島津忠将系図
年月日未詳 / 冊子 624頁
島津忠将一流の系図で、忠将の初名・通称・官途、永正十七年の誕生、母が貴久と同母であることを記す。
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『旧記雑録』前編・後編・附録10冊と追録1~8(暫定版)、『旧記雑録拾遺 伊地知季安著作史料集1~9』『家わけ1』(暫定版)、関連史料(外伝)『島津世禄記』の46,754件を横断検索できます。検索範囲は史料群・巻を組み合わせて選べます。結果は50件ずつ表示します。
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年月日未詳 / 冊子 624頁
島津忠将一流の系図で、忠将の初名・通称・官途、永正十七年の誕生、母が貴久と同母であることを記す。
年月日未詳 / 冊子 626頁
島津忠将一流の系図で、忠将が国主の次弟で、永正十七年十一月十二日に薩州伊作で生まれ、貴久と父母を同じくしたことを記す。
年月日未詳 / 冊子 814頁
島津忠将一流の女子・男子と婚姻・子孫関係を系図形式で示す。天文十三年生まれの女子や入来院・北郷家との縁組を記す。
年月日未詳 / 冊子 866頁
天文十七年九月十一日、島津貴久方が清水城の回復を図り、島津忠将・樺山玄佐らが動いた際の攻防を記す。
年月日未詳 / 冊子 887頁
島津忠将の子・以久について、初名、官途・入道名、天文十九年の出生と母方を記した系図記事。
天文廿一年四月廿四日 / 冊子 896~897頁
島津忠将が肝付三郎五郎に、世間の変動があっても奉公を守り、相談・和睦の際にも背かないことを約した契状。
天文廿一年四月晦日 / 冊子 897頁
島津忠将が肝付三郎五郎に対し、奉公・一味の約束に偽りがないことを諸神へ誓った起請文。
年月日未詳 / 冊子 912頁
島津忠将の一流系図として、右馬頭以久の出生、母が佐多上野守忠成の娘であることなどを記す。
年月日未詳 / 冊子 918頁
『島津忠将譜』が、天文二十三年秋に忠将が隅州勢を率いて来援したことを記す。海路・陸路から加治木・清水方面へ進み、肝付三郎五郎方や城兵の動きに対処しながら、貴久方の岩剣・帖佐攻めを支援した経過をまとめる。
年月日未詳 / 冊子 45頁
弘治三年四月十五日、島津忠将が尚久とともに副将として蒲生北村の菱刈氏陣攻めに参加し、軍務を励ましたことを記す。
永禄二年五月廿三日 / 冊子 73~74頁
正八幡宮へ前豊後守忠朝が寄進した金を本田紀伊入道が持参し、島津忠将が受領して三原遠江守へ渡したことを証する受取状。
年月日未詳 / 冊子 86~87頁
竹原山合戦で、海辺の守備に当たっていた島津忠将が町田忠林の制止を退けて単騎で敵中へ突入し、包囲されて四十二歳で戦死した経過を詳記する。法名は心翁大安大居士で、家臣や援兵にも多数の戦死者が出た。
年月日未詳 / 冊子 87頁
竹原山合戦における島津忠将の突撃と戦死を記し、忠将に従って討死した家臣・従者が五十余人に及んだことを述べる。続く大安寺過去帳の戦死者名簿につながる記事。
年月日未詳 / 冊子 387頁
島津忠将の一流を記す系図で、右馬頭以久の三男である忠興について、字を堯舜房、官途を右馬頭とする。忠興は慶長四年五月廿九日に種子島で生まれ、母は松木貞右衛門尉の姉であったと記す。
年月日未詳 / 冊子 698頁
享禄二年正月二十二日、十歳の忠将が忠良の山田城攻めに従軍し、これを初陣としたことを記す。
年月日未詳 / 冊子 715~716頁
天文二年三月二十九日、忠良が伊集院内南郷城を攻めた際、十四歳の忠将が従軍し、山左近を自ら討ち取ったことを記す。
年月日未詳 / 冊子 721頁
天文二年八月十四日、忠将が南郷城を守るなか、桑畑孫六・末弘伯耆守ら三百余騎が来攻したため、忠良方と討ち合って敵兵を退散させたことを記す。
年月日未詳 / 冊子 746頁
天文五年三月七日、忠良が伊集院を攻めて放火した戦いで、忠将が十六人の兵とともに伊集院城で戦死したことを記す。忠将は十七歳。
年月日未詳 / 冊子 763~764頁
日新斎が実久領の加世田城を攻めた際、忠将が将帥として指揮し、自ら大敵へ馬を進めて奮戦したため敵兵が敗走し城が陥落したこと、追撃と味方の戦死者を記す。
年月日未詳 / 冊子 779頁
天文八年閏六月十七日、太守貴久の命で忠将が軍を率い、昼夜の攻防で味方を指揮したことを記す。八月四日の進軍と城内での戦闘、戦死者にも触れる。
年月日未詳 / 冊子 623~624頁
『島津国史』が、島津忠将の家系・官途を起点に、永正十七年以後の合戦と軍功を記す。忠朝・貴久・勝久との一族関係、伊集院尾張守忠武ら家臣との従軍、恩賞・所領支配の推移を掲げ、忠将家の成立と島津家中での役割を整理する。
年月日未詳 / 冊子 866頁
『調所恒房伝』が、本田董親の清水城退去後、島津忠将・貴久方が城を回復した経過を記す。宮内へ神官を戻し、荒廃した旧宅・社寺関係施設を再興するとともに、調所氏の系図・伝来文書を継承し、戦乱で断絶した家と地域秩序を復旧した。
年月日未詳 / 冊子 867頁
本田董親が宮内を侵掠して神官らを退去させた後の回復過程を記す。島津忠将・樺山玄佐・伊集院忠朗らが清水・姫木方面へ出陣し、本田方の城を攻めて旧領を奪回した。戦後は神官・調所恒房らを帰還させ、神職と祭祀を復旧した。
年月日未詳 / 冊子 64~65頁
永禄元年十一月四日に新山城が攻め落とされ、多数が戦死したことと、十二月二十三日に薩摩・飫肥・庄内三家の軍が反撃した戦闘を記す。島津忠将を大将とする諸将の槍働きや負傷を列挙する。
年月日未詳 / 冊子 65~67頁
新山城落城後、豊州家の要請を受けた島津貴久が島津忠将を大将に三千の援軍を飫肥へ送った記事。十二月二十三日、伊東勢との激戦で島津方の物頭らが討たれた一方、伊東方は百九十八の首級を挙げたとする。
年月日未詳 / 冊子 84頁
永禄四年、肝付兼続が宴席で鶴を供した際、島津家の鶴丸紋を嘲られたと憤り、伊東氏らと結んで五月十四日に廻城を奪取した。島津貴久・義久らが包囲し、七月十二日の竹原山合戦で島津忠将・町田忠林らが戦死したが、島津方は反撃して肝付・伊地知・禰寝勢を退け、飫肥在陣中の義弘も帰還した経過を記す。
年月日未詳 / 冊子 86頁
肝付兼続の反乱と廻城をめぐる戦い、竹原山合戦で島津忠将が戦死したことを義弘の譜から記す。飫肥在陣中の義弘は、島津忠親の勧めもあって急ぎ帰還した。
年月日未詳 / 冊子 87~88頁
竹原山合戦で島津忠将に従って戦死した武士・従者らについて、戒名と俗名を列挙した大安寺過去帳の記事。忠将・町田忠林をはじめ五十余人の戦死者を伝える。
年月日未詳 / 冊子 89頁
永禄四年七月十二日に廻城近くで戦死した島津忠将(心翁大安居士)を追善するため、嫡子が戦死地に七宝の塔を建立したことを記す碑銘。天正三年八月の日付を持ち、忠将の武功と供養の趣旨を漢文と偈で述べる。
年月日未詳 / 冊子 89~90頁
島津貴久の命で島津忠将の家老となった町田忠林が、永禄四年七月十二日に廻の竹原山で戦死したことを記す。二男の軍四郎忠次も十九歳で父とともに戦死し、両人の法名を載せる。
年月日未詳 / 冊子 90頁
町田氏十四代家督伊賀守久倍の二男である町田忠成が、島津貴久の命により島津忠将の家老となり、永禄四年七月十二日に廻の竹原山で戦死したことを記す系図記事。
年月日未詳 / 冊子 90頁
川上久朗の弟で右京亮と称した川上忠継が、永禄四年七月十二日に島津忠将に従って戦死したことを記し、法名を忠心長継居士とする系図記事。
年月日未詳 / 冊子 91頁
永禄四年五月から七月十二日にかけての廻・竹原山合戦における島津忠将以下の戦死者を列挙する。町田氏・川上氏・酒勾氏などの武士に加え、中間・従者・人足まで多数の名を伝える。
年月日未詳 / 冊子 93頁
永禄四年七月、島津忠将が戦死した竹原山合戦で、その後も戦場に踏みとどまって防戦し、敵を討ち取った従軍者として瀧聞美作守・梅北刑部左衛門を挙げる交名。
年月日未詳 / 冊子 93~94頁
島津方が廻城を包囲すると、肝付方は六千余騎を集め竹原山・馬立の陣を攻撃し、島津忠将以下を討ち取った。兼続は忠将との旧交を思って涙し、島津方は一時和睦して撤陣し、飫肥の義弘も貴久・忠親の意向により帰国した経過を記す。
年月日未詳 / 冊子 95頁
永禄四年七月、肝付勢が島津方の陣を崩して総大将の島津忠将以下多数を討ち、廻城の守備を救ったことを記す。さらに飫肥方との和議交渉、人質交換、先宮城の一部引渡しなど日向方面の動向を続けて記録する。
年月日未詳 / 冊子 95頁
永禄四年七月十二日の廻陣で島津忠将が戦死した際、肝付兼明の兄孫六・仲右衛門が竹原山で戦死し、掃部助は忠将を討ち取ったのち同月十七日に坂で切腹したことを記す指出。
永禄六年七月十二日 / 冊子 125頁
島津征久が父・島津忠将の大祥忌に際し、私宅で三日間にわたり茶菓・法筵を設け、諸山諸宗の僧二百余人を招いて法会と論議を行ったことを記す偈文。近津が心翁大安居士の六字を冠した六首の偈を作り、霊前へ捧げた。
年月日未詳 / 冊子 760頁
天文七年、新納氏の没落後に四郎兄弟が日新方へ加わり、十二月二十九日の加世田城攻めで大寺越前守・鎌田加賀守・右馬頭忠将が軍功を立てたことを記す。
年月日未詳 / 冊子 762~763頁
天文七年十二月晦日、日新公が軍勢を招集して加世田攻めを告げ、父子三人と選抜した兵が夜襲を敢行したことを記す。狐火を頼りに城壁へ密進し、激戦の末に新城を陥落させた。
年月日未詳 / 冊子 763~764頁
島津勝久の鹿児島帰還後の政情と家臣処罰を背景に、忠良方が加世田城を攻めた経過を記す覚書。島津貴久・忠将、鎌田加賀守らが城内へ攻め込み、敵兵を追撃した一方、味方武士も戦死した。攻城の進路、城内戦、追撃までを当事者の記憶に基づいて伝える。
年月日未詳 / 冊子 766~767頁
天文七年十二月二十八日、忠良・貴久・忠将の父子三人が雪中に加世田へ出陣し、道中で垂れた蜘蛛の糸を三人そろって見たことや、夜半の鐘声を記す。忠将を大手口の大将として攻め、敵の反撃を受けながら諸将が救援し、新城では未明までの激戦の末に城兵を討ち取って落城させた経過を伝える貴久公記。
天文廿一年十二月四日 / 冊子 904~905頁
島津貴久・忠将・忠親、北郷忠相・忠豊、島津幸久・忠俊らが一味同心を誓った連署起請文。家中の重要問題と領国内の争いを共同で協議・処理し、互いに隔心や裏切りを持たないことを定め、違反時の神罰を受ける覚悟を神仏に誓う。
年月日未詳 / 冊子 914頁
『島津貴久譜』が、九月十八日に島津右馬頭忠将が大隅の兵と船団を率いて来援したことを記す。忠将勢は海路から帖佐・岩剣城方面へ進み、城方の兵と交戦して貴久方の攻勢を支え、陸海の諸隊が連携して包囲を強めた。
年月日未詳 / 冊子 922~927頁
天文二十三年九月十二日から二十九日までの岩剣城攻防を日ごとに詳記する戦陣日記。十二日の出陣・陣取りに始まり、十三日以後の城兵の出撃、伏兵、民家への放火、火攻め、鉄砲・弓矢戦と、それに対する島津方諸隊の迎撃を追う。島津貴久・義久・義弘・忠将らのほか、伊集院・川辺・梅北・北郷など各隊の配置、船による援軍、使者の往来を記し、帖佐・焼山・白銀・岩剣城周辺で包囲線が形成・維持された経過を示す。敵味方の討死・負傷、捕虜、鉄砲の被害も日付ごとに挙げ、長期化した攻城戦の推移と各将の軍功を具体的に伝える。
年月日未詳 / 冊子 1~2頁
島津貴久が嫡男義久、弟忠将、子の歳久・家久を率いて北村を攻めた際、敵の伏兵に遭って歳久が負傷。翌日、北原氏の軍勢が溝辺に出たため大隅衆が迎撃し、鉄砲で敵六人を射殺、太刀で一人を討ち取った。
年月日未詳 / 冊子 32頁
弘治二年九月五日、松坂野頸で釣り野伏を行い敵三人を討った。梅北宮内左衛門尉方、山田衆細田五藤兵衛方、鹿児島衆福島新左衛門方の各一人が高名を立てた。貴久は山田から松坂城向かいの尾まで馬を寄せて城の様子を見、忠将・忠平が供をした。
年月日未詳 / 冊子 45頁
弘治三年四月十五日の菱刈氏陣攻めで、尚久が忠将とともに副将として出陣した記事。険しい陣を諸軍が必死に攻め破り、敵数百人を斬り、菱刈左馬権頭が自害したと記す。
年月日未詳 / 冊子 85~86頁
肝付兼続が島津氏への遺恨から伊東氏と結んで廻城を奪い、島津貴久・義久らが包囲した経過を記す。七月十二日の竹原山合戦で忠将と町田忠林以下多数が戦死したのち島津方が反撃し、飫肥にいた義弘を呼び戻した。
年月日未詳 / 冊子 90~91頁
永禄四年五月十四日に肝付方が廻城を忍び取り、六月二十七日に島津方が大牟礼・馬立・竹原山へ陣を置いた。七月十二日に竹原山が破られて忠将以下七十余人が戦死し、十一月七日に代賢が福昌寺へ入院したことを記す。