蔵人葉室頼継奉口宣案
永正十七年六月十五日 / 冊子 624頁
蔵人左少弁藤原頼継が奉じ、藤原忠兼を修理大夫に任ずる旨を伝えた口宣案。
SEARCH THE ARCHIVE
『旧記雑録』前編・後編・附録10冊と追録1~8(暫定版)、『旧記雑録拾遺 伊地知季安著作史料集1~9』『家わけ1』(暫定版)、関連史料(外伝)『島津世禄記』の46,754件を横断検索できます。検索範囲は史料群・巻を組み合わせて選べます。結果は50件ずつ表示します。
142 件 (全巻)/ 1–50件を表示
ページ 1 / 3
永正十七年六月十五日 / 冊子 624頁
蔵人左少弁藤原頼継が奉じ、藤原忠兼を修理大夫に任ずる旨を伝えた口宣案。
「永正十七年」二月五日 / 冊子 624頁
島津忠兼が肝付三郎五郎に、前年以来の在陣と軍忠をねぎらい、今後も忠節を尽くすよう求めた書状。
大永二年八月五日 / 冊子 641~642頁
島津忠兼が本田因幡守に、他者へ替えて奉公を退けることはなく、相互の信頼を保つ旨を神仏に誓った契約状。
(大永五年)四月十四日 / 冊子 652頁
島津忠兼が摂津守に、世情不穏に備えて武具を用意し、武具を持つ人数や兵力を整えるよう求めた書状。
大永六年二月廿日 / 冊子 657頁
島津忠兼が島津忠誉に、弓矢の儀や諸事で互いに頼み、雑説が生じた際は申し開きをし、自身一代は疎略にしないことを神仏へ誓った誓状。
「大永六年」九月廿一日 / 冊子 663頁
島津忠兼が三郎左衛門尉に、疎略の意はないと釈明し、庄内の情勢について若年の自分へ今後も思案と指導を加えるよう求めた書状。
十一月四日 / 冊子 665頁
本文ではNo.2051と同文のため省略された島津忠兼書状。No.2051は本田因幡守に曽於郡の地頭職を預け、郡の運営と忠節を求める内容である。
十一月四日 / 冊子 665頁
島津忠兼が河田氏に、料所である大迫十五町のうち半分を宛行い、忠節を尽くすよう命じた書状。
十一月四日 / 冊子 665~666頁
島津忠兼が本田因幡守に、頼み入れる旨として曽於郡を宛行い、忠節を尽くすよう命じた書状。
「大永六年」十一月五日 / 冊子 666頁
島津忠兼が肝付兼演に、虎寿丸らが来訪して心配はなく、肝付方が出頭する運びなので、確かな奉公を頼むとした書状。
十一月六日 / 冊子 666頁
島津忠兼が、吉田で敵が対峙しているとの報により援軍を率いて向かう予定だったが、敵が退いたとの注進で延期し、鹿児島へ同行する意向を伝えた書状。
「大永六年」十一月七日 / 冊子 666頁
島津忠兼が肝付兼演に、金吾との合意、伊集院での参会と鹿児島への同行、虎寿丸を呼び寄せたことを伝え、境目の番を堅固にするよう頼んだ書状。
「大永六年」十一月五日 / 冊子 670頁
本文ではNo.2052と同文のため省略された島津忠兼書状。肝付兼演に、虎寿丸らの来訪と人質方の出頭を踏まえ、確かな契約を頼むと伝えた内容である。
「大永六年」十一月七日 / 冊子 670頁
本文ではNo.2054と同文のため省略された島津忠兼書状。肝付兼演に、三吾との合意、伊集院での対面と鹿児島同行、虎寿丸を呼び寄せたことなどを伝えた内容である。
十一月廿五日 / 冊子 670頁
島津忠兼が曽於郡衆に、雪花の手配を命じ、地頭がいない時期から一味して奉公したことを賞し、河上・伊地知・有屋田・鹿島らの協力と番の用心を頼んだ書状。
大永七年六月十七日 / 冊子 681頁
島津忠兼が、三州太守・島津修理大夫として息災延命、武運長久、国家治斉、諸願成就を祈り、新田正八幡宮へ水田三町を寄進した寄進状。
十一月廿五日 / 冊子 750頁
島津貴久・忠兼が肝付方に、雪花の瑞相や当時の情勢に触れ、誠意を尽くして公務に励むよう求めた書状。
十一月二日 / 冊子 726頁
南郷の件について、川上十郎左衛門から早々に連絡があり、番を堅固に守っていることを喜ぶ。関係者と相談して警備を固めるよう頼み、人衆派遣は改めて知らせるとした島津忠兼書状。
十一月廿五日 / 冊子 726頁
地頭不在の時期にも一味同心して忠実に奉公した曾於郡衆の懇志を喜び、特に川上十郎左衛門ら諸士の入魂を頼もしく評価する。番所の用心を堅固にして油断しないよう命じ、雪花の件には急ぎ合力すると約した島津忠兼書状。
年月日未詳 / 冊子 188~191頁
西藩野史の記事として、応永七年以降、島津元久が鹿屋周防介忠兼を鹿屋院へ復帰させ、肝付氏一族の所領・城を処理したことを起点に、伊作久義、鶴田重成、渋谷氏らをめぐる三州各地の軍事行動と所領再編を長期的に記す。元久・久豊方の出兵、和議、離反、討伐と恩賞の経過を載せる。
年月日未詳 / 冊子 191~192頁
島津国史の記事として、応永七年正月以降、島津元久が鹿屋周防守忠兼を鹿屋院の地頭・領家職へ復帰させたこと、各地への使者派遣と所領措置、久照の養子問題とその後の処分などを記す。三州の支配再編と島津一族・国人間の緊張を同年の経過としてまとめる。
年月日未詳 / 冊子 245頁
『殉国名藪』が、応永十八年に山田孫四郎を攻めた際、肝付兼元が兵を起こして鹿屋忠兼の鹿屋城を救援した戦いでの戦死とみられる事績を記す。年月は不明と注記する。
年月日未詳 / 冊子 581頁
島津勝久が初め忠兼と称し、のち勝久と改め、宮房丸・又八郎などの名乗りと官途を持ち、文亀三年八月十八日に生まれ、兄二人の早世後に守護職となったことを記す譜記事。
年月日未詳 / 冊子 592頁
島津勝久が島津忠昌の第三子として生まれ、幼名を宮房丸、元服後に又八郎忠兼と称し、のち勝久と改名したことを記す西藩野史の記事。
年月日未詳 / 冊子 624頁
島津忠兼が修理大夫に任じられ、そのため桂樹院の玄章首座が使僧を務めたことを記す勝久譜の記事。
「永正十七年」閏六月十七日 / 冊子 625頁
細川高国が島津忠兼に、渡唐船について先に申し入れた内容を踏まえ、預け置く者への対応と今後の指示を伝えた書状。
年月日未詳 / 冊子 635~639頁
新納忠武らの挙兵を契機に、島津忠兼と忠良・貴久方が争った経過を記す。伊作・伊集院・鹿児島方面の城攻めと軍勢移動、伊集院忠朗・伊地知・北郷諸氏の帰属、交渉による和睦と再対立を追い、守護家の主導権が変化した過程をまとめる。
年月日未詳 / 冊子 641頁
大永二年、本田兼親が六十一歳の時、島津忠兼から誓書を与えられたことを記す記事。
(大永三年)七月廿一日 / 冊子 643~644頁
島津忠朝が吉見長井に、父忠兼の上洛時以来の厚意と扶助への謝意を述べ、今後も取り計らいを求めた書状。
九月四日 / 冊子 644~645頁
島津忠朝が進藤長井に、修理大夫忠兼に関する意向や進藤の助言・奉公への謝意を述べ、引き続き取り計らいを求めた書状。
(大永五年)六月十六日 / 冊子 653頁
島津忠朝が、相州嫡男虎寿丸への相続、島津忠兼の伊作院隠居、鹿児島城と新納・北郷方の動向について報告した書状。
年月日未詳 / 冊子 661頁
島津忠昌の三子から忠兼(勝久)が家督を継いだ経緯を述べ、忠兼の人物と政道を厳しく批判する島津日新譜記事。忠兼・実久・忠良・北郷忠相らの対立によって家中と国中が動揺したことを記し、守護の賞罰・人材登用の誤りが政争を拡大したとの評価を示す。
年月日未詳 / 冊子 661~662頁
『本田親安伝』に、大永六年七月廿三日、管領大内義興が杉三河守に書状を持たせ、島津忠兼へ働き掛けたことを記す記事。続くNo.2037にその書状本文を収める。
年月日未詳 / 冊子 665頁
大田氏二代昌久の官途・号と、島津忠昌への川辺の居城献上、南郷・田布施への移住、大永六年十一月に島津忠兼から帖佐地頭職を与えられた経歴を記す記事。
年月日未詳 / 冊子 665頁
島津実久が忠兼の継嗣となることを企てたため忠兼が憂慮し、大永六年十月に国政を島津忠良へ委ね、同年十一月四日に本田兼親へ曽於郡城を与えた経緯を記す記事。
年月日未詳 / 冊子 666~667頁
大永六年十一月十二日、島津忠兼が使者を通じ、忠良の長男虎寿丸を猶子として家督を譲る意向を伝えた経過を記す。忠良は村田越前守・土持伊豆守・梶原備前守らの仲介にも再三辞退したが、最終的に受諾し、虎寿丸が貴久として継承する。
年月日未詳 / 冊子 671頁
大永六年、島津忠兼が忠良一族へ国政を委ねようとした時期の樺山信久の動向を記す。信久は虎寿丸を後継者として支え、肝付三郎五郎・本田紀伊守・樺山助太郎らと諸家の帰属、領地配分、奉公条件を協議し、新体制への移行を調整した。
年月日未詳 / 冊子 683~684頁
島津勝久が虎寿丸(貴久)へ国を譲った後の政変を、樺山信久の立場から記す。島津忠兼・肝付越前守らの動向、加治木・伊作・鹿児島方面の戦闘、村田越前守らとの関係を追い、信久一族が対立する勢力間で帰属を選び奉公を継続した経過を示す。
年月日未詳 / 冊子 691頁
享禄元年、忠兼が名を勝久と改めたことを記す。
年月日未詳 / 冊子 691頁
忠兼が前年に再び鹿児島へ入り守護位に就いた後、享禄元年に勝久と改名したことを記す。
年月日未詳 / 冊子 755頁
島津忠兼から実久へ続く家系と、子女・婚姻関係を枝分かれで掲げた薩州島津氏の系図。
元亀二年六月廿三日 / 冊子 249~250頁
元亀二年六月二十三日暁、島津貴久が五十八歳で没し、義久・義弘・歳久・家久ら一門から庶民まで父母を失ったように嘆いたと記す。鹿児島南東の海辺に松を植えて寺を建立し、法号を龍洞大中庵主としたのが松原山南林寺であるとする。貴久は十二、三歳で忠兼の養子となった時から非凡で、将来三州太守になると見抜いた老人の逸話を載せる。
二月廿八日 / 冊子 281頁
本文署名の忠兼が、相手の来訪が延びた事情を案じ、翌月三日を過ぎれば必ず来るよう求め、詳細は使者に託した書状。目録標題は島津勝久書状。
七月二日 / 冊子 282頁
本文署名の忠兼が、内所の不調と帰宅後の気分を尋ね、回復したなら早くこちらへ来るよう肝付三郎五郎へ求めた書状。目録標題は島津勝久書状。
八月十七日 / 冊子 282頁
本文署名の忠兼が、近頃の事件と関係者の動向を知らせ、残る者への詮議や今後の処置について肝付三郎五郎へ申し送った書状。難読箇所を含む。
九月十七日 / 冊子 282頁
本文署名の忠兼が、相手の帰還後の無音を気遣い、真幸方面の様子と城をめぐる情勢を尋ね、堅固に対処するよう肝付三郎五郎へ求めた書状。
四月十四日 / 冊子 283~284頁
本文署名の忠兼が、当時の世情を踏まえて兵具・武具の用意を最優先に進めるべきこと、関係者と相談して不足なく備えることを攝津守へ求めた書状。
九月廿一日 / 冊子 321~322頁
島津勝久(忠兼)が三郎左衛門尉に、長く音信が途絶えたことを残念に思うが疎意はないと述べ、庄内をめぐる事情は容易に尽くせず、自分は若輩なので今後も思案と万事の指南を仰ぎたいと求めた書状。
年月日未詳 / 冊子 555頁
薩州家の久意・忠兼・実久らについて、実名・幼名・官途・法名、婚姻や寺院との関係を記した系図抄。
年月日未詳 / 冊子 654頁
本田次郎左衛門尉の専横、本田因幡守の娘と樺山信久の婚姻関係、曽於郡の給付と返還をめぐる経緯を記し、大永五年九月二日に因幡守と太郎左衛門尉がそれぞれ城を築いたとする記事。