新納長任書状
(慶長七年)十月十五日 / 冊子 71頁
新納長任が大崎勘丞らに、福嶋様の振舞に招かれたこと、兵庫に着船した安藝少将が惟新様と会談し厚意を示したことを報じた書状。秀頼への目見得、馬一疋の贈与、銀子百貫目・米三千石の借用申出、龍伯様の好調など上方の政治的動向を詳報する。
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『旧記雑録』前編・後編・附録10冊と追録1~8(暫定版)、『旧記雑録拾遺 伊地知季安著作史料集1~9』『家わけ1』(暫定版)、関連史料(外伝)『島津世禄記』の46,754件を横断検索できます。検索範囲は史料群・巻を組み合わせて選べます。結果は50件ずつ表示します。
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(慶長七年)十月十五日 / 冊子 71頁
新納長任が大崎勘丞らに、福嶋様の振舞に招かれたこと、兵庫に着船した安藝少将が惟新様と会談し厚意を示したことを報じた書状。秀頼への目見得、馬一疋の贈与、銀子百貫目・米三千石の借用申出、龍伯様の好調など上方の政治的動向を詳報する。
天明四年(日付欠) / 冊子 731頁/原整理番号 2061/整理ID 2061
上々様が機嫌よく過ごしていることを喜ぶ。宿次奉書により公方から御鷹の鶴を拝領し、ありがたく思って表向きへ御礼の使者を送ったので、内証からも礼を申し上げたいとする。御縁女へこの旨を伝え、機会をみて御前へよく取り成すよう大崎に頼む。天明四年、月日を欠く。正文控は右筆所にある。
年月日未詳 / 冊子 434頁
長禄三年七月三日の日向三俣小山での合戦について、島津忠国が和田・高木勢を討った際、新納忠臣・大崎忠秀・大島有久らが戦死したことを記す『殉国名藪』の記事。
年月日未詳 / 冊子 759頁
天文七年、北郷忠相が財部院を奪還し、大崎城・安楽城などを攻めた戦役を諸譜からまとめる。島津忠朝・忠勝方との攻防、援軍と守兵の配置、各城の陥落を追い、攻城で戦死した家臣を列挙して、北郷方が庄内周辺の支配を拡大した経過を示す。
宝暦十三年日付不記 / 冊子 978頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書2788
松嶋が保姫方の大崎へ、上々の長久と繁昌を喜び、保姫から御二方への年中献上のほか、不時の機嫌伺いと献上も年内二、三度ほど女使を通じて行うよう伝える。若君への年中献上は別紙通りに取り計らうよう求める。別記には土用と寒に御肴または御菓子から一種を女使で献上すること、姫君への上物には及ばないことを記す。
天明四年 / 冊子 718~719頁/原整理番号 2033/整理ID 2033
重豪が大崎・高橋に宛て、上々様の御機嫌を喜び、自身の参勤・御暇のたびに宿々・川々で滞りがないよう道中筋へ仰せ渡されたと承知し、ありがたく思うと述べる。その礼を御縁女様へ申し上げたいので、折をみてよく取りなすよう頼む。追って何事もよろしく取り計らうよう重ねて依頼する。日付・署名を欠き、天明四年の朱書を伴う。重豪公御譜所収、正文が右筆所にある控え。
天明四年(日付欠) / 冊子 730~731頁/原整理番号 2060/整理ID 2060
上々様が機嫌よく過ごしていることを喜ぶ。宿次奉書により公方から御鷹の鶴を拝領し、ありがたく思って表向きへ御礼の使者を送ったので、西丸の内証からも礼を申し上げたいとする。機会をみて御前へよく取り成し、西丸の大崎・高橋へ伝えるよう頼む。天明四年、月日を欠く。正文控は右筆所にある。
天明四年(日付欠) / 冊子 733頁/原整理番号 2067/整理ID 2067
上々様が機嫌よく過ごしていることを喜ぶ。真含院が先月十九日に大奥へ参上した際、公方・大納言・種姫君の部屋への御目見を命じられ、懇ろな上意と拝領物を受けたと聞き、ありがたく思うと述べる。その礼を御縁女へ申し上げたいので、機会をみてよく取り成し、西丸の大崎・高橋へ伝えるよう頼む。天明四年、月日を欠く。
天明六年 / 冊子 855頁/原整理番号 2356/整理ID 2356
重豪は、上様の機嫌がよいことを喜び、真含院が前日に大奥へ上がるよう命じられたことを有難く思うと述べる。梅の井・大崎・高橋へ謝意を伝え、折を見て礼を取り成すよう頼む。
天明六年 / 冊子 855~856頁/原整理番号 2357/整理ID 2357
重豪は、上様の機嫌がよいことを喜び、真含院が前日に大奥へ上がるよう命じられたことを有難く思うと述べる。御縁女へ謝意を伝え、梅の井・大崎・高橋にも礼の取次を頼む。
天明六年 / 冊子 857~858頁/原整理番号 2361/整理ID 2361
重豪は、真含院が前日に大奥へ上がり、将軍・大納言・種姫君・御部屋様へ御目見を許され、懇切な上意と拝領物を受けたことを謝す。梅の井・大崎・高橋へ礼を取り成すよう頼む。
天明六年 / 冊子 857~858頁/原整理番号 2362/整理ID 2362
重豪は、真含院が前日に大奥へ上がり、将軍・大納言・種姫君・御部屋様へ御目見を許され、懇切な上意と拝領物を受けたことを謝す。御縁女へ申し上げ、梅の井・大崎・高橋にも礼の取次を頼む。
天明六年九月 / 冊子 875頁/原整理番号 2423/整理ID 2423
重豪は、将軍家の騒中における機嫌を詳しく知りたいとし、あわせて種姫とその御部屋の機嫌も伺いたいとして、奥向女中へ問い合わせ、しかるべく取り成すよう頼む。
天明六年九月九日 / 冊子 876頁/原整理番号 2425/整理ID 2425
重豪は、将軍家治が不例となり養生もかなわず薨去したことは言葉に尽くせないとして、奥向女中へ悔やみを申し入れる。
五月十七日 / 冊子 57~58頁
伊勢貞真が、京都からの命に基づく諸地頭の談合について通知した書状。栗野での会合に向け、鹿児島の殿中番を務める刑部左衛門尉を含む関係者を集め、五月二十五日までに栗野へ参着するよう求める。
11月21日 / 冊子 390頁/原整理番号 356の2
『飯米賦渡送状』は、十一月二十一日、大崎の主取弥兵衛尉へ赤米九斗を割り当てる。末尾では、五枚帆船の水手六人に同日以後二十日分の海上飯米を一人一日赤米七合五勺で算用し、天草一乱に伴う小松原出船のため渡すよう永山覚右衛門・三原源右衛門へ命ずる。
11月21日 / 冊子 390~391頁/原整理番号 356の3
『飯米賦渡送状』は、十一月二十一日、大崎の船頭弥伝次へ赤米二斗、加子九人へ赤米一石三斗五升を割り当てる。末尾では、八端帆船の船頭・水手十人に同日以後二十日分の海上飯米を船頭一日一升・加子一人一日七合五勺で算用し、小松原から出水へ送る加勢船用として渡すよう三原源右衛門・永山覚右衛門へ命ずる。
11月21日 / 冊子 391頁/原整理番号 356の4
『飯米賦渡送状』は、十一月二十一日、大崎の船頭新七へ赤米二斗、加子七人へ赤米一石五升を割り当てる。末尾では、七端帆船の船頭・水手八人に同日以後二十日分の海上飯米を船頭一日一升・加子一人一日七合五勺で算用し、小松原から出水へ送る加勢船用として渡すよう三原源右衛門・永山覚右衛門へ命ずる。
天明八年(本文に月日不記) / 冊子 1005・1006頁/原整理番号 2708/整理ID 2708
相手方の安否を気遣い、上様の機嫌がよいことを喜ぶ。今日、同氏豊後守が登城した際に初めて着座を命じられ、御盃を頂戴し時服を拝領したため、自分にとってもありがたい仕合であると述べる。その御礼を申し上げたいので、機会を見て御前へよろしく取り成すよう依頼する。末尾で八名の女性宛に伝達を頼む。
天明八年(本文に月日不記) / 冊子 1008・1009頁/原整理番号 2719/整理ID 2719
相手方の安否を気遣う。近衛殿の御所が焼失したと承り、不意の出来事に驚いているため、姫君の機嫌を伺いたいと述べる。機会を見て御前へよろしく取り成すよう頼み、八名の女性へ伝達する形で宛てる。
天明四年 / 冊子 719頁/原整理番号 2034/整理ID 2034
大崎・高橋の連署で重豪の書翰に返答し、上々様方の御機嫌良好を重豪が喜んでいる旨を承知したと記す。参勤・御暇ごとに宿々・川々が滞らないよう道中筋へ仰せ渡されたことへの礼を御縁女様へ申し上げたいとの書翰の趣旨は、よろしく申し上げると答える。宛所は薩摩守様人々御中。月日の記載はなく、天明四年の朱書を伴う。前掲と同じ出典の写しで、正文は右筆所にある。
天明二年(本文に月日未記) / 冊子 651頁/原整理番号 1852/整理ID 1852
上様の機嫌を喜び、年始の祝儀に伴って平野が公方様・種姫君に拝謁し、上意と料理を受け、御鷹の鶴を拝領したことへの謝意を述べる。その御礼を御縁女へ申し上げ、西丸の大崎・高橋に取次を依頼する仮名書状。朱書年次は天明二年で、本文に月日はない。末尾の朱書は御縁女への御礼を別段に行う経緯を補う。
宝暦十二年十二月四日(婚姻当日。月日は関連文書による) / 冊子 943~946頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書2747
保姫の婚礼当日、新奥の蘭之間・寝所・化粧之間などに掛物・立花・立松・棚飾りを設け、三之間で下輿した保姫を女中・年寄が化粧之間へ案内し、御待上臈が迎えて着座させる次第を定める。結熨斗と御愛敬の御守の受渡し、太守・新造・御待上臈の式三献を記し、盃は三献それぞれ三度、計九度上げ、熨斗・鶴の吸物・亀之甲五種・鴨羽盛などの献立と器を列挙する。新造から太守、太守から新造への盃を御待上臈が取り次ぎ、色直しの衣類を受け渡した後、太守を客居、新造を主居とし、三汁九菜の料理を出す。上臈・年寄・局・若年寄、刑部卿方の大崎、土岐五郎左衛門、新海半左衛門、随行女中や表の使者にも、それぞれ三献、雑煮、吸物、二汁五菜・二汁六菜・二汁三菜などを供する手順を示す。
天明七年三月四日・六日・十四日(年は末尾朱書) / 冊子 951~953頁/原整理番号 2591/整理ID 2591
三月四日、帰国に向けた首途として四時に供を揃え、熨斗目半袴で本行列を立てて神明宮へ参詣し、帰宅後に熨斗・茶で祝った。隠居後初めての首途に市田勘解由が供をしたので縁亭で盆を与え、大奥でも対面所の寄合盆で三ツ肴三献の祝儀を行った。豊後守から肴代二百疋・肴一折が届き、大奥からも同様に祝いを受けた。出立が間近のため豊後守・大奥の惣方から二汁三菜の餞別料理を対面所の寄合盆で振る舞われ、諸方からも餞別の品物が届いた。三月六日、留守中の豊後守への心添えを、かねて依頼していた松平加賀守・伊豫守・左兵衛督・出羽守、有馬中務大輔、松平安藝守へ留守居を通じて重ねて頼んだ。年寄衆の松平周防守・牧野越中守・鳥居丹波守にも厚く頼み、大屋遠江守・山川下総守・末吉善左衛門の明頭三人、石川榮阿彌、関長三、関林雪、片岡喜伯、石井榮庵にも同様に頼んだ。松平越前守・陸奥守・大膳大夫と立花左近将監には四月の参府時に申し込むよう命じ、越前守と大膳大夫には間柄ゆえ特に頼む旨を付す。出立に際して上様から内々に黒縮緬の御召羽織一領を拝領したことを記し、紋は菱・振袖と注記する。その経緯として、波江方の小野嶋が縁故を理由に羽織その他の拝領について大崎から取り成してもらうよう文で依頼し、表向から願うよう返答されたため十三日朝に願いの文を出したところ、同日小野嶋が呼び出され、登城の折に機嫌を伺うよう老女衆から伝えられたとする。同日、御縁女からも老女衆の文を介して内々に嶋織八丈十端を拝領した。三月十四日には羽織と嶋織八丈の礼状を出した。翌日の発足にあたり直勤する予定だったが不快のため大老・年寄衆へ使者で届け、豊後守からも側役の使者をもって留守中の万端について申し伝えた。
天明六年 / 冊子 881頁/原整理番号 2442/整理ID 2442
重豪は、真含院が前日に家治の遺物を拝領したことを有り難く思い、その礼を種姫君と蓮光院へ申し上げたいとして、高岡ら奥向女中に適切な機会を見て取り次ぐよう頼む。
年月日未詳 / 冊子 386~387頁/原整理番号 354の9
上甑島・市来湊などの運賃船について船主・船頭・水手・上乗衆を列挙する。二口計九艘を軍衆乗船として小松原から出水方面へ出船させる。
天明二年(本文に月日未記) / 冊子 652頁/原整理番号 1855/整理ID 1855
公方様から上使を通じて御鷹の鶴を拝領したことをありがたく思い、その御礼を御縁女へ申し上げたいので、大さき・高はしに取り次ぎを頼む仮名書状。冒頭で上様の機嫌を喜び、末尾に両名を掲げる。朱書年次は天明二年で本文に月日はない。前件1854の拝領記事と同じ出来事に関わるが、御礼の取次を依頼する独立書状である。
年月日未詳 / 冊子 271頁
新納忠臣が応永十九年に大崎城を手中に収め、翌応永二十年には松山城を手中に収めたことを記す短い譜記事。
八月廿三日 / 冊子 401~402頁
北郷知久が樺山殿へ、訪問と書状への礼、病気のため参上が遅れたことを述べ、大崎方面へ肝付・和田勢が出動し、内城方面で在家を放火したこと、二十三日に再出動予定で二十八人を派遣したことを報じた書状。
年月日未詳 / 冊子 21頁
弘治二年の島津氏関係事績を編年で記す。三月、貴久は蒲生本城が険固なため先に松坂塁を攻めるが落とせず、八月十七日には島津忠親が大崎で肝付兼続を破り三百余人を討つ。十月十九日に松坂塁を落として中原父子以下百余人を討ち、十一~十二月に蒲生城へ向け七曲・馬立・蒲生新城に陣した。菱刈氏の援軍、琉球王尚元の即位も記す。
天正四年八月 / 冊子 488頁
天正四年の領域変動を簡潔に記す。島津氏が高原・三山を領有し、伊東氏は野尻を保持した。さらに福島・志布志を得た一方、肝付氏は高山・姶良・内之浦・岸良を残し、禰寝氏に姶良・西俣を与え、鹿屋・串良・大崎は島津方が掌握した。
天正15年7月19日 / 冊子 351頁
福智長通が義弘へ、秀長の命で秋月種長・高橋元種が日向の公領を与えられ、数日前に土持領へ到着したと報じた書状。飫肥郡・志布志・大崎など各地から境界をめぐる訴状が出ていること、諸帳の引渡しに同意しない者もいることを伝え、義弘に慎重な判断を求める。
天正17年9月18日 / 冊子 453頁
島津義弘が、日向国求仁郷大崎の横瀬名窪之門にある田地一町六段余を、安養院の仏神領・造営田として安堵した証状。 長年途絶えていた神領を島津義久の造営田として再確認し、寺社経営の基盤を保証している。
慶長四年十二月廿日 / 冊子 478頁
種子島久時と山田利安が安楽大炊助に、日向国諸県郡大崎の岡別符内十五石五斗二升二合と、大隅国肝付郡柏原村内四石四斗七升八合、合計二十石を加増として配当することを定めた連署目録。
年月日未詳 / 冊子 118頁
日向国諸県郡大崎郷内の飯熊山別当が、近年欠けていた先達職を旧規どおり勤めたいと願ったため、島津家久がその趣旨を聖護院雑務坊へ書状で伝えた記事。
慶長十三年十二月廿四日 / 冊子 199頁
慶長十三年十二月二十四日、日向国大崎今田村内の浮免三十石を、渡海時の軍役と高麗退治での働きに対する加増として児玉四郎兵衛尉へ配分した連署知行目録。
年月日未詳 / 冊子 199頁
児玉筑後譜の記事。慶長十三年、児玉四郎兵衛尉が軍功によって十二月二十四日に大崎今田村内三十石を与えられ、喜入久正・平田宗親・山田理安から知行目録を受けたことを記す。
4月3日長州征伐割当;甲子4月5日写置注 / 冊子 354頁/原整理番号 501の4/整理ID 501-4
諸郷御先手を六組として列記する書付。川邊の物主は児玉佐平次、樋脇は圖師崎良助、高城は長束十郎、高山は山城新右衛門、大崎は益滿與右衛門、清水は武宮十五衛門とし、惣物主は高橋縫殿とする。高城郡の添記と「イ一陣」の表示も収める。四月三日、長州征伐に付いてこのとおり重ねて命じたとし、甲子四月五日の写置注がある。組割当・指揮担当を示すもので、各組の実人数や出陣・戦闘実績は記されない。
子8月26日(割当書) / 冊子 378~379頁/原整理番号 542の1/整理ID 542-1
子八月廿六日、長州討手の先陣惣督を嶋津又六郎、副惣督を主殿、一陣惣物主を隼人とし、一・三・六番の物主に刑部・織之介・登を割り当てる書付。大口の山田司、志布志の福崎助七、国分の川上左太夫、清水の武宮十五衛門、二番の仁禮舎人、田布施の喜入雄次郎、末吉の川田掃部、高城の長束十郎、阿多の柳半之丞、帖佐の伊集院喜左衛門、大崎の益滿與右衛門を列記する。末尾にこのとおり長州討手を命じた旨と三原傳左衛門の名がある。担当・役職・組の対応を示し、各組の実出兵人数は記されない。
年月日未詳 / 冊子 600~603頁
新納実久の庶長子久吉を祖とする大崎流の系図。久吉が父命で大崎城へ入ったこと、忠秀の三俣小山戦死、志布志落城後の北郷氏臣従、久綱の朝鮮渡海中の戦死などを記す。
年月日未詳 / 冊子 609~611頁
新納忠泰の五男忠成を祖とする支流系図。志布志落城時の出奔、日向綾・大崎・帖佐・加治木への移住、惟新公の使役に奉仕した久行、長井氏・新納氏間の養子相続と復姓、後裔の生没年・婚姻を記す。
年月日未詳 / 冊子 777~778頁
伊作介久光の四男忠蔵を祖とする吉満氏系図。日向大崎士から隅州高山士となった忠蔵、串良士への婚姻、忠杢・忠陣以下の生没年、忠陣に嗣子がなく児島氏二男久申を養子としたことを記す。
11月20日 / 冊子 377~378頁/原整理番号 348の3
小松原・大崎から徴発する五枚帆・八端帆・七端帆などについて、船主、船頭、水手、上乗衆を船ごとに列挙した船賦状である。各船には加世田衆一人ずつを上乗として配置し、天草一乱への出船体制を整える。
年月日未詳 / 冊子 379頁/原整理番号 349の2
大崎から立てる船の船頭弥兵衛尉以下の浦水子を列挙し、合計二十一人を軍衆乗船の加子として三原源右衛門・永山覚兵衛へ引き渡す送状である。
年月日未詳 / 冊子 379~380頁/原整理番号 350
平田宗直の船賦帳として、五枚帆・八端帆・七端帆など六艘について船主、船頭、水手、上乗衆を一覧化する。加世田の小松原・大崎から天草一乱対応のため出船させる船団編成を示す。
11月21日 / 冊子 393頁/原整理番号 357
『平田宗直万曳付留帳』所収の飯米請取申付状。十一月二十一日、真米一石一斗八升二合と赤米七石五斗を掲げ、天草一乱に伴い加世田内大崎・小松原から仕立てる船の船頭・水手および上乗衆の飯米として、小松原当出物蔵衆の竹下筑左衛門・村山喜右衛門から受け取るよう、三原源右衛門・永山覚兵衛へ命ずる。
年月日未詳 / 冊子 94~98頁/原整理番号 20
藤原北家の日野流から平岡氏へ至る系図。藤原鎌足五代の内麿、真夏・冬嗣・閑雄以下を配し、日野・広橋・柳原の祖系を経て、義純が康平五年の安倍貞任・宗任追討に従軍した功で河内国平岡郷を賜り、富士から平岡を称したとする。義陳は保元の乱で源為義方、義真は平治の乱で藤原信頼・源義朝方となった経緯を記す。義養・義堯の九州下向、大隅国大姶良・小根占、平家六代御前との関係、源頼朝からの平岡郷・大姶良等の給与を述べる。後代は島津氏久方として志布志で楡井氏と戦った義則、松尾城と島津元久誕生、文明年間の飫肥をめぐる伊東祐国との戦い、肝付氏領下の高山・富山・松山城、北郷勢との合戦を記す。末尾では平岡義信が肝付氏の婿・名代として上京し、弘治四年に日向大崎龍山原で北郷勢らと戦死したことを掲げ、次文書の宣旨写へ接続する。
弘治2年10月5日 / 冊子 98~104頁/原整理番号 20-1
冒頭に弘治二年十月五日付の後奈良天皇口宣案を掲げ、権大僧都省釣(肝付兼続)を法印へ転任させる。上卿は中山大納言、奉者は蔵人頭左大弁頼房で、『家わけ二』肝付文書一七号と同文である。続いて前文書からつながる平岡氏系譜を収める。平岡義理は天正元年に日向国住吉原で北郷時久・相久・忠虎らとの合戦に討死し、義光は豊臣秀吉・徳川家康に仕えて子孫が旗本となった。義秀は島津義久に奉公し、天正六年の高城防衛と文禄元年の朝鮮出兵に従い、大崎横瀬村を賜る。義辰は慶長四年の恒吉城攻めに従軍し、のち串良杉尾口へ移された。以後、義長・義元・義彦・義遇・義敬・義業・義臣・義言・義堯・義源・義寄ら諸流について、寺院建立、知行・高山預、家督、養子・婚姻、医師・僧位、出生・没年・法名を詳記し、末尾は宝暦四年九月二十七日生の女子の記事で終わる。
年月日不記(文明・慶長・寛永などの年次は各代の記事) / 冊子 644~647頁/原整理番号 117
兼忠の子・国兼とその庶流をつなぐ肝付氏系図。国兼は肝付郡本城の落城後、帖佐総善寺の裏で自害したと記す。兼光は兄兼連の行いを諫めても容れられず、守護方へ帰心して忠節を尽くしたといい、兼固は文明十八年に隅州溝辺を領し、大崎から溝辺へ移った。別系の兼演には加治木城を攻め取った記事がある。後代には伊集院忠棟の三男を後嗣とした経緯、家統の継承と阿多への移住、島津光久の妹や養女を通じた婚姻・養育関係などを載せ、兼加・兼年に至る系線が続く。
年月日未詳 / 冊子 478頁/原整理番号 78の2
町田久光の譜。左馬伊与守と称し、道号を梁山東津居士とする。心慶寺殿が肝付方の支配下に入った際に奉行を命じられて大崎へ移り、同地で没した経歴を記す。