島津義久書状案
(永禄七年)九月日 / 冊子 126(本文省略、後出同文参照)頁
前年夏に古市宗檜を迎えたのち無音となったため、義久が使僧花舜軒を送った書状案。豊前方面の合戦が和睦したことを祝い、日向国境の防戦に大友氏の一途な援助を求め、沈香三斤・段子三端を贈る。同文の後出文書を参照して本文を補った。
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(永禄七年)九月日 / 冊子 126(本文省略、後出同文参照)頁
前年夏に古市宗檜を迎えたのち無音となったため、義久が使僧花舜軒を送った書状案。豊前方面の合戦が和睦したことを祝い、日向国境の防戦に大友氏の一途な援助を求め、沈香三斤・段子三端を贈る。同文の後出文書を参照して本文を補った。
(永禄七年)九月日 / 冊子 126(本文省略、後出同文参照)頁
豊前方面の和睦後、田舎境への大友氏の働き掛けを求めた島津氏老臣の書状案。相良氏が島津家に損害を与えたとして、是正されなければ伊東氏と結んで対抗すると警告し、土持境への出兵または伊東氏との和与調整を要請する。同文の後出文書を参照した。
(永禄七年)九月 日 / 冊子 135頁
前年夏の古市宗檜派遣後に無音となったため、義久が使僧花舜軒を送った書状案。豊前方面の合戦が和睦したことを祝い、日向国境の防戦について大友氏の一途な調略を求め、沈香三斤・段子三端を贈る。No.261の省略本文に対応する。
(永禄七年)九月 日 / 冊子 135~136頁
豊前方面の和睦後、田舎境への大友氏の支援を求めた島津氏老臣の書状案。相良氏が島津家へ損害を与えたとして、是正されなければ伊東氏と結んで対抗するとし、土持境への出兵または伊東氏との和与調整を要請する。No.262の省略本文に対応する。
長禄三年六月十九日 / 冊子 434~435頁
細川勝元が野辺刑部大輔へ、唐鳥井に関する希望への配慮を求め、国のことは大友氏と相談するよう勧め、詳しくは真鍋太郎左衛門尉から伝えるとした書状。
年月日未詳 / 冊子 471~472頁
文明年間の島津忠昌をめぐる政治・軍事情勢をまとめた国史記事。龍雲寺への禁牌発給、伊東氏との対立、大友氏方への軍事対応、五代友平・行頼ら家臣の動向を記し、さらに琉球渡海船の扱いをめぐる幕府との交渉を通じて、領国内統制と対外交通の課題を示す。
年月日未詳 / 冊子 862頁
天文十七年正月廿四日、豊後大友氏の使者真光寺が豊州島津氏と伊東氏の和睦を仲介したが、条件が折り合わず再び戦いとなった経過を記す。
年月日未詳 / 冊子 122~123頁
村田経定が日向の防戦・和睦を大友氏へ重ねて相談していることを伝え、今後も連絡を密にするよう求めた書状案。陽春院を使者として送り、相手方の真意を確認して報告するとし、到来物への返礼に塩十斤を贈った。
(永禄六年)十月廿一日 / 冊子 126頁
佐々木宗綱が島津方からの要請を大友氏の重臣へ伝え、各人が了承して上聞に達したことを報じた書状。日向へ一軍を送る予定は豊前の戦争で遅れているが、終結後は豊後・肥後勢を残して派遣すると伝える。
「元亀三(四)年」八月十二日 / 冊子 312~313頁
土持麟松が伊集院忠棟へ、前年夏に伊東方が真幸へ侵攻した際、島津方が援軍によって伊東の主要将士数百人を討ち大勝したことへの祝意を述べる。遠国かつ通路困難のため祝賀が遅れたと詫び、豊州大友氏の指示に従って国境を警戒し、伊予方面への派兵も退治されるだろうと報じ、脇差一腰を贈る。年次は本文注記で検討される。
(元亀四年九月 日) / 冊子 314~315頁
島津氏老臣が豊州大友氏老中へ、破船問題についてたびたび使書を受け、両家の堅い盟約に基づき法意に沿って処理すると答える。大友方から船・銀子・鹿皮・南蛮国の進物などが目録とともに贈られたことを確認し、詳細は詫時庵と相談しており、仲掃部助が説明するとする。
天正五年十二月六日~十一日 / 冊子 525頁
天正五年十二月八日、野尻城主福永丹波守が伊東義祐への遺恨から島津方へ内応し、義弘を城へ迎えたことを記す。十一日には義久が十万余騎を率いて進み、日向一国を取得し、義祐は豊後の大友氏を頼って逃れた。
天正六年七月廿日 / 冊子 545頁
島津義久が北郷時久へ、大友氏の邪路に対する防戦をめぐり、諸方の風説を懸念して誓紙を求めたところ応じたことを喜ぶ。永代にわたり心を同じくし、違背しないと誓い、新田八幡・天満天神・鹿島鎮守などの神罰を掲げた起請文。
天正六年八月三日 / 冊子 546頁
島津義久が北郷忠虎へ、世上が動揺する時にも親類のよしみにより逆党を捨て、無二の忠勤を尽くすとの誓いを神妙と認める。大友氏が各方面で謀略を巡らす中、今後いよいよ変わらず一味すると誓い、新田八幡・鹿児島諏訪・天満天神などの神罰を掲げた。
天正六年八月三日 / 冊子 546頁
天正六年、大友氏が日向へ侵入しようとした際、北郷忠虎が島津義久へ誓紙を提出し、同年八月三日に義久から盟約の返書を与えられたことを記す。
(天正六年)十二月 / 冊子 559頁
島津義久が毛利輝元方へ、夏の礼への返礼使書を重く受け止め、東北の武士が忠節を尽くすことを肝要とする。大友氏に対する翌春の豊前・筑前での戦いを歓迎しつつ、日向では前月に六か国の凶徒をことごとく誅伐したため、帰洛を妨げる力は残らないだろうと伝え、遠方ながら公私とも相談を続けたいとした書状案。
(天正六年)十二月 / 冊子 559頁
島津義久が小早川隆景・吉川元春へ、足利義昭の帰洛について毛利輝元とたびたび相談していると述べる。大友氏が帰洛を妨げるため翌春に豊前・筑前で戦う計画を喜び、日向では六か国勢を誅伐したので諸境も安泰になると伝え、今後も連絡を続けたいとした書状案。
(天正六年)十二月十日 / 冊子 559~560頁
島津義久が一色昭秀・真木島昭光へ、毛利輝元の使僧が足利義昭の御内書を届けたことを受け、帰洛への忠節を約した。大友氏が逆心しても、日向で六か国勢五万余騎を誅伐し諸口へ策を巡らせているので心配はなく、翌春の防長勢による豊前・筑前出陣には龍造寺氏と相談して協力するとした返書案。
天正六年十一月十二日 / 冊子 626頁
大友氏が伊東氏を日向へ戻すため八万余の軍を出し、高城を包囲した際の島津方の兵力構成を記す。義久以下の兄弟・一門十三人、一所衆八人、三州の地頭七十五人、文内地頭五十七人など総勢八万二千余とし、十一月十二日に大友陣を崩して梓山まで追撃し、耳川までに六万余を討ったとする。秋月・赤星・星野氏には事前の申し入れにより助命して本国へ送った。
(天正八年)八月廿八日 / 冊子 661頁
龍造寺隆信が伊集院忠棟へ、相良氏との戦いを理由に八代方面で龍造寺領内の船往来を止めるよう求められたが、肥後国内の運送船まで止めるのは難しいと答える。先月肥後へ出兵して敵数百人を討ち、同国の過半を掌握したと報告し、祭河の要害を落とした後は島津方と一途に相談して大友氏を討ちたいと述べた。
天正十一年八月二十八日 / 冊子 758頁
龍造寺隆信が伊集院忠棟へ、相良氏との戦いを理由に八代方面で龍造寺領内の船往来を止めるよう求められたが、肥後国内の運送船まで止めるのは難しいと答える。先月肥後へ出兵して敵数百人を討ち、同国の過半を掌握したと報告し、祭河の要害を落とした後は島津方と一途に相談して大友氏を討ちたいと述べた書状。本文はNo.1159と同文のため省略される。
天正十二年九月十二日 / 冊子 927頁
吉川元春・小早川隆景が島津家老へ、義昭帰洛に際し大友氏が妨害するため防長勢を豊筑境へ派遣していると伝えた。島津方も日向へ出陣して大友方を攻めることは帰洛供奉同然の忠節であり、この機会に尽力するよう要請した。
天正十二年九月二十七日 / 冊子 929~930頁
島津義弘が龍造寺政家との和睦条件を誓約した起請文前書。政家が従来の非を改め島津方の幕下となる願いを認め、豊後その他の勢力が政家を攻める場合は表裏なく同心すること、豊州との義絶については京都の仲介で大友氏と和睦しているため慎重に扱うことを定めた。
年月日未詳 / 冊子 168~169頁
天正十四年五月一日、京都から帰着した鎌田刑部左衛門尉が、羽柴秀吉の九州国分・和平案を島津方へ報告した島津義久譜の記事。肥後半国・豊前半国・筑後一国を大友氏、肥前一国を毛利氏、筑前一国を京都方の知行とし、その他を島津領として和平を成立させるという構想が示された。秀吉が九州諸国を再配分して戦争を終結させようとした段階の重要な情報である。
五月廿二日 / 冊子 215頁
御系図、朝廷・忠久・道鑑・足利尊氏・北条氏・大友氏関係の古文書、知行目録、鏡・牛王・玉・本尊などの重物を伊地知采女正へ引き渡した入日記。源頼朝の判物は前年の受取り時から見当たらないことも付記する。
(天正八年)八月十二日 / 冊子 225頁
織田信長が近衛前久に、大友氏と島津氏の対立は好ましくなく和睦が必要だと述べた書状。本願寺を赦免して大坂から退散させ、畿内を静謐にしたこと、翌年に芸州へ出馬して毛利氏を追討する計画を伝え、天下のための協力を求める。
(天正八年)八月十二日 / 冊子 225頁
織田信長が大友氏と島津氏の戦争を不適当として和睦を促し、大坂が落着したため翌年には出馬して毛利氏を追討すると伝えた書状。双方に天下のため粉骨するよう求め、伊勢因幡守を派遣して調停を進める意向を示す。
(天正八年)九月十九日 / 冊子 225頁
近衛前久が島津兵庫頭に、島津氏と豊州・大友氏との関係について、織田信長への配慮と芸州方面を含む調停を求めた書状。義久の存意を示し、宮内卿法印・猪子兵介や金鐘寺和尚を介して異議なく協調するよう促す。
年月日未詳 / 冊子 160頁
島津伊久譜の記事として、大友殿への八月廿三日付返書を掲げ、今月十六日付書状が廿二日に到来したこと、本文を省略すること、元久の返書も同趣旨で伊久が判を据えたことを記す。
(文明二年)五月廿三日 / 冊子 470~471頁
島津立久が本田殿に、大友方の豊前国進発を伝え、国境へ出て情勢を見極め、伊東氏らの動向にも備えて相談・注進するよう命じた書状。
(大永五年)六月十六日 / 冊子 654頁
島津忠朝が大友方に、これまでの扶助への謝意と今後の支援を求める意向を伝え、太刀などの進物を贈って披露を依頼した書状。
(大永六年)三月廿七日 / 冊子 658頁
島津忠朝が大友方に、太刀二腰・織物一端を受けた礼と、伊東方への助言に対する謝意を述べ、返礼の進物を贈った書状。
(永禄七年)十一月廿七日 / 冊子 136~137頁
村田経定・川上久朗が日向国飫肥境の和談について、使者三人との折衝内容を詳しく報告した連署状。末吉・城郭・伊東氏の守護称号や旧判物をめぐる異論を整理し、大友・島津両家の合意と上意に基づく無事成立を求める。
(元亀四年九月 日) / 冊子 316頁
本文はNo.692と同文のため省略される豊州老中宛返書案。破船問題を両家の盟約と法意に沿って処理し、船・銀子・鹿皮・南蛮進物などの受領と関係者による説明を伝える。
(天正六年)二月十一日 / 冊子 538頁
吉岡鑑輿が土持親成へ、日向錯乱後も大友方への報告がなく、土持相模守を島津家へ遣わしたと聞いて懸念を表す。相模守を帰国させ、親類とともに豊後へ参上して薩摩方の事情を詳しく言上し、島津勢が出動すれば直ちに応戦して忠節を示すよう勧めた。
天正六年十一月朔日 / 冊子 554頁
天正六年十一月朔日、島津義久が佐土原へ到着した。城郭・村舎に数千戸があっても数十万とする従軍兵を収容できず、軍勢の大半は荒野に宿営した。大友軍を攻める日を選ぼうとしたが、連日の風雨のため晴天を待った。
天正六年四月十五日 / 冊子 591頁
豊後と日向門川の通路が自由にならないため、大友方は土持一族を討つと決め、四月十五日に大軍で梓山を越え、夏田の村社ヶ原へ陣を取った。門川から新名方面へ進んで南口から攻め、土持親成を生け捕りにして豊前へ流した。
(天正七年) / 冊子 630~631頁
島津氏老臣が彦山政所坊連長へ、前年冬の日向で大友勢を破ったことを伝える一方、当時彦山の山伏が島津領内で止められ、一部が大友方へ加勢したとの風聞に遺憾を示す。神忠を疑うものではないと断りつつ、豊後との戦いが続く場合は先例どおり協力するよう求めた書状案。
(天正七年) / 冊子 631頁
島津義久が、長年の滞在と度々の出陣、ことに前年冬の日向での大友勢との戦いにおける御炊才八の名誉ある働きを賞した感状案。
(天正七年四月カ) / 冊子 636頁
本文はNo.1078と同文につき省略されている。島津義久が、前年冬の日向での大友勢との戦いをはじめとする御炊才八の長年の軍功を賞した感状案。
(天正七年)五月二十日 / 冊子 637頁
伊集院忠棟が御炊才八へ、前年冬の大友勢との戦いで同心して名誉の軍功を挙げ、ことに太刀下で敵を討ち留めたことは比類ないと賞する。島津義久から感状が出された旨を伝え、自らも祝儀として段子一端を贈った。
天正七年十月十三日 / 冊子 642頁
島津義久が土持綱実へ、世上に変事があれば親類の縁を重んじて逆徒を捨て、島津方へ無二の忠勤を尽くすとの誓いを評価する。互いに讒言を知らせ合い、大友家へ従属せず今後も一味することを神々に誓った起請文。
年月日未詳 / 冊子 114頁
天正十三年十月十一日、島津義久が本田親貞を肥後警衛へ向かわせ、上洛帰りの北郷一雲家臣から羽柴軍の九州下向・増勢が避けられないとの情報を得た。十四日には新納忠元書簡により、薩摩方へ属した豊後南郡の入田氏が大友勢に攻撃され、一門・士卒六千人が籠城して窮地にあると知り、領内へ救援兵の催促を出している。
年月日未詳 / 冊子 143頁
天正十四年二月十六日、豊後の入田宗和が宮崎へ使者を送り、高知尾境の情勢と志賀道益の動きを報告した島津義久譜の記事。志賀方が大友方の拠点・所領を奪ったのち入田氏との盟約へ傾き、豊後国内へ進出しやすくなったと伝える。入田氏の帰属が豊後侵攻の足掛かりとして評価されたことが分かる軍情報である。
十二月四日 / 冊子 722頁
龍雲寺の家々が無事完成したことを喜び、八郎衛門帰参時に詳しく話すと伝える。大友方から使者が来て志布志で対面する予定であり、忠国の別府帰還もよいとした島津立久書状。
年月日未詳 / 冊子 15頁
島津道鑑の譜として、一色範光が敗北後に病没し、後任の細川繁氏も九州下向途上で没した経緯を記す。菊池武光による日向三俣城攻撃、畠山氏・小弐氏・大友氏・島津氏の動向を挙げ、鎮西探題の交替が続くなか九州諸勢力が宮方・将軍方の間で動いた情勢を示す。
年月日未詳 / 冊子 163~164頁
『応永記』が応永三年正月、島津伊久・元久方による樋脇城・前田城・市比野城の連続攻略と吉永の本補を記す。渋川満頼が博多へ下着し、御教書を発した後の島津方の対応、大友氏など関係諸氏との和議・饗応にも及ぶ。軍事制圧後に幕府命令と交渉で秩序を整えた経過を示す。
天正五年十二月七日~十一日 / 冊子 526~527頁
高原地頭上原尚近が、伊東義祐に遺恨を持つ野尻の福永丹波守・野村文綱と内通を結び、十二月七日夜に三百余騎を野尻城へ招き入れた。翌日義久が十万余騎で入城し、戸崎・佐土原も落ち、義祐は山中を経て豊後の大友氏のもとへ逃れ、日向は島津領となった。
文和二年正月廿九日 / 冊子 835頁
大友氏時代官が、畠山直顕・伊東下野守らが命令に従わず凶徒として攻められた件について、軍勢を差し遣わし、守護方への忠節を尽くす旨を請け負った文書。
年月日未詳 / 冊子 163頁
島津伊久譜として、元久の計略に従い高牧で越年して渋谷方へ備えた経過を記す。翌年、樋脇・前田・市比野三城を攻略し、清敷城へ向かう薩摩・大隅・日向三州軍を動員した。渋川満頼の鎮西探題下向をめぐる連絡も収録し、城郭攻略と新探題への軍事協力を結び付ける。