谷山伊佐智佐社々領坪付
天文五年二月吉日 / 冊子 744頁
薩摩国谷山郡和田名にある伊佐智佐社領について、祭田・五月五日神事料田など七か所の坪付と面積を列挙した文書。
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天文五年二月吉日 / 冊子 744頁
薩摩国谷山郡和田名にある伊佐智佐社領について、祭田・五月五日神事料田など七か所の坪付と面積を列挙した文書。
三月十八日 / 冊子 269~270頁
島津立久が、刀を遣わしたこと、源五郎らとの談合、五郎太郎の意向、木脇や鳥取孫左衛門に関わる人員・所領の処置を述べ、関係者への申し入れと便宜を頼んだ書状。
元和二年十二月廿一日 / 冊子 635頁
児玉利昌が文禄・慶長の朝鮮役で自力・自船により渡海し、主従や船員を率いて国府衆も無償で乗船させた軍忠を列挙し、その働きの披露を求めた覚書。
11月24日 / 冊子 413頁/原整理番号 376の2
同二十四日、笘二十二帖を片浦庄屋山本九兵へ尉から受け取り、小浦で立てた四艘の船に乗せて遣わすよう小浦部當若松孫左衛門へ命ずる。各手前から送状を添えることも指示する。
年月日未詳 / 冊子 509頁
日向国島津院円福寺の阿弥陀如来造立について、文明十六年六月十五日の年紀、信心大願主、僧寶秋ら奉加者を刻んだ仏像甲板の銘。
年月日未詳 / 冊子 625頁
敵が迫ったため亀井武蔵から鉄砲衆の加勢を求められ、浜之市衆らを派遣した。しかし到着する頃には味方勢が崩れており、後に亀井武蔵には野心があったと聞いたことを記す。
未八月四日 / 冊子 511~512頁
普光院からの琉球関係文書一箱、徳川秀忠の御内書、系図調査時に島津弾正が借りた文書の所在を調査した報告。弾正死後に返上され、島津彦太夫から田中五右衛門へ受取が渡された経緯を阿多仲兵衛が記す。
元禄六年四月三日 / 冊子 890頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書2410
島津綱貴の参勤御礼に際し、供として召し連れた佐多豊前と家老禰寝孫左衛門について、前年と同様に将軍への御目見を許されるよう願い出た文書。両人の知行高・系譜と、禰寝孫左衛門の過去の御目見も記す。
元文六年二月十八日 / 冊子 632頁/整理ID 1601
継豊は、吉貴が宿次の奉書で御鷹の鶴を拝領したため、使者薗寝孫左衛門を通じて礼を述べたいと伺う。吉貴の赦免後の帰国や婚姻の際に使者の目見・献上を許された先例を挙げ、今回も同様の取扱いを願った。朱書で「可為此通」と認められる。
元文五年十二月十三日~寛保元年六月二十三日 / 冊子 638~639頁/整理ID 1625
病気療養中の吉貴は元文五年十二月十三日、将軍吉宗から御鷹の鶴一隻を宿次奉書で賜った。江戸から急送された鶴を翌正月十一日に大磯館で拝領し、礼状を届けさせ、使者孫左衛門清香を江戸へ送る。清香は四月一日に登城して将軍・大納言への献上と謝礼を行い、四日・五日に奉書を受け、六月二十三日に薩摩へ帰着して復命した。
寛保元年四月四日 / 冊子 639~640頁/整理ID 1626
本多忠良・松平信祝・松平乗邑は吉貴に、前年暮れに宿次奉書で御鷹の鶴を拝領したことへの礼として、使者孫左衛門が樽肴を献じたと承知したと返す。献上品を披露すると、使者が将軍の前へ召し出され、丁重な謝礼を将軍が喜んだと伝える。
寛保元年四月四日 / 冊子 640頁/整理ID 1627
松平乗賢は吉貴に、宿次奉書で御鷹の鶴を拝領した礼として使者孫左衛門が樽肴を献じた件を了承する。献上品を披露したところ、使者が将軍の前へ召し出され、吉貴の心遣いを将軍が喜んだと伝える。
延享二年十二月十五日 / 冊子 877頁/整理ID 2350
徳川家重の将軍宣下を祝う賀儀に際し、上使の三浦志摩守忠次が継豊と宗信へそれぞれ巻物を下賜し、吉貴にも巻物十箇を下賜した。吉貴は比志島孫左衛門国泰を使者として謝礼の書状を呈し、執政所へ奉書を出した。その後に関連書状が続くことを記す記事。
文政11年2月3日(記事。翌年5月の遷座まで記載) / 冊子 782~783頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書2207
重豪公御譜の記事。文政十一年二月三日、福昌寺住持安山が幕府により大中寺住持となる。大中寺・総寧寺・龍穏寺を三関三箇寺とし、大中寺を下野、総寧寺を下総国葛飾郡国府臺、龍穏寺を武州高麗郡越生に置き、各寺の所領・管轄国と遠州の睡齋領を列記する。安山は重豪の特恩に報いるため寿像を本国福昌寺に安置したいと願い、許可を受けて仏匠梶田武助を中寺に招き彫刻させる。重豪は実名・花押を自書して像内に納める。二十七日に像が完成し、四月朔日に武助が高輪邸へ奉持し重豪が見る。その後、大中寺へ護送し、江府にいた福昌寺役人島津孫左衛門良中が寺社方の取次として寿像を護送する。江戸・大中寺からの出発は本文で「二十一日」と続き、東海・中国・九州の駅路を経て五月二十八日に鹿児島福昌寺へ着く。仏室未完成のため客殿の御仏座に置き、翌年五月に仏室が成り、十五日に仏殿へ遷座する。斉興は家老島津但馬久風を遣わして寿像を拝ませる。像完成日・出発日の月は本文に明記されていないため補わない。
11月27日 / 冊子 426頁/原整理番号 396の6
十一月二十七日、永吉の内の有嶋から立てた孫左衛門を掲げ、水手として受け取るよう永山覚兵衛尉・三原源右衛門へ申し送る。
年月日未詳 / 冊子 390~393頁/原整理番号 115
天正二年八月以後の出仕・交渉・接待を記す日記の抄録。川辺で盗人孫左衛門をめぐって起きた鹿籠との争論を忠元・鎌田らと相談し、中書の内議を使者の忠元から聞く。隈城の四十町、山田三十町、天辰・田崎を交換する所領調整や、弓箭の談合、江月斎・和泉の使者への対応を続けて記す。頴娃や唐口の座席と接待、諸役と参加者、雑説をめぐる義虎や中書への報告も記録する。天草の使僧の太刀・厚板物・馬代などの進献、和泉・天草の和平交渉と所領の一部譲渡、使僧の返事についても述べる。
〈寛延四年〉九月十九日 / 冊子 329~330頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書0974
九月十九日、家重が重年の襲封後初の帰国を祝い、安否を問うため佳肴一種、鮭十尺を賜った記事。老中本多伯耆守正珍が江戸留守居山澤小左衛門盛福を自邸に呼び、老中宿次奉書と驛路證印を渡した。比志島孫左衛門國泰・谷山孫右衛門通音、歩士三人・軽卒六人が警衛して同日芝邸を発ち、東海・山陽・西海路を昼夜休まず進み、十月十五日に薩府城へ着いて重年が拝戴した。同日、山本利兵衛秀命・調所八左衛門恒堅が重年の謝書と驛路證印を携えて執政へ赴き、軽卒六人も従った。重年は一門島津周防忠紀を謝恩使とし、継豊も物頭中江九衛門員張を同行させた。秀命・恒堅らは西海・山陽・東海道を経て十一月十一日に江戸へ着き、山澤盛福の案内で武元へ重年の報翰を呈し、正珍の證印を返納した。忠紀は九州の駅路から豊前小倉、大坂、東海道を経て十八日に芝邸へ着き、二十一日に酒井忠寄へ家重宛の連署、秋元凉朝へ家治宛の連署を届け、西尾忠尚へ両公宛の格書と書状を渡した。十二月朔日、忠紀は白書院で重年の献物二種・雙樽を家重へ献じ、家治にも謝恩を伝え、松平周防守康福が奏達した。忠紀自身も太刀一腰・馬代白銀一枚・紗綾二巻を献じた。続いて西城で朽木土佐守玄綱を奏者とし、重年の献物一種・雙樽と、忠紀自身の太刀一腰・馬代白銀一枚を献じた。十二日に召されて登城し、檜之間で武元から回翰を手渡され、紗綾三巻を拝領した。青山因幡守忠知が奏達し、十三日には西城で武元から、十八日には西尾忠尚の邸で回翰を受けた。二十九日に芝邸を発ち、東海道を経て翌三月二十五日に薩府へ帰り復命した。
〈宝暦二年〉九月十一日~十一月四日(別記は六月) / 冊子 373~374頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書1130
宝暦二年の夏、中山王尚穆の襲封謝恩使今歸仁王子と副使小波津親方が薩府へ来ており、九月十一日に重年が琉球使正副と従者九十四人を伴って居城を発ち、江戸への参府に向かった記事。家老義岡相馬久中・島津主鈴久郷、側用人本田久米右衛門親房・二階堂林左衛門行通、福山平太夫安都、近習役河野安之右衛門通古らが従い、監琉使家老島津主殿久憑、表用人伊集院十蔵久東、近習役伊地知新太夫季周らも随行した。十二日に重年が向田仮館へ着き、琉球使も水引大小路へ着いた。十六日に重年は向田を発って九州を陸路で進み、十七日に琉球使と琉球人監官・諸役人は薩西京から大小二十艘で西海を航行した。重年は十月四日に豊前大里で乗船し、二十八日に播州坂越へ着船、翌日から山陽道を陸路で進んだ。十一月三日に尼ヶ崎で再び船に乗り、四日に大坂の河口へ着いた。河口では松平大膳大夫重就・細川越中守重賢・小笠原伊豫守忠総らが河船で出迎え、琉球使の旅員運送用に小艇三十八艘を給した。重年の乗船後は諸役人も小艇で指揮し、琉球使船を厳重に警衛した。琉球使らは重年より先に大坂へ入り、先例に従って島津加賀守忠雅の仮亭に泊まったとの元注があり、重年は大坂仮館で三日滞在した。別記は、前年六月の吉宗死去を琉球で知った中山王尚喜が榮野川親方に弔書を持たせ、当年六月に薩府へ届けた件を記す。先例により馬廻比志島孫左衛門國泰を使者として江戸へ送り、老中へ報書を呈した。
宝暦五年七月二十七日~八月二十三日 / 冊子 546~547頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書1640
宝暦五年七月二十七日、島津淡路守久柄が忠洪のために老中西尾隠岐守忠尚の邸へ赴き、列座していた老中のうち忠尚から幕命を受けた記事。重年の遺領すべてを忠洪へ与え、忠洪が幼少のため四封内および琉球国の政務は継豊が先例に従って取り計らうよう命じ、継豊へ奉書を与えた。その知らせは八月二十二日に薩府へ届き、翌二十三日、継豊が祢寝孫左衛門清香を謝恩の使節として江戸へ遣わした。出典は継豊公御譜。
文政5年2月27日/3月1日・5日・16日 / 冊子 613頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1838
重豪公御譜。二月二十七日に勅使広橋胤定・山科忠言、院使日野資慶が江府へ入り、三月朔日に家斉が従一位左大臣、家慶が正二位内大臣へ昇任した。五日、重豪は四本孫左衛門兼房を物頭として本丸へ遣わし、家斉の転任と家慶の任槐に各太刀一腰・馬代金一枚を献じた。同日、池田次郎兵衛貞眞を西丸へ遣わし、家慶の任槐へ同品を献じ、留守居助長孝を本丸、米良仲之丞則賓を西丸へ遣わして御臺様・御簾中へ各時鯛一箱を献じた。兼房は江府の物奉行、貞眞は右筆頭、長孝は能方、則賓は馬廻として在勤中で、当日は物頭・留守居助を仮に務めたとの各注を持つ。十六日、家斉は本多豊前守正意、家慶は森川紀伊守儀知を上使として芝邸へ遣わし、重豪へ結紬を各十巻・五巻賜った。遠山美濃守友壽が代受し、番頭を両上使の邸へ、留守居を若年寄・表方使者の御側衆邸へ遣わして謝礼した。斉興・斉宣の拝賜献品は各譜に載せると結ぶ。長孝の通称の前字は留保し、各贈答の数量を合算しない。
〔天保九年〕十一月(包紙受渡日は天保九年十一月十三日) / 冊子 21~22頁/原整理番号 29/整理ID 29
島津伊勢久浮が、霊龍院の位牌再安置と瑞輪寺・大圓寺の供養や寄附の取扱いを伝えた申渡書。瑞輪寺の火災後は屋敷から遠いため再興せず大圓寺へ置いていたが、瑞輪寺にも位牌一基を再び安置し、以前の祠堂銀百枚に加えて金百両を寄附するとする。貸付運用の利息によって月牌・遠忌などの法事を寺役で行い、内々に白銀五枚を贈り、番頭を御代参させる。盆の水向料は銀二枚、灯籠一対を付け、塔頭恵遠院には墓所掃除等の費用として米五石を毎年納める。従来の恵遠院への供養・修理等の扱いは改めない。一方、大圓寺に置く位牌は矢張只今までのとおりとし、仏餉米二十石は取りやめ、代わりに仏餉料として新たに銀百枚を寄附し、法事を行わせて御代参は要しない。五廟以前の遠祖の位牌には香奠銀三枚を納めるが、大圓寺には直接参詣した折に拝礼し、瑞輪寺には遠忌に代参を出す扱いを区別し、毎年の盆には特別の思し召しで当番頭を代参させる。十一月付で、包紙は同月十三日に川上孫左衛門の取次で上村休兵衛へ渡されたことを記す。
11月22日 / 冊子 400頁/原整理番号 362の1
『平田宗直加子立曳付』所収、十一月二十二日の浦水手送状。茂兵衛尉・喜左衛門・利兵衛尉・孫左衛門を船頭として掲げ、作左衛門以下の水手を列記する。小浦から立てた合計三十一人の浦水手を受け取るよう、永山覚兵衛尉・三原源右衛門へ命ずる。
年月日未詳 / 冊子 405頁/原整理番号 368の3
茂兵衛尉の五枚帆一艘、喜右衛門・利兵へ尉・孫左衛門の四枚帆各一艘について飯米を記す。最初の三艘は水手各八人に赤米各一石二斗、孫左衛門の船は水手十人に一石五升と記載する。十一月二十三日以後二十日分、一人一日七合五勺の海上飯米を片浦で渡したので、到着後も算用に従い支給するよう伝え、小浦から出水へ出船させた旨を記す。
11月23日 / 冊子 406~407頁/原整理番号 370の1
『平田宗直銀米払方留帳』に対応する十一月二十三日の送状。主取茂右衛門尉・喜左衛門・利兵衛尉の三艘は各水手八人・赤米一石二斗、孫左衛門の四枚帆は水手七人・赤米一石五升と記す。小浦から出水へ遣わす人衆乗船の飯米として、同日以後二十日分を一人一日七合五勺の算用で渡すよう、三原源左衛門・永山覚右衛門へ命ずる。
年月日未詳 / 冊子 412~413頁/原整理番号 375の6
十一月二十四日、荷方八端帆一艘に笘三十帖を付け、天草一乱のため公儀へ借り上げた覚書。船主を筑後の久二郎と記し、片浦で宮原傳兵衛尉に伝えた際は小湊の孫左衛門の船とされたが、庄屋佐藤大炊左衛門が小湊船ではなく筑後の久太郎の船だと述べたため、後日確認することとする。船手は秋目から立てた加子十一人、主取は太兵衛尉と付記する。
永正十二年閏二月三日 / 冊子 136頁/原整理番号 57
永正十二年閏二月三日の犬追物手組。島津四郎殿十二疋、島津又四郎三疋、島津二郎五郎十三疋などの配当を記し、検見を島津近江守殿、喚次を島津孫左衛門尉とする。
年月日未詳 / 冊子 300~301頁/原整理番号 264の3
二十九日、富岡城代三宅藤兵衛が城附の侍・手勢百人を率いて天草一揆鎮圧に出陣し、即日帰城した記事。配下の侍を列挙し、本渡方面への陣取り、伴天連二人の捕縛、村々の捜索と火刑・籠舎に及ぶ処置を記す。
11月22日 / 冊子 401頁/原整理番号 363
片浦から出す五枚帆二艘・四枚帆二艘(各水手八人)の主取・加世田衆中上乗を記す。続いて小浦から出す五枚帆一艘・四枚帆三艘(水手八人・八人・七人・八人)の主取と上乗を列記する。さらに船頭太兵衛尉の八端帆一艘(船頭・水手十一人、上乗なし)を小松原から出すよう命じ、この船は肥前商人から借り、積んだ「しやうのう」を下ろして出水へ向かわせると付記する。
11月23日 / 冊子 404~405頁/原整理番号 368の2
片浦から出す五枚帆一艘・四枚帆三艘(水手計三十二人)と、小浦から出す五枚帆一艘・四枚帆三艘について、船主・上乗・主取を列記する。さらに小松原三人・小湊三人の加子六人をそちらの船に早く乗せ、残る十一人は片浦から送ると伝える。十一月二十三日、小湊庄屋佐藤大炊左衛門宛。六人は商買船に雇われ小浦へ来ているが、船は他国船なので加子だけを小湊船へ乗せると付記する。
年月日未詳 / 冊子 407~408頁/原整理番号 371
『平田宗直船賦留』所収の出船指示。十三端帆三艘・十一端帆二艘・十端帆一艘・六端帆一艘の船頭・水手数と上乗を列記する。鹿児島町太兵衛尉の六端帆船は大坂への商買帰りに片浦へ来ており、他の運賃船も上米の積込を終えながら順風がなく滞在していると説明する。天草出兵の人衆乗船として米を積んだまま出水へ出すこと、残る運賃船にも同様に出船を命ずることを記す。
年月日未詳 / 冊子 88~89頁/原整理番号 145-6
小原織部の取払帳。上津浦で伊地知重政付衆七人へ振舞った白米一升七合五勺、米之津・上津浦で買った塩四俵・鯛・さうち魚の代米を品目別に記す。末尾の『下文ハ二月十一日に載す』は参照注で、B列へ補入しない。
元文4年3月24日 / 冊子 124~125頁/原整理番号 25-1
元文四年三月二十四日、秩父十郎右衛門将興が伊地知真学へ出した証文。雅楽助に実子がなく断絶した家の名跡について、願いにより相続・系譜への編入を許可する。渕之上家は当方と由緒があるため、伊地知へ改姓する件も別紙で差し出したと記す。続いて山城守・主税助・丹後守・雅楽助・渕之上清右衛門以下の系図を掲げ、妻の出自、没年・法名、渕之上家の別立て、季昭・只右衛門・清右衛門・金蔵・藤吉・季庸・季朗らの系線を整理する。藤吉は前田万右衛門二男で季朗の養子となったこと、末尾に文政十二年九月十二日生の女子と母・増水嘉左衛門家の記事を載せる。
年月日未詳 / 冊子 620頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書1524
綱貴は同年八月十六日に江戸を発ち、家老町田忠代・使役平山忠知・鎌田政辰らと東海道を下る。勢州関で腹痛のため滞留療養し、九月四日に伏見、十六日に大坂から出船、十月十四日に出水脇元、十九日に船間島を経て二十二日に鹿城へ入る。禰寝孫左衛門清賢を帰国礼使として東都へ遣わし、白綸子二十巻・干鯛一箱・するめ(原字鰑形)一箱・御樽一荷を献じる。清賢自身も太刀・馬代・時服三を献じ、時服五を賜る。
年月日未詳 / 冊子 889頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書2404
島津綱貴が禰寝孫左衛門清雄を琉球仮亭へ遣わし、佐鋪王子尚益に馬・宇治茶・白銀五百両・蠟燭・奉書・銅・干鯛・昆布などを贈ったことを記す記事。
延享元年十二月六日 / 冊子 785頁/整理ID 2054
継豊の弟忠通は安之助と称し、延享元年十二月六日に近藤嘉包の娘を母として生まれた。後に禰寝孫左衛門清香の養子となり小松を名乗り、宝暦六年二月二十一日に禰寝家を離れ、島津因幡忠郷の後嗣となったことまで系譜的に記す。
宝暦五年十一月二十五日 / 冊子 595~596頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書1760
高橋縫殿種寿が十一月二十五日、江戸二家老へ国目付二名の国元での旅宿と見分の準備を相談する。春屋内の旅宿を御用掛相良彌一兵衛・宮之原宇右衛門らと調え、加治木屋敷・禰寝孫左衛門屋敷も候補としたが、作事に時間がかかり、来る正月末から二月初めの出立予定に備えて早い指示を求める。享保二年の巡見使以来の先例を挙げ、芹ヶ野・山ヶ野金山の見分、酒谷山・福山・加納などの居曲を通るか、御通路と当番の人数を問い合わせる。大坂から赤間ヶ関までの船中里数・道中記・船中記を送るよう求め、旅宿が早く調っても続報すると伝える。
宝暦六年正月二十二日~十二月四日 / 冊子 603~604頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書1790
国目付の二使への接遇を記す記事で、正月二十二日の禰寝孫左衛門の若年寄への改称、二十五日の芝邸での二使饗応を述べる。二使は四月五日に出立して五月二十三日に鹿府へ着き、継豊・忠洪からそれぞれ太刀一腰・馬代金一枚・二種各千疋などを贈られた。六月には登城、先公小祥での福昌寺進香と接伴を受け、七月以降は谷山・城南の士街・寺院・家老の屋敷・桜島などを見分し、十一月十六日に府城を辞して帰路に就いた。末尾には十一月八日の伊集院織部久東の死去と、十二月四日の樺山左京久智の家老任命・菱刈孫兵衛實忠の大目付任命を添える。
記三七享保廿年十一月 / 冊子 142~143頁/原整理番号 37
享保二十年十一月、年男の選任と連名順についての覚。服喪で辞退した祢寝孫左衛門の代わりに義岡左平太を命じ、伊勢兵部との連名は通常の役職順によらず、御名字の者を先に記すとする。年男は表と内から選ぶが、番頭から必ず出すものでも両人の一方を必ず御名字の者にするものでもなく、家格だけで決めない重い勤めだと説明する。
正保三年四月七日 / 冊子 251~254頁/原整理番号 188
正保二年二月六日付の火災報告。正月六日朝、八日町の竹内孫左衛門方から出火したと伝える。町の人々が外出していて消火が行き届かず大火となったため、その被害を知らせる。