天正五年大口郷地頭請用日記抄
年月日未詳 / 冊子 403~404頁/原整理番号 135
大口郷に残る天正五年六月の請用日記。地頭と家中の請用を分け、米・酒米・味噌・もち米や、干物・鮑・海老・塩・鯛・飛魚・鰹、宿賃などの数量と銭を列記する。濱之市での干物代も含む。地頭参会時の祭事入用は行数を省略し、久仰が別に写し置いたとしている。
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年月日未詳 / 冊子 403~404頁/原整理番号 135
大口郷に残る天正五年六月の請用日記。地頭と家中の請用を分け、米・酒米・味噌・もち米や、干物・鮑・海老・塩・鯛・飛魚・鰹、宿賃などの数量と銭を列記する。濱之市での干物代も含む。地頭参会時の祭事入用は行数を省略し、久仰が別に写し置いたとしている。
天正五年春 / 冊子 508頁
天正五年春、島津方の命により、肝付兼護には高山一邑だけが所領として残され、その他の郷邑は没収されたことを記す。
天正五年 / 冊子 508~509頁
天正五年の記事を編年で記す。南林寺・興国寺への旧肝付領寄進、相良氏との隣好、琉球王の三州平定祝賀、犬追物を載せる。十二月には野尻地頭福永丹波守の内応を契機に野尻・戸崎・紙屋・富田・佐土原などを攻略し、伊東義祐が豊後へ逃れ、日向各地が島津方へ降った。
天正五年五月十八日 / 冊子 448~467頁/原整理番号 70の1
樺山安芸守善久入道玄佐の自記。島津忠久の出自と三州下向、樺山氏の成立、歴代の系譜・所領・軍役、島津家への奉公、各地の合戦、家督・譲与、親族関係を回顧する。玄佐六十五歳の天正五年五月十八日付で辞世を添えて結ぶ。
天正五年十一月十三日 / 冊子 147~148頁/原整理番号 87
天正五年十一月十三日、鹿児島の馬場で御祈祷の犬追物を行った手組。島津兵庫頭九疋、島津左衛門督十二疋、島津上野介五疋など射手別の配当を記し、喚次を本田因幡守とする。
天正五年十二月十三日 / 冊子 235頁/原整理番号 17
天正五年十二月の日向出陣で三原右京亮が旗役を務め、紙屋で御旗を立てた記事を引く。旗役の実際の行動を日々記で確認する。
十二月廿四日 / 冊子 123頁
新納忠元が丸田久右衛門尉に宛てた書状。馬越之前目を加増として拝領したことを伝え、明後日二十六日を吉日として、加増地に関する段取り、槍兵への指示、大隅殿への案内と番衆一人の派遣などを命じている。前段には丸田久右衛門尉について、天正五年以来の合戦歴、十六歳以来三十八人を討ち取ったこと、加藤式部左衛門尉を案内者として雇う案などを記した覚が付されている。
年月日未詳 / 冊子 402頁/原整理番号 132
大口郷古木原村の稲荷社の鰐口銘を書き出す。銘には薩州牛屎院大口木崎村、天正五年八月吉日の施入、島田親辰の名がある。久仰が天保十五年九月に参詣して写したもので、鰐口は三寸七・八分という。銘の村名は木崎だが、社は古木原にあるため、考証用に記録したとする。
年月日未詳 / 冊子 404~405頁/原整理番号 136
天正五年十二月七・八日の日州発足を記す日々記。正宮へ社参して脇元から越着へ入り、三献と太刀進上を受けた後、福永丹波守の子が人質として来ると使者から聞いた。上原長門守へ報告し、続衆や一家・国衆の対応を使僧・飛脚で伝える。翌日は濱市から五十艘余の供船と進物船で出て、長濱沖・小嶋で迎えを受け、着岸地で酒を重ねた。伊東の番衆は右方、武庫は野尻に籠もり、東の番衆を五、六人ほど討ち留めたと伝える。
(天正五年)三月二日 / 冊子 514頁
有馬鎮純が年始を祝い、日向方面の安泰を願う一方、自領境目ではなお対陣が続き、近日和睦を申し入れる予定と伝える。島津氏との長い旧交と今後の指南を求め、太刀一腰・織筋一端を進上した書状。
(天正五年)三月八日 / 冊子 516頁
相良義陽が、久しく連絡しなかったのは疎略のためではないと断り、島津方の諸境目が安泰であることを重視し、今後も一層の親交を望むと伝えた書状。詳細は蓮花寺から伝えるとする。
天正五年十二月五日 / 冊子 524頁
島津義久が福永丹波守に、談合のとおり忠節を尽くすとの懇望を神妙と認め、相違なく奉公すれば望みどおり野尻一所を安堵し、その他の所領も時宜を見て宛行うと約した状。
天正五年十二月七日 / 冊子 531頁
北郷時久が神柱大明神へ、赤木宿門の田一町を寄進した状。
(天正五年)卯月十七日 / 冊子 222~223頁
足利義昭が京都の不慮の事態を受けて紀州に滞在し、毛利氏と帰洛を協議したうえ、武田・北条・上杉以下の東西諸勢力を一統して出陣を急ぐ情勢を伝えた御内書。島津氏にも忠功を尽くすよう求める。
(天正五年)卯月十七日 / 冊子 223頁
足利義昭が中国へ移座し、毛利氏と入洛を協議して了承を得たことを述べ、武田・北条・上杉その他の東西諸士を一統して進発を急ぐので、島津方も忠勤を尽くすよう命じた御内書。
年月日未詳 / 冊子 403頁/原整理番号 134
右之城に詰めていた肝付勢が、伊東勢の福嶋進攻を受けて争戦し、島津方へ降参したことを記す。高山を肝付兼護道に残し、姶良・志布志・福嶋など諸所を島津側の領知とした。忠元は十二歳で初めて出陣した旧領志布志の人々と面会し、旧臣の子孫が当地に残ったという。十二月には伊東義祐が佐土原を捨てて豊後へ出奔し、忠堯が城に籠もった。忠元は相良領と大口の境目の玖广で番を務めた。
天正五年春・十二月 / 冊子 509~510頁
天正五年春、城詰衆に伊東方との私戦を禁じた後、福島へ伊東勢が迫ると島津方が出馬して退けたことを記す。肝付兼護には高山だけを残し、志布志など諸領を没収した。十二月の日向出陣では嫡子忠実が従軍し、忠元は相良氏への備えとして大口・求麻境を守った。
天正五年 / 冊子 517頁
天正五年、伊東家臣福永・野村らの内応を受けて島津軍が日向諸城を攻略し、伊東義祐が豊後へ逃れ、日向一円が義久の領土となったことを記す。この報が京都へ届くと、近衛前久が北郷時久へ祝賀の書状を送ったという。
天正五年十一月十三日 / 冊子 521~522頁
鹿児島馬場で行われた天正五年十一月十三日の犬追物手組。四角に配した義弘・歳久・家久・久隅・征久・喜入季久らの射犬数、検見・喚次を記す。
天正五年十一月十五日 / 冊子 522頁
天正五年十一月十五日の犬追物手組。義久の検見のもと、義弘・歳久・家久・征久・久隅・喜入季久らを四角に配し、各人の射犬数と検見・喚次を記す。
天正五年十二月三日 / 冊子 524頁
天正五年十二月、日向山東がことごとく島津領となり、義久が大隅正八幡宮へ参詣したことを記す。福永丹波守が内通を申し出た際、新納忠秀入道慶雲が高原から野尻城へ急行したことも載せる。
天正五年十二月六日~十一日 / 冊子 525頁
天正五年十二月八日、野尻城主福永丹波守が伊東義祐への遺恨から島津方へ内応し、義弘を城へ迎えたことを記す。十一日には義久が十万余騎を率いて進み、日向一国を取得し、義祐は豊後の大友氏を頼って逃れた。
天正五年十二月七日~晦日 / 冊子 529~530頁
天正五年十二月七日から晦日までの日向進発を日次に記す。正八幡宮参詣中に福永丹波守の内応を知った義久が海路で出陣し、義弘の野尻入城、紙屋以下諸城の服属、正八幡宮への戦勝奉告、高原・紙屋・都於郡への進軍、福永への恩賞と鉄砲拝領、相良・佐伯方との使者往来、高城衆の降伏と人質収容を経て年を越した。
天正五年 / 冊子 531頁
天正五年、六十五歳の樺山玄佐について、家門が三代にわたり繁栄し仏道に篤かったことを記す。六十歳の賀に詠んだ『六十まて…暁の鐘』の歌を掲げ、歌道に名高いが人に誇らない人物であったと評する。
天正十二年(天正五年異説)四月十七日 / 冊子 756~757頁
真木島昭光・一色昭秀が城入殿へ、足利義昭が中国へ移座し、毛利氏が帰洛要請を受諾したため、武田・北条・上杉以下の軍勢を糾合して進発する情勢を伝えた連署状。島津義久にも忠功を求める内書を出す予定とし、使者の蓮華坊を厚遇するよう求める。確定版年月日は天正十二年と天正五年の異説を併記する。
(延宝八年)十月廿三日 / 冊子 3頁/原整理番号 3
藤野家に伝わる調度・文書の進上記録から、天正五年十二月に末原右京進を介し、御幡と御ほろを島津義久へ進上した記事と使者名を抄出する。続いて島津勝久の嫡子修理忠良入道休庵から島津忠平(義弘)への書状を掲げる導入が続く。
天正5年1月8日 / 冊子 353~354頁/原整理番号 21
天正五年正月八日付、島津義弘(忠平)の一乗院宛書状。米菊丸の健康を喜び、引き続き祈念するよう願う。
天正5年3月19日 / 冊子 354頁/原整理番号 22
天正五年三月十九日付、島津義弘(忠平)の一乗院宛書状。前日から米菊丸の咳と病状が悪化したため、急ぎ祈祷を求める。
天正5年5月10日 / 冊子 354~355頁/原整理番号 23
天正五年五月十日付、島津義弘(忠平)の一乗院宛礼状。米菊丸のため不動護摩供と薬師法を修行し、祈祷の札を送ったことに謝意を示す。
天正5年9月6日 / 冊子 355頁/原整理番号 24
天正五年九月六日付、島津義弘(忠平)の一乗院宛書状。米菊丸が健やかに育ったことを喜び、祈念の継続を頼む。
「天正六(七)年」四月七日 / 冊子 411頁/原整理番号 149
書状本文は前条とほぼ同文として省略されている。貼紙では、天正五年十二月の伊東義祐の出奔後、日州一円が島津の領地となったことに対する祝義の書状だと説明する。
(天正五年)正月五日 / 冊子 508頁
正親町天皇の意向として、専修寺を勅願所と称することを認め、例法を興隆し、国家安泰・国郡無為のため懇ろに祈祷するよう命じた綸旨。右中弁淳光が執達した。
(天正五年)正月八日 / 冊子 508頁
島津義弘が一乗院法印に年始を祝い、米菊丸が年を重ねてますます健固なのは懇祈のおかげと謝す。引き続き繁栄の祈念と厚い交誼を求め、詳細は諸吉永春から伝えるとした書状。
天正五年春 / 冊子 510~511頁
高原出陣で傍観した肝付勢が忠節を疑われ、伊東方との一戦を命じられた経緯を記す。内談では形だけの戦いのはずが雑兵間で実戦となり、肝付勢は大敗、福島を包囲された。鎌田政近と島津征久の救援で伊東勢を退けた後、肝付氏は高山一か所を残して諸領を没収された。
天正五年二月吉日 / 冊子 511~512頁
薩摩国谷山郡の浮免地として、谷山紀伊介先の烏帽子田一反を原口甚兵衛に示した坪付。
天正五年二月吉日 / 冊子 512頁
戸柱大明神へ、薩摩国鹿児島内萩原名の原田源左衛門先三反を寄進した坪付。島津氏老臣五名が連署する。
天正五年二月吉日 / 冊子 512~513頁
興国寺への新寄進として、大隅国串良院岡崎名上園門の田畠・屋敷・山神領など、合計三町五反余の所在と面積を列挙した坪付。島津氏老臣五名が連署する。
天正五年二月吉日 / 冊子 513~514頁
南林寺への新寄進として、下大隅野里名中島口門の田畠・神領・屋敷・迫田など、合計一町七反十余の所在と面積を列挙した坪付。島津氏老臣五名が連署する。
天正五年二月廿七日 / 冊子 514頁
島津義久が、大隅国串良院岡崎名上園門を興国寺へ寄進した状。先祖忠昌が肝付氏の不忠を討とうとして本意を遂げず、鬱憤のうちに没したことを悼み、今回旧領を回復した機会に菩提のため永代寄進すると定める。
天正五年三月吉日 / 冊子 514~515頁
興国寺領として、下大隅新城内峯岡名の奥江兵衛尉先一か所、空住庵屋敷および塩屋二十反を示した坪付。島津氏老臣五名が連署する。
天正五年三月吉日 / 冊子 515頁
島津貴久の代、興国寺住持久林の時に、土堂廻之門と屋敷前の地を寺領として寄進したことを示す連署寄進状。
(天正五年)三月十九日 / 冊子 516~517頁
島津義弘が一乗院法印に、米菊丸が十八日巳刻から体調を崩し、咳気なども判然としない状態だと急報する。病中につき時を移さず懇ろな祈念を行うよう強く依頼した書状。
(天正五年)四月七日 / 冊子 517頁
近衛前久が北郷時久に、日向の情勢が義久の望みどおりに進んだことを祝う。前久は織田信長方に属し、摂津一円が敵地のため使者を送れない事情を述べ、時久に取り成しを求めた。信長から格別の厚遇を受けていること、先年贈られた鶴を今も所持していることを伝え、手持ちの大鷹はすべて信長へ進上したため、義虎を通じて大鷹を送るよう依頼した。
(天正五年)四月廿八日 / 冊子 517頁
有馬鎮純が、近年両家の家筋が連続していることへの礼として、金覆輪の太刀一腰と緞子一端を贈る。今後も変わらず文通し親交を続けたいと伝えた書状。
(天正五年)五月十日 / 冊子 517頁
島津義弘が、米菊丸の祈念のため不動護摩供・薬師法を修し、祈祷札を送られたことに礼を述べる。子が息災堅固となった喜びを伝え、遠方からの使者派遣にも謝し、今後も懇祈を頼んだ書状。
天正五年六月廿二日 / 冊子 518頁
正八幡宮一之鳥居造営時の茶番を十九番まで割り当てた交名。社家・衆徒・正興寺・正高寺・正国寺などの担当者を列記する。日付は六月二十二日だが、留守殿の指示で二十四日から茶を立てたと注記する。
天正五年七月廿三日 / 冊子 519頁
島津忠昌の菩提のため興国寺へ寄進された串良院上園門について、土地は狭少でも懇情を尽くすよう求め、地頭の諸役を免除した証状。ただし国役・軍役は確実に勤めるよう定め、老臣五名が連署する。
天正五年六月廿二日 / 冊子 520頁
本文はNo.923と同文につき省略されている。正八幡宮一之鳥居造営時の茶番を十九番まで定め、六月二十四日から実施した交名の重出である。
(天正五年)九月三日 / 冊子 520頁
飛鳥井雅継が喜入季久に、父が不慮の病により八月七日に死去したことを知らせ、父と格別の知音であった季久に今後も変わらぬ交誼を求める。祝意のしるしとして扇子五本を贈り、相応の用があれば申し付けるよう伝えた。
(天正五年)九月六日 / 冊子 521頁
島津義弘が一乗院法印に、遠方ながら米菊丸の祈念を朝夕怠らず、節々に知らせを受けることへ礼を述べる。周囲は子の危難を案じるが、法印の祈祷を頼む以上、勇健は疑いないと信じ、引き続き加護を求めた書状。