伊集院忠金書状
永禄十三年三月一日 / 冊子 237頁
伊集院忠金が、先例と家伝の趣旨を伝えるため雪辱東堂を渡海させると通知した書状。近頃、正式な印判を持たない商船が自由に往来しているため、今後そのような船を点検し、重科に処してほしいと求める。
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永禄十三年三月一日 / 冊子 237頁
伊集院忠金が、先例と家伝の趣旨を伝えるため雪辱東堂を渡海させると通知した書状。近頃、正式な印判を持たない商船が自由に往来しているため、今後そのような船を点検し、重科に処してほしいと求める。
(天正元年九月) / 冊子 315頁
伊集院忠金が臼杵鑑速へ、南郷へ渡った船が島津領内の港で不慮に破損した件について、両家の旧盟と鑑速から受けた懇切を踏まえて誠意を尽くし、おおむね法意に従って処理したと報告する。贈られた船・銀子・鹿皮・南蛮進物・鎧一領に謝し、返礼として馬一疋を贈る。
(元亀四年九月 日) / 冊子 316頁
本文はNo.693と同文のため省略される伊集院忠金の臼杵鑑速宛書状案。南郷渡海船の破損処理、両家の旧盟、贈答品への謝意を述べ、返礼として馬を贈る内容である。
九月五日 / 冊子 405頁
伊集院忠金が愛宕山長床坊へ、島津義久からの書状・扇子・杉原・織物を喜んだことを伝え、沈香三斤を贈る。また本尊像造立へ銀百両、愛宕山領として水田五町と門二を寄進し、委細は秀存坊へ申し伝えたとする書状。
永禄九年五月吉日 / 冊子 146頁
龍盛院領として定める田地などの所在を記した坪付。問毛名内および松原湊に関わる土地を掲げ、村田経定・伊集院忠金・川上久朗が連署する。
元亀四年二月廿一日 / 冊子 300~301頁
禰寝重長との和睦成立後、前日の無署名誓紙に代えて署名を明示した連署起請文。伊集院忠金・本田盛親・河野清通・伊集院久治・上原尚常・市来家諸・新納忠元・喜入季久の八名が花押を据え、誓紙を重長へ渡した。
元亀四年二月廿六日 / 冊子 301頁
伊集院忠金・平田昌宗・喜入季久が禰寝重長へ、肝付方を離れて忠節を尽くす決意を祝し、以後永く相違なく、和議をめぐる雑説があれば双方から申し開くことを誓った連署起請文。新田八幡・霧島・鹿児島諏訪・天満天神などの神罰を掲げる。
元亀四年五月廿四日 / 冊子 304~305頁
禰寝重長が望む鹿屋の処遇について、現時点では周辺事情に詳しくないため、島津方の戦争成就後に検討し、やむを得ず守護領とする場合には鹿屋の田数に相当する別所を与えると約束した証文。伊集院忠金・村田経定・平田昌宗・川上意釣・喜入季久が連署する。
(天正元年)十月廿八日 / 冊子 316頁
伊集院忠金・平田昌宗・川上意釣が志岐麟泉入道へ、詳しい書状を受け取ったと返答する。従来から両地域の相談関係に変わりはなく、今後さらに親密にしたいと述べ、前年春に承諾した天草方面の調略について感応寺と直書が到着したので、進展を期待し、難航時には重ねて協力すると伝える。
四月三日 / 冊子 412~413頁
川上忠克・村田経定・伊集院忠金が琉球国三司官へ、新年の祝意を述べ、琉球の船が当地に着津したので船を加えて渡海させたこと、報礼の尊使と大守の勅書を拝受したことを伝え、綿九斤の贈答に謝意を表した連署書状。
永禄十二年十二月廿日 / 冊子 193頁
菱刈四郎が曽木を差し上げ、現地の知行がまだ落ち着かない状況を受け、島津氏老臣三名が新納忠元の以前からの奉公を上聞に達したと伝える連署状。その忠節への褒賞として花北一所をまず与える旨を早々に申し渡し、追加扶持も上意によるとして疎略のないよう求める。
永禄十二年十一月十三日 / 冊子 228頁
島津氏老臣五名が、伊集院大和沙弥笑岳の勲功により宛行われた西田名内竹崎の水田二段を、建立した笑岳寺へ寄進する願いが義久に許可されたことを確認した連署状。将来土地に変動があっても、この二段は永代違乱してはならないと定める。
永禄十二年十二月廿日 / 冊子 229~230頁
菱刈四郎が曽木を差し上げ、当面の在所が定まらない状況について上聞に達したことを、新納忠元へ伝えた老臣連署状。忠元が以前から尽くした奉公への賞として、まず花北一所を与えるよう上意があり、追って加扶持も行うので速やかに伝達するよう命じる。
元亀二年八月十六日 / 冊子 250~252頁
島津義久ら多数が参加した名号之連歌。義久の発句「名や残る入ての跡も秋の月」から始まり、秋月・時雨・旅・海・雪・春・恋・無常などへ題材を展開する。末尾に参加者ごとの句数を記し、義久七句、其阿八句、珠玄十句などを数える。
天正二年九月十日 / 冊子 344頁
島津氏老臣四名が北郷時久に対し、伊東氏との戦で一味して協力し、談合内容を秘密にし、庄内・肝付をめぐる讒言があれば双方へ腹蔵なく説明すると誓う連署起請文。
天正二年九月廿五日 / 冊子 345頁
島津氏老臣らが、国分寺と島津領は古くから盟約を結んできたが、近年は旧例に背く事柄があるとして別紙に列挙し、先非を改めるよう求める。承引がなければ隔心の原因になると警告し、相到寺に内情を説明させ、急便での返答を求める。
永禄十二年十一月十三日 / 冊子 229頁
本文はNo.524と同文のため省略される老臣連署寄進状。伊集院大和沙弥笑岳が笑岳寺へ寄進した竹崎の水田二段を、将来にわたり違乱なく安堵する内容に当たる。
永禄十二年十二月十九日 / 冊子 229頁
島津氏老臣が本田刑部少輔に、先年の戦乱時に姫城を奉公のため差し出した返地として、薩摩国谷山郡山田名を宛行った文書。境界が明確になった時には城を返すこと、一か所への繰替えに相違がないことを保証し、当面は水田十町を与える。
永禄十三年二月吉日 / 冊子 233頁
興国寺領として、大隅国帖佐郷住吉名の平野園門にある田地を列記した老臣連署坪付。平野園之門五段二十、佃一段二十、堀町・開田・屋敷添などを合わせ、総計一町一段十とする。
永禄十三年二月吉日 / 冊子 233~234頁
龍盛院領として、薩摩国鹿児島郡田毛名の水町門・浜田・芦牟田・橋路などの水田と畠地を列記した老臣連署坪付。水田は総計二町四反十のほか堀町一反を記し、畠地は合計一町七段とする。
永禄十三年二月吉日 / 冊子 234頁
前田八郎左衛門尉に宛て、薩摩国加世田庄宮原名内の田畠を列記した老臣連署坪付。久木井・喜栴介などに関わる田地・畠地を合計二反として示す。
永禄十三年二月吉日 / 冊子 234~235頁
内田主馬首へ宛て、薩摩国牛尿院内の浮免田を示した老臣連署坪付。築原名・小木原名・大田名などの田地を合計九段とし、そのうち七反を御重恩分と記す。
永禄十三年三月吉日 / 冊子 235頁
北辰大明神領として、大隅国曽於郡郡田名萩原門内の田地を記した老臣連署坪付。寺前の三反のうちに含まれる土地であると注記する。
永禄十二年十二月廿日 / 冊子 241頁
本文はNo.531と同文のため省略される老臣連署状。菱刈四郎が曽木を差し出した後の処遇と、新納忠元の奉公への賞として花北一所および追って加扶持を与える上意を伝える内容である。
天正元年 / 冊子 295~296頁
天正元年の主要記事を編年で記す。正月の住吉原合戦で北郷時久父子が肝付勢を破り、宝持院・八木昌信らの密使によって禰寝重長を肝付方から離反させ、二月に盟書を交わした。三月には禰寝氏と共同で肝付領へ出兵し、高洲・西俣で戦い、七月には肝付勢の早崎襲撃を島津家久らが撃退した。北郷氏の平松在陣、牛根城包囲、改元、琉球王尚永の即位なども記し、人物・系譜・典拠の考証を添える。
天正元年二月~三月 / 冊子 299頁
肝付兼続と禰寝重長が長年島津氏に敵対するなか、島津義久が宝持院に八木昌信を添えて密かに禰寝へ送り、重長に肝付方から離れるよう説かせた。続いて天正元年二月、新納忠元・伊集院久治・上原尚常も渡海して説得し、二十一日に三使が、二十六日に義久と家老衆が誓紙を渡した。重長は三月に降参し、島津軍とともに肝付氏を攻めた。
天正元年二月 / 冊子 299~300頁
下大隅が未平定のなか、島津義久が宝持院と八木昌信を禰寝へ密派遣した和睦工作を詳述する。昌信は舟底に隠れて上陸し、夜間に東禅寺から禰寝重長と密会して、子息の婚姻も示唆しつつ島津方への帰順を説いた。帰陣後、義久は新納忠元・伊集院久治・上原尚近らを再派遣し、家老・使者が秘密保持のため無署名を含む誓紙を重長へ与えて和議を確定した。
元亀三年正月~天正元年十二月 / 冊子 322~323頁
元亀三年正月から天正元年十二月までの軍事日程を記す。浜市小島の肝付兵船捕獲、廻・三山・木崎原・早崎・住吉原・西俣の諸戦、禰寝重長の帰順と下大隅渡海、平松陣の役人・作法、恒吉宮ノ原の損害、平床への着陣などを日付順に列挙する。
元亨四年八月十日 / 冊子 519~520頁
若松彦太郎忠兼代忠金と国分二郎友貞が、羽島浦の田島・山野等を争った鎮西下知状。忠兼側の契約・寄進・証文、友貞側の年貢・知行・訴陳を検討し、田地の割分、河海・山野・検断、年貢米、契約違反時の返還・処分を定める。双方の異論と押領を止め、所定の分領を領掌させる。
年月日未詳 / 冊子 160~161頁/原整理番号 43
菱刈氏嫡家十二代の家督重時から始まる略系図。重時を左兵衛佐、重衆を右兵衛佐とし、女子が肥州阿蘇惟永、島津出羽守忠明、相良伊勢守長皎へ嫁いだ婚姻関係を示す。重副は大和守で両院を知行し嫡家を継いだ。重政は次郎・伊勢守を称し、父重時の命で大口地頭職に補され大口に在城、法名を徳翁道盛居士とする。重根は兵庫頭で大口地頭職を相続し、法名天真道龍居士、天龍寺葬。重清は右衛門太夫で花北氏の猶子となり、肥州久木野で戦死した。重昌は四郎・越後守を称し、嫡家の大和守重猛が所知を島津義久へ献じて降った際に同じく旗下へ入り、曽木一所を賜ったのち花北へ替地され居住した。末尾は、この処遇について国老伊集院忠金・川上忠克(意釣)・三原重秋が新納忠元へ送った書簡を次文書として導く。
12月20日、天正4年2月彼岸日 / 冊子 161~164頁/原整理番号 43-1
二つの文書と菱刈氏系譜記事を現行一件に収める。第一は十二月二十日付で、伊集院忠金・川上忠克(意釣)・三原重秋が新納忠元へ送った連署状。菱刈四郎が曽木を差し上げた後も在所が定まらないため、従前の奉公に報いて花北一所を与え、追って加扶持する上意を伝える。続く隆豊の伝記は、文禄元年に島津義弘・久保に従って朝鮮へ渡り、江原道・南原・唐島番船で軍功を挙げ、慶長三年の交戦で負傷して壱岐から帰国したこと、慶長四年の伊集院忠真による庄内の乱、同五年の関ヶ原で義弘旗下に戦ったことを記す。帰国後は重秀の家督代を務め、重栄を後嗣として花北へ戻り、慶長十五年には琉球へ渡航し、元和四年に没した。重種は島原の乱・上洛に供奉し、大口衆頭、鹿児島城下勤仕を経て加久藤で養老した。第二は本文中に『43の2』とある天正四年二月彼岸日付の菱刈一族並他門交名注文で、菱刈・曽木・長池・入山・藤島・井手籠・得光・柿木原・花北等の一族・他門名を列挙し、菱刈大膳亮隆商が証判する。
元亨4年8月10日 / 冊子 356~357頁/原整理番号 139
元亨四年八月十日、若松彦太郎忠兼の代忠金と国分二郎友貞が争った、薩摩国成枝名羽島浦の田畠・山野等について鎮西が裁許した下知状。忠兼側は友貞へ契約したのは田地三町だけで、友貞が証文にことよせ契約外の田畠・山野まで押領したと訴えたが、友貞側は元応元年十一月一日の売券により、若松名水田を除く羽島浦の田畠・山野等を直銭三百貫文で買い取ったと反論した。裁許は、忠兼自筆とされた売券について忠兼が謀書を主張しながら引付の場で求められた書札を果たさなかったこと、貞応二年関東下知状・寛元四年六波羅下知状・忠茂・忠重・忠永らの譲状に忠兼の裏書があり売券に添えられていたこと、その裏書を資家が自筆と認めたこと、羽島浦が私領であることなどを根拠に忠兼の濫訴を停止し、売券どおり友貞の領掌を認める。さらに真実の文書を謀書と称した件は式目に任せ別途沙汰するとする。『旧記雑録前編二』一四〇一号文書と同一文書と注記される。
元亨四年八月十日 / 冊子 48~49頁/原整理番号 262
薩摩国成枝名羽島浦の田畠山野をめぐり、若松彦太郎忠兼の代官忠金と国分二郎友貞が争った相論について、譲状・契約状・陳状・証文を審査し、田畠山野の知行と相互の沙汰を裁許した鎮西下知状。元亨四年八月十日付。
年月日未詳 / 冊子 383~384頁/原整理番号 102
続花押藪の記載として、元亀四年二月二十一日の八人連署と花押を掲げる。祢寝重長が肝付省釣の党を離れて島津側へ降参した際の誓紙関係文書として位置づけ、全文の写しを求めている。伊集院忠金が見えず写し落ちかと注記し、太田と本田、市木と市来の表記や、盛親・清通・家諸らの出自を考証するが、河野子孫のことは承知していないという。
元亀四年二月廿一日 / 冊子 385頁/原整理番号 103-3
元亀四年二月二十一日付で、伊集院忠金・平田盛親・河野清通・伊集院久治・上原常尚・市来家諸・新納忠元・喜入季久の八名を列記する起請文。和睦成立後、義久が誓紙を重長へ与え、国老と三使・副使もそれぞれ誓紙を作って渡したと記す。各誓紙は後に掲げるとしている。
元亀四年二月廿六日 / 冊子 386頁/原整理番号 105
伊集院忠金・平田昌宗・喜入季久が祢寝重長に、肝付方を離れて忠節を尽くすことを喜び、以後永久に相違や隔心を持たず、和議について雑説が生じた時には双方で申し合うと誓う。違反には神罰を受けるとして三名が連署する。
現行年紀:元亀四年貳月廿一日 / 冊子 143頁/原整理番号 248/整理ID KW1-P01-39f4516f-D0248
忠金・盛親・清通・久治・常尚・家諸・忠元・季久の連署と花押を掲げる。 「旧記雑録後編一」660―3号同文の刊本注を伴う。この切片には条文を独立掲載せず、日付と八名の連署を掲載する。参照先本文は未読・未補充。
記事成立日:未確認 記事内年紀(成立日と別):同年五月二十四日 補記(正文と別層):(元亀四年) / 冊子 145頁/整理ID KW1-G000115
義久公が隅州鹿屋を重長に与えたと記す。 国老の喜入季久・川上忠克入道意釣・平田昌宗・村田經定・伊集院忠金の証書を後に付す。
永禄九年正月十六日 / 冊子 352~355頁/原整理番号 56
永禄九年正月十六日の「賦何船連歌」。日新・義久・忠元らが句を連ね、春雨や雪解けから秋の月、旅と別れ、花、寺、恋などへと題を移して詠む。忠元は十一句を担当し、末尾には参加者の句数をまとめる。最後は波と風の句から山の陰を詠む句へ続けて結ぶ。
十二月廿日 / 冊子 377頁/原整理番号 87
三名の連署で忠元に、菱刈四郎への書状を曾木へ届けたことを伝える。現地が落ち着いていないため、忠元のこれまでの奉公を理由に花北へ先に派遣すると上意が出ており、早く伝えるよう求める。扶持は追って加えるとしている。
年月日未詳 / 冊子 382頁/原整理番号 99
肝付方に属していた祢寝重長の降参について記す。肝付方との戦いが厳しくなった時、寶持院へ遣わした八木昌信を通じて重長へ密かに和睦を勧め、忠元・伊集院久治・上原常尚らも面談した。十一日に三人が誓紙を渡し、十六日に貴明の判物と家老らの誓文を遣わすと、翌三月に重長が降参した。十日には征久・忠長の大軍を祢寝城へ出して肝付方と戦い、所領を得た。忠元らの当初からの功労を記す。
現行年紀:慶長五年十一月廿六日 / 冊子 150~151頁/原整理番号 262/整理ID KW1-P01-39f4516f-D0262
重長の忠節時の約束と根占家在所に関する神文・証文を述べ、諸地の給付条件を記す目安。 鹿屋が守護領となる場合はその田数ほどの別所を、郡本は「御弓箭御存分」が成就する時に給付すべき旨を述べる。 山川・田上等の借地は、合点された分を給付時節に返上する旨を述べる。 約束を知る人衆、御使者、神文等を頂戴している旨を列挙する。
現行年紀:元亀四年貳月廿六日 目録・本文の別記(相違を保持):小字干支「癸酉」;目録原36頁年紀「元龜四年二月十六日」(本文と日数相違) 日付留保:本文は二月廿六日、目録は二月十六日。小字干支と本文を分離し日数差を補正しない。 / 冊子 144~145頁/原整理番号 250/整理ID KW1-P01-39f4516f-D0250
肝付に相離れ、一途に忠節を尽くす旨が喜ばれたことを伝え、忠金・昌宗・季久が起請する。 今後互いに違うことなく、和議について雑説があれば自他で話し合うことを誓い、違反時の神罰を記す。