今川了俊書状
正月廿五日 / 冊子 73頁
今川了俊が武蔵守に、島津安芸入道明見は日向国臼杵院地頭職の御下文を拝領しながら未施行であるとして沙汰を求め、明見の忠節を理由に取り成した書状。
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正月廿五日 / 冊子 73頁
今川了俊が武蔵守に、島津安芸入道明見は日向国臼杵院地頭職の御下文を拝領しながら未施行であるとして沙汰を求め、明見の忠節を理由に取り成した書状。
永正八年十二月廿九日 / 冊子 600頁
島津忠治が種子嶋武蔵守に、弓箭の忠節を賞し、三か国のうち自然の地百町を宛行うことを約した証状。
天文八年九月廿六日 / 冊子 784頁
島津勝久が小倉武蔵守に、山中から庄内・都城まで忠節を尽くしたことを賞し、島津家の通字「久」を与えた書下。
正月十一日 / 冊子 786頁
島津勝久が小倉武蔵守に、新春を祝いながら、先の書状と十日の参上約束が延引していることを責め、談合のため十五日以前に早急に来るよう求めた書状。
天文九年十一月廿一日 / 冊子 791頁
島津貴久が川上武蔵守に示した犬追物の手組で、相模守入道以下の射手を各組に分け、騎射の順序と役割を定めた。
十一月廿六日 / 冊子 122頁
近衛信尹が新納武蔵守に、京都で不慮の錯乱が生じ諸事に頼る先がないため、奔走と助力を求めた書状。詳細は進藤筑後守から伝えるとしている。
二月二日 / 冊子 152頁
伊勢貞昌が種子島武蔵守に、進上された二つの茶入、とくに茄子形の茶入を見事と賞し、一つは所望者があれば取り計らうため預かると伝えた書状。屋敷の件は内膳から申し達すること、貞昌の孫と又三郎との縁組・祝言が整ったことも述べる。
二月二日 / 冊子 168頁
本文はNo.384と同文として省略される。No.384によれば、伊勢貞昌が種子島武蔵守に、進上された二つの茶入、とくに茄子形の茶入を見事と賞し、一つは所望者があれば取り計らうため預かると伝えた書状。屋敷の件は内膳から申し達すること、貞昌の孫と又三郎との縁組・祝言が整ったことも述べる。
十月廿五日 / 冊子 555~556頁
大坂の事態が急迫し、徳川家康が京都へ到着したため、兵を率いて早々に大坂表へ出陣するよう命じた四名連署状。関東側の仕置は整っているので、数日中の着陣を求める。
六月十五日 / 冊子 632頁
琉球三司官が種子島時尭に、妙満寺使節の渡海と両国の和親、贈物への謝意を述べた書状。
(大永元年)正徳十六年六月十五日 / 冊子 632頁
琉球三司官が前書に追啓し、種子島との交流と贈答に関する補足を伝えた書状。
天文九年十一月廿二日 / 冊子 791~792頁
犬追物の射手を左右の組に分け、本田民部少輔・嶋津武蔵守・相模守入道らの順番と射数を定めた手組。
天文九年十一月廿三日 / 冊子 792頁
嶋津上野入道・武蔵守以下を左右に配置し、各人の射数を記した犬追物の手組。
年月日未詳 / 冊子 816~817頁
伊東弥勝方が水谷に陣を置き、鬼ヶ城を攻撃した戦いを記す。北郷忠相方は武蔵守忠隅・新納忠勝らを通じて守備兵を支援し、各地から兵を集め、城戸・町・馬場方面で敵の進入を防いだ。攻城側の布陣と城方の救援・防戦を具体的に伝える。
年月日未詳 / 冊子 905頁
天文二十二年春、伊東義祐が飫肥八幡馬場へ侵攻したのに対し、島津忠親方が迎撃した合戦記事。武蔵守董兼ら双方諸将の進退と戦場での攻防を追い、上井為秋の働きによって伊東勢を退けた経過を軍功として記す。
永禄八年三月二十四日・五月朔日 / 冊子 139頁
永禄八年三月二十四日および五月朔日の戦死者を掲げた交名。吉満善左衛門久張、日置狩野介忠光、財部武蔵守盛慰らの名を伝える。
年月日未詳 / 冊子 169頁
天正十四年六月十日、豊後の志賀道益・入田氏が上井覚兼へ使者を送り、肥後の新納武蔵守からも同趣旨の注進が届いたことを記す島津義久譜の記事。海合人助に「調伏の矢」を持たせ、六月十四日に豊後へ向かう路上、国見の城腰付近で矢を射させた。軍事情報の共有だけでなく、敵を呪詛・制圧する祈祷的行為を作戦に組み込んだ珍しい記事である。
年月日未詳 / 冊子 293~294頁
豊後進攻では諸城が次々に降参する一方、岩屋城だけが抵抗し、島津家久・新納武蔵守らが攻め落としたものの大きな損害を出した。その後、関白秀吉と大和大納言秀長の大軍下向を知って撤退を決断し、豊後国内で味方を失いながら追撃を受ける情勢を記す。
年月日未詳 / 冊子 348頁
天正15年6月27日、島津義久が辰刻に高田を出発し、小川路を経て申刻に到着した行程を記す。同夜、新納武蔵守が義久を迎えて饗応し、金銀を進上した。上洛途上の日程と家臣による接待を簡潔に伝える日記記事。
年月日未詳 / 冊子 745~746頁
袈裟菊丸が籠る宮之城へ義久方の使者が赴き、母子と家臣の安全、知行の維持を保証して下城を促した交渉経過を伝える。母は歳久と同様の赦免を求め、福昌寺・新納武蔵守らの再度の説得を経て下城したという。 歳久死後の宮之城籠城が、身分・知行の保障を条件に収束した過程を具体的に残す書状。
慶長十四年二月廿一日 / 冊子 203~204頁
慶長十四年二月二十一日、島津義弘が家久に、亀井武蔵守の琉球支配願と大御所への働きかけ、朝鮮・琉球をめぐる従来の命令、琉球船と対外通商の利益を詳述し、使者や書状の錯綜を避けつつ琉球渡海を慎重に進めるよう説いた書状案。
十一月六日 / 冊子 425頁
天草鎮尚が島津方重臣へ、言上に対する懇切な上意と見事な馬の下賜に謝意を述べる。薩州との和談について異見を受けたことを承知し、細目は新納武蔵守と相談するとして、今後も助言と取次を求めた書状。
応安三年十月十四日 / 冊子 54頁
鎮西大将軍の下向を受け、一族・同心衆を早急に催して忠節を尽くすよう命じた足利義満の御教書。
年月日未詳 / 冊子 596頁
永正六・七年の国内動向と薩摩の事件を年次順に掲げ、島津忠治期の幕府関係、清水氏や島氏をめぐる動きを記す島津国史の記事。
天文十年正月十二日 / 冊子 793頁
相模守入道・嶋津上野入道らを左右に分け、各射手の射数を定めた犬追物の手組。
七月廿七日 / 冊子 172頁
北条泰時が豊後四郎左衛門尉に、薩摩国御家人の揖宿平四郎忠秀と頴娃平太との間で争われた開門神領の件について、豊後三郎左衛門尉とともに双方を召して裁決し、その結果を申告するよう命じた書状。
康暦二年三月朔日 / 冊子 120頁
足利将軍家が相模州東勝寺の住持職について先例どおり執務するよう命じ、細川武蔵守頼之がその旨を執達した御教書。
天文九年十一月廿六日 / 冊子 791頁
島津貴久が梵天・帝釈・四大天王以下の諸神仏に誓い、偽りがあれば神罰を受けると述べた起請文。川上武蔵守受久の譜に収められる。
年月日未詳 / 冊子 815~816頁
鬼ヶ城をめぐる島津忠廣方と伊東勢の攻防を、瀬戸口伊豆入道が回想した覚書。新納忠勝、上原式部、武蔵守忠隅らの配陣、城戸・逆茂木の突破、伏兵と援軍の投入、矢合わせを伴う接戦から撤退までを追い、攻城側の戦術と損害を具体的に記す。
天正元年十一月十三日 / 冊子 321頁
吉利氏の下総守忠澄の子孫を掲げ、三郎九郎長住・顧金らの名と花押を記す。長住は天正元年十一月十三日生まれで、母は上井武蔵守為秋の娘とし、忠紹は天正十六年生まれとする。
秩父将恒7歳時の伝承 / 冊子 419~420頁/原整理番号 6
従五位下・鎮守府将軍の秩父武蔵守将恒が七歳で初めて直垂を着た八月の祝儀に、季節外れの雪が白玉のように積もったという由緒。将恒が薄浅黄の直垂で庭に出ると雪が直垂上に降り、その跡が斑に残って言葉に尽くせない美しさを示したため、子孫がこれを『雪冠』の直垂文様として定めたと伝える。
永和元年九月廿二日 / 冊子 87頁
足利将軍家が、島津周防五郎左衛門尉範忠の播磨国布施郷公文職について、亡父忠兼が貞和二年六月二十一日に受けた御下文に従い、忠兼跡として沙汰付けるよう命じた御教書。
永和元年九月廿二日 / 冊子 87頁
足利将軍家が、島津範忠の播磨国布施郷地頭職に関する岩間四郎の件について、亡父忠兼が貞和五年七月二日に受けた御下文に従い、忠兼跡として沙汰付けるよう命じた御教書。
永和元年九月廿二日 / 冊子 87~88頁
足利将軍家が、島津範忠の播磨国布施郷下司職などについて、亡父忠兼が観応二年正月二十四日に受けた御下文に従い、忠兼跡として沙汰付けるよう命じた御教書。
天文九年十一月十一日 / 冊子 792頁
相模守入道をはじめとする射手を左右の組に分け、各人の射数を定めた犬追物の手組。
天文九年十一月十五日 / 冊子 793頁
相模守入道・嶋津尾張守らを組み合わせ、射手ごとの射数を示した犬追物の手組。
年月日未詳 / 冊子 817頁
鬼ヶ城攻防の続編。北郷忠相方は少勢の城兵を励まし、あえて伊東勢を城近くへ引き寄せ、伏兵と射手を配置して側面・城内から攻撃した。敵の攻勢を崩して退却させ、追撃によって鬼ヶ城を確保した経過を記し、寡兵での防御戦術を示す。
永禄八年二月七日~五月朔日 / 冊子 140頁
永禄八年、伊東勢が板敷田に伏兵を置いて本城兵十三人を討ち、新山外屋尾・楠原へ進出した経過を記す。五月朔日に忠親方が新山外屋尾を攻め破り敵二十八人を討ち四十人を捕らえ、物具七百を得たが、味方も三十人戦死・四百八十人負傷した。
年月日未詳 / 冊子 74頁
天正十三年閏八月十一日以降、島津忠長が義弘の肥後八代出陣に従い、堅志田方面で放火・城攻めを進めた戦闘記事。敵二百余を斬り、首級を挙げた一方で攻城側も損害を受け、梅北国兼らの軍が合流した。忠長は無衣無食に近い軍中で薄酒を与えて兵を励まし、翌日の攻撃に備えており、前線指揮の具体像が見える。
元和八年七月十二日 / 冊子 436頁/原整理番号 219
島津資久の所領・軍功に関する記録。日向国島津庄内の職や、京都での軍功、後年の領知・安堵の経緯を述べる。
記事成立日:未確認 / 冊子 177頁/整理ID TMP-P02-CONT-A13
北條武蔵守泰時・同姓相模守時房在判の書があり、左に記すと紹介する。
記事成立日:未確認 / 冊子 177頁/整理ID TMP-P02-CONT-A15
北條武蔵守泰時在判の書があり、左に記すと紹介する。
貞永元年閏9月8日 / 冊子 303~304頁/原整理番号 119-7
貞永元年閏九月八日、武蔵守北条泰時・相模守北条時房が在判し、豊後三郎左衛門尉島津忠時へ下した関東御教書。鹿島中務允康兼の郡司職に関する訴状を受け、相論の対決のため矢上三郎盛澄を召し進めるよう命じる。前掲系譜は二代康村を康兼とも称し、鹿島太郎・中務允として鹿島郡司・弁済使職、新田宮執印職を担い、迎阿の後夫であったとする。家蔵史料で、『旧記雑録前編一』366-1号文書と同一と注記される。
年月日不記 / 冊子 653頁/原整理番号 121
『諸家系図文書』六号文書と同一文書のため、本文を省略すると記す一行の注記。参照先の六号は秩父武蔵守将恒の七歳時の直垂着初と『雪冠』文様の由緒を伝えるが、その逸話は本項には再録されない。
年月日未詳 / 冊子 126~127頁/原整理番号 467
武蔵国に発する野辺氏の諸系統を示した系図。武蔵守隆泰―好隆―資秀の系統、木部次郎行兼・尾薗野五郎家高・野部六郎広兼から盛行・盛秀へ続く系統、横山介三郎時資・猪俣野五郎時範の系統などを掲げ、野辺太郎左衛門入道成願、久盛、盛忠、愛寿丸らへつなぐ。元弘三年五月の捕縛・赦免、深河院下向、義兵・凶徒鎮圧などの事績も傍注する。
〔元禄十二年〕六月十日 / 冊子 227~232頁/原整理番号 8の2
猿渡信安が二男助左衛門の初御目見願いに添えた家筋由緒覚。猿渡藤三郎の子藤四郎が武蔵守と称し、島津忠久に従って薩摩へ下向したとの伝承から説き起こす。歴代の地頭職、伊東氏・龍造寺氏との戦いや高麗陣での軍功、感状・知行・養子関係を詳述し、村山自伯らの系譜主張や焼失・散逸した証拠書類の照合経緯まで記す。
天正八年八月ほか / 冊子 267頁/原整理番号 24の16
『大友御退治御日帳』三日条から、羽月の猿渡掃部兵衛尉が使僧を通じて祝儀を申し上げ、新納武蔵守も同様に申し入れた記事を抄出する。あわせて天正八年八月の肥後国水俣陣の軍記勢揃に羽月地頭猿渡掃部兵衛が見え、この時期まで越中が掃部兵衛を名乗ったことを考証する。
永正八年十二月廿九日 / 冊子 377頁
島津忠治が種子嶋武蔵守の今度の弓箭における忠節を賞し、三か国のうち自然に得た土地百町を恩賞として宛行うと約した証状。本文には編年を誤り、No.1833と重複すると注記される。
7月27日(年未詳) / 冊子 452頁/原整理番号 14-1
北条泰時が豊後四郎左衛門尉へ、薩摩国御家人・指宿平四郎忠秀と頴娃平太忠継が争っている開門神領について、豊後三郎左衛門尉と共同で両当事者を召して裁決し、双方の主張と処置を注進するよう命じた七月二十七日付書状。本文後には指宿氏系譜を続け、忠成が郡司・小次郎を称し、法名を了心としたことを記す。
(天正16年)2月28日 / 冊子 382頁
小早川隆景が新納忠元へ新春を祝い、太刀一腰・青銅三百疋を贈った書状。前年、屋形様に拝謁した折の飛脚を鹿児島まで無事に送り届けてもらったことへ深く礼を述べる。境目に位置する事情を踏まえ、今後も隔意なく相談し合うよう求めており、小早川氏と島津重臣の実務的な交流を示す。