島津道安書状
六月一日 / 冊子 574~575頁
島津家に伝わる犬追物の一流を新納忠勝へ相伝するにあたり、以前に忠武へ残さず伝えた内容と相談し、真実志のある者だけに相伝するよう戒めた島津道安書状。
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六月一日 / 冊子 574~575頁
島津家に伝わる犬追物の一流を新納忠勝へ相伝するにあたり、以前に忠武へ残さず伝えた内容と相談し、真実志のある者だけに相伝するよう戒めた島津道安書状。
年月日未詳 / 冊子 575頁
新納忠勝の強い懇望に応じ、蹴鞠の条々から当面役立つ部分を書き付けて送った東征斎書状。秘伝であり外見させないこと、悪筆を推量して読むことを求める。
九月二日 / 冊子 577~581頁
新納忠勝の求めに応じ、許容されている故実を確認して認可すると伝え、以前所望された『ゑんひ』の伝書を送る。落髪後に還俗した場合と出家姿のままの場合では様式が異なるため、必要なら別本も手配するとした小笠原晴長書状。
五月一日 / 冊子 585~586頁
鞍の件を了承し、自身の考えは忠勝のもとへ召し置くのと同じだと述べる。市来からも所望があり、本所の鞍を望むなら意向に従うとの返答を得たので、近日使者を送ると知らせた新納武久書状。
九月六日 / 冊子 586~587頁
累年預かっていた長光太刀が安堵されたことを大いに喜び、その礼として領地一町を新納忠勝へ贈る。今後は小法師との契約により保管し、異議はないと伝えた新納武久書状。
九月六日 / 冊子 587頁
御衣男宗俊との契約に基づき、徳坊地の門を永代にわたり新納忠勝へ与え、違変しないと保証した新納武久証状。
(寛永八年)八月十一日 / 冊子 227頁
薩摩守から徳川秀忠の不例を知らされ、さらに報告が届けば参府する覚悟で日向に船の手配を命じたと述べる。異変はなく早く快気するものと見込み、薩摩守からの続報を待つとして、老中四名に披露を依頼した島津家久の書状案。
六月廿六日 / 冊子 586頁
肥州番衆の無事帰還、病人の中風と療治、自身の脚気、親子での来訪や日記の相談を述べる。長光太刀の扱い、芦北で一途に奉公すれば所領の沙汰に尽力することなどを伝えた新納武久書状。
八月十一日 / 冊子 587頁
先日新三郎が礼のため参上したので取り次いだことを伝え、岩川の領地について満足できるよう尽力すると約し、境目での苦労を察した伊集院忠倉書状。
天授二年七月廿五日 / 冊子 99頁
指宿忠勝が、多年の軍忠により安堵されて知行してきた薩摩国指宿郡惣地頭職を嫡子将忠へ永代に譲り、子孫まで譲状の趣旨に従って知行するよう定めた譲状。
年月日未詳 / 冊子 99頁
指宿忠勝(能登守)から正忠(郡司)へ続く父子関係を示した簡略な系図。
年月日未詳 / 冊子 576頁
島津忠勝が明応八年十一月二日に敵山坂本で戦死し、三十八歳、法名を正菊としたことを記す譜記事。
大永七年十二月二日 / 冊子 647~648頁
新納忠勝が、大永三年以来続く兵乱で一族・家臣が相次いで戦死したことを神前に訴えた願文。敵方の平定、残る家臣の安全、家運の再興と今後の軍利を祈り、忠勝自身が神仏へ奉仕して報恩することを誓って戦争終結への願いを示す。
大永四年十二月三日 / 冊子 648~649頁
新納忠勝が肝付兼興に、串良の扱いと双方の協議、所領・軍事上の取り決めについて伝えた裏書。
大永七年十二月二日 / 冊子 685~686頁
島津忠勝が正八幡宮へ奉納した長文願文。兵乱・火災・飢饉などの災厄を鎮め、国家安泰、武運長久、子孫繁栄、所願成就を祈る。神職・社家による祭祀と奉幣を重んじ、神威への敬意と、願いがかなった際に報恩奉仕する決意を述べる。
大永七年十二月二日 / 冊子 687頁
島津忠勝が正八幡宮へ、神威による国家・社家の安泰、兵乱・災害の鎮静、子孫繁栄と所願成就を祈って奉幣した願文。神職・神官・社家の平穏も祈願対象に含める。No.2110と同日同標題ながら別番号で収録され、同時に奉納された二通の一つと確認できる。
(享禄二年)二月十六日 / 冊子 699頁
新納忠勝が三州動乱の和融に関する裁許・使僧派遣へ謝意を表し、今後も無極の配慮と傳芳院を通じた取り計らいを求めた証状。
享禄三年三月 / 冊子 708頁
新納忠勝が日向国内蔵之條山の所職について、有馬仁充の子孫まで相違なく安堵すると証した証状。
年月日未詳 / 冊子 716頁
天文二年、遊行の他阿弥陀仏が志布志に滞在した際、新納忠勝らが和歌会を催し、その日の興趣を伝える懐紙を残した由来を記す。
天文二年八月八日 / 冊子 718頁
新納忠勝が、龍成上人の処置に従って家督を継ぐ子一人以外に相伝せず、口外や異議を差し挟まないことを、梵天帝釈・八幡大菩薩・天満大自在天神などに誓った起請文。
天文二年十月廿八日 / 冊子 722頁
新納忠勝が、軍事・談合・検見などで主命に従い、家督を継ぐ子一人以外へ相伝せず、別心なく奉公することを、梵天帝釈・八幡大菩薩・天満大自在天神などへ誓った起請文。
年月日未詳 / 冊子 738~741頁
天文四年の政変と合戦を、新納忠勝が聞書形式で日を追って記録する。島津勝久・実久、新納・伊集院・北郷諸氏の帰属、各城の攻防、使者往来を列挙し、梅久・忠栄ら家臣の戦死と恩賞、城・所領の処置までをまとめて家中対立の実態を伝える。
天文五年三月十一日 / 冊子 747~748頁
新納忠勝が島津勝久に今後の身上処置を尋ねた伺書。豊州への渡海時期、居所と領地、旧領への入部、忠良方との和睦交渉、相州へ送る使者などを項目別に列挙し、自ら判断せず勝久の裁可を仰いで、帰属と行動方針を確定しようとする。
年月日未詳 / 冊子 762頁
新納忠勝が志布志を本城とし、安楽・大崎・松山・末吉・恒吉・高隈・垂水・市成・牛根などを領した新納氏繁栄期に、小笠原光清を招いて弓馬の道を学び、大追物を催したことを記す。
天文八年二月廿八日 / 冊子 770頁
新納忠勝が相良殿に、春の慶賀を述べ、弓箭や領地に関する案件を伝えるとともに、使者を送るので秘密裏に検討してほしいと求めた書状。
天文九年二月十八日 / 冊子 788頁
新納忠勝が龍源寺に、国福嶋院市来の水田六段・田五段を寄進し、毎月の忌日に孝養を営むよう定め、後日の証として寄進状を出した。
(慶長十年)十一月廿日 / 冊子 38頁
向井忠勝が島津忠恒に、段子三端の贈答へ礼を述べ、領内に十六端帆以上や五百石積み以上の船がないとの報告を受けた書状。五百石を超える船だけを淡路へ回し、それ以下は不要とし、該当船がない旨の手形を求める。
(慶長十年)十一月廿日 / 冊子 39頁
久永重勝と向井忠勝が島津忠恒に、五百石積み以上の船が領内にないなら両人宛ての証明書を出すよう求めた連署状。十六端帆・十四端帆でも五百石を超える船は淡路由良湊へ届け九鬼長門守・小浜久太へ渡し、それ以下は回航不要と指示する。
(寛永四年)二月十二日 / 冊子 30頁
酒井忠勝が島津家久へ、新年の祝意を述べ、徳川秀忠から鶴を拝領したことや、家久の使者が将軍への樽肴を進上して御前で直に言葉を賜ったことを喜ぶ。家久の無事帰国にも触れ、国産品一壺と琉球酒一壺の贈答に礼を述べる。
(寛永六年)八月廿三日 / 冊子 103頁
酒井忠勝が、琉球の鷹に関する照会への返答とともに、唐の白鷹一番・琉球の蜜漬一壺が進上され、松平伊豆守信綱が披露したと報告する。家光が献上を喜び、鷹が当年も子を育てたことも伝えた書状。
(寛永八年)九月十日 / 冊子 232~233頁
徳川秀忠の不例を受け、薩摩守が家久の再参府準備を上聞に達したことに触れる。秀忠は日ごとに快方へ向かい食事も平常どおりなので、当面の参勤を延期する判断はもっともだと伝えた酒井忠勝の書状。
(寛永十一年)五月廿九日 / 冊子 429頁
酒井忠世・忠勝が、唐船への伴天連乗船、日本人の海外渡航と海外在住日本人の帰国を禁じ、外国船の生糸は長崎で値段を決めた後に領内で売買させるよう伝えた奉書。
寛永十一年七月十四日 / 冊子 436頁
土井利勝・酒井忠勝が、将軍家光の七月十八日の参内に際し、島津家久へ従前どおり衣冠で四足門まで参上するよう命じた連署書状。
(寛永十一年)閏七月二日 / 冊子 441頁
土井利勝・酒井忠勝が、病気の琉球国王に代わって来着した子息と国守の弟について家久からの報告を上聞し、京都で将軍への御礼を受ける旨を伝えた奉書。
(寛永十一年)閏七月八日 / 冊子 442頁
酒井忠勝・土井利勝が、琉球使節の将軍拝謁を翌日の四時分と定め、将軍が長袴で臨むため心得て登城するよう島津家久へ伝えた奉書。
寛永十二年三月朔日 / 冊子 474~475頁
土井利勝・酒井忠勝が島津家久へ、参府の意向は上聞に達しており、上使松平信綱を通じて旅の疲れを十分休めてから出仕するよう命じられたので、登城の時期は改めて知らせると回答した連署書状。
(寛永十三年)十二月九日 / 冊子 566頁
帰国中の酒井忠勝を見舞う使者と焼酎一壺・薩摩の赤貝の成物一壺を贈られたことに謝す。家久の病気に際し、薩摩守から医師派遣を願い、土井利勝が上聞して久志本式部と御内書が下されたこと、御鷹の鶴を拝領したことを喜び、なお病状が治らないため寒中の養生を勧めた書状。
(寛永十四年)七月三日 / 冊子 666頁
家久が将軍へ琉球布を献上し、当番の阿部忠秋が披露したところ、将軍が喜んだと伝える。忠勝自身にも三端が贈られたことに礼を述べ、炎暑の折に家久が本復したかを尋ねて養生を勧めた書状。
(寛永十五年)五月十三日 / 冊子 805頁
家督相続の御礼登城と将軍への拝謁が滞りなく済んだことを祝し、刀・馬代・銀の贈物に対する礼を述べた酒井忠勝の書状。
(寛永十五年)五月十三日 / 冊子 805頁
家督相続の御礼登城と将軍への拝謁が滞りなく済んだことを祝し、刀・馬代・銀の贈物に対する礼を述べた酒井忠勝の書状。
二月十六日 / 冊子 117頁
新納忠勝が杉三河守に、乱劇のなかで不適切な事態があったことに触れ、義伝芳院が事情を詳しく知っているので確認できると伝えた書状。従来の親交を踏まえて、今後も変わらぬ助力と取り計らいを依頼する。
十一月廿三日 / 冊子 118頁
新納忠勝が本庄に、近年音信を欠いたことは本意ではなく、今後は以前のように交誼を結びたいと伝えた書状。取り持ちを依頼し、贈物として厚板一端を進上する。
年月日不詳 / 冊子 120頁
新納忠勝が進上する品々を書き上げた注文。太刀一腰(友成)や栗毛の馬一疋などを列記し、各品の特徴・付属物を注記する。
九月十二日 / 冊子 307頁
本文ではNo.989と同文であるとして全文を省略した酒井忠勝書状。
四月廿八日 / 冊子 309頁
使者として家久の宿所を訪ねたが外出中で対面できず、依頼の件は理解したので安心するよう伝え、本丸への礼登城時にも会えなかったため次の対面を期した酒井忠勝書状。
年月日未詳 / 冊子 310~311頁
家久が私宅を訪れた際は登城中で会えなかったと詫び、朝に両将軍へ首尾よく目見えして満足されたことを祝い、当地参着の祝儀として太刀一腰・馬代銀子三十枚・緞子十巻を贈られたことに謝した酒井忠勝書状。
七月十四日 / 冊子 317頁
七月十八日に参内するよう命じられたため、衣冠を着用して以前と同じく四足門まで参進するよう案内した土井利勝・酒井忠勝連署奉書。
八月廿三日 / 冊子 439頁
かねて御宮地へ求められていた唐の白鶴一番と、硫黄・蜜漬の壺を献上し、将軍が大いに喜んだと報告する。また白鶴が当年も子を育てたことや、琉球の鶏も近く参る予定を伝えた酒井忠勝書状。
九月晦日 / 冊子 439頁
姫君の祝言が二十一日に好天のもと無事に済んだので安心するよう伝え、祝儀として魚三種と諸白二荷を贈られたことへ謝意を示した酒井忠勝書状。
五月十五日 / 冊子 442頁
同族の酒井備後守に嫡子が誕生した祝儀として、魚三種と諸白二樽を目録どおり贈られたことへ礼を述べた酒井忠勝書状。