伊地知季安覚書
宝暦十二年十一月 / 冊子 63~64頁/原整理番号 33
伊地知季安は、元禄九年の城内火災後の記録所の移転を追う。仮置きした御下屋敷には火災時の文書退避地がないため、文書箱を御本丸へ移し、記録所は御厩内の新御物見へ移ったと記す。翌年には同所の使用期限から新設地を検討したが、結局しばらく御物見にとどまった経緯を、関係者の申出・回答の日付を挙げて説明する。
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宝暦十二年十一月 / 冊子 63~64頁/原整理番号 33
伊地知季安は、元禄九年の城内火災後の記録所の移転を追う。仮置きした御下屋敷には火災時の文書退避地がないため、文書箱を御本丸へ移し、記録所は御厩内の新御物見へ移ったと記す。翌年には同所の使用期限から新設地を検討したが、結局しばらく御物見にとどまった経緯を、関係者の申出・回答の日付を挙げて説明する。
寛永十五年正月晦日 / 冊子 40~42頁/原整理番号 57-2
有馬直純・康純が連署して定めた軍中法度。軍法と大将・物頭の下知への服従、隊列維持、独断行動・油断・無届の鉄砲発砲・馬の放置を禁じ、使番・物見・近習頭・騎馬・足軽・弓・長柄の者の任務、武器の備え、旗の統制を規定する。さらに陣屋での喧嘩・狼藉・押買・濫伐、火の不始末を禁じ、陣屋の清掃、逃亡者の捕縛・届出、小屋留守番、小者の作法を命じる。
(文禄2年)3月13日 / 冊子 678頁
しばらく音信がなかったことを詫び、当地に異変はないと島津義弘へ伝える。前日に「かせんはしま」方面へ物見を出したが唐人は確認されず、ひとまず安心してよいと報告する。 義弘から馬大豆十石の援助を受けたことに深く感謝し、必要があれば「ふさんかい」方面でも用務を引き受けると申し出た、偵察報告と兵站支援への礼状。
(慶長三年正月) / 冊子 182~184頁
島津義弘が朝鮮から送ったとされる仮名書状。唐人が約十里先まで進んだとの急報を受けて物見を出し、事実なら出撃する覚悟を述べる。蔚山では敵が夜襲して二の丸まで攻め上り、浅野左京大夫・太田飛騨守らが本丸に籠もり、加藤清正も西生浦方面から少人数で入城したと報告する。義弘父子も救援に赴く一方、留守勢を残して城を固めることや、使者・便船の手配を伝える。
年月日未詳 / 冊子 184頁
『朝鮮日々記』から、新納勘解由の内衆が古仙界の山で鹿狩り中に虎と遭遇し、射止めて御城へ持参したため、褒美として「虎兵衛」の名を与えられた記事。あわせて、漢南から大軍が出たとの風聞を受け、古丸・晋州・猿羽見へ相良玄蕃、寺山四郎左衛門、川上休右衛門らを物見・警固として配置したことを記す。
(慶長三年)正月六日 / 冊子 184~185頁
島津義弘が、前年十二月二十一日に唐人が加藤主計頭の蔚山新城を攻め、同二十六日に急報が届いたことを伝える書状案。泗川普請に当たる垣見和泉守らも救援へ動くなか、城主は受け持ちの泗川を守るべきだとの指示を踏まえ、義弘父子の一人を留守居に、一人を東方の蔚山救援・見分に向かわせたいと述べる。さらに晋州・固城方面の唐人の動きと、物見・追撃の状況を報告する。
(慶長三年)正月廿七日 / 冊子 192頁
豊臣秀吉が島津義弘・島津又八郎へ、先手から三里・五里の範囲へ毎日物見を出し、敵情を確かめて油断しないよう命じた朱印状。蔚山攻撃では敵の様子を知らず、不意を突かれたような事態になったと戒める。翌年の再出動に備え、敵が半弓を用いるとの情報から半切の楯を多数用意して一人ずつ持たせること、諸城の普請を堅固にして在番することを指示する。
(慶長三年)正月晦日 / 冊子 192頁
長束正家・増田長盛・前田玄以が、No.369の豊臣秀吉朱印状の趣旨を島津義弘・島津又八郎へ伝えた連署副状。先手から三里・五里へ毎日物見を出して敵情を確認し、蔚山のように全く状況を知らず驚くことのないよう警戒すること、翌年の軍役に備えて半弓対策の半切の楯を多数用意すること、城々の普請を堅固にして在番することを重ねて命じる。
宝暦十二年二月十六日 / 冊子 901頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書2646
高橋縫殿と菱刈藤馬が二月十六日、嶋津左中・主鈴へ、八ツ過ぎに松平摂津守の屋敷近くから出火し、悪風のため南の物見に火が掛かって防ぎきれず、藤馬が淨岸院に付き添って高輪邸へ避難したと報告する。御守殿と家回り、本宅・中奥は焼失したが淨岸院は無事で、茶屋でいったん防ぎ止めたものの北長屋に火が掛かり防火に努め、御厩より西の長屋は風上なので心配ないと伝える。至急の飛脚二人を海陸の二手に分けて出したので重豪へ早く知らせるよう求め、御届などの手続は追って申し越すとする。国元への報告は宛先側から行うよう求め、詳しい事情はこちらから国元へ追々知らせると付記する。
文政6年(末尾朱書、月日記載なし) / 冊子 672~674頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1939
島津重豪(松平榮翁)が佐川へ送った書状。帰宅の折に渓山を初め一同が揃い、互いの健康や近親の祝い事、昔の交わりを喜ぶ。目見の節に丁寧な取扱いを受け、御座への案内や拝領品まであったことを謝し、恐れ入った心情を重ねて述べる。渓山初子と孫のことにも触れ、幼年からの厚い世話を振り返り、相手の威光や厚情を忘れないと記す。末尾では十八日に奥へ参上し、御茶屋の御物見なども拝見したこと、子や孫の代まで長く繁昌するよう願うことを述べる。朱書は「文政六年」で月日を欠き、松平榮翁の署名、佐川様宛名がある。
正月廿七日 / 冊子 155~156頁
蔚山戦で敵情を知らず誘い込まれた経験を踏まえ、日々五里・三里先へ物見を出して警戒するよう命じた。翌年の再出兵に備えて敵の弓に対抗する半切の楯を多数準備し、城郭普請を堅固にして在番するよう指示した豊臣秀吉朱印状。
年月日未詳 / 冊子 410~411頁/原整理番号 374の3
岡本・多賀らが城中の一揆発生以来の様子を語り、松倉長門守が防戦した侍を集めて労ったと記す。長門守は千本村の一揆勢を早く攻めようとするが、家老らは敵が大勢で味方の死傷も多いため、上使到着後に相談すべきだと諫め、出軍を止める。翌日、近藤源左衛門を千本村へ、白石市左衛門を尾平村へ物見に遣わしたこと、同日熊本の家老へ書状を送ったことを述べる。
年月日未詳 / 冊子 418頁/原整理番号 381
前日の出軍を止めた松倉長門守が、翌日、近藤源左衛門を千本村へ、白石市左衛門を尾平村へ物見に遣わしたと記す。一揆勢は退去して一人もいなかったため、残された家を焼いて戻り、長門守と江戸から同行した侍たちが残念がったと述べる。二十四日の記事を参照する注がある。
年月日未詳 / 冊子 458頁/原整理番号 443
『藤掛集書』七日の記事。物見の上使衆が温泉山近辺を巡察し、馬場三郎左衛門らが深江村・佐々木村を回って長崎へ戻ったことを記す。鍋島甲斐守らの使者が来たため、出張中の人数を早急に呼び戻すよう命じた経過も伝える。
年月日未詳 / 冊子 223~224頁/原整理番号 333-5
藪図書助と佐分利加左衛門も三の丸一番乗りを申し出たが、その事実は不分明であると記す。未刻、戸田左門の対面所で休息していた上使衆・諸大将は、物見櫓から鍋島勢が出丸へ乗り入ったとの報を受けた。松平伊豆守は自ら櫓に上って確認し、諸勢は騎乗して城へ進み、三の郭へ乗り込んだ。記事後半は長岡佐渡勢の働きを記し、持筒頭らの鉄砲射撃、平破平太夫の一番槍、松野縫殿助・吉弘四郎太夫兄弟の首取りと証人を挙げ、長岡佐渡勢の働きについて杉山次郎太夫の差出があるとする。
年月日未詳 / 冊子 366~367頁/原整理番号 71
忠元が市山から馬越へ戻る途中、敵城の物見がいたため小苗代原へ回り、薬師堂で休んだ記事。壁に詩を書いている間に敵が近づき、家臣が知らせても書き終えるまで動かなかった。丹後幸が鎧を引いて救い、忠元は刀を抜いて家臣と防戦し、身体に六箇所の疵を受けながら敵を討った。忠長らの救援と褒美、続く曾木・市山・永福寺での守備と軍功も記す。
年月日未詳 / 冊子 624-625頁
翌十四日、島津義弘(惟新)・豊久らが空き屋敷の材木を利用して梁に足場を設け、上から赤坂方面の陣容を見物した。自軍の人数を確認するため各人に茅一葉ずつ取らせて数えたところ、三百八十人であったと記す。
(文禄元年)12月6日 / 冊子 617頁
豊臣秀吉が増田長盛・石田三成・大谷吉継へ、来春三月に渡海して一揆を成敗し、仕置を行う方針を伝え、それまで諸城を堅固に守って軽率な動きをしないよう命じた。 中川右衛門大夫が無人の番所へ出て待ち伏せに遭い戦死した件は忠節と認め、弟小兵衛に跡目を許す。一方、今後は物見や弓・鉄砲衆を先行させ、無謀な戦死者には相続を認めないと軍規を示す。
正月九日 / 冊子 185~186頁
島津義弘が河上三河入道へ、前年十二月二十一日の蔚山新城攻撃と同二十六日の報知、その後の救援準備を知らせた書状。泗川の受持城を空けられないため、義弘父子の一人が城を守り、もう一人が諸将とともに蔚山方面へ赴く案を述べる。あわせて晋州・固城・泗川周辺の敵情、物見の報告、在陣衆の動向を伝え、城の守備と東方救援を両立させようとする。
年月日未詳 / 冊子 634-637頁
慶長五年九月十五日の関ヶ原合戦について、朝霧の中での物見の遭遇から東西両軍の布陣、福島正則勢を先頭とする攻撃、西軍諸隊の応戦を叙述する。徳川家康方の総攻撃、小早川秀秋らの内応による大谷吉継勢の崩壊、平塚為広らの戦死を経て西軍が敗走し、島津義弘(惟新)・豊久勢が包囲を突破して伊勢方面へ退いた経過を記す。
年月日記載なし(文政5年吹上観遊一件の附書三) / 冊子 628~629頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書無番号_0116
「御道書写」と題する、No.1875吹上庭観遊一件の附書三。吹上御門から花壇・馬見所・瀧見茶屋を経て、井戸屋形、孟宗竹脇、鳥籠、泉水端胡桃山下道、白鳥堀織殿の鷹部屋、庭入口の門へ至る経路を記す。さらに葡萄棚下・弁天社・八ツ橋・瀧見茶屋前・沢渡・瀧壺前・木屑山鳩腰掛・菩提樹山・地主山高台・なだれ坂・石坂・瀧の宮・楠木屋茶屋・藤棚前腰掛を列記する。末の木戸から小松山、練土腰掛、広芝、諏訪茶屋、紅葉原、六本榎腰掛、沢渡、土筆山、珊瑚山、元馬場・元花壇を通り、二ノ切抜の畑道、新馬場、土橋、新茶屋、三角矢来の物見へ進む。元道の百種紅葉・覆盆子畑・在郷家を経て、新茶屋で暇を告げ半蔵口から退出する。出現順と往復の記載を保持し、年月日・署宛・距離・各地点の時刻は補わない。入力の十月十三日頃は本書自体の日付ではないため、一件内の附書として位置づける。
寛永14年12月22日 / 冊子 501~502頁/原整理番号 507の2
細川光利が肥後家中へ示した陣中軍法の条書。公儀の法度遵守、組頭の統制、旗本を離れないこと、物見・夜間警戒、出陣時の隊列、喧嘩・敵前逃亡の禁止、火事・夜討への備え、馬の徴発禁止などを列挙し、違背者は厳罰に処すと命じる。
年月日未詳 / 冊子 508~510頁/原整理番号 521の1
『平塞録』晦日の記事。上使板倉重昌が諸大将・国々の使者を陣屋へ招き、翌日の城攻めを相談した経過を詳述する。攻撃の延期や兵の損害をめぐる応酬、各軍の陣配置、鉄砲・道筋・物見、城内の動静を論じ、明日城攻めを行うため上使衆の軍令一通を示すところで次文書へ続く。
二月廿五日 / 冊子 199~203頁/原整理番号 321
『天草説書』に記された原城攻めの記事。二月二十六日に予定された城乗りは二十四日夕方から二十六日昼までの大雨で延期され、松平伊豆守は二十八日の総攻めを定めて諸大将を二十七日早朝に戸田左門氏鉄の陣所へ集めた。評定後の濃茶の席で物見櫓番が鍋島勢の突入を告げ、伊豆守が櫓から確認して諸将を各陣へ戻したため、予定外の攻撃に各軍が続いた。本文は鍋島勢の仕寄・竹束・梯子による攻撃、海手や各口からの諸勢の突入、榊原家臣らの戦闘を記す。黒田右衛門佐は天草丸への攻撃で退却しないと誓って諸卒を励まし、黒田美作が機を見て一度の下知で乗り崩したとする。黒田勢の損害は討死二百十三人、手負千余人。細川勢は三の丸を乗り崩して二の丸へ切り入り、酉刻に詰の丸東端を破って九曜旗を立て、敵前に柵木を詰め掛けて夜を明かした。この際の手負・死人は百人と記す。
二月廿五日 / 冊子 203~212頁/原整理番号 322
『藤掛集書』の「二月二十七・二十八日原之城落去之事」。二十七日朝、二十八日の城乗りを評定するため諸大将が戸田左門氏鉄の陣所に集まったところ、物見櫓番が鍋島勢の突入を告げ、松平伊豆守が確認して各将を陣所へ戻したため、諸勢が予定外の攻撃に続いた。本文は、軍法に背いた先行突入への批判、若年の近習・家臣らの戦功と戦死、証拠提出・褒賞の経緯を詳述する。また鍋島勢の先手三千人を二手とする編成、第二陣二千五百人、白布旗、梯子・竹束、海辺に潜ませた水練の達者百人などの攻城準備を記す。黒田右衛門佐が退却しないと誓って天草丸へ攻め、黒田美作が機を見て突入させた記事では、黒田勢の討死を上下二百人、手負千人余りとする。細川勢は二十七日巳の下刻、鍋島勢に続いて三の曲輪を破り、海手から二の丸へ入り、詰の丸東端を攻めて九曜旗を立てた。この時の手負・死人は百人。敵前に柵木を結って夜を明かし、二十八日早朝に四郎の居館へ入って焼き、天草四郎時貞の首を陣野佐左衛門が討ち取ったため、本丸一番乗りとして江戸へ注進したと記す。
年月日未詳 / 冊子 216~218頁/原整理番号 332
『寛明日記』の二月二十七日条。翌二十八日の総攻めを評議するため諸将が戸田左門の陣へ集まり、巳の下刻、濃茶を飲んでいたところ、物見が鍋島勢の攻撃開始を告げた。鍋島信州は自軍が法を背いて軽率に出丸へ攻め込んだことを嘆く。鍋島安芸が出丸に敵がいないのを見て乗り込み、榊原飛騨守ら諸勢が続き、城内各所で戦闘となった。黒田右衛門忠之の攻撃では黒田美作の進言・指揮を経て城へ乗り込み、上下二百十三人が討死したとする。細川勢も鍋島勢に続いて海手から諸郭へ入り、詰の丸東端へ九曜旗を立て、手負・死人は数百人に及んだと記す。占領地を鍋島先手へ渡して後陣を引き取るよう松平伊豆守信綱が命じ、水野作州父子は従い、有馬蔵人は当初拒んだが七、八度の下知ののち寺沢後陣へ退いた。諸勢は二の丸・三の丸まで攻め入り、夜を明かした。