喜入忠譽書状
十二月七日 / 冊子 767頁
喜入忠譽が摂津介に、海路が不便で音信が滞ったことを詫び、相州へ越山する使僧からの連絡を承知した旨を述べ、詳細はその使僧に託した書状。
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十二月七日 / 冊子 767頁
喜入忠譽が摂津介に、海路が不便で音信が滞ったことを詫び、相州へ越山する使僧からの連絡を承知した旨を述べ、詳細はその使僧に託した書状。
天文八年六月廿三日 / 冊子 778頁
島津貴久が摂津介に、出陣と奔走への労をねぎらい、途中での戦闘・負傷を承知したこと、今後の働きを頼む旨を伝えた書状。
二月廿八日 / 冊子 353頁
島津貴久が摂津介へ、新年の慶賀を重ねて述べ、祝言を受けた喜びを伝えた書状。贈られた五明二本への謝意を示し、こちらからも祝儀の品を進献する。
七月十九日 / 冊子 353~354頁
島津貴久が摂津介へ、贈られた珍しい肴への謝意を述べた書状。前月の参会種をめぐる祭礼の混乱で連歌なども行えなかったため、来月は必ず参会するよう求める。
三月十四日 / 冊子 354頁
島津貴久が摂津介へ、先日の参会後に守全が遣わされたことや、人々が集まった場で村田方の件を申し合わせたことを伝えた書状。書状を披見のうえ、急ぎ越してほしいと求める。
三月十三日 / 冊子 354頁
島津貴久が摂津介へ、帰宅後の滞留事情を尋ね、龍雲寺方面の動向や別紙の用件を伝えた書状。帰りが遅いことを案じ、福昌寺の奉公人へ申し得た件も含めて事情を知らせる。
五月二日 / 冊子 355頁
島津貴久が摂津介へ、菖蒲の頃に加世田へ赴く予定と、伊地知から来た栗毛の馬について述べた書状。芸州の者の望みを聞き、父の馬との差し替えや敵方との交渉を検討する。
六月廿三日 / 冊子 356頁
島津貴久が摂津介へ、出張にあたり同心して奔走するとの申し出を頼もしく思うと伝えた書状。途中まで出陣したかを尋ね、労苦をねぎらう。
十二月十四日 / 冊子 345頁
島津忠良が忠俊へ、伊集院で約束した川野での千句興行を来る七日から行うので、五日頃に来れば六日から相談できると伝えた書状。発句ができれば示してほしいと求め、再会を期す。
七月廿二日 / 冊子 222頁
細川藤孝が、足利義昭への入洛御礼として喜入摂津介が太刀一腰・馬一疋・黄金百両を進上したことを披露し、義昭がこれを賞して御内書と則重作の太刀一振を与えた旨を伝えた副状。
年月日未詳 / 冊子 434頁
島津義久の書状案。相手の入洛を祝うべきところ、領国内の戦乱が絶えず遅れたことを詫び、疎意はないと伝える。祝儀として太刀一腰・馬一疋を贈り、詳細を喜入摂津介に託している。
(元亀二年)十一月十四日 / 冊子 258頁
豊前にいる宗入が喜入摂津介へ、前年の上洛中には将軍の摂津中島への移動など騒乱のため礼を尽くせなかったと詫びる。近国まで赴く機会があれば面会して謝意を述べたいが、当面は差し支えがあるため、来訪時の案内と取次を依頼した書状。
年月日未詳 / 冊子 227頁
島津恕翁譜が、島津伊久法師久哲の死後、二男忠朝が薩摩国平佐城に拠ったため、島津元久が守護の敵として軍勢を率いて同城を攻略し、忠朝方の碇山兵部太輔らを討ち取った経過を記す記事。
延徳二年三月廿六日 / 冊子 549頁
延徳二年三月二十六日に福島で行われた犬追物手組について、島津忠昌以下の参加者と疋数を記録した一覧。
年月日未詳 / 冊子 779頁
天文八年閏六月十七日、太守貴久の命で忠将が軍を率い、昼夜の攻防で味方を指揮したことを記す。八月四日の進軍と城内での戦闘、戦死者にも触れる。
延徳四年二月廿六日 / 冊子 133頁/原整理番号 48
延徳四年二月二十六日の犬追物手組。殿十五疋、島津兵部少輔五疋、島津徳三郎五疋、島津摂津介三疋、吉田治部少輔十一疋などを列記し、検見を島津十郎左衛門尉、喚次を三浦新五郎とする。次に延徳三年三月二日付の手組が掲載される順序は原本どおり。
年月日未詳 / 冊子 297頁/原整理番号 124
元久譜が、上総介伊久法師久哲の応永十四年五月四日の死去後、薩摩州平佐城にいた二男忠朝を守護への仇として兵を率いて攻め、城を陥したと記す。碇山兵部大輔、長野備前守、勝部摂津介、市来又左衛門尉、中間五郎九郎、石塚讃岐守らを斬獲したという。
寛永9年8月12日 / 冊子 24~25頁/原整理番号 30の4
加久藤衆の指出帳(文書30)の資料群に属する人数留。自分鉄炮衆と御物鉄炮衆を区分して人名を列挙し、御物鉄炮衆を十四人と集計する。末尾に申八月十二日と「茄へ参候留」を記す。
(寛永15年)正月17日 / 冊子 729頁/原整理番号 759
加久藤衆の島原立人数として人躰五十人、内衆四十二人等を記し、残る二十九人を伊地知弥右衛門ら十一名の人数に分けて列記する。十七日夜に米津へ到着したので飯米を引き渡してほしいと求める。伊地知杢右衛門尉から村田郷左衛門尉・猪俣猪右衛門尉宛。副本は加久藤地頭役屋に所在すると注記する。
三月十一日 / 冊子 207頁
島津義弘が到着後しばらく音信を欠いたことを詫び、近況を尋ねた書状。暇な時に訪ねて昔話などをしたいと面会を望み、仰せに従って軽微ながら品二つを贈るとして、隔意のない交誼を求めている。
永禄十二年六月十一日 / 冊子 226頁
細川藤孝が喜入季久から匠作を介して書状と黄金十両を受け取った礼を述べた書状。藤孝が思いがけず入手した小笠原家旧蔵の鞍一口を、伊勢因幡入道に添えて贈り、しかるべく取り計らうよう求めている。
永禄十二年六月十一日 / 冊子 226頁
喜入家に伝来する細川藤孝書状の別掲本。六月十一日付で喜入季久に宛てられ、本文と上包の宛所・藤孝の署名花押を示す。No.514と同日の贈答関係書状として収録されている。
(元亀元年)八月十九日 / 冊子 239頁
近衛前久が喜入季久の上洛を喜び、滞在中に必ず来訪するよう求めた書状。島津義久からの音信も受け取り祝着していると伝えるよう依頼し、詳細は進藤左衛門大夫が申し伝えるとする。
(元亀元年)八月十九日 / 冊子 239頁
進藤長治が喜入季久の上洛を祝し、以前薩摩へ下向した際の厚遇を忘れていないと述べた副状。世上の事情と多忙で面会できないことを残念がり、具体的な用件は大泉坊へ伝えたとし、贈られた線香一把への礼を述べる。
(元亀二年)六月十一日 / 冊子 245~246頁
細川藤孝が喜入季久の帰国後、二度書状を送ったが届いたかを尋ね、京都は現在平穏だと知らせた書状。季久在洛中は多忙のため疎遠になったことを今も残念がり、今後こちらで用事があれば隔意なく申し付けるよう求め、十一日韻の懐紙を贈る。
(元亀二年)九月十日 / 冊子 255~256頁
小笠原秀清が、父が美濃に滞在しているため自ら喜入季久へ返答した書状。京都の騒乱で長く在国し、音信を欠いたことを詫びる。季久から注文された空穂について、虎・豹皮が手に入らないため猪皮で製作させたと伝え、銀子三両を受領し、ゆがけ二具を贈る。
(元亀三年)四月七日 / 冊子 265頁
細川藤孝が喜入季久へ、池坊が薩摩へ下向するので取り扱いを依頼した書状。池坊は代々奉仕してきた者で昔から比類ない働きがあるとして、その旨を大守へ取り成し、特別に懇意にするよう求める。
(天正五年)九月三日 / 冊子 520頁
飛鳥井雅継が喜入季久に、父が不慮の病により八月七日に死去したことを知らせ、父と格別の知音であった季久に今後も変わらぬ交誼を求める。祝意のしるしとして扇子五本を贈り、相応の用があれば申し付けるよう伝えた。
(天正六年)六月十八日 / 冊子 544頁
飛鳥井雅継が喜入季久へ、日向で尽力して望みどおりの成果を得たとの京都での評判を称賛する。織田信長の軍事行動に伴い不意に在洛していて使者を送れないと断り、京都で用があれば申し付けるよう伝える。梶井門跡筆の歌と扇子二本を贈った。
万治元年十月日 / 冊子 33~45頁/原整理番号 8-1
『御家文書所持之貴賤同考之記』として、島津家・家臣・寺院などの所持する御家関係文書、書状、口宣案、写し、案文帳などを所持者ごとに掲げ、島津家の代々に照らして日付・発給者・通数を記した文書目録。元暦二年の頼朝袖判の御下文から義久・義弘・家久期の書状までを収め、末尾に『惣合百六拾九通』とする。一方、張紙には提出帳の条書が『百五十八』と記されている旨の注記があり、両数値の関係は本文だけでは確定できない。万治元年十月付で、伊兵少老へ差し上げた帳の写しであると記す。
六月廿八日 / 冊子 9頁
入洛の祝儀が領国の事情で遅れたことを詫び、太刀一腰・馬一疋・黄金百両を進上し、喜入摂津介季久と相談のうえ披露を依頼した書状案。
年月日未詳 / 冊子 31~33頁/原整理番号 7
島津安藝・島津大膳をはじめ、入来院石見、樺山源三郎、喜入摂津介、村田太右衛門、亀山又六、最上右近、指宿助左衛門、白濱治大夫らが所持する御家関係文書を、所持者別に列挙した記録。元暦二年の伊勢国波出御厨・須可御庄の地頭職御下文、島津御庄下司職御下文をはじめ、頼朝の判をもつ文書や後代の文書・写しを、日付・発給者・通数とともに記す。個々の文書の本文ではなく、所在と概要を示す目録である。
正月七日 / 冊子 55~56頁/原整理番号 22-1
喜入摂津介の先屋敷一町を御船手用地にするため、船頭・水主の移転が一度にはできない事情を認め、空いた所から順次引き渡すよう船奉行に伝える引付。明暦三年四月二十六日付。
年月日未詳 / 冊子 78頁/原整理番号 9
『島津摂津介忠春日記』の永正十八年正月の記事。忠春が鹿児島で藩主に拝謁して滞在し、大内方の使者・塩田壱岐守が来訪して太刀や織物などを進上したこと、忠春も酒宴に同席してから帰ったことを記す。
年月日未詳 / 冊子 79頁/原整理番号 10
『島津摂津介忠春日記』の享禄二年正月一日から七日の記事。忠春が鹿児島で新年の出仕と節供、三献・椀飯、福昌寺や鎮守への参詣、関係者との酒宴などに参加した経過を日ごとに記す。
年月日未詳 / 冊子 170頁/原整理番号 63
『島津摂津介忠春古日記』享禄二年二月二十・二十一日の記事。二十日に例講神狩があり、鹿二頭と猪一頭を得たと記す。与四郎・弥二郎らが赴き、翌日には藤左衛門が帰ったことなど、参加者の動向も記録する。
保年月 / 冊子 170頁/原整理番号 64
『島津摂津介忠春古日記』天文六年正月の記事。五日に恒例の下狩倉で狩りを行い、城衆五人が加わり、獲物七頭を得た。夕方から雨が降った。七日は荒平で狩りを行い、猪鹿五頭を得たほか、手負いの獲物をめぐるやり取りを記す。季安は注で、当時の狩りに弓矢が用いられたと考える。