蕃頭を使者として比志島宮内少輔の意向が悪いと申し渡し、二十九日に熊之岳へ入寺させ、二月七日に谷山から遠島へ送った経過を記す雑抄記事。
元禄五年四月九日 / 冊子 880頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書2379
綱貴が大久保玄蕃頭方へ、関所手形を申請する際は、家来阿多六太夫が伊勢十兵衛・赤松甚右衛門と同様に届けるので、しかるべく差図を願うと述べる。
元文二年七月十八日 / 冊子 456~457頁/整理ID 1087
島津吉貴が島津玄蕃に偏諱の一字「貴」を与える。
元文三年十一月十一日 / 冊子 515頁/整理ID 1263
堀四郎太夫・頴娃左京・樺山主計らの連署書付。玄蕃・壮之助・兵庫の三家を一所持から離して別格の「一門」と称すること、家督時の席次、玄蕃嫡子小源太への「殿」称を定め、三家に申し渡した。
永禄十一年三月廿三日 / 冊子 196~197頁
永禄十一年三月二十三日、相良・菱刈・入来院・東郷・祁答院勢が曽木城を攻めた際、宮原景種・越中守と佐多山城守らが防戦したことを記す。敵は攻めあぐねて市山城へ転じたが、手傷を負っていた新納忠元が白坂口へ出て迎撃し、永福寺口でも本田掃部兵衛・河野玄蕃允らが戦ったため退いた。
天正元年正月六日~十一月 / 冊子 296~297頁
天正元年の島津方戦死者を日付別に列記する。正月六日の住吉原合戦で河野主税良次・田原大蔵信秀ら、三月十八日の西俣合戦で禰寝重長臣野間武藤守以下約三百人、早崎関係では肥後平次郎・桑波田孫太郎・河野玄蕃允らを掲げるほか、七月・十一月などの戦死・殉死者を多数収録する。
元亀二年十一月廿日 / 冊子 308~310頁
伊地知重興が肝付・禰寝・伊東方と結び、三百余艘で鹿児島湾へ侵入した海戦を詳述する。鹿児島では伊集院善左衛門が鉄砲で戦死したが、帖佐地頭平田美濃守ら約五十人が瀧水の要害を守り、勝部与左衛門が鉄砲で馬場玄蕃・田上助左衛門らを倒した。敵は上陸を断念し、島津家久の指揮する瀬戸村も避けて下大隅へ退却した。
天正四年 / 冊子 471~472頁
天正四年、高原・小林の守備配置と境目の治安維持を記す。上野隼人佐が小林、のち吉田へ移され、内山出雲守・木嶋玄蕃らと野心ある者を討ち、求麻から来た牢人も白坂右近将監とともに討ち取った。
年月日未詳 / 冊子 184頁
『朝鮮日々記』から、新納勘解由の内衆が古仙界の山で鹿狩り中に虎と遭遇し、射止めて御城へ持参したため、褒美として「虎兵衛」の名を与えられた記事。あわせて、漢南から大軍が出たとの風聞を受け、古丸・晋州・猿羽見へ相良玄蕃、寺山四郎左衛門、川上休右衛門らを物見・警固として配置したことを記す。
萬治三年十一月七日 / 冊子 335~340頁
出水浄円寺の関介が所持していた書物について、伊藤玄宅が自らの記憶と異なる点を挙げながら朝鮮海戦の経過を詳述した覚書。相良玄蕃・川上六郎兵衛らの戦闘、忠恒・惟新の座船と諸船の配置、敵の火攻め、焼失船、夜間の救援・退避、漂流者の収容などを具体的に記し、関介の記録との差異は大略の証言であると断る。
(元禄二年)八月十八日 / 冊子 839頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書2220
島津綱貴が関所担当の四名へ、家来の母と下女の計二人を国元へ送るにあたり、関所切手を調えてもらったことへの礼を述べた書状。
元文二年九月十六日 / 冊子 469頁/整理ID 1124
島津吉貴から授けられた一字を永く用い、名の書付を記録に留めるよう島津久貫が申し渡す。
延享元年十月 / 冊子 783頁/整理ID 2048
御時服の牡丹紋を拝領し、嫡流が以後代々、望む時に使用してよいとの上意を樺山主計久初が伝える。別の書付には十文字紋は従来どおり、桐紋は大玄院の代から拝領してきたことを記し、今回の牡丹紋拝領を後代へ知らせるよう求める。
延享元年十月 / 冊子 783頁/整理ID 2049
牡丹紋の拝領に伴い、十文字紋はもとから使ってきたこと、桐紋は大玄院の代に拝領したこと、島津周防には桐之丸の紋が許されたことなどを記す。今回の牡丹紋拝領の由来を後代に伝えて、紋の使用を取り違えないようにする。No.2048の牡丹紋拝領の申渡しに続く説明である。
享保七年四月二十二日 / 冊子 534頁/整理ID 1378
松平大隅守が国元への御暇に際し、男子がいないため、在国中の不慮に備えて十五歳の弟島津玄蕃を養子とする許可を願う。三名の幕府役人の宛名を伴う。
文化3年3月3日(本文・包紙) / 冊子 261頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書0842
この節出生した男子を、長門殿の嫡子嶋津玄蕃殿の養子と仰せ出されたので、帳面へ記置くよう命ずる。長門に貴品、玄蕃に貴明の注、3月3日・信濃署、御記録奉行宛、白木御文書七番箱中21番。包紙は同じ養子仰出の御書付1通を文化3年寅3月3日に信濃殿から渡されたと記す。目録は頴娃久喬申渡書。同節出生の具体日や母の名は本文にないため、後続系譜の情報と本文記載を分ける。
寛正七年二月晦日 / 冊子 459頁
鹿屋氏文書に伝わる犬追物手組で、島津立久を中心に鴨津氏・伊東氏・蒲生氏・野村氏らを左右の組に配し、騎数を列挙したもの。
(永禄十二年頃) / 冊子 224~225頁
島津忠良(日新)に加世田で仕えた人々を列挙した交名。大田・稲富・玉利・奈良原・鹿島・河崎・指宿・中条・富松・阿多・有馬・宮原・鮫島など多数の家臣名を掲げる。後世の奥書は村田市助の写本で、日新没後に子孫が鹿児島その他へ移住した者も多いと説明する。
天正元年九月廿七日~十一月中旬 / 冊子 317頁
天正元年九月二十七日の早崎・咲花平着陣と小浜城攻略を詳述する。島津方は激戦の末に城柵を破り、伊地知美作守を退去させたが、伊集院久春が重傷、肥後平三郎らが戦死した。牛根城包囲中の野戦では白胴服の武者が単騎で敵首を挙げ、周囲を叱咤した逸話を載せる。肝付領の通路を遮断するため、十一月中旬に歳久・以久を大将として平床へ陣を進めた。
天正元年 / 冊子 318~319頁
天正元年九月二十七日の小浜城攻略から牛根城包囲、早崎陣夜襲までを記す。小浜では敵百余人を討ち伊地知美作守を退けたが島津方にも戦死者が出た。諏訪神事で主力が帰還した隙に肝付勢が山道から陣へ侵入すると、留守将島津家久は少数を励まし、島津忠良の教訓歌を唱えて敵中へ斬り込み、河南安房守らを討って敵を牛根へ退けた。
天正二年七月廿日 / 冊子 342頁
天正二年七月二十日に催された『賦何船連歌』の連衆交名で、義久をはじめ僧俗の参加者と役・句数を列挙する。発句『ふく風やこ与ろの秋のま莱右』を掲げる。
天正二年十二月 / 冊子 348~349頁
天正二年十二月、志岐氏が肝付氏帰順の祝詞と進物を届け、義虎・天草氏の和平を仲介した。同行者が吉野で殺害され、犯人二人が福昌寺に逃げ込むと、捕縛の際に坂本吉右衛門が刺されて犯人を斬殺した。代賢和尚が寺の災厄を嘆いて退去したため義久らが慰留し、のち志岐氏へ和平方針を返答して馬・鉄砲を贈った経緯を記す。
(慶長三年)正月廿六日 / 冊子 190~192頁
宇喜多秀家以下十三名が、蔚山での明・朝鮮勢の攻撃を踏まえ、朝鮮在陣諸城の配置と普請方針を再検討して奉行衆へ言上した連署状。蔚山は突出し川越えの難所もあるため、西生浦に加藤主計頭を置き、安芸宰相勢五千を残して普請させる案を示す。順天は大河と遠い干潟のため海陸から救援しにくいとして、小西勢を島津の泗川城へ、島津勢を固城へ移す案を提示するが、小西摂津守・対馬守は同意しなかった。順天・蔚山の普請は下知まで見合わせ、梁山を加徳へ替えて安芸宰相に普請、黒田甲斐守に在番させ、毛利壱岐守を固城在番とし、城主の半役を普請に充てるよう提案する。
(慶長三年)正月廿六日 / 冊子 192頁
本文はNo.367と同文であるため本冊では省略されている。No.367は、蔚山戦後の城配置を見直し、西生浦への加藤勢配置、小西勢の泗川移動と島津勢の固城移動、梁山から加徳への城所変更、黒田甲斐守・毛利壱岐守の在番、城主半役による普請などを提案した十三名連署言上状。旧写と文意に少し異同があるため、改めて写して参照に供したとの注記がある。
(寛永十五年)二月三日 / 冊子 749~751頁
阿久根宿泊に際し、地頭衆の滞在で不自由が予想されるため、四郎左衛門を帰すか地頭衆を戻すか相談するよう指示し、出水までの宿泊・昼休みの割付を別紙で送る。黄門様の容体がこの三日軽快していること、薩州様の船が大雨で遅れていること、迎えの者を順次派遣したことを伝える。天草在番衆に油断なく警戒させ、富岡の状況を詳しく注進するよう求める。軍衆の祈念として六十六本の御神舞を行ったこと、兵粮を積めないため二千余人を召し戻す相談、天草番手を五、六千人とし江戸から三千人を遣わす案、百石につき三人の軍役を記す。さらに琉球船が米二百六十石・上布・焼酎などを積んで山川へ来たため、出水へ回航するよう岩切六右衛門へ指示した。川上久国・三原重庸の連署で、山田民部少輔・島津下野守宛。寛永十五年二月三日付。