延時名交名注文
元徳二年十一月日 / 冊子 586頁
薩摩郡延時名に属する者を列記した交名注文。吉富又太郎入道、延時孫三郎入道、延時又三郎入道、東郷入道、東郷六郎入道、同妹中左、同大夫房、在国司入道、白浜五郎入道、山田九郎入道などを掲げる。
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元徳二年十一月日 / 冊子 586頁
薩摩郡延時名に属する者を列記した交名注文。吉富又太郎入道、延時孫三郎入道、延時又三郎入道、東郷入道、東郷六郎入道、同妹中左、同大夫房、在国司入道、白浜五郎入道、山田九郎入道などを掲げる。
文化4年11月(本文月・同年追記) / 冊子 287~288頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書0915
千眼寺へ、本山直末の御目見寺とし、隠居様の寿像を安置することにより、虎之間で寺社奉行が申渡す寺格を命じ、入院の礼には中紙三束を進上すること、年頭の御目見は従来どおりとし、順席は本誓寺の次とすると申し渡す。さらに弥勤院末寺西田寺と大乗院末寺延命院に、隠居様の寿像を安置する思召しにより、寺格は当分従前どおりとして千眼寺末寺へ改宗する旨を命ずる。寺社奉行へ伝えて承知させるよう通知し、11月、信濃署に頴娃久喬の注がある。出典は重豪公御譜中、控正文在家老座。
年月日未詳 / 冊子 130頁/原整理番号 208
『堀輿延自記』(本文見出しは「堀興延自記」)。寛永十五年二月十三日、日州方外城の士百五十人に槍・弓・鉄砲の御道具持の代役を命じ、堀興延が堀四郎右衛門らを召し連れて向田まで進んだが、島原の事が済んだとの報を受け、御道具持百五十人とともに帰ったことを記す。
至徳四年五月四日 / 冊子 132頁
宮内大輔今川三雄が延時筑前守に、薩摩国薩摩郡内延時名地頭職と庶子山野、本若松名・串木野・若松・橋間・寄田・火同丸・成岡名の各地頭職、成枝などの知行を安堵した文書。
永正十三年八月廿六日 / 冊子 612頁
石塚種延が清水楞厳寺へ、大門口一町内の田二段などを寄進し、本物は宇大鳥丸貫文・洪武二貫文・米一斗であると記した寄進状。
天正六年六月吉日 / 冊子 544頁
藤原祐延が、国境での奉公を怠りなく務めるとの心中の願いが成就するよう祈り、霧島六所権現へ富士口門の田一町を浮免地として寄進した状。
八月廿三日 / 冊子 58頁
諏訪兼延が、伏見で病気となった中将様の祈願について通知した書状。霧島山権現へ青毛の馬一疋を寄進し、使者の新納仁左衛門尉が届けるので、御老中の指図どおり受け取るよう伝える。
(寛永十五年)二月九日 / 冊子 753~754頁
現地の様子を知るため見舞いの使者を送り、自身は上使衆の指図がないうちは家久のもとへ参上できず迷惑に思うと述べ、後便を期した短い書状。
明治2年三月26日知政所、28日予定の戦亡者招魂祭を延期 / 冊子 656頁/原整理番号 847の3/整理ID 847-3
明後28日に御対面所で戦亡者の招魂祭を命じた旨を既に伝えていたが、御前の逝去により延期することになったので、その旨を伝えるよう求める。明治二年己三月廿六日、知政所。従来の予定と延期を区別し、新たな実施日、戦亡者の人数や祭の実施完了は記されていない。
元禄十三年十月十日 / 冊子 241–242頁/整理ID 824
島津綱貴の使者岩山金左衛門が延岡藩へ、日向国清絵図作製に際し、中川因幡守家から江戸の薩摩守屋敷へ届いた豊後・日向国境絵図を両家で突き合わせ、相違があれば申し出るよう求めた口上覚。境絵図は松平遠江守の指示で両家の絵図役人が江戸で吟味し、用件は江戸で相談できるとも伝える。
明治2年三月26日知政所(年は朱書) / 冊子 657頁/原整理番号 850の4/整理ID 851
明後28日に御対面所で戦亡者の招魂祭を行う旨を既に伝えていたが、御前の逝去に伴い延期することになったので伝えるよう求める。朱明治二年己三月廿六日、知政所。No.847の3と同趣旨の別原領域掲載を保持し、別の祭や別々の延期実績として合算しない。延期後の日程と具体戦亡者数は記されていない。
延慶三年九月四日 / 冊子 21~22頁/原整理番号 213
沙弥道雄が延時三郎入道に、新田宮雑掌阿源が当宮の御神拝御供米を抑留されたと訴えたため、八月二十九日付御教書と重訴状に従い、明確な請文を提出して注進するよう命じた書下。延慶三年九月四日付。
年月日未詳 / 冊子 270~271頁/原整理番号 3
『延喜式』巻二十八の大隅・薩摩両国の駅馬数と蒲生・大水・市来・英禰・納津などの駅名を列挙する。季安は駅名を現地の地名と比べ、納津と網津、高城・出水・阿久根などの比定を検討する。
正安四年八月四日 / 冊子 411頁
在国司入道道雄代道弘と延時三郎入道成佛が、薩摩郡延時名内眞弓町・御霊田などの所領と公事負担をめぐる相論を和解し、双方の領分と役務を定めた和与状。
元亨四年十月廿一日 / 冊子 523頁
京都御使の命を受け、関東御早打が下着した間に延時又三郎忠種が馳参したことを報告し、披露を求めた着到状。
建武三年四月廿五日 / 冊子 662頁
肝付八郎兼重与党の凶徒追討のため、薩摩国御家人延時又三郎入道法仏が参候したことを届け、披露を求めた着到状。
建武三年六月日 / 冊子 667頁
肝付兼重以下の凶徒追討に関する、延時法仏の軍忠状。財部延時氏所蔵の正文として掲げられるが、本文は省略される。
建武四年三月六日 / 冊子 682頁
延時信忠が薩摩国から入道法佛の使者として参着したことを証し、守護代沙弥栄定が見知した旨を記した軍忠状。
建武四年八月日 / 冊子 695~696頁
延時又三郎入道法仏が市来院での合戦に参加した軍忠状。八月十日に市来院へ赴き、十四日の赤崎合戦で宮里九郎入道・石塚平太郎・小河小太郎らと戦い、夜戦で敵を斬ったこと、同月十日の城攻めで弟彦五郎忠範が代官として参戦したことを述べ、証判を求める。
建武四年十一月日 / 冊子 700~701頁
延時又三郎入道法仏が市来院城郭の合戦で軍忠を尽くした軍忠状。十月十八日夜の合戦、同十九日の平城攻め、十一月十七日の再出兵、同十八日の平城・市来城攻撃などを列挙し、島津忠国、宮里九郎入道、重久将監らの見知と証判を求める。
暦応四年十月廿日 / 冊子 744頁
正八幡宮の田所などについて先例に従って相向・実検し、下地の検注を進めるよう命じた沙弥尚順・道延連署奉書。
(明暦元年)八月九日 / 冊子 264頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0578
又三郎延久(綱貴との注)が琉球国司へ、自身の元服を祝う使札を受け、御太刀一腰・馬一疋と国の方物を目録どおり受納して喜んだ旨を伝える。
文化4年11月14日(本文今茲・目録文化4年) / 冊子 288頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書0917
先に重豪が千眼寺の再建を命じ、この年11月14日、弥勤院管下の西田寺と大乗院管下の延命院を千眼寺管下とし、宗を改めて黄檗派としたことを記す。出典は重豪公御譜中。先行する千眼寺再建の命令と、今回11月14日に行った末寺所属・宗派の変更を区別する。
文政7年6月24日(朱注) / 冊子 709頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書2002
松平右京大夫輝延が松平榮翁へ、端午の御内書を渡すため、翌日の五半時に家来を城へ差し出すよう知らせる書状。朱書は文政七年六月二十四日。掲載するのは受渡しの通知で、御内書そのものの文面や家来の氏名は記さない。
文政8年正月7日(年次は朱注、月日は本文) / 冊子 723~724頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書2041
松平右京大夫輝延が松平榮翁へ、若菜の祝儀として献上された鯛一折を披露し、一段の御仕合であったと伝える返書。文政八年正月七日付。本文と署判・口裏は二つの原本片段にまたがる。
文政8年正月11日(年次は朱注、月日は本文) / 冊子 724頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書2044
松平右京大夫輝延が松平榮翁へ、年頭の祝儀として使者を通じ献上された太刀一腰と御馬代黄金十両を披露し、一段の御仕合であったと伝える返書。文政八年正月十一日付。
本文:4月十二三日・16~18日・27~28日頃等の動静(年不記);文久3年癸亥正月20日写注 / 冊子 256~258頁/原整理番号 355/整理ID 355
平田延太郎の京師世態間合の書付写。久光上京は朝廷・幕府のため薩摩の力で周旋する趣旨とし、堀次郎が大原卿に聞いた叡慮や、伏見から上京した久光を近衛邸で中山・正親町三條・岩倉らが迎えて政治の存意を尋ねた経緯を記す。幕府の違勅を寛大に許し公武合体を求めること、一橋後見・諸侯寛罪・幕政賞罰・将軍謝罪等を叡慮として伝えるが、書付が聞いた内容として区分する。久光への問答では勅命決定後に従い、諸藩が争わず国力を尽くすよう求める姿勢を記し、長州山田又助や長井雅樂の説、久光の病気と蒸気船二艘による帰国案も伝える。後半は諸藩同盟の志士が京都・伏見に集まり、薩摩側に企てがあるとして久光が無是非に討取を命じたという記述と、六人討取・森山新五左衛門切腹、指導者名列を載せる。これに動揺した崎宅一郎らへ書状を送り、朝廷を守護するため京師での企てを急ごうとする内々の相談や、二十七八日頃に大坂へ暫時退いたとの情報を記す。末尾は文久三年癸亥正月廿日写之との注。本文の動静・伝聞と後年の写日を分ける。
年月日未詳 / 冊子 148頁/原整理番号 259
『堀興延自記』。寅年、江戸にいた島津光久が島原下向を命じられ、正月十四日に少人数の供で江戸を発ったが、道中で事件の決着を知った。二月十六日夜に薩摩へ帰着し、病中の島津家久と無事に対面したと記す。目録標題は「堀輿延自記」、本文標題は「堀興延自記」。
年月日未詳 / 冊子 361頁/原整理番号 417
島原一揆の落人に備えて浦々の番を厳重にするよう諸国へ命じられたため、堀興延は三十三歳で久志浦地頭甚左衛門の名代として、寅年三月二日に久志浦へ赴き勤番した。四月十三日に帰宅し、落人はいなかったと記す。
暦応二年七月二十六日 / 冊子 14頁/原整理番号 191
酒勾久景が、御方として城に楯籠もり軍忠を尽くした延時又三郎入道忠種を賞し、薩摩国薩摩郡竹内・八弥田地内の青木田一町と竹内薗一所の各半分を預け置いた書状。今後も忠節を尽くすよう命じる。暦応二年七月二十六日付。
建武四年十一月日 / 冊子 14頁/原整理番号 192
延時又三郎入道法仏が薩摩国市来院城郭合戦の軍忠を申告した目安。重病のため、七月二十八日の攻城には舎弟彦五郎忠能を代官として遣わし、八月三日まで野頸の手で戦わせた。九月十七日以降も水手・大手・後巻で戦功を重ね、軍奉行らの見知を得たとして承判を求める。建武四年十一月付。
元亨四年十月二十一日 / 冊子 14~15頁/原整理番号 193
京都の件で関東から早打が到着したため、薩摩国御家人延時又三郎忠種が五日付で馳参したことを御奉行所へ届け、披露を求めた着到状。元亨四年十月二十一日付で、北条英時の承了花押がある。
正安元年十二月十七日 / 冊子 20頁/原整理番号 208
鎮西が延時三郎に、薩摩国御家人の公事をめぐる訴状を添えて示し、早く参決するよう命じた御教書。正安元年十二月十七日付で、前上総介北条実政の花押がある。
正安四年八月廿六日 / 冊子 21頁/原整理番号 210
守護代本性が延時三郎入道に、石築地修理の延時名分三丈二尺を勤仕し終えたことを覆勘した状。正安四年八月廿六日付。
正和三年五月日 / 冊子 22頁/原整理番号 214
延時入道成仏方が忠兼の訴えに反論した陳状。薩摩郡延時名内の真弓町・御霊田・上山本・中山本など四町の公事をめぐり、見仏から妻女平氏・養子千与寿への譲与や、成仏による長年の知行、相伝証文を根拠として、忠兼の濫訴を退けるよう求める。正和三年五月付。
正和三年八月四日 / 冊子 22頁/原整理番号 215
延時入道成仏に関する延時名并びに瓦田の訴状一件について、正和三年八月四日付、前上総介在判・若松彦太郎宛の一通があったことを記す抄録。本文は省略されている。
正和四年九月廿日 / 冊子 22~23頁/原整理番号 216
平忠兼・沙弥貞知らが、薩摩郡の名田・水田をめぐる由緒を証した連署証状。文永九年の見仏後家譲状にもとづき、三郎入道成仏が四十余年にわたり違乱なく知行してきたことを確認し、その譲状を成仏の嫡子延時又三郎忠種へ付け渡して、今後の知行を認める。正和四年九月廿日付。
元亨二年五月十六日 / 冊子 23頁/原整理番号 217
信忠が知行を延時殿へ二貫文で売却した証文が存在したことを記す抄録。元亨二年五月十六日付で、信忠の花押がある。
嘉暦元年十二月五日 / 冊子 23頁/原整理番号 220
平忠治が延時又三郎入道との争いを和与した状。宇佐御造営役のため忠治母堂の宿所で所持物等を押し取ったとして守護方へ訴えたが、和談により銭貨が支払われたため、以後の訴訟を停止すると定める。嘉暦元年十二月五日付で、本性の加判がある。
七月廿二日 / 冊子 23~24頁/原整理番号 223
少弐資能が延時三郎に、若松四郎忠重の訴えについて六波羅御教書の趣旨を伝えた書状。先の下知に任せて乱入・狼藉を止め、忠重の身を安堵し、押し取った作毛以下の損物を返付させること、事実に違うなら子細を注進することを命じる。七月廿二日付。
元徳二年十一月日 / 冊子 24頁/原整理番号 225
薩摩郡延時名の交名注文。吉富又太郎入道、延時孫三郎入道、延時四郎入道、延時大夫房、東郷入道とその一族、在国司入道、山田九郎入道、白浜五郎入道、山口平四郎、大迫孫八ら、延時名に関係する人々を列記する。元徳二年十一月付。
元徳二年十月廿六日 / 冊子 25頁/原整理番号 226
渋谷又次郎氏重入道覚禅が延時又三郎入道に、新田宮雑掌が訴えた御神拝内の神馬・供米等について、御教書と重訴状を示し、命令の趣旨に従って早く事情を明らかにするよう命じた施行状。元徳二年十月廿六日付。
慶長六年二月十九日 / 冊子 26頁/原整理番号 228
喜入大炊助久正の印があり、延時六介宛と記された知行目録一通が存在したことを記す抄録。慶長六年二月十九日付。
慶長六年二月十九日 / 冊子 26頁/原整理番号 229
前文書と同日・同人から延時助右衛門尉宛と記された知行目録一通が存在したことを記す抄録。慶長六年二月十九日付。
建武四年三月六日 / 冊子 26~27頁/原整理番号 231
延時又三郎入道法仏の代官信忠が、御教書に応じて越前国敦賀城へ馳参し軍忠を尽くしたとして、御注進と恩賞を求めた軍忠状。建武四年三月六日付で、川上頼久の承判がある。
建武三年四月廿五日 / 冊子 27頁/原整理番号 232
薩摩国御家人延時又三郎入道法仏が、肝付八郎兼重の与党・凶徒らを誅伐するため馳参したことを届け、披露を求めた着到状。建武三年四月廿五日付で、道鑑公の承判がある。
建武三年六月日 / 冊子 27頁/原整理番号 233
延時又三郎入道法仏が大隅国加瀬田城合戦での軍忠を申した軍忠状。肝付兼重・兼高らの与党を誅伐するため大将総州が発向した際、法仏は病気のため代官平田小次郎真宗を差し向け、去月六日から今月十日まで水手で連日戦い、城を攻め落として凶徒を静謐したとして、御注進と恩賞を求める。建武三年六月付。
建武四年八月日 / 冊子 27~28頁/原整理番号 234
延時又三郎入道法仏が薩摩国市来院各所での軍忠を申した軍忠状。病気の法仏に代わり舎弟彦五郎忠義が出陣し、石走で市来太郎左衛門入道以下の凶徒を射伏せて追い返し、十四日夜には赤崎で命を捨てて長時間戦ったとして、合戦次第への承判、御注進と恩賞を求める。建武四年八月付で、守護代酒匂久景の承判がある。
暦応四年十一月十四日 / 冊子 28頁/原整理番号 236
新田宮執印友雄が訴えた社領押領・神役拒否について、重ねて奉書と申状を添え、命に従って速やかに対処するよう延時又三郎入道へ命じた施行状。暦応四年十一月十四日付。
至徳四年閏五月四日 / 冊子 29頁/原整理番号 239
延時筑前守に対し、薩摩郡延時名地頭職ならびに山野・本若松名・串木野・若松・橋間・寄田・火同丸・成岡名地頭職成枝などの所領を安堵し、違乱があってはならないとした文書。至徳四年閏五月四日付。