島津義弘証状
慶長三年二月十五日 / 冊子 194頁
島津義弘が、朝鮮加徳島で昼夜にわたり粉骨し、軍兵の勝利を祈祷した櫻井坊慶長坊へ与えた証状。五大尊不動明王絵像一幅と古備前の太刀一腰を、大田吉兵衛を介して拝領させたことを証し、今後も肝胆を砕いて働くよう求める。
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『旧記雑録』前編・後編・附録10冊と追録1~8(暫定版)、『旧記雑録拾遺 伊地知季安著作史料集1~9』『家わけ1』(暫定版)、関連史料(外伝)『島津世禄記』の46,754件を横断検索できます。検索範囲は史料群・巻を組み合わせて選べます。結果は50件ずつ表示します。
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慶長三年二月十五日 / 冊子 194頁
島津義弘が、朝鮮加徳島で昼夜にわたり粉骨し、軍兵の勝利を祈祷した櫻井坊慶長坊へ与えた証状。五大尊不動明王絵像一幅と古備前の太刀一腰を、大田吉兵衛を介して拝領させたことを証し、今後も肝胆を砕いて働くよう求める。
慶長十二年三月廿六日 / 冊子 249頁/原整理番号 184
三月二十六日付の書状抄。先に約束した馬追の見物は、体調と当地の馬追の都合でかなわないと伝える。一方、先方の馬追に向けて地元から馬乗り五、六人を派遣するよう申し付ける。
十一月十六日 / 冊子 357~358頁/原整理番号 120
島津惟新の書状抄。伏見の留守番のため上方へ送るべき人数が出されていないことを案じ、上方情勢の変化に備え、鹿島太郎兵衛を使者として国元の対応を促す。
慶長十九年八月七日~十月朔日 / 冊子 543~544頁
慶長十九年八月七日から十月朔日までの御日記抄。島津義弘(惟新)からの伝言をはじめ、島津家久(奥州様)の川内通過と長崎出立、村尾源左衛門尉入道・新納次郎四郎らの長崎出立および出立人数の編成、奥州様への茶の進上、鎌田左京亮による使節と焼葉壺三つの進上、小城権現座主職への善乗院任命、本田伊豆守の鹿児島への使い、新納次郎九郎の見舞いなどを記す。
弘化四年九月廿一日(戦死者法会)。慶長三年の戦を回顧 / 冊子 82~83頁/原整理番号 128/整理ID 128
慶長三年十月の泗川の役と同年十一月の戦から二百五十年に当たり、斉興がその年の戦死者の霊を弔った記事。九月二十一日、福昌寺住持独山を導師として薩府妙谷寺で施餓鬼会を行い、敵兵数万の亡魂にも施したと記す。貫明公・松齢公・一唯公の霊牌を置き、家老調所広郷が代わって礼拝し、戦死者の子孫も法筵に礼拝して食を賜り、僧俗に粥を施した。松齢公は征韓の役で伊集院妙円寺を菩提所としたが、場所が不便なため妙谷寺で法会を行ったと説明する。貫明公の肥前名護屋出陣と征韓事の指揮にも言及し、戦死者子孫の名録を作ったと記す。斉興譜に戦死者四十八名の列記があるという編者注があるが、本記事に各名は掲載されない。
慶長5年10月10日(1600) / 冊子 458~459頁/原整理番号 14-17
島津惟新が指宿清左衛門尉へ、美濃国関ヶ原合戦で粉骨し、伊勢・近江・伊賀・大和・河内・和泉を経る帰国途上も片時も側を離れず奉公したことを賞して、知行百石を宛行った慶長五年十月十日付感状。後続系譜には、出水の八重尾因幡守家、蒲生の野村九右衛門家への婚姻、福山居住、忠易夫妻の出水での没年・法名などを記す。
慶長4年6月18日 / 冊子 567~568頁/原整理番号 69
伊集院源次郎忠真が肱枕老(川上忠智)へ、三月に石田治部少輔からの使者として下った桜木平右衛門尉が当地に滞留し、海路・陸路とも往来できず上洛が延びていたが、今回一人を添えて上洛させるので当地の様子を取り成してほしいと伝える。忠真は、武庫様の直書を拝見し自身の進退にも懇意を示された一方、幸侃が成敗された後に義弘様へ自分の処遇を尋ねても納得を得られず、諸口の往来を止められ、幸侃と同罪にされるように見え、境目の者による放火もあると訴える。義弘様の指示がなければ身上の決着はつかず、今は召し籠められたような状態だとして、武庫様への取り成しと早急な解決を川上に依頼する。慶長4年6月18日付。欄外には『旧記雑録後編三』762号と同一文書かとの推定注記がある。
慶長4年7月13日 / 冊子 568頁/原整理番号 70
島津惟新(義弘)が山田越前入道(理安)へ、国元に異変がないことを喜び、上方も一段と無事であると伝えたうえで、庄内の様子を尋ねる。時節柄の心配を述べ、若い少将殿には竜伯様から諸事を言い聞かせられるよう、山田が内々に親しく働きかけてくれればありがたいと依頼する。慶長4年7月13日付。本文冒頭の『正文本田弥九郎』は正文の所在を示す注記で、宛名ではない。欄外には『旧記雑録後編三』803号と同一文書かとの推定注記がある。
慶長4年8月6日 / 冊子 569頁/原整理番号 71
島津惟新(義弘)が伊東豊後守へ、下向後に何度も書状を出したこと、上方は無事であることを伝え、国元と庄内の様子を問う書状草案。伊東の家中から庄内へ魚・塩などを送っているとの風聞に加え、庄内からの落人が多数いてその噂は事実だとの知らせが国元から届くため、事実なら一揆への同意と受け取られかねず伊東のためにもよくないと警告する。さらに、石田治部少輔から庄内へ下った使者が伊東家中の者のように通行し、源二郎も同心したとの情報を挙げ、内府様が事情を確かめるため山口勘兵衛尉を遣わしたと述べる。惟新は、これまで伊東と親しく相談してきたからこそ風聞を告げるとして、私的な通交も含め庄内との連絡を避け、在国の竜伯・少将と相談するよう求める。慶長4年8月6日付。欄外には『旧記雑録後編三』841号と同一文書かとの推定注記がある。
慶長4年11月6日(傍注は慶長5年か) / 冊子 571~572頁/原整理番号 74
伊集院源次郎忠真が平野源右衛門尉・高皇新蔵へ、幸侃の罪科を糺明しないまま成敗したことを迷惑だと訴え、忠真自身も三月以来取り籠められ、誠実な申し立てが非道と受け止められていると述べる。竜伯・兵庫頭と通じたなどの嫌疑は根拠がなく、忠真は今後も毛頭背くつもりはないとして、内府様に事情を申し上げる機会を求める。薩州へ使者一人を出して公に説明し、必要なら自分一人で出頭して咎めを受ける覚悟だとし、志摩守による取次ぎと召し出しの手配を両人に頼む。本文末の年次は慶長4年11月6日だが、欄外には慶長5年かとの推定が付く。付属の包紙については、庄内の騒動時に忠真が寺澤志摩守へ示した証文の後証として伏見で志摩守・惟新が封目に判を据えた旨の説明がある。
慶長4年夏 / 冊子 572~573頁/原整理番号 75
島津義弘の覚書として、先祖に関わる儀礼、殿中の作法、子ども・町人以下の扶持や食事などは竜伯が定めた方式を変えず、判断に迷う事柄は竜伯へ相談するよう列挙する。鹿児島・諸外城の居住や役人の配置、諸方からの用所への申出には早く対応し、無足衆の扶持・高麗への出物人数・京都への参詣や鹿児島への移住希望も扱う。殿中の番や掃除、奉公人・家臣の移動、家中の相談、裁きと知行の配分を定め、近習や特定の者への私的な取り立てを避けるよう求める。大酒を禁じ、食物その他の昼夜の用心、依怙の禁止、もてなしや座の興行を口実に近づく者の扱い、新田宮の再興、家中に制札を立てないことにも及ぶ。末尾は慶長4年夏。個別の命令が連続する形式で、宛名は記されない。
慶長4年夏 / 冊子 574頁/原整理番号 76
島津義弘の覚書として、竜伯が定めて置いた法度や内向きの作法を安易に捨てず、国元の用件が片づくまでは遊山・乱酒を控えるよう求める。留守中に諸事をよく尋ね、諸外城の無足衆に伝えるべきこと、元日の作法、鹿児島での神水と一向宗の法度、信心を捨てないことを箇条書きにする。さらに、やむを得ない殺害や国衆の成敗は慎重に判断し、女中方へもみだりに命じないよう戒める。慶長4年夏の記載があり、宛名・署名は記されない。欄外には『旧記雑録後編三』755号と同一文書かとの推定注記がある。
8月10日(慶長4年の傍注) / 冊子 574~575頁/原整理番号 77
龍伯が武庫入道へ、息女を当家の人質として十三年間京都に置いた事情と、その世話を頼んだ夫婦たちについて述べる。息女のことを関係者に広く任せるのは外聞がよくないとして、又八郎と相談したい意向を示し、平田豊入、川東善右衛門、猿渡九郎左衛門尉らにも言及する。又八郎は神妙に見えると喜びつつ、酒を飲み過ぎないよう細かく言い聞かせることを求め、少将殿にも意向を伝えてほしいと頼む。8月10日付で、慶長4年は本文外の傍注。上書に『武庫入道殿』『龍伯より』とあり、欄外には『旧記雑録後編三』849号と『家わけ三 町田文書』287号との同文推定注記がある。
11月6日(慶長3年の傍注) / 冊子 575頁/原整理番号 78
龍伯が羽兵庫頭・又八郎へ、防戦の大勝と二人が自ら働いて挙げた武功を、比類ない名誉として祝う。老中・奉行衆にも喜びを伝え、戦場に稲荷が現れたとの報告や野狐に関する前代未聞の出来事に触れ、鹿児島・富之隈・京都の稲荷に礼を申し祈念すると述べる。現地の様子を取り次いで早く知らせてほしいと求める。11月6日付で、慶長3年の年次は本文外の傍注。欄外には『旧記雑録後編三』556号との同文推定注記がある。
慶長17年6月16日 / 冊子 578~579頁/原整理番号 85
起請文の誓約者たちが比志嶋紀伊守へ、国分御上様との間で親子の進退を内談したことはなく、国分から申し入れを受けたこともないと誓う。菊袈裟が国分御上様の養子になるとの風聞も、誰かと相談したことも否定し、今後もそのような内談をしないと約束する。奧州様に害となる企てをしないこと、これに類する不審な話を聞けば申し上げることを条項に加え、慶長17年6月16日付で又四郎・忠仍・ぎくけさの名が並び、血判の記載もある。
慶長7年8月10日 / 冊子 579頁/原整理番号 87
惟新(島津義弘)が竜伯尊老(島津義久)へ、今度の『調事』では企てに全く関与していないと申し上げ、その説明が余すところなく聞き入れられて安堵したと誓う。今後たとえ讒言で妨げられても隠さず申し上げ、互いに疑いを残さず熟談して御家の長久を図ると約束する。京都からの『御噯』については御家のためによいと述べたが、私曲を構えたわけではないと弁明する。慶長7年8月10日付で、前項86と同様に讒言と家の将来をめぐる疑心を問題にするが、本件には惟新の署名と竜伯尊老の宛所がある。
4月朔日(慶長4年の傍注) / 冊子 581頁/原整理番号 91-1
前田利長・毛利輝元・上杉景勝・宇喜多秀家・徳川家康の五人が、羽柴薩摩宰相と羽柴薩摩少将へ、時勢に乗じて法度に反する移動をする者を厳しく禁じるよう通達する。違反者を後で聞きつけた場合には本人だけでなく一類をことごとく成敗すると明記する。4月朔日付で、慶長4年は本文外の傍注。二名の宛所と五人全員の花押があり、同頁前後の鎌倉期の文書とは時代も発給主体も異なる。
慶長4年5月11日(参照する書付の日付) / 冊子 582頁/原整理番号 91-2
編者が、宰相宛ての書状、家康の誓詞、五大老の御書二通以外は見当たらないと記す。一方で同じ慶長4年5月11日の書付に別の記録があるため、考証のために掲げ、連名の廻文本文は省略して対馬侍従・久留目侍従・薩摩侍従の三名だけを列挙する。傍注はそれぞれ宗義智・小早川秀包・島津豊久とする。廻文の具体的な用件はこの抄録からは分からず、前項91の1の処罰通達と同内容とは断定できない。
慶長十九年五月廿六日・十月十日・十月廿六日 / 冊子 581頁/原整理番号 7
慶長十九年の日記から大学坊の使者勤めを抜書したもの。五月廿六日に霧島山脇坊衆へ派遣され、般若寺別当坊を霧島座主と定める旨を伝達したこと、十月に羽柴越中守への使者として小倉へ赴き帰着したことを記す。
慶長三年三月廿二日 / 冊子 356頁/原整理番号 3
慶長期以後の高帳や旧記を引き、給地の割当てと田租の変化を考証する。領内の諸士・役人に関する記録を照らし、知行高の算定に用いる史料を示す。
年月日未詳 / 冊子 897-898頁
慶長八年の諸種の出物を日付・賦課率・金額ごとに列記した覚書。若殿の慶事や上洛、大峯関係などに伴う負担を記し、銭合計一貫九百四十四文と、別途の出米七斗二升五合を算出する。
四月二日 / 冊子 11頁
本田氏に伝わる慶長九年・十年の公用出物を、日付ごとに銭・米・石高などの数量で記録した控。慶長九年八月から十年三月までの個別支出と、二年分の銭五貫百九十二匁などの合計を掲げ、石高に応じた負担額も算出している。
年月日未詳 / 冊子 45~51頁
慶長十年の国府衆中を家ごとに列記した大規模な交名。町田縫殿助(後の駿河守)をはじめ、各家の当主・子・兄弟・養子・婿・被官らの姓名、入道名、役職、親子・養子関係、居所・移住先、出仕・死亡などの注記を収める。
年月日未詳 / 冊子 521~522頁
慶長十九年日記のうち正月三日以降の記事。年頭の拝礼、家臣や使者の参上、進物、酒宴、江戸・駿河方面との往来など、年初の儀礼と政務を記録する。
寛保二年四月十一日 / 冊子 685頁/整理ID 1785
継豊は、琉球から清へ渡す進貢・接貢料銀について、元禄銀・宝永銀・慶長銀への過去の吹替を述べる。今回の文字銀への吹替では琉球側が受け取りに難渋するため、従前の慶長銀に替えて渡すよう幕府へ願い出た。
年月日未詳 / 冊子 167~168頁/原整理番号 83
慶長19年11月11日、奥州様の大坂出張に際して定めた陣中法度を記す。陣中での酒宴、喧嘩・私闘、防戦、騒動、鉄砲使用、奉行衆の指図、異国衆や船の出入り、留守中の宿泊などを規制し、違反者を厳科に処すとする。
年月日未詳 / 冊子 213頁/原整理番号 136
切支丹禁制の徹底により、小笠原権之丞・榊原加兵衛らの赦免を認めず、宗門を離れなければ召し出すとした慶長日記の記事。
年月日未詳 / 冊子 213頁/原整理番号 138
将軍家が大久保相模守に対し、上方・畿内・西国の切支丹宗門を法度として詳しく調査するよう命じた慶長日記の記事。
年月日未詳 / 冊子 226頁/原整理番号 166
『慶長十九年御留守中日記』十二月二十七日の記事。藩内の馬を他国へ出すことを厳禁し、一所衆と諸外城へ廻文で申し渡した。馬の領外移出を統制した記録。
五月朔日 / 冊子 224~225頁/原整理番号 162
慶長十年五月一日頃の書状抜書。御馬追を相手の下向まで待つようにとの意向に対し、時期が過ぎるため、まず諸所の馬追を行うよう申し付けると述べる。捕えた駒は数疋を残し、後日相手が鹿児島へ来た際に見せる考えを伝える。
慶長4年8月6日 / 冊子 569~571頁/原整理番号 72
島津義弘(惟新)が伊集院源次郎忠真へ、忠真の6月17日・7月16日付書状を受け、幸侃が成敗された後も忠真の進退が定まらず庄内に籠る事態について、相互の言い分と自らの働きかけを詳しく伝える。義弘は、忠真が自分の家中の者一人に過ぎないと扱われれば名誉が傷つくとの懸念に理解を示す一方、竜伯様・少将殿への申入れや徳善院への請託、伊東豊後守を通じた書面のやり取りを述べ、これ以上の対立や放火・戦闘を避けるよう諭す。忠真が城から出た後の知行の額は自分には見積もれないが、生活できないほどにはならないだろうとの見通しを示し、内府様の使者として寺澤志摩守が下向する予定なので、その間の行動を慎むよう求める。加藤主計頭・木原式部少輔への依頼にも触れ、8月6日付で伊集院源次郎に宛てる。冒頭の『正文本田助之丞』は正文所在の注記であり宛名ではない。欄外に『旧記雑録後編三』839号との同文推定注記がある。
年月日未詳 / 冊子 556~557頁
島津義弘の大坂出陣を協議し、軍中法度の条々を定めた日記。流言の禁止、陣所の警固、戦闘時の統制、鉄砲使用、略奪や私闘の禁止、他国人・船舶・宿主への対応などを詳細に定める。
記事成立日:未確認 記事内年紀(成立日と別):慶長五年庚子十一月二十六日 / 冊子 150頁/整理ID KW1-G000124
慶長五年十一月二十六日の目安状を左条に載せると記す。
慶長十九年七月廿三日 / 冊子 649頁
慶長十九年七月二十三日、明石川喜之内の高十四石を淵辺主計助へ宛行った知行目録。三原重種・伊勢兵部少輔・比志島国貞・町田久幸が連署する。本文には編年位置を誤った文書との注記がある。
慶長十九年七月廿三日 / 冊子 649頁
慶長十九年七月二十三日、所定の浮免高一石余を直松作右衛門へ宛行った知行目録。三原重種・伊勢兵部少輔・比志島国貞・町田久幸が連署し、編年位置を誤った文書群に含まれる。
慶長十九年七月廿三日 / 冊子 649頁
慶長十九年七月二十三日、浮免高三石一斗余を小嶋吉兵衛へ宛行った知行目録。三原重種・伊勢兵部少輔・比志島国貞・町田久幸が連署し、編年位置を誤った文書群に含まれる。
〔慶長五年〕正月廿六日 / 冊子 709頁
新納忠元が樺山権左衛門尉へ、芦北方面から百姓を帰還させる件について、残留者は現地で不忠を働いた者で帰れないと申し立てていることや、出家まで百姓として日記に載せる扱いに疑問を呈した書状。出水・大口双方の縁者を調べ、境目の事情に即して帰還を相談すべきだとする。本文注は編年を誤り慶長五年の文書と指摘する。
慶長19年7月23日 / 冊子 615頁
隅州栗野内木場村の知行目録について、慶長十九年に伊勢貞昌・三原重種・比志島国貞の三名が連署して確認した文書。 天正期の知行関係を後年に再確認した可能性があり、土地権利の継承と家中行政を追う材料となる。
慶長元年七月六日 / 冊子 31頁
西国へ下向していた近衛信輔が京都へ帰るにあたり、大隅国富隈でたびたび和歌会を催し、慶長元年七月六日に帰京の途についたことを記す島津義久譜の記事。出立に際して近衛信輔と龍伯(島津義久)らが和歌を贈答した経緯を伝える。
慶長元年九月廿三日・十月十日 / 冊子 47頁
島津義弘が慶長元年九月二十三日に大坂を出船し、十月十日に浜之市へ着いたことを記す雑抄。
慶長二年二月上旬 / 冊子 70~71頁
慶長二年二月上旬、島津義弘が朝鮮へ渡海するため帖佐を出立し、蒲生・鹿児島・串木野方面を経て乗船した行程を日次に記す朝鮮日々記。各地の留守居・供衆の配置、船頭や馬の手配、風雨による滞留、忠恒方との合流など、出国から海上移動までの実務を詳しく記録する。
慶長二年六月六日 / 冊子 104頁
雑抄のうち、慶長二年六月六日付の友枕斎如貴から伊勢弥九郎への書状に、宰相が前日に上洛したと記されていることを抄出した記事。
慶長二年七月廿八日~十一月十九日 / 冊子 153~167頁
慶長二年七月二十八日から十一月十九日までの唐島追渡・朝鮮在陣日記。固川・南原・全州・海南・羅州・淳昌・泗川新城などを往来する島津勢と諸将の動きを、日々の天候、出発・到着時刻、行程、陣替え、使者・書状・贈答、兵粮や会食とともに記す。住民の拘束、城や在郷の状況、戦闘・討死の報、明軍来襲への対応までを連日の実務記録として残す。
慶長二年十二月一日~十二月廿九日 / 冊子 167~173頁
慶長二年十二月一日から二十九日までの泗川古城を中心とする在陣日記。毎日の天候、諸将・使者の出仕と宿直、書状・礼物・兵粮の受け渡し、古城・新城間の移動、軍勢の召集や警固を記録する。月末には漢南方面から蔚山へ明の大軍が来襲したとの報を受け、諸将への援軍要請、泗川城の備え、明側との接触に関する使者派遣までを記す。
慶長三年二月廿一日~同年夏 / 冊子 173~174頁
『新納忠元勲功記』から、慶長三年二月二十一日に松齢様が久見崎から乗船する際、新納忠元が見送り、大嶋出羽守忠泰を供に付けて二首の別れの歌を贈った記事。同月二十八日に五十余艘で出船し、四月十九日に朝鮮加徳島へ着陣したこと、同年夏に忠元が清敷から飯野の地頭へ替えられて移住したことも記す。
慶長三年正月廿日~同年春 / 冊子 189~190頁
島津義久が慶長三年正月二十日の近衛殿の御会始で詠んだ新年の鶯の歌をはじめ、里村紹巴らと「こゑ」「音」の字句を論じた経緯を書き留めた詠草記事。さらに都での花見、伏見墨満寺の墨染桜、建仁寺の藤を題材とする歌を収め、藤の一枝を所望して断られた際、歌を贈ると一枝を手折ってもらえたという作歌事情も記す。
慶長三年三月廿日 / 冊子 200頁
慶長三年三月二十日正午、島津義久が初めて徳川家康の門を訪れ、太刀・馬代・巻物五十端を献上し、伊集院幸侃が供をしたとの記事。家康から来臨する意向があると近衛殿を通じて同月十一日に知らされていたため、それ以前の参候を控えていたとし、訪問後は夜まで宴が続き、その後帰宅したと記す。
慶長三年八月十八日 / 冊子 218頁
慶長三年八月十八日、前関白太政大臣従一位豊臣秀吉が伏見城で六十三歳で死去し、京都東南の阿弥陀峰に葬られたと記す。
慶長三年十月朔日 / 冊子 248~250頁
『島津義弘譜』が、慶長三年十月朔日の泗川・新寨決戦を詳述する記事。董一元ら率いる明軍が新寨を包囲すると、島津義弘は敵が城壁へ近づくまで鉄炮を撃たせず、白狐一疋と赤狐二疋の出現を稲荷明神の加護と信じて、大鉄炮の一斉射撃と開門突撃に転じた。義弘・忠恒父子や忠長らが敵を北へ追い、晋州川付近まで潰走させた後、首実検と勝利の儀礼を行い、翌二日に敵首三万八千七百十七級と算したとする。
慶長三年十月一日 / 冊子 250頁
慶長三年十月一日の泗川表における討捕首数を部隊別に記した注文。鹿島・帖佐・富隈の各方衆と、伊集院源次郎・北郷作左衛門の手勢による首数を列挙し、合計を三万八千七百十七とする。これとは別に、戦場で切り捨てた者の数は不明であると付記する。