島津義弘書状
文禄3年9月29日 / 冊子 811頁
義弘は比志島国貞に対し、鉄砲と玉薬を十分に用意して送るよう命じ、槍は役に立たないので不要だと明言する。今後出陣する人数にも鉄砲を持たせ、できる限り多く調達することが肝要だと説く。 石火矢についても準備を求め、敵船への対処や陣地防衛に備えるよう指示する。朝鮮水軍との戦闘経験から、火器中心の装備編成を国元へ要求した実戦的な軍事書状。
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文禄3年9月29日 / 冊子 811頁
義弘は比志島国貞に対し、鉄砲と玉薬を十分に用意して送るよう命じ、槍は役に立たないので不要だと明言する。今後出陣する人数にも鉄砲を持たせ、できる限り多く調達することが肝要だと説く。 石火矢についても準備を求め、敵船への対処や陣地防衛に備えるよう指示する。朝鮮水軍との戦闘経験から、火器中心の装備編成を国元へ要求した実戦的な軍事書状。
慶長十四年八月五日 / 冊子 243頁
慶長十四年八月五日、隅州肝付郡高山村内の屋敷・浮免などの知行を石高とともに記し、合計二石余を比志島国貞へ与えた島津紹益・樺山久高ほか一名の連署知行目録。
七月十九日 / 冊子 341頁
七月十九日、青山成重が比志島国貞に、龍伯義久の死去に伴う将軍家の弔意と使者派遣を知らせ、陸奥守家久の心中を察した弔書。
(元和七年) / 冊子 772頁
島津家久が比志島国貞の一周忌に霊前へ手向けた六首の追悼和歌。各首を六字名号に対応させ、国貞への哀惜、死別から一年を迎えた悲しみ、面影と極楽往生への願いを詠む。
(慶長六年)九月十三日 / 冊子 782頁
島津惟新が、伊丹屋助四郎を死罪とする決定の実施状況を問い、内府の命と少将の墨付による禁制を厳守するよう命じた書状案。出船時の不審な動きも踏まえ、詳しい返報を求める。
慶長十七年六月十六日 / 冊子 362~364頁
慶長十七年六月十六日、島津忠仍と母菊袈裟が、国分御上様に関する親子の進退・内談を漏らさず、養子や家督などの約束に背かないことを諸神仏に誓った連署起請文。
慶長二年二月廿九日 / 冊子 91頁
伊集院抱節と比志島国貞が、海上交通が困難ななか自船で渡海して参陣した者の忠節を賞し、知行十石を充行う旨を証した連署状。
慶長二年二月廿九日 / 冊子 92頁
伊集院抱節と比志島国貞が、困難な渡海を果たして参陣した忠節を賞し、知行十石を充行う旨を伊集院九郎に証した連署状。
慶長二年二月廿九日 / 冊子 92頁
伊集院抱節と比志島国貞が、兵船での渡海が難しいなか自力で参陣した者の働きを賞し、知行十石を充行う旨を証した連署状。
慶長二年二月廿九日 / 冊子 92頁
伊集院抱節と比志島国貞が、兵船の渡海が困難ななか自力で参陣した高城左京亮の働きを賞し、知行十石を充行う旨を証した連署状。
(慶長三年)十月十八日 / 冊子 265頁
本田正親・比志島国貞が(慶長三年)十月十八日付で島津図書頭忠長へ出した連署状。九月廿八日付の書状を受け取り、和平交渉が破れて江南勢数万騎が襲来したとの知らせを案じたが、若殿忠恒が敵の大軍を切り崩したとの注進に接して、その類例のない勝利を祝う。近日中の帰朝を期待し、詳しい内容は有河仲右衛門尉に言い含めたとする。
(慶長四年)三月十一日 / 冊子 357頁
比志島国貞が、上意により出水へ赴き、異議なく城請けを済ませたことを報告する。出水は予想以上に見事で城もよく造られていると述べ、武庫様が移ることになれば地域も治まるだろうとし、処置を遅延なく決めるよう求める。
(慶長五年)九月十四日 / 冊子 576頁
島津忠長と比志島国貞が連署し、竹内備前守は前年の庄内合戦で分限に応じない人数を率いて奉公し、今後も用に立つ者であるため知行を与えるべきだと述べる。当人をこちらへ召し移す意向であるが、現在その地で番を勤めているので現地で召し抱え、庄内での奉公の様子は本人から聞くよう求める。
十月八日 / 冊子 589頁
鎌田政近・比志島国貞が、豊後へ差し遣わす鉄砲衆について、富隈・鹿児島方・北郷殿・右馬頭殿などから出す人数を列記する。ほかに鹿児島から五人を加え、合計三十挺を早急に召し集めて豊後へ派遣するよう命じる。
(慶長五年)十月八日 / 冊子 590頁
原資料ではNo.1203の鎌田政近・比志島国貞連署状と同文であるため、本文を省略すると記されている。
慶長六年十二月廿六日 / 冊子 796頁
比志島国貞と平田増宗が連署し、白鳥山の造営中に知行二百石を付与し、造営期間中に得る収益には諸公役を課さないと定めた宛行状。
(慶長八年)九月二日 / 冊子 905-906頁
比志島国貞が将軍への拝謁と進上品を報告し、秀頼への進物は未決と伝える。休復の助命嘆願が認められ、遠国ではなく駿河国久能に置かれることとなり、島津家の働きとして世間の賞賛を得たと知らせた。
(慶長八年)九月七日 / 冊子 908頁
比志島国貞が、宇喜多秀家の居所は不便な久能から駿府城二之丸へ変更されたと報告する。秀家が成敗を免れたのは島津家の嘆願によるとして将軍の厚意と家の名誉を強調し、広島少将の帰国・拝領にも触れた。
慶長十三年二月三日 / 冊子 160頁
慶長十三年二月三日、島津紹益と比志島国貞が阿久根寺家中へ、各寺領地の境界は二度の検地で許可済みであり、寺地を帳面に記して永く領知するよう命じた連署書下。
慶長十三年十月廿八日 / 冊子 189頁
慶長十三年十月二十八日、島津紹益と比志島国貞が、隅州根占田代村内の浮免五石九斗八升三合を御牌所として宝光寺へ寄附し、名寄帳は別紙にあるとした知行目録。
(慶長十五年)十月二日 / 冊子 298頁
慶長十五年十月二日、比志島国貞が島津家久に、安南国から使船が来たのは前代未聞で、琉球征討と国王の薩州移送により島津氏の威名が三国に知られたためだと述べた書状。駿府・江戸への披露や池城の明国渡航にも触れる。
慶長十六年二月十一日 / 冊子 324頁
慶長十六年二月十一日、樺山久高・比志島国貞が連署した領内統治の条目。奉公人・百姓の規律、祭礼・耕作・婚姻、人口移動、役人配置、刑罰、召使、酒造、隠田などを定め、違反者の処罰と相互監督を命じる。
慶長十六年三月十五日 / 冊子 328頁
慶長十六年三月十五日、樺山久高・比志島国貞が、前年に琉球の池城が遣唐使として渡海した際、船主が無事帰朝させた働きを賞し、今後いっそう忠勤するよう命じた連署状。
(慶長十六年)九月二日 / 冊子 342頁
慶長十六年九月二日、比志島国貞・伊勢貞昌が、見舞いのための来訪、陸奥守への連絡、両所の供奉、下野守の派遣などについて調整した連署状。
九月三日 / 冊子 571頁
白鳥山の知行地は従来どおり諸公役を免除し、検地の竿入れから除外するよう命じる。除外分は鹿児島の石高へ加えるとした比志島国貞・伊勢貞昌連署状。
(元和二年)五月三日 / 冊子 626~627頁
上洛費用や江戸屋形の火災などで生じた借銀千貫目余の返済のため、来秋の出銀として一石につき一匁三分を賦課し、銀子・銭・米のいずれかで納めさせることなどを定めた町田久幸・比志島国貞の連署状。
年月日未詳 / 冊子 708~709頁
喜入忠政・比志島国貞が、松齢自貞庵主(島津義弘)の遺徳と死を悼み、夢・露・秋草・月・鐘・仏法などを題材に詠んだ追悼和歌。
四月十日 / 冊子 41頁
比志島国貞と伊勢貞昌が、川辺宝福寺領内の加世田小湊にある塩屋について連署した書状。塩屋の加子役を免除する一方、その地で殿役などが課される場合は確実に勤めるよう申し付ける。
三月廿八日 / 冊子 42頁
鎌田政近と比志島国貞が、熊嶽に対する諸所からの勧進・寄進の継続を保証した連署証状。領国内の制度改定以来、寄進が途絶えた所があるとの申し立てを受け、旧来どおり復活させ、異議を差し挟まないことを認める。
慶長十九年六月廿七日 / 冊子 530頁
宮里越中守へ五石余の知行を宛行い、その高に応じて公役を勤めるよう命じた三名連署知行目録。目録は島津久元譜にも収載される。
慶長十九年七月廿三日 / 冊子 534頁
高山盛光寺の社家領について、所領を知行として宛行い、その高に応じて公役を勤めるよう命じた四名連署知行目録。
(慶長廿年)三月六日 / 冊子 573頁
複数の土地、合計百七石余を島津陸奥守へ知行として宛行う三名連署知行目録。
元和元年九月十八日 / 冊子 608頁
領内の魚・塩の売買について納屋主・問屋の役割を定め、浦々の商人・小売人による勝手な取引を禁じて流通を統制した三名連署の廻書。
元和三年三月廿三日 / 冊子 639頁
琉球の江洲・津堅・越来に関する知行の召上げと返進、遠島中の江洲の子息の帰還・本領安堵、津堅の暇状への帰国時の御判などを定めた連署条書。
元和四年五月七日 / 冊子 672~673頁
船一艘の船頭・水手・上乗と人数、竹・角柱・琉球筵・鉄・黒木などの積荷を列挙し、相模守の役人が江戸へ回送するため異状なく通行させるよう命じた連署手形。
元和五年九月廿三日 / 冊子 717~718頁
琉球の池城主の出銀、遭難商船の損失分担、豊見城主渡唐時の借銀、役人間の紛争、船舶・釘・赤金などの処理について協議・決定した三名連署の覚書。
三月十一日 / 冊子 100頁
命令に従って出水へ赴き、滞りなく城を請け取ったことを祝い、土地と城の堅固さを称賛し、島津義弘の移転が決まれば地域も収まるので遅延なく進めるよう勧めた書状。
十月十七日 / 冊子 104頁
北郷賀州の案件を国府で裁くため出頭するはずが、祭礼・関係者の病気・奥州下向後の京都用務・自身の腫物で遅れたことを詫び、紹益老人と相談して近日参上すると伝えた書状。
(慶長十一年)九月三日 / 冊子 88~89頁
山口直友が、江戸で石槽船の乗員が起こした争いを止めた赤崎左近について、本多正純と井上正就の吟味で主張が認められ、自害を免じられて帰国できることになったと伝えた書状。両奉行の厚意に使者を立てて謝礼するよう求める。
(慶長十八年)九月十七日 / 冊子 413~414頁
慶長十八年九月十七日、比志島国貞・伊勢貞昌が、悪党による夜間放火の企てを報じ、陸奥守の人員を見廻りに当て、山中警戒と処罰を徹底するよう命じた連署状。
慶長十八年六月一日 / 冊子 399頁
慶長十八年六月一日、琉球関係の用務として、名護の帰国、関東御用の硫黄、駿府御用の朱や花、小唐船・生糸、銀子の唐渡しなどを列記した三名連署覚書。
慶長十八年六月一日 / 冊子 400頁
慶長十八年六月一日、琉球から唐へ渡る船の出航時期、帆・奉行・納銀・船員、王位算用、乗員や女性の取扱い、島ごとの商人などについて定めた三名連署の規定書。
慶長十九年七月廿三日 / 冊子 537頁
大隅国栗野の木場村内、有村屋敷など十八石余を知行として宛行い、その高に応じて公役を勤めるよう命じた四名連署知行目録。
天正八年十一月十三日 / 冊子 682頁
十一月二十三日、島津軍が合志表の久保田千町を焼いて退く際、大津山越前守率いる約四千騎と交戦した。伊集院久治が太刀始めで敵を討ち、顔に傷を負って危急となるが諸将が援護し、比志島国貞・新納忠元・忠尭・佐多久政らの反撃で大津山越前守以下百三十余人を討ち取った。熊本へ戻り町口で勝鬨を挙げた。
年月日未詳 / 冊子 694頁
相良義陽の人質を受け取った島津義久が、九月二十日に比志島国貞へ水俣城を受け取らせ、籠城衆七百余人を八代方面へ送還した記事。二十六日には義陽が佐敷で津奈木・佐敷・湯浦・日名子・久田美・高田などを献じて謝罪し、息子兄弟を人質とした。長子には島津家の通字を許して忠房と名乗らせ、義陽は阿蘇氏攻撃を申し出た。
天正九年八月九日~九月二十日 / 冊子 699~700頁
相良義陽の敵対を受けて島津義久が天正九年八月に水俣城を攻め、義弘・歳久・家久らが諸陣を守って大鉄砲を撃ち込み、相良方を降伏させた経緯を記す。九月二十日に比志島国貞が城を受け取り、義陽は佐敷・湯浦・津奈木を献じて和睦したが、恩に報いるため阿蘇方へ出兵し、甲斐宗運勢との戦いで討死したと続ける。
慶長19年7月23日 / 冊子 615頁
隅州栗野内木場村の知行目録について、慶長十九年に伊勢貞昌・三原重種・比志島国貞の三名が連署して確認した文書。 天正期の知行関係を後年に再確認した可能性があり、土地権利の継承と家中行政を追う材料となる。
天正20年12月28日 / 冊子 620~621頁
薩州田布施のうち、内侍先・濱田・日置町などにある浮免田を列挙し、阿多掃部介へ宛行った領知目録。 島津義久の袖判に加えて比志島国貞・町田久倍・長寿院盛淳らが確認し、複数地点に分散した知行地の構成を示す。
年月日未詳 / 冊子 793頁
伊集院忠棟と比志島国貞が薩摩を発って肥前名護屋へ赴き、忠恒の朝鮮渡海に従おうとした経過を記す。しかし忠恒の京都から名護屋への到着が数か月遅れ、兵士を名護屋で徒費させるより朝鮮の不足兵力を補うべきだとして先に渡海した。 七月三日に義弘の陣へ着岸し、その旨を義久にも伝えたという。忠恒渡海計画の遅延と家臣団の現実的判断が分かる記事。
文禄3年8月5日 / 冊子 805頁
義弘は国元から「百石につき五人」の軍役を出すと聞き、兵員到着を待っていたが、実際には在国の者が一人も渡海していないと訴える。伊集院忠棟・比志島国貞・又八郎らの供衆だけが名護屋まで来たものの、先へ渡海せず、手元が無人同然である窮状を記す。 石田三成宛書状の一部を抜き出した抄録で、朝鮮在陣軍への補充が約束どおり進まず、義弘が深刻な兵力不足に直面していたことを示す。