勢田宗句書状
九月七日 / 冊子 419頁
勢田宗句が島津龍伯へ、薩摩滞留中の厚恩に謝し、当国の八十島助左衛門尉が下着したため書状を託すと伝える。留守役人衆の配慮で日々命をつないでおり、龍伯の下国時に詳しく申し上げたいと述べた書状。
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九月七日 / 冊子 419頁
勢田宗句が島津龍伯へ、薩摩滞留中の厚恩に謝し、当国の八十島助左衛門尉が下着したため書状を託すと伝える。留守役人衆の配慮で日々命をつないでおり、龍伯の下国時に詳しく申し上げたいと述べた書状。
元和四年五月七日 / 冊子 672~673頁
船一艘の船頭・水手・上乗と人数、竹・角柱・琉球筵・鉄・黒木などの積荷を列挙し、相模守の役人が江戸へ回送するため異状なく通行させるよう命じた連署手形。
年月日未詳 / 冊子 527頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書1186
北郷佐渡久加譜中の記事。寛文七年正月三日、光久は幼年とする又三郎延久(十八歳との注)の後見・指南を久加へ命じた。病気隠居中の久加は再三固辞したが、命を辞しきれず五月十五日に平佐を発ち武陽へ赴任し、大嶺少兵衛安親・弟子丸権右衛門盛張らが随従した。七月五日に江府で光久の使者相良吉右衛門・桂杢之助を介して覚書を頂戴した。又三郎の側での相談・守役の仰出を掲げ、末尾に前出二通を略すとする。
文化8年4月(朱年注) / 冊子 365~366頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1137
重豪公御譜中・写正文在文庫。松平豊後守(斉興注)が御暇を得て初めて在国するに当たり、若年なので従来の政務を崩さず、万端を独断せず先方に相談すべきとする内意を記す。丸印以下は初帰国に伴う幕府老中の示談で、御用番土井大炊頭から有馬左兵衛佐を介して三殿へ伝えられた。先代に例のない親しい厚恩として、若年の政務を家老・若年寄・大目付が心に掛け、従来の規定を堅く守ること、徒党・乱れた風俗・国政の妨げが生じたら公辺へ響かぬよう国中の静謐を専ら考えることを述べる。御介助しつつ今回発駕に際し太守から願いを進めさせ、公辺でも了承し厚く趣意を伝えたので、太守役人にも心得させ忘れないよう大御隠居が申し付ける。さらに別の丸印以下、今回の初帰国について御用番から指示された内容を大御隠居が詳しく告げ、今後心得違いを起こしてはならず必ず守るよう命じる。いずれも文化8年4月朱注。内意・幕府示談・家老等への役割と大御隠居の仰出を分け、単なる帰国許可文へ縮めない。
文化10年7月(朱年注。日なし) / 冊子 407頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1279
扣正文在家老座。暑中の安寧を祝い、薩州温泉へ御暇を願いどおり許され国元へ越すことを述べる。久しく国元に行かず、豊後守もまだ若年なので政事等へ介助・相談を加えたいが、年来勝手向が充実せず難儀しているという。先に相手から内沙汰があった以上、その筋の役人に厚く申し含め永久の取締をよく示談したいとし、豊後守役人と内談の上で関係者を一通り尋ねたいと述べる。国元役人の勤向がいつとなく弛み等閑との趣も聞くが、差し当たり具体に申し付ける名目はなく、その点は懸念しないよう伝える。以前から掛念している内沙汰の趣につき、今回帰国できれば役人へ厚く申し含めたいので内々に聞き置くよう求める。文化10年朱注、7月、榮翁署、左兵衛佐宛・有馬誉純注。疑いを役人不正の確定事実に変えず、内用相談と実施済を分ける。
享保九年三月九日 / 冊子 649~650頁/整理ID 1645
米三千六百四拾七石五斗と京升の換算、琉球国分の米高等を記し、米の請取と御蔵への納付を証する。
享保九年九月十四日 / 冊子 675頁/整理ID 1700
当辰年の上ケ米のうち三千六百四十七石五斗を請け取ったことを、四名が判を据えて証する。
享保十年三月 / 冊子 691~692頁/整理ID 1761
江戸家老座に金二千八百十三両三分と銀二匁一分を上納した旨を記し、内訳と上納先の役人名を列挙する。
享保十年三月廿六日 / 冊子 692頁/整理ID 1762
江戸家老座への上納金銀について、金二千八百十三両三分と銀二匁一分を請け取った旨を記す。
享保十一年三月十八日 / 冊子 717頁/整理ID 1847
米高と金銀の請取額および納入方法を列記した四名連署の請取状。
享保十一年七月十一日 / 冊子 724頁/整理ID 1868
船が遭難して五島領内に漂着した件を報じ、琉球人を含む乗組員への対応と長崎奉行への届出・送還について伝える。
享保十二年三月十八日 / 冊子 746~747頁/整理ID 1951
米・金子・石類などの請取額と残額を記し、御金奉行ら四名が大隅守側へ差し出した請取状。
享保十二年十月十三日 / 冊子 758頁/整理ID 1993
米三千六百四十七石五斗を、当秋の半分の書面に従って御蔵へ納めたことを証する、辻守輝ら十名連署の請取状。
年月日未詳 / 冊子 931-932頁
樺山紹剣(久高)の自記。慶長九年の島津忠恒上洛に随行し、京都での用務から帰国までを記す。前年は留守役だったが今回は同行し、屋形の土地を受け取って、堀・門・町割りなどを整えた居所を築いた経緯も述べる。
年月日未詳 / 冊子 778頁
島津家久がこの春、島津久元を江戸へ留守役として派遣し、久元が将軍に拝謁したことを記す系譜記事。
寛文七年一月三日 / 冊子 526~527頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書1185
島津光久が、病後で留守居役を命じられた北郷久加に、江戸で又三郎(島津綱貴)の守役を務めるよう重ねて求めた仰書。綱貴の才発を認めつつ、当世の作法と合わない薩摩家中の古風な慣行を見分けて指南するよう命じる。
元禄十三年八月朔日 / 冊子 227頁/整理ID 779
島津綱貴が松平修理大夫島津吉貴へ、端午祝儀として贈った目録記載品への丁寧な返礼と、吉貴からの七夕祝儀の目録記載品に謝意を述べた書状。奥向きの留守役への料理・振舞は又八郎方へ委細を伝えていたが、参府前に済ませる事情から六月十三日に又八郎部屋で振舞を行い、その旨を又八郎から報告されたと伝える。
年月日未詳 / 冊子 179頁/原整理番号 60
伊東才蔵家の系図。伊東加賀守から右衛門へ続き、右衛門は実は加賀守の弟で、兄の猶子となり、加賀守とともに木崎原で戦死したと記す。次左衛門の後裔は佐土原没落時に浪人となり、のち伊集院忠真に属し、忠真下城後は指宿に居住、その後加治木へ至って惟新公に仕え、知行を与えられた。別系の仙右衛門―志摩助の後裔は光久公に仕えて御守役を務めた。藤五郎―仙右衛門の系の後裔は、江戸上御屋敷の類火時に女房を介抱して退出させ、光久公病気の際には霧島御鉢へ二昼一夜参籠し、のち納殿役を務めた。
寛文七年一月三日 / 冊子 526頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書1184
島津光久が、交替で又三郎(島津綱貴)に仕える者だけでは継続的な教導が難しいとして、北郷佐渡久加を側に付け、若年の綱貴の行跡を指南し、家の長久の基となるよう守り立てることを命じた仰書。
二月五日 / 冊子 73~74頁/原整理番号 115-2
北郷久加・喜入忠政・島津久賀が島津久頼・肝付兼屋・東郷昌重・吉利忠張へ、全員が急いで渡るよう命じる。荷物は船、人は徒歩とし、陣屋道具を余計に積まないこと、渡り終えるまで吉利忠張・東郷昌重が残ることを指示する。山狩奉行の長谷場兵右衛門・肥後内蔵助には狩りの結果を報告させ、有馬へ伝えるため早く来るよう求める。
(慶應元年)九月十一日 / 冊子 526~527頁/原整理番号 10
酒匂家の伝承と東鑑を手掛かりに、忠久に奉仕した酒匂朝景・景貞、幼少時の保護と入国随従を記す。「母衣」の意味、成長時に贈られた太刀の銘、委敷という語の解釈を検討する。道聖の自記にある忠久の誕生・元服・直垂の紋の秘事が、順聖院の指示で内密に調べられたことを述べ、未見の書付と開封閲覧の経過にも言及する。
年月日未詳 / 冊子 653~659頁
文禄初年、新納忠元が渡海軍の編成、兵糧・船舶の調達、留守役や家臣の派遣に奔走し、島津義久・義弘の命を受けて軍務を支えた経過を編年で記す。 船不足や家臣間の利害対立、讒言・虚偽の訴えによる処分、逆徒への対応など、朝鮮出兵期の島津家中に生じた深刻な混乱も詳述する。 忠元の忠節と軍功が最終的に認められ、後世に「薩摩の武蔵」と称された根拠を示す、戦功顕彰と名誉回復の性格を持つ長編記録。
文禄4年9月15日 / 冊子 913~915頁
秀安は唐島での番船捕獲や、明軍が籠る朝鮮の城を島津勢が攻めて多数を討ち取った戦功を祝う。 弓次郎の高麗出陣、伏見での留守役、軍役人数と知行、上洛・国元での処遇などを詳しく論じ、朝鮮戦役と家臣の軍役負担を結ぶ長文書状。
年月日未詳 / 冊子 577頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書1387
寛文十一年二月二十六日、島津綱貴が家老島津久通、守役島津久邦らを伴って参勤に出発し、日向路・細島・大坂・東海道を経て五月四日に江戸へ着いた。同月十日に登城して将軍徳川家綱に拝謁した記事。
年月日未詳 / 冊子 593頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書1443
綱貴は寛文十二年五月二十八日に登城して帰国の暇を賜り、六月十八日に江戸を発つ。家老新納又左衛門久了、守役島津豊前久邦、使役平山忠知・本田親平らが従う。東海道を取り、閏六月朔日に伏見、同八日に大坂で乗船、二十日に出水郡獅子島、二十五日に船間島(川内の傍注)、晦日に鹿府へ入る。伊地知杢右衛門重倫を江府へ遣わし稲葉正則へ謝礼させる。
正徳三年九月十八日 / 冊子 116頁/整理ID 272
島津吉貴が、領地の留守役として家老鳴津帯刀を江戸へ差し越すことを願い出る。前年の鳴津大蔵派遣と御目見えの先例を挙げ、今回も御目見えを命じてほしいと求める。
宝暦八年三月二十二日 / 冊子 667~670頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書2008
高橋縫殿・島津主鈴・樺山左京が三月二十二日、在国家老四名へ、太守の初御目見・家督御礼と家来九人の御目見について、先月七日の水野壱岐守への内意から当月の取次・相談の経過を知らせる。老中の用人・留守居を通じ、願書・献上品の書付、御部屋柄の初御目見と家督御礼の先例、輪番・非番老中への対客の日程を照会したと記す。幼年のため島津談路守の同道を求め、先手衆・守役・留守居各一人と坊主村山長古の配置や城前の逢い・広間への通行を相談し、右近将監・相模守への対客を無滞に済ませたと報告する。願書提出は来月初めの見込みで、十三日に出府した若狭との対客後に出す予定とし、別紙十一通を添えて隅州と女中への伝達を求める。
天明元年閏五月(日付未記) / 冊子 625頁/原整理番号 1769/整理ID 1769
御縁女に附添う女中として浪江・多賀・千さ・きその身元を列記する。浪江は石川阿波守の組与力松山忠左衛門の妹で居所は弁橋、多賀は松平志摩守の支配に属する日野小左衛門の娘で居所は本所石原、千さは石川阿波守の組与力松山忠左衛門の娘で居所は弁橋と記す。きそは氏名だけが見え、続く身元欄はこの切出しでは確認できない。冒頭には本田信次郎の姉花川と、若年寄格守役・家老同席の家柄に関する記載もある。
正月9日 / 冊子 584~585頁/原整理番号 622
川上久国が加治木衆を率いる町田勘解由次官に一刻も早い島原出陣を命じる。鎌田豊前守へ、留守役を定め、児玉筑後守の指図に従って人数を整えるよう求める。