左衛門督藤蹴鞠免許状
天文廿一年九月十一日 / 冊子 902頁
左衛門督藤が島津三郎左衛門尉貴久へ蹴鞠の免許を授けた文書。競技の作法、身体・足の運び、人数と位置取りに関する秘伝を述べ、八境図・両分図・対縮図などの図式を付して、貴久が正統な伝授内容を実技とともに継承したことを証する。
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天文廿一年九月十一日 / 冊子 902頁
左衛門督藤が島津三郎左衛門尉貴久へ蹴鞠の免許を授けた文書。競技の作法、身体・足の運び、人数と位置取りに関する秘伝を述べ、八境図・両分図・対縮図などの図式を付して、貴久が正統な伝授内容を実技とともに継承したことを証する。
天正八年二月吉日 / 冊子 648頁
新宮領上地のうち、灘木勘解由先・お津田・海老原筑前守先・牛畠など計一反三段を井黒又左衛門尉へ示した知行坪付。本田親貞が署判する。
(慶長三年)十一月廿四日 / 冊子 291頁
八十島助左衛門佐が旅庵の来訪に礼を述べ、算用・免合について石田三成へ詳しく申し入れ、条書を送ったので関係者へ伝えるよう依頼する。朝鮮では帰国船出発予定の十・十一日ごろ、小西行長の居城が敵船約五百艘に包囲されたため、島津義弘が播州飾磨の古城を引き払い、十七・十八日に後詰へ向かい、諸将も救援したと報じる。結果は未詳ながら勝利を期待し、続報を約す。
年月日未詳 / 冊子 842-843頁
山田四郎左衛門の聞書は、龍伯・惟新・忠恒の関係が疎遠となり、家臣も三方に分かれて不穏な風聞が広がった時期を回想する。忠恒の船行に供衆が緊張したことや、のちに押川強兵衛・中村氏へ命じて平田太郎左衛門を鉄砲で討たせたことを記す。
正平十三年三月六日 / 冊子 8頁
征西将軍宮の意向として、渋谷九郎左衛門尉に味方へ馳せ参じて軍忠を尽くすよう命じた令旨。修理権大夫が奉じている。
正平十四年四月十九日 / 冊子 14頁
島津氏久が野崎太郎左衛門尉の忠節を受け、柏原保東方を兵粮料所として預け置き、先例どおり領知してさらに軍功を尽くすよう命じた文書。
正平十四年十一月廿七日 / 冊子 17頁
島津氏久が田代新左衛門尉の格別の忠節に報い、大隅国鹿屋院の地頭・弁済使職を宛行い、さらに軍功を尽くすよう命じた宛行状。
康安二年九月六日 / 冊子 28~29頁
足利義詮が渋谷九郎左衛門入道に、前年二月以来の薩摩国合戦での忠節を神妙と賞し、今後もいっそう戦功を挙げるよう求めた感状。
応安三年三月十一日 / 冊子 29~30頁
正八幡宮長吏の仰せにより、帖佐・加治木・吉田・栗野・小河院内に散在する御供田について、郡司・名主らの押作で滞った御供米を、坪付注文に基づき回復・直納させるよう留守左衛門入道へ命じた御教書。
貞治六年六月廿七日 / 冊子 47頁
島津氏久・基久が河上次郎左衛門尉に、申談の内容に基づいて市来院内河上村地頭職を安堵し、領掌に相違がないよう定めた連署安堵状。
応安五年五月廿日 / 冊子 61頁
今川了俊が、島山治部太輔入道が味方として肥後国へ出陣したことを伝え、早急に同心・合力して忠節を尽くすよう土持左衛門太郎へ命じた軍勢催促状。
応安八年二月廿五日 / 冊子 75頁
島津氏久が斎藤六郎左衛門入道に、野辺盛久が相伝知行する日向国櫛間院・大隅国深河院北方について、安堵の御教書が得られるよう取り成しを求めた書状。
応安八年三月十一日 / 冊子 78頁
島津氏久が斎藤六郎左衛門入道に、富山彦五郎義弘が相伝する島津庄日向方北郷宮丸名内の富永・成清について、京都への吹挙と沙汰を求めた書状。
応安八年三月廿三日 / 冊子 78頁
島津氏久が斎藤六郎左衛門入道に、富山彦五郎義弘が相伝する島津庄日向方中郷の富山・安久名・和里木名・秋永などについて、京都への吹挙と沙汰を求めた書状。
応安八年五月十日 / 冊子 79~80頁
島津氏久が斎藤六郎左衛門入道に、山田加賀守忠経が譜代相伝する薩摩国谷山郡内の山田・上別府について、京都への吹挙と沙汰を求めた挙状。
応安八年六月七日 / 冊子 80頁
島津氏久が斎藤六郎左衛門入道へ、島津安芸入道明見(樺山資久)の所領回復を依頼した書状。肥後国山鹿庄内の筑後守頼尚跡、同国尻無村、日向国宮崎郡内の戸次丹後守跡地頭職を対象に挙げる。京都へ吹挙して正式な沙汰を得るよう求め、遠隔所領の権利確認を働き掛ける。
永和元年七月十八日 / 冊子 81頁
法眼朝実・定禅が正宮留左衛門入道に、田所永穏・万善・曽恒見・東恒見の三か所で知行者が年貢を納めず抑留しているとして、厳密に催促し、難渋すればさらに厳しい沙汰を行うよう命じた連署奉書。
至徳元年十二月九日 / 冊子 126頁
足利将軍家が島津九郎左衛門入道に、相国寺領日向国三俣院について守護に属して忠節を尽くすよう命じ、左衛門佐斯波義将が執達した御教書。
康暦元年十二月十七日 / 冊子 141頁
散位某が中田氏部大夫入道・斎藤左衛門大夫に、肥前国三根西郷内の東津・泉空閑両村を、先度の安堵に任せて渋谷肥本摂津守へ沙汰付けるよう命じた施行状。
応永元年十一月廿六日 / 冊子 155頁
島津元久が岩元清左衛門尉に、島津庄日向方三俣院の相国領内にある下地五町を給分として宛行い、先例どおり領掌するよう命じた宛行状。
応永六年十二月十九日 / 冊子 186~187頁
島津元久が岸浦勘解由左衛門尉へ、大隅国姶良庄西俣村内五町を祈祷所として宛行い、先例どおり領知することを認めた宛行状。
応永九年十月廿三日 / 冊子 206頁
直久が蒲池左衛門次郎へ、忠節により蒲池郷本名内蒲生十三町と瀬高五町の知行に相違がないことを認め、一家中への振舞いや奔走への対応も伝えた安堵状。
応永十一年三月五日 / 冊子 213頁
島津元久が、薩摩国鹿児島郡河上村について、父上野入道の存生中はその知行を認め、後には嫡子三郎左衛門尉へ給恩所として宛行い、親類兄弟の違乱を禁じた宛行状。
応永十一年三月廿七日 / 冊子 213頁
山田久興が島津元久の命を奉じ、薩摩国谷山郡延命寺の寺務職について、元久の御判による沙汰に基づき末代まで領掌するよう河上三郎左衛門尉へ伝えた奉書。
応永十二年十二月十三日 / 冊子 219頁
島津元久が左衛門大夫藤原景親に『輔仁』の名を与えた名字状。本文は授与名・受給者・年紀を簡潔に記す。
応永廿年十一月廿二日 / 冊子 282頁
島津久豊が河上三郎左衛門尉に、薩摩国河辺郡内の泊津を給分所として宛行い、先例に任せて領掌するよう命じた宛行状。
永享四年十一月十六日 / 冊子 359~360頁
島津忠国が二宮八郎左衛門へ、薩摩国河辺別府の『先立弐』と記される所領を、忠節に相違がないことを条件として宛行った文書。本文年紀は『永享三年十一月十六日』。
嘉吉二年五月十二日 / 冊子 404頁
伊集院照久が三郎左衛門へ、坊津は島津持久から所領として預けられている間は知行してよく、御所から照久へ返付された時は坊津を忠実に返すよう定めた安堵状。
寛正三年四月十五日 / 冊子 443~444頁
市来院内の河上・いてのこは・牛の江・いむた・山の城・かきのほそり・なかやま・柳かまり・松下山野などの田地について、面積と四至を列挙し、河上次郎左衛門方に伝えた坪付。
寛正七年四月十六日 / 冊子 460頁
島津立久が川上十郎左衛門に対し、従来の約束を重ねて確認し、前後とも二心なく疎略にしないことを誓い、違反時には諸神の罰を受けるとした起請文。
十一月廿二日 / 冊子 473頁
政国が二階堂三左衛門定行から太刀一腰と鳥目三千疋を受領した礼を述べ、返礼として太刀一腰(景光)と織物を進上した書状。
十一月廿二日 / 冊子 474頁
政国が二階堂三左衛門定行に贈答への謝意を述べた書状。本文はNo.1471と同文のため省略される。
文明八年四月七日 / 冊子 486頁
沙弥崇音が大隅国祢寝院佐多村内の田地・薗を二郎左衛門清康へ譲り、子孫へ相伝して他人の妨げを受けないよう定めた譲状。
三月十三日 / 冊子 567頁
島津忠昌が肝付次郎左衛門尉に、横川へ出張した敵へ早々に馳せ向かい勝利した働きを賞し、今後も油断なく対処するよう求めた書状。
(明応四年)六月廿九日 / 冊子 568頁
島津忠昌が肝付次郎左衛門尉に、加治木方が帖佐城へ攻め寄せたとの報を伝え、社家衆・本田氏・日置美作守らとともに防戦へ加わるよう求めた書状。
(明応四年)七月三日 / 冊子 568頁
島津忠昌が肝付次郎左衛門尉に、城之坂口での合戦で敵七人を討ち退けたこと、なお敵勢への備えが必要なことを伝え、加勢を求めた書状。
明応八年三月廿八日 / 冊子 574~575頁
沢永観が、水田四段などの所領処置と代替地、年貢・役負担の扱いを定め、土屋次郎左衛門尉へ伝えた仮名書きの証状。
永正七年十月廿日 / 冊子 596頁
島津忠治が北郷源左衛門尉に、各地への使者派遣と軍事上の奔走を求め、今後も忠節を尽くすよう命じた書状。
(大永五年)六月十六日 / 冊子 652頁
島津忠朝が田所勘解由左衛門尉に、近年の弓矢・争乱と奉公の状況を述べ、忠節を尽くすよう求めた書状。
「大永六年」九月廿一日 / 冊子 663頁
島津忠兼が三郎左衛門尉に、疎略の意はないと釈明し、庄内の情勢について若年の自分へ今後も思案と指導を加えるよう求めた書状。
大永八年六月廿日 / 冊子 694頁
島津勝久が北郷左衛門尉の軍忠に報い、大隅国財部院を宛行った書状。
十一月六日 / 冊子 786頁
義忠と称した島津勝久が前田四郎左衛門尉に、肝付越前守や局へのたびたびの厚意を喜び、今後も変わらぬ好意を寄せるよう依頼した書状。
十一月吉日 / 冊子 820頁
島津貴久が内山九郎左衛門尉からの請文を受け、こちらも疎略にしないことを約し、梵天・帝釈から当国の鎮守諸神までの神罰を掲げて誓った起請文。
永禄十一年二月吉日 / 冊子 191~192頁
川上忠智・有川貞則が、日向国真幸院内の大河平所について皆越六郎左衛門尉に示した連署の知行目録。
永禄十三年二月吉日 / 冊子 234頁
前田八郎左衛門尉に宛て、薩摩国加世田庄宮原名内の田畠を列記した老臣連署坪付。久木井・喜栴介などに関わる田地・畠地を合計二反として示す。
元和六年十一月十五日 / 冊子 235頁
加久藤湯田村内の知行をまとめた名寄目録。高六斗四升の知行分を阿多甚左衛門に宛てて記録する。永禄十三年関係文書の後に、後代の元和六年十一月十五日付目録を参考として収録したもの。
天正六年八月四日 / 冊子 549頁
島津義久が左衛門督へ、前年の神載で心底を明らかにし、世上が変動しても無二の忠節を尽くし、讒言があれば互いに知らせるとの同心を喜ぶ。返書が遅れたことを詫び、永く一味すると春日・八幡の照覧にかけて誓った。
(天正六年)八月廿日 / 冊子 549頁
本文はNo.999と同文につき省略されている。島津義久が左衛門督の忠節・讒言通報の誓いを喜び、返書の遅れを詫びて永く一味すると春日・八幡に誓った書状。
天正七年二月吉日 / 冊子 628頁
忠春が前田兵部左衛門尉へ、薩摩国加世田のうち船越迫の三反を記して示した坪付。
天正八年二月吉日 / 冊子 646頁
加世田の御所之前・大坪・中島などにある田地を列記し、合計五反を前田兵部左衛門尉の知行として示した坪付。