牧野清兵衛書状
四月廿六日 / 冊子 189~190頁
改年の祝儀と小袖一重を受けた礼を述べ、将軍家光が日光参詣を首尾よく終え二十一日に機嫌よく還御したことを報告し、祭礼次第を送った。将軍が翌月十一日に西之丸へ移る予定と、又八郎の息災も伝えた書状。
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四月廿六日 / 冊子 189~190頁
改年の祝儀と小袖一重を受けた礼を述べ、将軍家光が日光参詣を首尾よく終え二十一日に機嫌よく還御したことを報告し、祭礼次第を送った。将軍が翌月十一日に西之丸へ移る予定と、又八郎の息災も伝えた書状。
年月日未詳 / 冊子 549頁
加治木御日記の十月十四日条。相良清兵衛の使者長介が来訪し、島津義弘が以前から所望していた槍の柄三本を進上したこと、返書や使者への銭百疋の贈与、宮原主計助の相伴を記す。
(元和四年)三月廿日 / 冊子 667~668頁
島津義弘が、病気を気遣う度々の書状と清兵衛尉の派遣に感謝し、中風で手足と舌が不自由だが、養生を重ねて回復を目指していると報じた書状。
(寛永三年)八月廿八日 / 冊子 18頁
牧野清兵衛が島津家久の中納言任官を祝い、上様と又三郎様が息災であること、当地に異状がないことを知らせる。詳しい当地の様子は仁礼蔵人と鎌田左京から申し上げるとする。
八月十三日 / 冊子 73頁
友泰が比志嶋掃部助らに、弾正様・川上左近将監様から相良清兵衛尉へ送る書状の取次経過を報じた書状。書状を横川から求廣へ持たせ、返書を相手方へ届ける一方、使者が鹿児島へ持参する場合の通行にも配慮するよう伝える。
(寛永九年)七月廿三日 / 冊子 297~298頁
新納忠清が、熊本へ置いた情報収集者の帰還報告として、幕府上使が七月二十一日に熊本へ到着し、同日川尻に一宿して翌日に八代へ向かったこと、多人数を伴ったことを伝えた。上使が薩摩境を通る場合に案内役を務めるため、携行させる兵具の数量について指示を求めた書状。
(寛永九年)七月廿六日 / 冊子 298~299頁
島津久元と伊勢貞昌が、加藤忠広改易後の熊本城受渡しと上使到着、相良・加藤右馬頭・大口・山野・出水・綾・高岡等からの注進を確認し、早打への礼を命じた。また肥後へ向かう諸勢への兵糧米貸与、山川・頴娃方面に着岸した唐船への対応、喜入久正没後の国分地頭職と喜入久右衛門尉の鹿児島移転などを指示した連署書状。
(延宝五年)六月九日 / 冊子 144頁/原整理番号 487
喜入次兵衛・相良主税が連署した覚。津曲清兵衛が先頃江戸で身を捨てて格別に奉公した忠節を賞し、褒美として知行高百石を拝領させる。あわせて梶山見廻の勤めについては追って指示すると伝える。延宝五年六月九日付。
年月日未詳 / 冊子 150~151頁
『島津義弘譜』から、慶長二年十二月の蔚山城攻防を詳述する。明軍が未完成の蔚山城を急襲し、加藤清兵衛らが籠城、加藤清正・浅野幸長らが入城して防戦した。城内では兵粮と水が尽き、紙や壁土を煮、馬を食べ、夜間に池水を汲むほど窮乏したが、日本側援軍の接近で明軍が退却し、追撃戦となった経過と双方の死傷を記す。
年月日未詳 / 冊子 425~427頁/原整理番号 533
相良清兵衛の口事に伴う大童伴兵衛方籠城の経過と損害を記す日記。伴兵衛親子三人をはじめ、親族、山伏四人、出家一人、内の者二十人余、女五十二人ほどが清兵衛宿所を構えて籠城し、寄手がこれを攻めた。寄手側の損害は合計百二十一人で、内訳を死者百十人・負傷十一人とする。七月十二日の事件記事に続き、松平石見守家中など別件の切腹者・預け先や妻子に及ぶ処置、隠岐国仕置衆等に関する七月十七日付の伝聞も併載する。目録年月日は空欄のため、これらの日付をB列へ補入しない。
「寛永十七年」七月九日 / 冊子 127~128頁
島津久慶が相良家中の騒動について国元の関係者へ指示した書状。相良家老清兵衛尉の縁者犬童牛兵衛らをめぐる殺傷・逃亡、江戸・肥後・人吉での捜索や追放者の処置を詳報し、薩摩へ逃げ込んだ場合は匿う者や協力者を含めて内密に調査・拘束し、早急に報告するよう命じている。追而書では大和守島津久章が高野山蓮金院へ登ったとの知らせを受け、蓮金院側から事情を聞き取るよう求めている。
「寛永十七年」七月十一日 / 冊子 130頁
菱刈美濃守重綱と米良三左衛門尉が国元の重臣らへ、相良清兵衛を江戸へ召し出すよう相良壹岐守から命じられ、清兵衛が先月二十日に出立したことを報じた連署書状。その留守中に清兵衛方の者と犬童牛兵衛が同心して逆心し、勝手な振舞いをしたため討ち果たしたが、すでに残党なく事は収まったとして安心するよう伝え、詳しくは使者の口上に委ねている。
「寛永十七年」七月十二日 / 冊子 130~131頁
高力摂津守忠房が島津家の重臣らへ、相良壹岐守家中で起きた騒動を報じた書状。江戸からの使者神瀬外記が犬童孫太郎の旧職復帰を申し渡そうとしたところ、犬童牛兵衛側が使者を捕らえて成敗し、清兵衛屋敷へ一門・与力が走り込んで楯籠ったことを伝える。関係者が薩摩へ逃げ込んだ場合は直ちに捕縛し、相良方へ引き渡すよう求めている。
「寛永十七年」七月廿九日 / 冊子 133~134頁
伊勢兵部少輔貞昌と山田民部少輔有栄が、高野山での法事が無事に済んだことと江戸の情勢を国元へ報じた連署書状。生駒壱岐守・松平石見守の家中処分と所領・預け先を知らせ、相良清兵衛が稲葉美濃守預かりとなり、能勢小十郎・二神宇兵衛が上使として出発したことも記す。さらに喜平次が以前から清兵内蔵助の処置を諫めていた経緯と、相良家中が他家の処分を見て危惧している様子を伝えている。
年月日未詳 / 冊子 241頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0501
承応三年二月十七日に新納忠清へ殉死した者として、丸田元心・山下慶右衛門・金丸宇右衛門・牧山清兵衛を掲げ、大口衆または忠清家臣である旨を注記する記事。
年月日未詳 / 冊子 251頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0534
某日記から、承応三年二月十七日に大口地頭新納加賀忠清が大口で六十歳で死去し、家来牧山清兵衛その他二、三人が殉死したことを抄出する。同年十二月に忠清の嫡孫新納次郎右衛門が大口地頭を命じられたことも記す。
(貞享三年)七月廿六日 / 冊子 767頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書2008
相良長清・村田経景・中神内蔵が新納又左衛門方へ、村上三太夫・松木三郎五郎・森清兵衛らが説得に応じず、押し掛けたところ内から発砲し、自宅に放火したため、三人および籠居者を捕らえた顛末を報告した連署書状。
宝暦十年八月十一日 / 冊子 781頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書2395
重豪が八月十一日、幕府領の日向国児湯郡穂北村の百姓男女三百三十九人が牛馬を連れて逃散し、六月十九日から順次、島津領を頼って高岡の境へ来たと届ける。領内へ入れぬよう指示し、高岡の役人と城下から遣わした役人が帰村を促したが従わず、野原で長雨に濡れて病人も出た。食料を持たず餓死に至るほかない状況を黙止しがたいとして、高岡の内に置き、飢えに及ばぬよう申し付けた。なお帰村しない状況を代官揖斐十太夫へ家来から知らせ、朱書は新野清兵衛が堀田相摸守へ持参して受理され、後日に代官へも伝えるとの返答を記す。
天明二年五月(本文末尾は五月十三日) / 冊子 664~667頁/原整理番号 1882/整理ID 1882
重豪の登城時に下乗所や御門が混み合うため、百人組同心・御徒目付・御小人目付と相談し、御本丸と西丸で御先立および御付上りをどのように勤めるか調整した経過を報告する。新たな特例を目立たせず、従来の仕来りに沿う形で担当者を定め、御本丸・西丸それぞれの御徒目付二人と御小人目付四人、計十二人の名を列挙する。西丸の担当について小尾清兵衛らと協議し、先立・取次が滞りなく済んだことを述べる。末尾で担当者への挨拶や年中の付届をなお吟味するとし、五月十三日付で渋谷五郎右衛門が左中様へ報告する。本文には五月との年記もあり、月日を一律に五月十三日へ統一しない。
天明二年五月十四日 / 冊子 667~668頁/原整理番号 1883/整理ID 1883
西丸への御付上りを御本丸と同様に扱うよう命じられたため、御徒目付小尾清兵衛と相談する。西丸には当分手寄の御目付がいないため、筆頭御目付の新庄与惣右衛門へ頼むよう求められ、市田勘解由を通じた指示を受けて取次と御供の支障がないよう手配した経過を報告する。追記では翌日までの手配と当番御側役への別途申出を述べる。五月十四日付の渋谷五郎右衛門から左中様宛の首尾書で、前日の1882と別文書として保持する。
年月日未詳 / 冊子 712頁/原整理番号 745
十六日、目付の井上筑後守が嫡子清兵衛を伴い、島原へ到着したと記す短い記事。
寛永十七年六月十九日 / 冊子 412頁/原整理番号 529
島津光久は鎌田政統・島津久元・島津久慶へ、相良清兵衛が相良家中を意のままにし、壱岐守を遠ざけ、親類や気に入った者には良い知行、壱岐守に仕える者には悪所を与えたため、壱岐守が幕府年寄衆へ訴え、詮議と処罰が見込まれると知らせる。清兵衛が召しに応じず籠居する場合に備え、新納加賀守らへ人数を率いて参集させ、足りなければ近辺の地頭衆を加えること、計画を他言せず注進を待つことを命じる。
寛永十七年七月九日 / 冊子 412~414頁/原整理番号 530
島津久慶は入来院左兵衛らへ、相良清兵衛の留守を守る大童半兵衛が七日未明に壱岐守の留守居衆と衝突し、半兵衛の子は一手で切り出して討たれ、半兵衛は約四百人で籠城し、清兵衛の宿所が焼かれたと伝える。ただし江戸からの情報には異説があり、清兵衛召喚や相良側の訴訟・処置をめぐる見通しを記す。人員を預け置くかなどの判断を求め、事件が収まらなければ上使が大口・加久藤付近まで下向する可能性があるため、接待の士衆を用意し志岐小左衛門も加えるよう指示する。末尾で三日来の咳病のため辛うじて書いたと付記する。
寛永十七年七月十一日 / 冊子 425頁/原整理番号 532
米良頼貞・菱刈重信は三原重庸らへ、相良清兵衛を江戸へ召し登せるとの上意を相良壱岐守から受け、清兵衛が前月二十日に当地を出立したと報告する。その留守中、大童半兵衛らが同心して逆心を起こしたため討ち果たし、残るところなく鎮定したので安心するよう伝える。去る八日の当地の状況は伊地知弥右衛門尉を介して注進したと追記し、使者への口上に詳細を委ねる。
年月日未詳 / 冊子 427頁/原整理番号 534
『諸家大概』は、相良源五左衛門の養祖父相良清兵衛が求麻相良氏の家老であったが、家中から疎まれて騒動となり、公儀に召し上げられて父子とも預け置かれたとする。清兵衛の子内蔵助、その子内蔵允へと続き、内蔵助の妻が島津家久の娘であった由緒から島津家に召し抱えられ、下高二千石を与えられたと記す。内蔵助はそれ以前に京都で死去し、清兵衛の父を犬童美作入道休意とする。
年月日未詳 / 冊子 153頁/原整理番号 37
佐近・頼安以下の相良氏系図と、清兵衛頼兄・喜平次父子を中心とする家伝。清兵衛は永禄十一年に球磨で生まれ、相良の本姓へ復した。慶長五年、福原右馬助が主取となる濃州大垣城に熊谷内蔵之助・木村宗右衛門・垣見和泉守・相良宮内頼房・高橋右近・秋月長門守らと籠城したが、秋月・高橋・相良は関東方へ赦免時の返忠を申し入れ、城内で五将を討って降参した。この策が清兵衛の謀によるとして徳川家康から感状を受け、近習に取り立てられ、肥後葦北郡を与えるとの申し渡しを辞退した後も御目見・近習同前とされた。球磨城主相良壱岐守の仕置を清兵衛が担った際の専横をめぐり江戸へ召され、清兵衛・喜平次の不仕合の風聞から一揆・内乱が起こり、清兵衛は津軽へ預けられた。頼安の妻を島津中書家久の娘とし、その子喜平次(内蔵丞)は元和三年に加治木へ赴き島津義弘の加冠を受けた。寛永十七年の球磨仕置処分時には薩摩屋敷へ遣わされ、その後公儀の構いを解かれ、薩州の臣として二千石を与えられたと記す。
正保4年 / 冊子 207~208頁/原整理番号 74
有川與左衛門の奉公歴と後裔を記す系図。與左衛門は飯野から栗野・帖佐・加治木の諸所へ供奉して御香番を勤め、のち鹿児島へ召し移された。正保四年の王子ヶ原大追物では、新納小右衛門と二人で御普請奉行を命じられた。後裔として有川幸右衛門・泉阿・與左衛門・清兵衛を掲げ、末尾に「兄之養子」との注記を付す。
延宝五年六月十五日 / 冊子 144~145頁/原整理番号 488
島津久竹ら六名が連署した引付。津曲清兵衛が先年江戸で身を捨てて奉公した褒美として高百石を与えるので、支配するよう支配奉行へ命じる。肝付主殿久兼、町田勘解由忠代、新納又左衛門久了、島津帯刀久元、島津市正久美、島津出雲久竹が署判し、川上・村田・東郷・志岐ら五名の奉行に宛てる。延宝五年六月十五日付。
(貞享三年)七月廿六日 / 冊子 765~766頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書2005
氏名不詳の使者らが鹿児島方へ、佐土原で光久の命令を久寿・久也らに伝え、村上三太夫を松木三郎五郎宅から引き渡させようとしたところ、籠居・発砲・放火に至り、死傷者・捕縛者が出た経過を報告した書状の写し。
(貞享三年)七月廿七日 / 冊子 772~773頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書2014
松木三郎五郎宅の討手について、物頭・普請奉行・引纏人数・左門役儀の者、討ち果たされた者、戦死・負傷した討手、焼死者、三太夫の妻子・三郎五郎の母ら関係家族、焼失家屋を列挙した書付。
(貞享三年)七月廿八日 / 冊子 773~775頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書2015
七月二十六日の松木三郎五郎宅討入りについて、負傷者とその後の死亡者、討ち捨てた三十四人、灰燼内外で確認した者、三太夫らの妻子・奉公人、七月二十八日に斬罪とした十二人を列挙した書付。
(貞享三年)七月廿八日 / 冊子 775頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書2016
新納久了が相良長清ら三使者へ、村上三太夫らが松木三郎五郎宅に籠居したとの報告と、三人を討ち果たしたとの続報を受領したこと、大久保忠朝への既往の伺いも踏まえ、光久への報告と今後の処置について詳しい返答を求めた書状。
(貞享三年)七月廿八日 / 冊子 775~776頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書2017
島津久竹ら家老五名が種子島蔵人・肝付主殿へ、佐土原家中の不穏を受け三使者を派遣し、村上三太夫らが松木三郎五郎宅に籠居して発砲したため討手を差し向け、屋敷焼失・死傷者発生に至った経過を知らせ、口外を慎むよう求めた連署書状。
天明五年三月六日 / 冊子 798~800頁/原整理番号 2195の10/整理ID 2195-10
将軍転任祝儀の招請人名を72件列記する。三月六日・御次第不同とし、大書院・表書院御取持・勝手之間・小書院・居間書院・居間・勝手の区分と各人の断注を記す。同名の再出を含む。掲載数は出席人数を表さない。
年月日未詳 / 冊子 702頁/原整理番号 731
正月十五日九つ時に出水へ着き、翌日は米之津町人半左衛門の宿へ移ったと記す。叔父杢田清兵衛・伊地知金右衛門や肝煎酒匂吉右衛門の来着、喜入吉兵衛からの宿手当書状、弓・鉄砲・具足の名簿送付を記録する。飯米も十七日に届き、諸勢は十七・十八日までに出水へ集まり喜入の到着次第出船する予定で、日々城攻めの鉄砲音が激しく聞こえたと伝える。
正徳四年九月九日 / 冊子 155頁/整理ID 381
島津吉貴が府城を発って東行し、琉球使節の金武王子ら、家老や用人が随行する。
11月27日 / 冊子 425~426頁/原整理番号 396の4
十一月二十七日、串木野から立てた水手五十五人を列記し、三原源右衛門・永山覚右衛門へ受取りを命ずる。助兵衛尉・吉兵衛・惣右衛門から作左衛門・孫市までの五十五記載が本文の合計と一致する。助七・太郎作・次兵衛尉など同名が重複する箇所も名簿上の別記として保持し、推定で統合しない。
年月日未詳 / 冊子 500頁/原整理番号 505の2
十二月十九日夜の立花勢を中心とする討死・手負衆の人名書上。役職・氏名・知行高とともに討死者、手負、近年召し抱えの牢人などを列挙する。有馬左衛門佐や上使衆に付属する者、肥後牢人らの被害も挙げ、末尾を二十一日乙卯とする。
12月15日 / 冊子 476~478頁/原整理番号 473の2
伊勢貞昌が相良頼兄へ送った長文書状。肥前有馬で旧キリシタン宗門の一揆が蜂起し、天草・唐津勢と幕府上使・九州諸勢が戦った状況、死傷者、渡海、攻囲の遅延を詳報する。軍法、古風の武者、兵の士気、補給、風聞や歌まで論じ、相良家中の備えを促す。
(延宝三年)閏四月廿二日 / 冊子 662頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書1665
島津久元ら三名が新納久了らへ、梶山側の者を立ち会わせて論山の絵図を作成し、評定所へ出す証人を選定して津曲清兵衛に同道させ、早急に上方へ派遣した経緯と、現地事情を十分聴取して取り計らうよう伝えた連署書状。
年月日未詳 / 冊子 255頁/原整理番号 333-41
志水新之丞が、二月二十七日の原城攻めでの見聞を申し出たもの。早く本丸石垣へ着いて石垣上から塀へ取り付き、長岡佐渡家中の田原清兵衛の子・田原角十郎が槍で腕を突かれ、さらに石で犬走りへ打ち落とされるのを見たという。また、自身が通った二之丸門口にも、本丸石垣下にも、多数の手負・討死がいたと述べる。
寛永十七年七月九日 / 冊子 414~425頁/原整理番号 531
寛永十七年七月九日の人衆賦帳で、須木口・大口・加久藤口などの各方面へ、須木・小林・野尻・高原・高岡・鹿児島等の郷衆中と島津家諸士を組み分けし、各人の高、全役・半役、主従人数を列記する。複数の組に『合五百人』等の総計欄があり、国境方面へおおむね五百人単位で人衆を割り付けた構成を示す。冒頭の須木口一与は須木百人、小林百十人、野尻七十六人、高原百二十五人、高岡四十人、鹿児島五十人を掲げ、原記総計を五百二人とするが、内訳の算術合計は五百一人となる。編者は、相良清兵衛召還に伴う大童半兵衛ら三百余人の籠城と求麻騒動を受け、隣国境目の警備用に作成された帳簿と考証する。天保二年十二月二十日の写載経緯と、伊地知重政・相良頼員が京詰のため加久藤口の名簿に載らないとの説明も付す。
十一月十八日~二十二日 / 冊子 759–760頁/整理ID 2565
島津惟久が十一月十八日に鹿児島城へ登って吉貴に帰城の暇を願い、吉貴はこれを許した。吉貴は相良清兵衛頼庸を宿所へ遣わし、白銀三百枚と白縮緬三十巻を贈った。惟久は二十二日に鹿児島を発ち、帖佐・加治木を経て佐土原へ帰った。
年月日未詳 / 冊子 476頁/原整理番号 473の1
薩摩藩家老伊勢兵部少輔貞昌と、人吉城主相良頼寛の家老相良清兵衛頼兄との旧交を記す。江戸で島津光久に仕えていた貞昌に対し、球磨にいた頼兄が一揆の状況を書き送り、貞昌がこの日返書して壮心を励ましたとする編者記事。