沙弥天用寄進状
永享六年九月廿日 / 冊子 367~368頁
沙弥天用が、島津長門守久俊の御伴料として、薩摩国給黎院下長吉内にある鈴源兵衛の塩屋一宇、三百文相当を伊集院廣済寺へ寄進し、先例どおり知行するよう定めた文書。
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永享六年九月廿日 / 冊子 367~368頁
沙弥天用が、島津長門守久俊の御伴料として、薩摩国給黎院下長吉内にある鈴源兵衛の塩屋一宇、三百文相当を伊集院廣済寺へ寄進し、先例どおり知行するよう定めた文書。
(慶長三年)七月九日 / 冊子 221~222頁
島津義久(竜伯)が島津又八郎に、送られた馬を源兵衛尉・平七らに試乗させた結果を報告した書状。馬はおおむね静かで歩みに大きな難はないが、速歩・駆け足に乏しく自分の好みには合わないと評する。又八郎が望むなら渡し、不要なら返答があるまで預かること、船のことにも油断せず国元へ厳しく申し伝えることを述べる。
年月日未詳 / 冊子 628-629頁
国元から島津義弘(惟新)の陣へ後詰衆が多数到着した際、河田源兵衛と野村弥次郎が曽根の先手で敵を誘い出して交戦し、源兵衛が目立つ騎馬武者を鉄砲で射落とした。本田伊賀守も加勢し、翌朝、石田三成は若年の源兵衛の手柄を賞して腰物を与え、義弘も本田伊賀守へ腰物を与えた。
年月日未詳 / 冊子 659-660頁
慶長十六年夏、文右衛門が島津義弘(惟新)存命中に再会したいとして薩摩へ下り、帖佐宗辰に取り次ぎを頼んだ。本田源兵衛を介して上聞に達し、義弘は文右衛門を召して関ヶ原当時を語り、加治木に留めて饗応した。文右衛門は入道して「一作」の名を与えられ、褒美を受けて帰った。
年月日未詳 / 冊子 34頁
大久保忠隣と本多正信が九月二十五日付の連署奉書を島津忠恒へ送り、領国内にある五百石積み以上の船は商船であっても献上し、淡路国岩屋で九鬼長門守へ引き渡すよう命じた記事。久永源兵衛尉・向井将監も現地にいると伝える。
年月日未詳 / 冊子 36頁
島津家久譜の記事。島津忠恒が、帰国に関する謝礼、平戸に漂着した琉球船の件、領内を検分したものの命令に応じ得る大船がなかった件などを伝えるため、三原諸右衛門尉重種・喜入吉兵衛尉久洪を使節として駿府および淡路国岩屋へ派遣し、各所で事情を述べさせた。詳細は本多正信・久永源兵衛尉・向井将監・山口直友の返報に見えると記す。
寛永六年三月廿六日 / 冊子 92頁
久永源兵衛ら六名が、進上された大小の角石合計百本を確かに受け取ったことを連署して証明した請取状。
年月日未詳 / 冊子 202頁
又八郎の求めに応じて詮議すべき事項として、馬乗源兵衛尉、土井神五郎への役命、樺山権左衛門尉への放中役、村尾の処遇、伊集院忠棟が相良吉右衛門尉を代官に任じた件を列挙した老臣覚書。
(文禄元年) / 冊子 527頁
島津久保が、又八郎を公家に取り立てる件、知音の確保、小嶋屋道察への相談、馬乗・旅中役・代官などの担当者を箇条書きにした覚書。上井神五郎には二役、樺山権左衛門尉には旅中の役を命じるなど、久保周辺の随行・家政・交渉を担う人員配置を具体的に示す。
年月日未詳 / 冊子 698-701頁
大重平六が十四歳で島津義弘(惟新)の朝鮮出兵に供奉した覚書。慶長三年、泗川付近で明軍約二十万が城へ迫るなか、義弘は鉄砲を控えさせて機を待ち、城外へ斬り出して大軍を崩した。敵首三万八千七百余を集め、のち撤退時には小西行長救援や番船との戦闘があり、奪われた義弘の馬印を黒田宅右衛門が敵船から奪還した。
年未詳11月26日 / 冊子 273~275頁/原整理番号 107-15
霜月二十六日、上原大蔵尚演が上原源兵衛へ、先日の来訪時は病中で十分相談できず残念だったと詫び、系図について税所次郎右衛門へ尋ねて改めて報告し、正月の再訪時に詳しく話したいと伝えた書状。尚演は病状が日増しに回復していることも喜んで報じる。朱書の季安按は、この書状と休兵衛自記に系図がないことから、上原氏に系図が伝わらず、藤原流への接続や古文書中の中原姓も後世の誤りではないかと疑い、曽於郡止上権現の社家に古系図が保存されていたものの、季安自身が十六、七歳頃に上原形部へ頼んで見た内容を覚えておらず、古文書との整合も直接再確認しなければ評価できないとする。付属系図は尚敷・尚盛・尚朝・尚治・尚輔らの家督、養子、婚姻を記し、寛永九年の伊豆守の食禄百五十一石、尚敷の百二十二石、万治二年十二月の百三十八石八升などを掲げる。
天明五年夏(月日なし) / 冊子 815頁/原整理番号 2234/整理ID 2234
始羅郡帖佐郷餅田村の農夫・源兵衛は幼い頃から父母を世話し、社の集まりで得た食べ物も持ち帰って父母に差し出した。郷里の人々はその孝行を知り、集まりのたびに父母へ分ける品も用意した。父幸左衛門が安永九年に病没した後も、老いた母を世話し続けたため、天明五年夏に重豪が若干の品を賜って褒めた。
明和七年十月 / 冊子 313~314頁/原整理番号 15-1
播磨国に住む島津源兵衛の願書。先祖の系譜と感状を根拠に島津家との同族関係を訴え、困窮した家筋を取り立てて奉公を許してほしいと薩摩の役人に願い出る。明和七年十月付。
三月廿六日 / 冊子 407頁/原整理番号 187
久永源兵衛らの連署請取状として掲げるが、本文は第46号文書と同文のため省略されている。この箇所だけでは内容を確認できない。
目録年月日記載なし / 冊子 185~186頁/原整理番号 7
瀬戸口源兵衛尉秀勝と姫木家の由緒をめぐる考証。瀬戸口氏の家伝、豊州・清水・姫木との関係、居住地の移動、土地の相伝を古文書や口伝と照合する。
(慶長十年)十一月廿日 / 冊子 39頁
久永重勝が島津忠恒に、段子三端の贈答へ礼を述べ、領内に五百石積み以上の船がないとの報告を駿府・江戸へ伝えるとした書状。十六端帆の船でも五百石を超えるなら淡路へ回すよう指示する。
年月日未詳 / 冊子 188頁
家久の十男・鎌田政勝について、政由・政昭・政道・正信・松千代丸・筑後蔵人などの名、寛永二年六月十三日の誕生、母、鎌田治部政統の養嗣となったこと、伊集院家との養子関係や滑川居住に関する考証を記す系譜記事。
11月21日 / 冊子 392頁/原整理番号 356の9
『飯米賦渡送状』は、十一月二十一日、鮫島源兵衛主従へ真米一斗五升・赤米一斗五升を割り当てる。末尾では、市来湊の七端帆船の上乗として出水へ向かうため、十一月二十二日から主従三十日分の飯米を三原源右衛門・永山覚右衛門が渡すよう命ずる。
来由四七寛永六年三月廿六日 / 冊子 328頁/原整理番号 47
幕府役人らの連署取状。進上された角石百本を受け取ったことを確認し、石の大小がある旨を記す。寛永六年三月二十六日付。
寛政11年2月13日(本文) / 冊子 165頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書0526
家斉が松平源兵衛を芝邸へ遣わし、御鷹が捕らえた鶴1雙を賜った。斉宣が記事の語り手に代わって恩旨を奉じ、老中邸へ赴いて謝恩したと記す。出典は重豪公御譜中、目録も重豪の鶴拝領記事。本文の数量1雙を保持し、使者の実名や代受理由は補わない。
文政8年10月(年次は朱注、月は本文) / 冊子 735頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書2074
不斷光院寺中の源寿院が、重豪寿像の安置を願って許可されたことを伝える達書。寿像は仏師へ内々に調達させ、増上寺から国家鎮護・武運長久の法文を受け取ったので、別紙図面どおり神殿を造立するよう命じる。完成時には家老が代理参詣し、以後の修覆等は寺が請け持つとする。十月付、文政八年は朱注。家老座に正文控があり、取次として図師崎源兵衛を記す。
年月日未詳 / 冊子 139頁/原整理番号 233-1
御納戸奉行の米良九右衛門・左近允与太夫が、二十目の御持筒一挺について、石神源兵衛・重永重次作との銘があることを示し、九字筒の帳面では照合できないため、委細の由緒を知らせるよう求めた連署覚。本文は丑十二月十八日付だが目録年月日欄は空欄。
島津義久代、朝鮮出兵期、島津家久への代替り時、原山御狩時 / 冊子 257頁/原整理番号 101
正本家蔵の上原氏覚書。本名字を伊作田入道甫済と伝え、市来の伊作田名と同所の小原城に由来する名乗りだが、系図がないため何代目から上原を称したかは不明とする。源右衛門の名は三代が相伝し、二代目は国分にいた島津義久へ特に奉公し、平田狩野、のち三原七左衛門・川上彦左衛門・川越三右衛門と兵具方を務めた。朝鮮出兵には義久の側に留め置かれたため出陣加増を得なかったが、家久への代替りに際して墨色の『雨之御旗』を運ぶ使者となり、加増五十石を受け、名寄も残るという。妻は吉田作州の娘で、一人娘が鹿嶋駿河守の妻となったため、弟源六左衛門―源兵衛の子・喜左衛門を兄方の養子とし、現源右衛門の父とした。原山の御狩では、本文に伏字を含む出来事で義久に働きを賞され、鉄砲・銀を拝領し、のち兼光作の長刀も受けたが、喜左衛門の江戸上洛中に二品とも家内から盗み出され、行方不明になったと記す。さらに大隅国曽於郡地頭となり、国中の城下ろしの際に城門道具を与えられた記事へ続くが、末尾は『自是切テ無し』として欠落する。
慶長六年八月十六日 / 冊子 776頁
比志島国貞・鎌田政近・平田増宗らが、薩摩国加世田小湊村の田畠を源兵衛尉へ安堵した知行目録。日新が以前寄進し、天下の命で召し上げられていた所領を、少将忠恒の命により再び付与した。
〈寛延二年〉七月十五日 / 冊子 177頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書0499
伊勢貞起が上原十郎左衛門・中馬源兵衛へ、家督相続は願いのとおり島津兵庫に仰せ付けられたと申し渡す。宗信の逝去を公表する際に、詰合の者へこの旨を伝えるよう命じる。
文書日付:于時文禄二癸巳年三月廿三日 / 冊子 365~366頁/原整理番号 五九〇/整理ID TMP-P02-NENE4F-D0590
小根占・大根占・田代郷原村の田畠・山畑・下屋敷について、面積と米・大豆高、作人を列挙する。 水田の都合を八段四畝十五分・九斛七斗、畠大豆の都合を五斛二斗二升六勺と記す。 重虎が右の所領と加扶持を村山源兵衛尉へ遣わしたことを証する。
明和二年二月廿四日 / 冊子 63~64頁/原整理番号 181の20/整理ID 181-20
五家の家臣が二月廿四日、松平右近将監から受け取った書付の写を同席の諸家へ廻す。右近将監に召し出され、御用人小堀十太夫を介して書付一通を渡され、同席各家へ通達するよう命じられたと述べる。内容を承知して署名し、右近将監への御請使者を出すこと、在国・在邑の家でも承知のうえ御請を行い、その方法は先例どおりに取り計らうことを求め、数通を作成して持廻りさせる。嫡子がいる家では附衆にも伝達するよう後書する。署名は細川越中守家の中川郡兵衛、松平陸奥守家の谷田作兵衛、松平出羽守家の布施源兵衛、藤堂和泉守家の金谷三郎左衛門、松平薩摩守家の東郷源五。続く一覧は伝達先を四つの経路に分け、上杉大炊頭・松平大膳大夫等へ通達する分、藤堂和泉守家から通達する分、松平出羽守家から通達する分、松平陸奥守家から通達する分として諸家を列挙する。
宝暦十三年(本文経過は六月十四日~十一月二十日、前年の派遣も記す。目録日付欄空欄) / 冊子 983~984頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書2809
惇信院の訃報が琉球へ届き、中山王尚穆は前年に豊見城親方へ弔書を託したが、逆風で那覇へ戻り、荷が沈んで装備も潮水で損なわれたため渡航できず、今年改めて豊見嶺親方を遣わした。六月十四日の薩府到着後、重豪は清水源兵衛盛容を継使、田中甚助を宰領として江戸へ遣わし、一行は七月十八日に薩府を発ち、八月二十七日に芝邸へ着いた。九月八日、留守居の案内で清水が秋元凉朝・板倉勝清へ重豪の添翰と尚穆の弔書を届け、忠寄・武元・輝高宛の書状も凉朝が受け取った。十月八日、凉朝・勝清ら各邸で奉書返札と尚穆への報翰を受け、十五日に江戸を発ち十一月二十日に薩府で復命すると、家老は豊見嶺親方に老中報翰・家老添翰を渡し、老中報翰を写して上呈するよう命じた。
九月廿三日(本文)。嘉永七年は一件年月から補う / 冊子 160頁/原整理番号 218の12/整理ID 218-7
大御目付から廻状と御書付写し一通が届いたので、安藝守・越中守が各家への通達を命じ、廻状数通を認めて持ち回らせる旨を伝える九月二十三日付書状。三通のうち一通にある追記として、嫡子がいる家はその方や附衆まで通達するよう求める。本文は清田新兵衛・田中八郎兵衛・福田源兵衛、安藝守内の福永小太夫、梶川銀次郎・中野冨三郎・福永助左衛門を列記し、薩摩守・陸奥守・南部美濃守の留守居へ宛てる。御次第不同の表示を伴う。
本文七月圖書、追記は七月14日仰渡 / 冊子 589~590頁/原整理番号 767/整理ID 767
雑録中。東郷助之丞、有馬十郎次、樺山清五郎、伊勢佐七郎、大迫市郎右衛門、吉田喜右衛門、木村〔名一字判読留保〕次郎、堀添平左衛門、児玉源兵衛、上村珍樹、濱田藤介、阿多新吾の十二名に、金五十両ずつを掲げる。奥州・越後等で戦死したため葬式料として下賜するので、それぞれの親類へ知らせる旨を大隊長へ伝えるよう命じる。末は七月、圖書。追記は七月十四日にこの通り仰せ渡されたと記す。下賜と伝達の指示であり、親類への現金受渡完了までは記していない。
11月21日 / 冊子 393~394頁/原整理番号 358
『平田宗直船賦帳』所収の出船申付記事。五枚帆四艘(各水手八人)と四枚帆一艘(水手七人)について主取と上乗を列記し、小湊から出水への出船を命ずる。さらに市来湊船の七端帆一艘(船頭神兵衛尉、水手六人、上乗鮫嶋源兵衛尉)と串船の壱端帆一艘(船頭徳右衛門、船頭・水手十人、上乗永井与兵衛尉)を掲げ、小松原で御上米の積込を終えた運賃船を出水へ出すよう記す。
年月日未詳 / 冊子 447頁/原整理番号 424
中村の古城を十一月初めに山城伝兵衛が取り立てて籠ったが、寺沢方への熊本勢の加勢を聞き、十二月三日ごろ一揆勢が退いて原城へ集まったと記す。切支丹に与した村々を列記し、多くは村全体の参加とする一方、町村では庄屋源兵衛一人が味方であったと注記する。末尾の集計は十七か村で、千々石内の木場山一村も敵となったと記す。
文書日付:于時文禄五丙申年 / 冊子 366~367頁/原整理番号 五九一/整理ID TMP-P02-NENE4F-D0591
十石衆の村山源兵衛尉に関して、田畠・居屋敷と石高、森山・藤為・北之三郎などの作人を列挙する。 惣合を九反五畝九ト・十石九升八合、京押の右之分を十三石三斗一升七勺と記す。 重虎は右の知行を遣わしたことが実であるとして証状を出す。
文書日付:慶長貳丁酉年三月廿一日 / 冊子 366~367頁/原整理番号 五九二/整理ID TMP-P02-NENE4F-D0592
田畠・屋敷などの知行地と、御加扶持の分を列挙する。 田方五段九畝十五分・八石一斗七升二合、畠方一町貳反三せ一分・十一石八斗九升四合と記す。 惣合一町八反貳畝十六分、分米廿斛六升六合の知行を村山源兵衛尉へ遣わしたことを証する。 野久尾加賀右衛門尉重忠と根占掃部助重張が署判する。
〈宝暦四年〉正月 / 冊子 444頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書1363
平田靱負正輔が中馬源兵衛の名を掲げ、治水手伝の御用銀調達について申し渡す。入用額は未確定だが概ね十四・五万両ほどを見込み、当地から差し上げるのは調達が難しいため、上方で借り入れるほかないとする。当面別の重い御用はなさそうで、銀主の協力を頼み、出銀できる時には少しでも金を出すよう段々に事情を説明して熟談することを求める。上原十郎左衛門・久保七兵衛及び京都・大坂の算用役と相談し、こちらからの出金をできるだけ少なくする方針を示す。重年公御譜中・扣正文在家老座の注を持ち、正月の書付である。
11月21日 / 冊子 388頁/原整理番号 354の14
鮫島源兵衛尉主従へ真米一斗五升・赤米一斗五升を渡す。市来湊の七端帆を加世田衆の上乗船とし、二十二日以後三十日分の飯米を支給する。
(明暦三年)七月五日 / 冊子 342頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0737
島津久茂が国元の役人らへ、将軍家綱の機嫌を聞く使者と書状の取次ぎ、島津光久への礼使・使者の手配、在府家臣の配置と留守居について報告・指示した書状。
11月22日 / 冊子 400~401頁/原整理番号 362の3
十一月二十二日、片浦から立てた浦水手の受取を命ずる送状。船頭壱岐・蔵右衛門・市右衛門・弥九郎と宇兵衛尉以下を列記し、第一群を三十二人とする。さらに助之丞・与介・惣五郎・弥右衛門・三右衛門尉・神介・少右衛門・杢之介の八人を別に掲げ、永山覚兵衛尉・三原源右衛門へ受取を申し付ける。
(寛永15年)正月より3月まで / 冊子 629~654頁/原整理番号 672
寛永十五年正月から三月まで、鹿児島衆から天草へ出陣した諸士について、一人ごとに主従の内訳、従軍期間、延べ日数を列記した人数究帳。大身衆から多数の家臣までを連続して記録し、末尾で被官・夫を合わせた人数九万五千三百七十六人と集計し、寛永二十一年正月二十六日に一日賦として照合した旨を記す。
寛永18年2月12日 / 冊子 714~715頁/原整理番号 747の3
加久藤地頭仮屋に伝わる有馬陣立差出。伊地知重政の主従21人について、与力・供人を帰還日別に列記し、正月十六日からの在陣日数を計算する。二月八日唐津から帰還した組、二月十七日・二十三日および三月八日に有馬から帰還した組を記し、惣合日数1342日とする。寛永十八年二月十二日付、谷口次郎左衛門と伊地知弥右衛門の署名がある。
承応二年八月廿九日 / 冊子 22~23頁/原整理番号 22
山狩の法度。犬・猪・鹿を射る際の射手と矢の扱い、獲物の分配、行司の役割、狩場での振る舞いを細かく規定する。末尾には山野・水・海の神々に誓う長い起請文を付し、違反を戒める。
永享十一年三月二日 / 冊子 391頁
藤原久景が廣濟寺へ、薩摩国給黎の下永吉給にある源兵衛塩屋一所を、不盡用公禅門の追善のため寄進し、子孫も相違してはならないと定めた寄進状。
慶安三年五月八日 / 冊子 169頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0317
慶安三年五月八日、新納刑部大輔忠秀に殉死した田代諸右衛門、源兵衛、西田亀右衛門を挙げる。田代は大口衆、源兵衛は忠秀の小者、亀右衛門は家臣で同じく殉死した旨の注が付く。
明応9年11月11日(久逸戦死時との注)、天文7年、寛永11年 / 冊子 178頁/原整理番号 58
伊東作太夫家の系図。祐康は井尻を号し源兵衛を称し、祐能は孫右衛門として伊作久逸に仕え、加世田で戦死したと記す。傍注はその時を久逸が戦死した明応九年庚申十一月十一日であろうとする。祐秀は四郎左衛門で間瀬川に戦死。祐貞は伊賀守として日新公に仕え、天文七年戊戌に日州日知屋へ移って地頭となった。別系の祐盛は伊賀守で功があり、祐盈は太郎四郎を称して京都で没した。末尾の祐義は伊左衛門、寛永十一年生まれで母を仁礼蔵人の女とし、養子で実は喜入休右衛門久守の三男、伊東へ改号したと記す。島津光久の江戸下向時に平戸で没した。
年月日未詳 / 冊子 187~188頁/原整理番号 519
本文に『伴家津曲氏一流系図』と題する津曲休右衛門家の系図。天智天皇・大友親王から余那足、善名、国通、仲用、兼行以下を連ね、兼善(源兵衛)ら津曲氏諸代の官職・通称・法名、母方、婚姻と分岐を記す。
明暦二年三月十三日 / 冊子 275~276頁/原整理番号 33
加久藤で樋口筑後・中堀源兵衛・樋渡弥兵衛らから一向宗本尊を差し出させ、さらに五人組の調べで七兵衛の保管も判明したと宗体奉行へ報告する。
〈宝暦四年〉正月十五日 / 冊子 432~436頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書1337
国元の伊勢貞起ら六名から島津主鈴・主殿への返書。原本はNo.1336の長文に行間の朱書として返答を収め、末尾に正月十五日の朱日付がある。国元六名から島津主鈴・主殿への返答として、惣奉行・添奉行等の派遣準備、京都所司代・大坂城代及び長崎・近隣への通知、京都・大坂での借入と国元の出金を承知した旨を記す。中馬源兵衛の派遣を記す返答もあり、借入を急ぐ指示への対応が読み取れる。最後に命令書写三通・問合書一通・首尾書六通を受領し、照会・打合せを急ぐと返す。
寛永廿一年七月八日 / 冊子 189~191頁/原整理番号 111
御狩の『山法掟』二十条。猪鹿を貴人へ見せる際の並べ方、行司の作法、狩りが延期された場合の獲物の納め先、矢が当たった獲物を誰の手柄とするか、犬を用いた場合の配分などを細かく定める。後半には獲物を解体した際の各部位の配分と、山神などに向けた狩りの祭文を収める。末尾に大山源兵衛・納山狩野介の連判があると記す。
明和七年十月 / 冊子 314頁/原整理番号 15-2
島津源兵衛の願いを支持する連署口上。源兵衛が自分たちと同姓一族で、系図や感状を所持すると述べ、家筋を認めて取り立てるよう求める。明和七年十月付。