国老用人記
慶長十一年 / 冊子 53頁
国老用人記の記事。慶長十一年、島津義久が帖佐から平松へ移った後、二年間在城した際の家老として、新納旅庵・新納弥七左衛門・伊勢平左衛門・上井次郎左衛門を挙げ、御使衆として新納本右衛門入道一甫を記す。
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慶長十一年 / 冊子 53頁
国老用人記の記事。慶長十一年、島津義久が帖佐から平松へ移った後、二年間在城した際の家老として、新納旅庵・新納弥七左衛門・伊勢平左衛門・上井次郎左衛門を挙げ、御使衆として新納本右衛門入道一甫を記す。
慶長十一年四月四日・七日 / 冊子 65頁
慶長十一年四月四日、島津忠恒が愛宕山へ参詣し、同月七日に徳川家康が伏見へ入ったことを記す島津家久譜の記事。
慶長十一年廿二日 / 冊子 102頁
慶長十一年十二月二十二日付の島津家久公帖案。本文はNo.245の文書と同文であるため省略された旨を記す。
慶長十一年八月吉日 / 冊子 148頁/原整理番号 88
慶長十一年八月吉日の犬追物手組。「二日二番」と題し、家久様、吉田治部左衛門尉、仁礼舎人佐、山田民部少輔、島津式部少輔らの射手と各人の犬数を列記し、検見・喚次の役を付す。
年月日未詳 / 冊子 36~37頁
島津常久の公宅警衛の番替と帰国航海を記した記事。十一月四日に川田大膳正、同月二十日に伊集院肥前入道元巣が常久に代わる警衛として上京した。常久は同月二十六日に伏見を発ち、十二月五日に大坂から福島へ、同月八日に伝法から播州室津へ進んだが、逆風のため航海が滞った。同月十九日に筑前唐泊へ繋船して船中で越年し、慶長十一年正月八日未刻に薩摩へ帰着した。
年月日未詳 / 冊子 54頁
慶長十一年正月中旬、造られた石槽船がすべて帆を開き、淡路国の由良・岩屋などの港へ向けて出航したことを記す島津家久譜の記事。
年月日未詳 / 冊子 78頁
慶長十一年六月十七日、徳川家康が島津忠恒に一字を与え、忠恒が従来の「久」の字と組み合わせて「家久」と号したことを記す島津家久伝記の記事。
年月日未詳 / 冊子 93頁
慶長十一年十一月二十七日に犬追物を催す企てがあり、前日に太守から犬追物用の籠手を与えられ、その件に関する書状も受けたことを記す島津常久譜の記事。
「寛永十八年」十月廿三日 / 冊子 169頁
島津久慶・山田有栄・鎌田正統・頴娃久政・島津久元が寺師半右衛門へ、大口の役人・衆中が手薄で用務に支障があるとの新納加賀守の申し出を受け、寺師に関係する役務・公役の扱いを調整し、当地の衆中のため万事念を入れて勤めるよう求めた連署書状。本文注は、島津忠恒が慶長十一年に徳川家康から『家』字を与えられ家久と称したとする。
廿三 / 冊子 392頁
風向きが強まる見込みなので来訪するよう促した、慶長十一年ごろとされる島津家久書状。
慶長11年正月19日ほか / 冊子 343~346頁/原整理番号 130-33
慶長十一年正月十九日付の切紙名寄帳抄。〔日か〕州久津良村の浮免坪付を省略し、合計一石四斗四合を衆中屋敷として返地したと記し、高岡御支配所印を据える。付随系譜の十四代忠辰は天正十三年生まれで、島津光久から三河守の名を賜り、家久の出馬に十八歳で馬廻として供奉し、寛永三年に上京した。光久の御題「春の雪」・菊・清見関の梅に応じた和歌を載せ、江戸で奏者番、日州代官役、与頭役を務め、寛文元年十二月十七日に七十七歳で没したとする。十五代久堅は元和六年生まれで光久の扈従となり、笹右衛門の名を賜って援役・与頭役を務め、元禄二年十一月十九日に七十歳で没し、子女・養子・婚姻・法名を列記する。十六代家寛は慶安三年生まれで、元禄八年に曾祖父忠宅が改めた源姓川上を上野守久尚へ返進して大蔵姓を再び継承し、援役・与頭役を務め、享保十一年正月二十四日に七十七歳で没したと記す。
(慶長十一年)四月九日 / 冊子 66頁
差出人不詳者が少将殿に、先に厚意を受けたことへの礼を述べ、音信のしるしとして太刀一腰・月毛の馬一疋・蝋燭百挺を贈った書状。少将殿の滞留中に参上して詳しく申し述べるとし、残りは西川左馬に伝え含めたとする。
(慶長十一年)四月廿三日 / 冊子 69頁
差出人不詳者が島津忠恒に、忠恒の上洛を承知し、本来なら参上して挨拶すべきところ、忠恒が参内前で取り紛れているため訪問を控えたと伝えた書状。落ち着いてから面会して万事申し述べるとし、まず書状を送ったことを記す。
(慶長十一年)五月朔日 / 冊子 70~72頁
島津義弘が島津忠恒に、四月八日付書状を同月二十三日に受領し、忠恒が無事在京していることを喜んだうえで、鹿児島を中心とする国絵図・田帳作成の遅延と役人の怠慢を厳しく批判した長文書状。田地・知行・年貢の処理、渡海船・材木・銀子の手配、関係者間の争論など領国行政上の諸案件を列挙し、吟味・裁定と迅速な報告を求める。
慶長十一年五月二日 / 冊子 72~73頁
伊集院抱節・山田理安が連署した、財部内の知行地割目録。蒲興禅寺内などの田地を田位・面積・石高ごとに示し、仲兵衛・五郎右衛門・権右衛門・助六・伝右衛門・源太・弥六左衛門らへ割り付ける。総高二十三石九斗余と、ほかに高山へ遣す七石余を記し、二口を合計する。
慶長十一年五月二日 / 冊子 73頁
伊集院抱節・山田理安が連署した、高山内の知行名寄目録。赤池屋敷の田畠・屋敷を玄清・和泉・藤左衛門・与介・次郎左衛門・藤兵衛らの知行人別にまとめ、田位・面積・石高を列記する。総高二十石のうち合計七石一斗余を名寄し、残る十二石九斗余を財部へ遣すとする。
(慶長十一年)九月九日 / 冊子 89~90頁
島津義弘(惟新)が入来院石見重頼に、川上掃部助が先に伝えた石見守の身上の件について返答がなく心配していると催促した書状。所領が少なく将来の成敗も難しいため、入来院後室が石見守を養子に望んだ縁組を少将殿と内談しており、古家である入来院家を一門・家中が協力して支えるべきだと説く。新田参詣に出立するため、九月十三日頃に届く返事を求める。
慶長十一年八月十一日 / 冊子 266頁/原整理番号 21
一向宗の取調べに際し、伊地知重政が自分は同宗に入らず、以後も異心を持たず、忠勤に努め、野心・不忠をしないと誓う起請文。
慶長十一年二月上旬・二月十五日 / 冊子 59頁
島津家久譜の記事。慶長十一年二月上旬、島津忠恒が江戸へ向かうため鹿児島を発ち、官道を通って同月十五日に京都へ着き宿泊した。供奉の家老は比志島紀伊守国貞・伊勢兵部少輔貞昌・山田民部有栄で、ほかの従者名は伝わらない。島津義弘は本田源右衛門尉親同・伊勢平左衛門尉貞成および旗手の士を遣わし、忠恒を乗船地の港まで見送らせたことを記す。
慶長十一年三月四日 / 冊子 59~61頁
慶長十一年三月四日に催された『詠花有喜色』を題とする和歌会の詠草。島津義久・義弘をはじめ家臣や僧侶らが、春の花の色、霞、雪、風、長閑さなどを詠み交わした。
慶長十一年三月二十七日 / 冊子 61頁
慶長十一年三月二十七日、島津忠恒が芸州から高崎へ赴いて船に乗った際、上国から帰る三原諸右衛門重種の使者に会い、情勢を記した書一通を託して国元へ返したことを記す島津家久譜の記事。
(慶長十一年カ)四月八日 / 冊子 65頁
島津義久(龍伯)と島津忠恒が連署し、侍の命令服従、武具の整備、殿役、喧嘩の停止、外城衆の地頭への服従、百姓の耕作時刻、普請・狩猟、服装・飲酒、出物などを定め、違反者には所領没収または成敗を科すとした掟書。本文は後編3 No.1955と同文のため省略されている。四月八日付で、慶長十一年かとの張紙があり、義弘公御譜には正文を市後崎長右衛門が進上したと記す。
(慶長十一年)四月十九日 / 冊子 68頁
慶長十一年四月十九日、島津忠恒が伏見城へ登り、徳川家康に拝謁して職務上の礼を述べたことを記す島津家久譜の記事。
(慶長十一年)六月六日 / 冊子 76頁
島津家久譜の記事。慶長十一年六月六日、麗陽城楼門前の板橋が新たに完成し、渡り初めとなった。同日、伏見にいた島津忠恒が、国元の家老島津図書入道紹益・樺山権左衛門久高へ自筆の書を下し、来秋には必ず大島を討つので決して怠ってはならないと命じたことを記す。
(慶長十一年)六月十七日 / 冊子 77頁
島津家久譜の記事。慶長十一年六月十七日、島津忠恒が召しに応じて伏見の徳川家康の営へ赴き、家康の諱から「家」の一字を賜った。さらに宝刀一腰と駿馬一匹を拝領し、賜った「家」字と「久」字を合わせて家久と称した。山口直友・本多正純らを介して謝恩し、両名から祝書を贈られたことを記す。
(慶長十一年)七月三日 / 冊子 82頁
慶長十一年七月三日、長崎奉行長谷川藤広が島津家久に書状を送り、南蛮黒船が長崎湊へ来着したことと、家久の希望する用件を取り計らう旨を伝えたことを記す島津家久譜の記事。
慶長十一年十一月廿五日 / 冊子 95頁
慶長十一年十一月二十五日に行う犬追物の手組を記した一覧。殿をはじめ本田弥六・島津摂津守・島津次郎・比志島宮内少輔など射手の名と割当てを列記する。
慶長十一年十一月廿五日 / 冊子 95頁
慶長十一年十一月二十五日の「初日」における犬追物手組の別記。一番の殿以下、本田弥六・島津摂津守・島津次郎・比志島宮内少輔などの射手と割当てを列挙する。
慶長十一年十一月廿五日 / 冊子 95頁
慶長十一年十一月二十五日の犬追物手組を記す項目。本文は先行する手組記録と同文であるため省略された旨の注記を伴う。
慶長十一年十一月廿五日 / 冊子 95頁
慶長十一年十一月二十五日の犬追物手組の別記。本文はNo.280の記録と同文であるため省略された旨を記す。
慶長十一年十一月廿六日 / 冊子 95頁
慶長十一年十一月二十六日の犬追物手組を記す項目。本文は後掲のNo.284と同文であるため省略された旨の注記を伴う。
慶長十一年十一月廿六日 / 冊子 95頁
慶長十一年十一月二十六日の犬追物手組を記した一覧。二日目の射手について、殿以下の人名と組合せ・割当てを図示する。
慶長十一年十一月廿六日 / 冊子 96頁
慶長十一年十一月二十六日、二日目の犬追物手組を記した一覧。殿以下、島津式部太輔・島津摂津守・島津河内守・本田弥六らの射手名と割当てを列挙する。
慶長十一年十一月廿六日 / 冊子 96頁
慶長十一年十一月二十六日の犬追物手組を記す項目。本文はNo.285の記録と同文であるため省略された旨の注記を伴う。
慶長十一年十一月廿六日 / 冊子 96頁
慶長十一年十一月二十六日の犬追物手組を記した一覧。殿以下、島津河内守・島津杢右衛門尉・伊勢平左衛門尉らの射手名と組合せ・割当てを図示する。
慶長十一年十一月廿六日 / 冊子 96頁
慶長十一年十一月二十六日の犬追物で、二日目第三番に当たる手組を記した一覧。殿以下の射手名と組合せ・割当てを列挙する。
慶長十一年十一月廿六日 / 冊子 97頁
慶長十一年十一月二十六日の犬追物手組を記す項目。本文はNo.288の記録と同文であるため省略された旨の注記を伴う。
慶長十一年十一月廿六日 / 冊子 97頁
慶長十一年十一月二十六日の犬追物手組を記す項目。本文はNo.287の記録と同文であるため省略された旨の注記を伴う。
慶長十一年十一月廿七日 / 冊子 97頁
慶長十一年十一月二十七日、犬追物三日目第一番の手組を記した一覧。殿以下、島津又吉・島津摂津守・島津十郎・三原次郎四郎ら射手の名と割当てを図示する。
慶長十一年十一月廿七日 / 冊子 97頁
慶長十一年十一月二十七日、犬追物三日目第二番の手組を記した一覧。殿以下の射手名と組合せ・割当てを示す。
慶長十一年十一月廿七日 / 冊子 97頁
慶長十一年十一月二十七日の犬追物手組を記す項目。本文はNo.292の記録と同文であるため省略された旨の注記を伴う。
慶長十一年十一月廿七日 / 冊子 97頁
慶長十一年十一月二十七日の犬追物手組を記す項目。本文はNo.291の記録と同文であるため省略された旨の注記を伴う。
慶長十一年十一月廿七日 / 冊子 97頁
慶長十一年十一月二十七日、犬追物三日目第三番の手組を記した一覧。殿以下、島津河内守・島津式部太輔・島津勘解由次官・平田新三郎らの射手名と割当てを列挙する。
慶長十一年十一月廿七日 / 冊子 98頁
慶長十一年十一月二十七日、犬追物三日目第二番の手組を記した一覧。殿以下の射手名、組合せ、各人の割当てを図示する。
慶長十一年十一月廿七日 / 冊子 98頁
慶長十一年十一月二十七日の犬追物手組を記す項目。本文はNo.296の記録と同文であるため省略された旨の注記を伴う。
慶長十一年十一月廿七日 / 冊子 98頁
慶長十一年十一月二十七日の犬追物手組を記した別一覧。殿以下、島津河内守・島津式部太輔・島津勘解由次官・平田新三郎らの射手名と割当てを列挙する。
慶長十一年十一月廿七日 / 冊子 98頁
慶長十一年十一月二十七日の犬追物で奉行を務めた者の交名注文。殿を筆頭に、島津上野入道・弟子丸右京進・本田与兵衛尉・伊集院源左衛門尉を列記する。
(慶長十一年)十一月廿八日 / 冊子 99~100頁
慶長十一年十一月二十八日、犬追物に際して守るべき作法と心得を列挙した覚書。馬の立替え、序破急、縄際での射方、弓・鏑の扱い、犬や他の射手への配慮、検見・相談、借用品の返却などを細かく定める。
慶長十一年十一月晦日 / 冊子 100頁
慶長十一年十一月晦日、犬追物をめぐる佐多又太郎と新納近江守の申分について、いったん和解した両名が手組の際に再び角を立てたため退けた事情を述べ、私意なく後進の模範となるよう北郷忠能に命じた書下。
(慶長十一年)十二月六日 / 冊子 101頁
慶長十一年十二月六日、島津家久に対し、この冬は上方に滞在し、春になってから江戸へ下向するよう伝えた連署状。京都での宿所や取次、進物の扱いについても指示する。