島津元久宛行状
応永十三年九月廿六日 / 冊子 223頁
島津元久が二階堂山城守へ、薩摩国阿多郡内観音寺と阿多内十町を祈所として宛行い、先例に任せて領掌するよう命じた宛行状。十町の坪付は別紙とする。
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応永十三年九月廿六日 / 冊子 223頁
島津元久が二階堂山城守へ、薩摩国阿多郡内観音寺と阿多内十町を祈所として宛行い、先例に任せて領掌するよう命じた宛行状。十町の坪付は別紙とする。
応永十五年十月十九日 / 冊子 230頁
島津玄仲が祁答院山城守へ、天下が変転しても一味同心し、大事の際に見捨てず、讒言や凶害による疑いは直接問いただすと神々に誓った契状。
応永十八年十一月十八日 / 冊子 260頁
島津久豊が称寝山城守に、大隅国寄郡内西俣の肝付老共跡と兵部少輔知行分三十町を給分所として宛行い、残地が闕所となった時は代替地を与えるとした宛行状。
五月十一日 / 冊子 911頁
戸次紹花が本田山城守に、書状を拝受した礼を述べ、馬一匹を贈られたことへの謝意と今後の奉頼を伝えた書状。
五月十一日 / 冊子 911~912頁
戸次紹花が本田山城守に、息孫次郎からの伝言、馬や織香などの贈答について礼を述べた書状。
六月十四日 / 冊子 14頁
敵方が数十艘の兵船を率いて指宿方面へ来襲した際、頴娃山城守が寄持衆と自ら戦い、多数の敵を討ち取った武勇と軍忠を賞した書状。
永禄二年十月四日 / 冊子 74~75頁
伊地知方の件を知らなかったこと、不忠者に同心しないこと、頴娃方に対して隔心なく従来どおりの関係を保つことを貴久・義久が誓い、違背時の神罰を掲げた起請文。
六月三日 / 冊子 274頁
島津勝久が、石州からの丁重な申し入れを喜び、石州と船者の知行不足や七島内の所領配分について報告し、今後の進展を両名へ伝えた書状。
正月十二日 / 冊子 190頁
島津家から禁中へ唐矢三十箱・唐製の鉄砲一箱・麝香二斤を進上し、女房奉書を受けて納めたことを報告した。関白宣下の祝儀として太刀一腰と馬代銀子十枚を贈ったことも披露され、喜ばれたと伝えた書状。
年月日未詳 / 冊子 771頁
天文八年三月十三日の谷山紫原合戦と、その後の神前城・本城・山城攻めに参加した味方の交名注文。島津忠良・貴久のもと、平田宗秀、伊集院山城守、大野駿河守、勝部兵庫允らを部隊・日付ごとに列記し、連続する攻略戦への動員状況を示す。
(永禄六年)十月廿一日 / 冊子 126頁
戸次山城守から具足一領が進上され、当地でも特別に心を添えているため、重ねて書状を送り、その厚意を祝着として披露するよう求めた佐々木宗綱書状の追而書。
永禄十一年三月廿三日 / 冊子 196~197頁
永禄十一年三月二十三日、相良・菱刈・入来院・東郷・祁答院勢が曽木城を攻めた際、宮原景種・越中守と佐多山城守らが防戦したことを記す。敵は攻めあぐねて市山城へ転じたが、手傷を負っていた新納忠元が白坂口へ出て迎撃し、永福寺口でも本田掃部兵衛・河野玄蕃允らが戦ったため退いた。
天正17年2月12日 / 冊子 440頁
豊臣秀吉が、島津義久から鉄砲で仕留めた雁二十羽と鴨五十羽が届いたことを喜び、受領を伝えた朱印状。 詳しい返答は石田治部少輔(三成)と山中山城守から申し伝えるとしており、島津方による獲物贈答の具体的な数量が分かる。
(天正17年)9月16日 / 冊子 452~453頁
豊臣秀吉が羽柴薩摩侍従へ、薩摩・大隅両国内の鶴・白鳥・雁・鴨などを、前年同様に鉄砲衆や猟師へ命じて捕らえ、進上するよう求めた朱印状。 御鷹場では他者に鳥を捕らせず、確実に集めることを命じ、詳細は島津中山城守から申し伝えるとしている。
文禄4年3月18日 / 冊子 870~871頁
城の兵糧として米二千石を博多で渡し、山中山城守・石川紀伊守が受け取って蔵へ納めるよう命じる。船頭の飯米は百石につき四石と定める。 釜山浦の貯蔵兵糧も各城へ配分し、寺沢志摩守の指示で蔵へ保管すること、非常時以外の流用を禁じる。朝鮮在陣軍の兵站管理を数量と担当者まで示す重要命令。
文禄4年8月28日 / 冊子 909頁
秀吉は鳴津又八郎が当番衆として残り、引き続き辛労していることをねぎらう。 詳しい事情は岡田勝五郎に申し含めたとし、静謐が進んでいるので心配は不要と伝え、増田長盛・石田三成・山中山城守からも説明させる朱印状。
三月廿四日 / 冊子 85頁
差出人不詳者が、薩摩国関係の安堵状案文を急ぎ作成し、南蛮船着岸時に上乗を添えて送ることを求めた書状。馬・太刀の進上、京都への使節と板倉殿の指南、伊集院山城守・別府殿への書状、案内役石塚殿の必要性などを指示する。
(記事) / 冊子 151頁
入来院八代重長を起点とする一流の系図。重長の法名に関する注記を付し、出羽守・越前守・山城守・左馬助・宮内少輔などへ続く子孫・一族関係を系線で示す。入来院氏の支流と家臣層の系譜を伝える記事である。
年月日未詳 / 冊子 200~201頁
島津斉宣の遺物として伝えられた刀剣・金工品等の注文。手縫、対鎚、長刀、刀、馬具などについて、薩州住藤原正清・平安代・山城守國重らの作者名、寸法、金具・漆塗・唐草毛彫などの意匠、数量を列記する。
十月廿一日 / 冊子 404頁
佐々木宗綱が本田弾正忠へ、月次山城守から具足一領が進上されたことを伝え、現地で格別に配慮してくれたため重ねて書状があり、祝着の旨が伝達されたとして、互いに披露するよう求めた書状。
永正十三年九月一日 / 冊子 613頁
永正十三年九月一日の犬追物について、各組の射手と射数を列記した手組。
年月日未詳 / 冊子 772頁
天文八年三月十三日の紫原合戦で敵軍を討ち取った後、平田宗秀の城からの申請を受けて本城へ進み、伊集院方の城を攻略した戦闘経過を記す。
十一月廿五日 / 冊子 726頁
地頭不在の時期にも一味同心して忠実に奉公した曾於郡衆の懇志を喜び、特に川上十郎左衛門ら諸士の入魂を頼もしく評価する。番所の用心を堅固にして油断しないよう命じ、雪花の件には急ぎ合力すると約した島津忠兼書状。
(元禄二年)八月廿三日 / 冊子 841頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書2231
島津綱貴が戸田山城守へ、御内書を頂戴し、家来の者が時服三つを拝領したことへの礼を述べた書状。
元禄二年十二月十四日 / 冊子 845頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書2245
島津綱貴が戸田山城守へ、又三郎忠竹の元服にあたり、翌十五日五時に同人を連れて登城するよう命じられた旨を承知した請書。
元禄二年十二月十八日 / 冊子 846頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書2248
島津綱貴が戸田山城守へ、領内の桜島蜜柑二箱と肴一種を献上し、滞りなく披露されたことへの礼を述べた書状。
正徳四年十一月廿七日 / 冊子 172頁/整理ID 422
翌二十八日五時に登城し、参勤の御礼を申し上げるよう、戸田山城守ら五名に伝える通知。
正徳四年十一月廿八日 / 冊子 172頁/整理ID 424
御用があるため、翌二十九日四時に登城するよう、戸田山城守ら五名に伝える通知。
正徳四年十二月十四日 / 冊子 176頁/整理ID 436
翌十五日五時に登城し、加階の御礼を申し上げるよう、戸田山城守ら五名に伝える通知。
寛正2年11月24日 / 冊子 336頁/原整理番号 130-19
寛正二年十一月二十四日、島津立久が河上山城守へ出した安堵状。河上又八郎忠塞方の大寺彦左衛門幸朝を通じて河上側の意向を詳しく承知したと述べ、所領等について今後相違の扱いをしないことを保証する。立久には島津氏十代当主との傍注がある。
寛正3年卯月15日 / 冊子 337頁/原整理番号 130-21
寛正三年卯月十五日、市来院内十五町三段の坪付について、個々の坪付本文を「末略」として総面積だけを掲げた抄録。平田右馬助兼宗・石井丹波守義忠・本田三郎五郎宗親・大寺彦左衛門尉幸朝が連署判を据えて河上山城守守家へ渡したもので、真本は家蔵と注記し、この年十一月に建竜雲寺が建立されたかとの傍注も付す。
12月27日(年未詳); 天文3年9月14日(傍注) / 冊子 338頁/原整理番号 130-23
十二月二十七日、薩摩国市来院伊作田名一町七反の坪付について、個々の坪付本文を「末略」として総面積だけを掲げ、池袋越後守宗政・村田越前守経定・平田右馬助清宗が連署して河上山城守へ渡した抄録。傍注は、天文三年九月十四日に大将として南郷を攻め、勝てずに討死した人物を家林かと推定する。付随系譜は平左衛門尉と二人の女子を掲げ、一人を河上越前守妻、もう一人を町田伊賀守妻とする。
永正18年3月吉日; 大永6年12月27日 / 冊子 340頁/原整理番号 130-25
坪付本文をいずれも「末略」とした二件の抄録。第一は永正十八年三月吉日付で、大隅国重久名十七町四反の総面積を掲げ、忠基(末弘伯耆守かとの傍注)と桑波田讃岐守景元を記す。第二は大永六年十二月二十七日付で、薩摩国市来院伊作田名一町七反の総面積を掲げ、伊地知縫殿助重周・肝付越前守兼演・本田因幡守兼親が署判し、河上山城守・河上平次郎へ渡したもの。
12月27日(年未詳) / 冊子 341頁/原整理番号 130-29
十二月二十七日、薩摩国市来院伊作田名の平田之門について、坪付本文を省略して都合一町七反という総面積を示した抄録。池袋宗政・村田経定・平田清宗が署判して河上山城守へ渡したもので、本家蔵の文書と注記する。本文書は十一代河上年家の頭注として掲げられている。
享保六年十二月二十七日 / 冊子 499頁/整理ID 1340
水野和泉守・戸田山城守が松平大隅守へ、翌二十八日五つ時に登城し、任官の御礼を申し上げるよう伝える。
応永十四年二月九日 / 冊子 225~226頁
島津忠朝が、薩摩郡内天辰谷口の三段を冠嶽山三所権現へ永代寄進し、朝廷・家門・弓箭・子孫・郷内の安穏と人々の快楽、息災延命・安全の祈祷を願った寄進状。
応永十四年八月廿一日 / 冊子 227頁
島津忠朝が冠嶽山三所権現へ、世上がめでたく弓箭の運が開けたなら以前の本寄進を復し、さらに一所を寄進すると立願し、祈祷を求めた願文。
応永十八年十月九日 / 冊子 253頁
島津久豊が禰寝清平に、薩摩国揖宿郡内の鳴河村を祈所として宛行い、先例どおり相違なく領掌するよう命じた宛行状。
年月日未詳 / 冊子 255~256頁
山北四か所の開陳に際し、守久・忠朝・北郷久照ら一族が薩摩郡へ入り、山門院・限城・薩摩郡内の各地へ配置されたことを記す。伊集院頼久の領地を含む諸所領と一族・被官の帰属を列挙する系譜記事。
応永廿六年十月廿八日 / 冊子 310~311頁
島津忠朝が清敷彈正忠の今回の厚恩と軍忠を忘れず、異心なく、その子貴久の代まで違背しないこと、後日の取扱いにも懇切を尽くすことを神仏に誓った契状。
十一月廿五日 / 冊子 670頁
島津忠兼が曽於郡衆に、雪花の手配を命じ、地頭がいない時期から一味して奉公したことを賞し、河上・伊地知・有屋田・鹿島らの協力と番の用心を頼んだ書状。
十一月廿五日 / 冊子 750頁
島津貴久・忠兼が肝付方に、雪花の瑞相や当時の情勢に触れ、誠意を尽くして公務に励むよう求めた書状。
年月日未詳 / 冊子 48頁
弘治三年六月十六日、伊東勢が新山城へ攻め寄せ、味方の宮田・樗木らが戦死したことを記す。数年に及ぶ戦いで豊州方の軍勢が疲弊し、勢力が衰えた状況を述べる。
林鐘二十日 / 冊子 101頁
琉球国三司官が市来因幡守ら五名に宛てた書状。文船派遣の依頼に対し、古来の交流は重んじるものの、近年は日本の賊船往来で海路が不穏となり、島々や港の警固に追われているため、現時点では要請に応じ難いと説明する。贈物への返礼として鹿錦三十把を進呈している。
明和二年二月十七日 / 冊子 61~62頁/原整理番号 181の11/整理ID 181-11
大目付が二月十七日、松平右近将監から渡された書付の写二通を諸家の留守居へ送る。書付を承知し、遅滞なく順達した後、池田筑後守のもとへ返却するよう指示している。宛先は松平陸奥守、有馬中務大輔、伊達遠江守、真田伊豆守、鍋嶋摂津守、秋月山城守、大田原出雲守、毛利能登守、織田丹後守、堀田梅之丞の十家の留守居。
明和二年三月二十六日 / 冊子 76頁/原整理番号 181の40/整理ID 181-40
大目付が三月二十六日、松平右近将監から渡された書付の写し二通を送り、その趣旨を承知して滞りなく順達するよう命じる。最後の受取人から池田筑後守方へ返却するよう指示する。宛先として松平陸奥守、有馬中務大輔、伊達遠江守、真田伊豆守、鍋島摂津守、秋月山城守、大田原出雲守、毛利能登守、織田丹後守、堀田梅之丞の十名を掲げる。朱書には、当日の朝に大目付池田筑後守から廻状と写し二通が届けられ、書付を有馬中務大輔へ順達して写しを差し出した旨を記す。
明和二年四月十三日 / 冊子 82~83頁/原整理番号 181の60/整理ID 181-60
四月十三日付の大目付廻状。日光山御法会に伴う紅葉山御宮での法会日割を、十五日卯上刻、十六日午上刻、十七日寅上刻と示す。阿部伊予守から渡された書付の写し一通を送るので、順廻の最後の受取人から大井伊勢守方へ返すよう指示する。宛先は御名の家と有馬中務大輔、真田伊豆守、秋月山城守、毛利能登守、堀田梅之丞、松平陸奥守、伊達遠江守、鍋島摂津守、大田原出雲守、織田丹後守の留守居。朱書には、今朝大井伊勢守から借り受けたため、本書を有馬中務大輔方へ順達し、写しを差し上げたと記す。法会の時刻通知、写しの送付・返却指示と、朱書による受領・本書順達・写上の記録を分けて示す。
現行年紀:應永四年六月十五日 / 冊子 120~121頁/原整理番号 204/整理ID KW1-P01-39f4516f-D0204
大隅国本領地の知行に相違があってはならない旨を、祢寝山城守殿に示す。
文書末尾日付:永徳三年卯月廿二日 / 冊子 599~600頁/原整理番号 九七/整理ID TMP-P04-NIKAIDO-D0097
山城守行貞に対する禅桂の譲状。 薩摩国阿多北方多布施郷、豊前国金田村半分、三河国重原内の所領を掲げる。 相伝所領として文書・御下文を添え、惣領の行貞に譲渡して妨げなく知行すべき旨を述べる。 兄弟が所譲に違乱する時は子孫とすべからざる旨を記す。永徳三年卯月廿二日付、禅桂の花押表示を置く。
本文文書年紀:應永十三年九月廿六日 / 冊子 601頁/原整理番号 一〇〇/整理ID TMP-P04-NIKAIDO-D0100
薩摩國阿多郡内觀音寺ならびに阿多内十町を対象とする。 祈所として宛行い、早く先例に任せ領掌するよう述べる。 應永十三年九月廿六日付、元久の花押を記し、二階堂山城守殿を宛所とする。