知政所達書(墓守)
明治3年閏10月(日不記)知政所 / 冊子 768~769頁/原整理番号 985の3/整理ID 985-3
旧妙谷寺境内にある二岳公の御六男・桂山君の墓と、伊邇色御墓について、草牟田の御墓守に兼帯させ、掃除等は同所の人足に勤めさせるよう命じる。草牟田御墓守へ申し渡し、関係向々にも知らせる。明治三年閏十月知政所。
SEARCH THE ARCHIVE
『旧記雑録』前編・後編・附録10冊と追録1~8(暫定版)、『旧記雑録拾遺 伊地知季安著作史料集1~9』『家わけ1』(暫定版)、関連史料(外伝)『島津世禄記』の46,754件を横断検索できます。検索範囲は史料群・巻を組み合わせて選べます。結果は50件ずつ表示します。
136 件 (全巻)/ 1–50件を表示
ページ 1 / 3
明治3年閏10月(日不記)知政所 / 冊子 768~769頁/原整理番号 985の3/整理ID 985-3
旧妙谷寺境内にある二岳公の御六男・桂山君の墓と、伊邇色御墓について、草牟田の御墓守に兼帯させ、掃除等は同所の人足に勤めさせるよう命じる。草牟田御墓守へ申し渡し、関係向々にも知らせる。明治三年閏十月知政所。
辛未3月18日知政所 / 冊子 798頁/原整理番号 1019の1/整理ID 1019-1
芝伊皿子大円寺御墓、月見御墓所、白金瑞聖寺御墓、白金台御墓所、麻布古川曹渓寺御墓、古川御墓所について、掲げる名称へ召し替えるよう命じる。辛未三月十八日知政所。
明治3年正月(日不記)知政所 / 冊子 731~732頁/原整理番号 949/整理ID 949
通達留。旧本立寺墓所を清水、旧興國寺を高山、旧隆盛院を草牟田、旧福昌寺を長谷場西、旧恵燈院を長谷場東、旧深固院を長谷場北、旧浄光明寺を上之原、旧南林寺を大門口、旧壽國寺を武、旧良英寺を田之浦の御墓と称する対応を列記する。旧大乘院内鍋休丸様の御墓は清水城下御墓とする。従来は寺号で呼んでいたが原「都而被廢付」と述べ、以後は各地名で呼ぶ旨を伝える。明治三午正月知政所。十一対応の呼称変更を保持し、遺骸の移葬や墓地造成・現在地の特定、廃寺完成数を補わない。
康安六年二月七日 / 冊子 447~448頁/原整理番号 249-1
加藤清風の墓誌銘。清風の家系、生い立ち、剣術の修業と諸流派・師匠との関係、武芸の評判、人柄と没年を述べる。
安永六年丁酉十一月朔日(墓表)、同月癸亥(碑陰文) / 冊子 539~540頁/原整理番号 1501/整理ID 1501
題は太夫人島津氏墓表で、題の八字は本文の列にまたがって大字で掲げられる。既に葬ってから三十三年として、子の懋昭が墓表を立てたと記す。太夫人は諱都美、島津氏、右馬頭忠将の後裔で、家は代々垂水を領し麑府に居住した。父の名は貴儔、自称備前、老いて自号靜山翁、太夫人はその嫡女とする。先君に嫁いで二年で没し、延享二年十一月七日、十九歳、法名は正覺院殿貞範妙雅大姉、墓は隅州加治木の長年寺にあると記す。祖夫人から聞いた人物評として、温恭慈恵、上に仕え下を慈しみ、平居幽閑で言笑を慎み、操縵・書札を好み、世俗の紛華を好まなかったことを載せる。男子は懋昭一人で、母の没時には生まれて才二日だったと記す。その後の嗣位襲封と、母の慈顔を知るに及ばなかった悲しみを述べ、安永六年丁酉十一月朔日、男・従四位上中将薩隅日三州守兼領琉球国源懋昭記と署す。近侍掌務臣山田明遠が薫沐拜書したと記す。続く碑陰文は、墓表を作った公が知学事臣山本正誼に碑の陰を書かせたものとし、夫人は圓德公の元配で、公が初め公族島津久季の嗣となったためその邑加治木へ葬られたと説明する。公が爵を襲った後、夫人の主を福昌寺祖廟へ祔し、諸侯の礼で祭ったことを、母以子貴の義として述べる。末は安永六年歳次丁酉冬十一月癸亥、知学事臣山本正誼謹記。編者注は原碑による補入、原碑文十行と篆字の区別を示す。
天文五年十二月六日 / 冊子 751頁
石谷梅久が萩別府で戦死した経歴、実久方での活動、伊賀守から梅久への改名、法名心傳中空と没年月日を記した墓誌銘文。
(寛永十四年)十月廿三日 / 冊子 684頁
病気平癒のため、法花嶽薬師へ知行百石を寄進し薬師の法三万座を修すること、又八郎を名代として三之宮へ参詣し馬を寄進すること、鵜戸への名代参詣、会木にある頼朝墓の再興、清水の墓所に守りを立てることを誓願した。
年月日未詳 / 冊子 512頁/整理ID 1791
島津綱貴の墓誌銘。綱貴を大玄院殿薩隅日三国主兼領琉球国源公昌道元新大居士と記し、羽林中郎将の官途と薩摩・大隅・日向三国および琉球国の領主であったことを示す。
享保十二年十月廿六日 / 冊子 761~762頁/整理ID 1996
墓石塔の高さと代銀、寄合の取扱い、井垣や棺等の葬礼用具の寸法・代銀を定める。石切・棺屋など関係者に規格と手順を申し渡し、定めと異なる取扱いをしないよう指示する。
安永五年丙申三月十五日出生、七年戊戌六月十三日天亡 / 冊子 490頁/原整理番号 1356/整理ID 1356
安永五年丙申三月十五日、市田氏が芝の邸で女子を産み、厚姫と称したと記す。続いて七年戊戌六月十三日に天亡したこと、法号を翠黛院殿松屋惠吟大禪童女とすること、惠燈院と江府大圓寺に墓を建てたことを記す。
安永五年丙申十一月十日出生、安永七年戊戌五月三日夭亡 / 冊子 517頁/原整理番号 1424/整理ID 1424
齊宣公御妹の於克について、安永五年丙申十一月十日に鹿児島で生まれ、母は堤代長卿の女と記す。於克にはカツという読みの注がある。七年戊戌五月三日に夭亡し、法号を蓮心院殿清質妙香大禪童女とし、福昌寺に墓を建てたことを載せる。
安永六年丁酉十一月七日 / 冊子 540頁/原整理番号 1502/整理ID 1502
正覺院殿の墓道の側に石盥盤を設け、公が置いたものと記す。安永六年歳次丁酉十一月七日、臣山本正誼謹記。
安永七年正月十四日(誕生)、天明四年七月二十九日(夭亡)、小注の忌日は二十六日 / 冊子 545頁/原整理番号 1522/整理ID 1522
齊宣公の妹女子として於陽を掲げ、その脇に牧姫と併記する。安永七年戊戌正月十四日に江府で生まれ、母は家臣市田氏、茂姫と同母と記す。続けて、天明四年甲辰七月二十九日に夭亡したと載せるが、小注では二十六日を忌日とするとあり、没日と忌日が異なる。法号は芙蓉院殿に続いて牧・知玉大禪童女を含むが、牧の次の一字の判読は留保する。惠燈院と江府大圓寺に墓を建てたと記す。
文化5年戊辰10月6日生、文化8年辛未正月8日死去(系譜本文) / 冊子 306頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書0965
大信公御子、女子富姫を掲げる系譜抄。文化5年戊辰10月6日、江府で生まれ、母は松平藤十郎の家臣谷周右衛門政相の女とする。八年辛未正月8日に死去し、法号は麗岱院殿紅露雪顔童女、墓は惠燈院・大圓寺に建つと記す。八年の年記は、文化5年から続く記事の文化8年と読む。父の呼称は抄の大信公を保持し、母の家臣関係、出生地、死亡年次と法号・墓所を分けて採録する。
文化8年6月14日卒(後に13日を忌日とする注)、17日葬、9月26日遺髪帰葬 / 冊子 369頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1151
重豪公御譜中。堤氏は千万と称し格式は内証、堤前中納言代長の女で斉宣の生母との注を付す。以前から舊腦と記す持病を患い医薬が効かず、今茲6月14日、江戸高輪邸で卒、65歳。後に13日を忌日としたとの注も掲げ、死亡日を13日に書き替えない。法名春光院殿心月清涼大姉。17日芝大圓寺で葬り、家老川上右近久芳が木主を持ち、同寺に墓・木主を置いた。秋9月26日、遺髪を本府福昌寺へ帰葬し、ここにも墓と木主を設ける。斉宣譜中に詳載との注。病状の掲載語、年齢、葬地と遺髪帰葬を保持し、現代病名を診断せず、木主を遺体と混同しない。
文化10年冬10月5日(記事。明年11月25日・越明年10月18日の再建を追記) / 冊子 421頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1306
重豪公御譜中、斉興公御譜にも載る。六代主定山公師久・十四代主大翁公勝久の墳墓が廃れて詳らかでなく久しく憂えていたため、本年冬10月5日川内隈之城郷称名寺を定山公の墓地とする。氏は家をいうとの注。明年11月25日に宗久公廟中(向田仮館の側、称名寺領地の注)へ定山公石塔を再建し、斉興は若年寄島津相馬久謨を仮に家老役として派遣、大官香1把を献じ代拝させる。重豪も久譜を遣わし同じ品を献じ拝させる。また城下隆盛院を大翁公の墓地とし、越明年10月18日に同寺へ石塔を再建、家老島津安房久備を遣わし大官香1把で同様に拝させる。重豪が老いても志があったための挙と評する。文化10年は目録による。墓地選定と翌年・翌々年の再建追記を分け、亡失墓の実位置を発見したとはしない。
年月日不記(御石棺蓋銘) / 冊子 230頁/原整理番号 315の3/整理ID 315-2
朱書の口裏注を伴う「御石棺蓋銘」。前三州太守従三位参議源朝臣斉興の招魂墓であると記し、斉興は国許で薨去したためこの寺には牌位を納めるのみであったと述べる。斉彬の薨去時に大樹の太夫人天璋君の孝思によって招魂墓を立てた先例を挙げ、今回の斉興の墓も天璋君の追悼によるとする。天璋君が書いた梵経と、その他の庶子・親戚の親書数巻を納めることを記す。右一通也の表示があり、本文に年月日を記さない。
明治2年六月5日知政所(年は目録) / 冊子 675頁/原整理番号 877の7/整理ID 877-7
御前の逝去に伴い神祭とし、その後城内の護摩所・看経所等を撤去したところ、寺院すべてが廃されたと受け取ったのか、近頃寺地へ踏み入り粗暴に振舞う者がいると聞こえる旨を述べる。寺院には先代の墓所・位牌等を置き崇敬してきたため、興廃を軽率な心得で扱い、先霊への対処が整わないことを戒める。今後このような心得違いがないよう早く関係先へ知らせるよう求める。六月五日、知政所。伝聞と達の評価を区分し、寺院全廃を実施済みの命令とせず、個別寺院や行為者名・件数は補わない。
明治2年六月25日知政所(年は朱書)/祖先祭仲春仲冬各期日条件 / 冊子 680~681頁/原整理番号 885の1/整理ID 885-1
通達留。吟味により中元盂蘭盆会を領国中一同禁止し、祖先祭祀は仲春・仲冬の二度に行うよう、神社奉行と関係先へ漏れなく伝えることを求める。仲春の祭は二月四日以後、仲冬の祭は原「十一月中ノ卯ノ日」以後に各家が祭日を選ぶ。祭式が分からなければ神社方へ尋ね、各人が自ら心得て行い、墳墓の取始末も十分行き届くよう求める。朱明治二年己六月廿五日、知政所。中元盆会の禁止と祖先祭継続・祭日選択・墓の管理を区分し、原暦日を現代日付に換算せず、全家の実施済み結果・人数は補わない。
年月日署名不記(目録は明治3年正月) / 冊子 729頁/原整理番号 947の4/整理ID 947-4
執政は朝政を奉体し、紀綱を主持し、神事を惣判し諸官を統領すると記す。神事調役は藩内の神社・陵墓・祭典等の事を議処する職掌を掲げる。本文に日付署名・個別氏名・官等はなく、目録は明治三年正月。No.947の3の職制変更通知と対応する内容として参照し、この欄へ五等官等の数字や任命者を補わず、別紙全文を所収したとも断定しない。
辛未正月18日知政所 / 冊子 786頁/原整理番号 1002の10/整理ID 1002-10
十九日四ツ時に供揃いし、麻袴を着用して中門・矢来御門から出発する。照国神社、鶴嶺神社、龍尾神社、上之原御墓、常安峯、長谷場西御墓を参詣し、北御門・櫻之間・中門を経て帰殿する順路を定める。辛未正月十八日知政所。
明治6年9月19日庶務課 / 冊子 931~932頁/原整理番号 1171/整理ID 1171
旧知事が翌二十日に磯新道筋、永安橋、春日神社前、旧大龍寺馬場、龍尾神社、上之原御墓、内之丸筋、常安峯御墓、長谷場御墓等を巡る順路を知らせる。盛砂等は不要とし、道路を不潔にしないよう指揮を命じる。
明治8年4月6日 / 冊子 950頁/原整理番号 1213/整理ID 1213
戊辰の役で伏見・鳥羽・北越などで戦死した人々の墓参と祭典執行のため、県下から一般右人数を出張させる。戦死者家族のうち希望者は申し出るよう、三町区長と県下戸長へ命じる。
宝暦11年林鐘日 / 冊子 374頁/原整理番号 188-8
宝暦十一年、蒲地四郎左衛門貞留が、焼失した加世田浄福寺の再建に普請検者として赴いた際、同寺にある蒲地氏先祖の墓を調査した記録。浄福寺の戦亡帳を借り、蒲地帯刀・蒲地左衛門四郎・蒲地新三郎・蒲地越中の四名を確認し、暖土持十兵衛から忠国公下馬札後方の塚について聞き取った。本田用右衛門家が蒲地先祖の墓として花香を手向けてきたとの本田与市左衛門の証言を得て、野町源右衛門の案内で現地を確認し、荒れた墓を整えて道を設け、四霊位の菩提・月忌料として青銅一貫文を納めたことを記す。貞留自身の書留等とも照合できると付記する。
年月日未詳 / 冊子 15頁/原整理番号 194
財部にある平田三五郎の墓碑二基の碑面を写した資料。没年月日・享年などを刻む二つの碑面図を掲げ、延時氏文書十五枚を文政五年三月九日に財部地頭仮屋で本書から写した旨を付記する。
3月(目録、年次記載なし) / 冊子 467頁/原整理番号 114
太守の近々の通行に際して悟性寺への墓参を予定し、先祖の墓と地頭方の首尾、寺の由緒に関する書付を整えるよう伝える。野村半五左衛門が三月付で寺側に申し送った書状。
年月日未詳 / 冊子 17~18頁/原整理番号 1
小根占の旧年寄池端氏について、清貧で孝友を重んじた人物像、郷役・公務への従事、家族と居所、晩年の病没を叙した墓誌。居所の池端を称とした由来や、子女、郷内での評価を記す。
年月日未詳 / 冊子 42頁/原整理番号 10
三河の居合師水野重治(柳滴)は寛陽公(島津光久)に招かれ、鹿児島で門弟を教えた。萬治二年七月十八日に伏見で没した後、水野流の形成と平田宗浄らへの伝授を顕彰する招魂墓の文。
年月日未詳 / 冊子 331頁/原整理番号 8-1
専念寺の墓所と卵塔の配置を描いた略図。本堂・門と墓所の区画、石塔の位置や番号を示し、忠元の母の墓所を探した際の位置関係を伝える。
安政三年二月彼岸 / 冊子 332~333頁/原整理番号 10
久仰が先祖の聲貞閑一大姉のために建てた墓碑の銘。大姉は周防守久友の娘で加賀守祐久の室となり、子女を生んだ。祐久に従って志布志へ移り、天文年間の騒乱では家人と田布施へ避難し、子の梅岳が十三歳で奉公を始めた。梅岳が国の柱石となって大口に住むと大姉も従い、六月廿一日に没して専念寺に葬られたという。墓石の式心門一大姉・家譜の門一房・神主の聲貞閑一大姉という法号の異同、旧碑の文字磨滅と子孫の継続を記し、安政三年の新碑建立を述べる。
安政三年二月彼岸 / 冊子 333頁/原整理番号 11
聲貞閑一大姉の墓碑の裏面銘。加賀守祐久の室で忠元の母であり、六月廿一日に没したが年は伝わらないと記す。碑の法号は式心門一大姉、家譜は門一房と異なるとし、昔から二斛を香資として寄進していたこと、長年で碑が壊れたため新たに建て、さらに香資を付したことを述べる。
天明元年閏五月十九日 / 冊子 628頁/原整理番号 1776/整理ID 1776
重豪が閏五月十九日に花尾山権現社へ参詣し、太刀・馬代を献じた。続いて丹後局と永金阿闍梨の墳墓に詣で、平等王院で休息する。帰途、一宮大明神(鎮座地は原本注記に東俣村とある)に白銀一両を献じたことを『重豪君御譜中』から記す。
安政三年正月(本文)、正月廿一日(外包受渡)。応永三十二年正月廿一日(久豊逝去)、安永三年・天保十二年ほか(調査経過) / 冊子 167~169頁/原整理番号 233/整理ID 233
八代久豊の墓所と「義天」銘石塔・掘出骨の調査を述べ、混同を防ぐ処置を命じる文書。久豊は応永三十二年正月二十一日逝去、法号を義天存忠大禪定門とするが葬地が明らかでなく、安永三年に穆佐悟性寺の義天塚と伝える場所から骨を納めた甕、香炉や鈴が見つかっても確証が得られなかったとする。天保十二年に義天の二字を刻む石塔と笠石が出たため、旧文書・古老の伝承等を調べた。久豊の鹿児島での葬儀・法事、福昌寺の卵塔や御石塔等から廟所を検討し、去る丑年には上村休兵衛・榎本新兵衛を遣わして絵図と古い墓地の情報を集めたと記す。一方、火葬と土葬、後世の埋葬、損傷して読めない文字、記録の乏しさ等を挙げて、石塔の由来と掘出骨の身元は分けて慎重に扱う。石塔の文字を磨り消して寺内へ埋め、別途石塔一基の建立を命じ、穆佐中で奉尊し祭式を入念に行う扱い、寺家への書付と後年紛れない保管を示す。寺社奉行・穆佐地頭は石塔の取扱いと場所を吟味して寺家へ伝え、書付を取り調べ申し出るよう求める。本文末は正月・豊後、外包は安政三年正月二十一日に上村休兵衛へ渡して白木御文書十番箱へ納めたと記す。
安永3年8月11日(目録) / 冊子 527~528頁/原整理番号 71
福昌寺の石塔を拜覧し、義天の字彫りや墓所の位置を調査する。寺社奉行への照会と報告を記す。
貞享4年10月3日(目録) / 冊子 528~529頁/原整理番号 73-2
法華嶽寺八町坂の石塔について、銘書の有無と所在地を照会し、古来の墓地との関係を問い直す。次頁上段まで続く。
万治2年6月2日~天保7年正月8日(寛文・元禄・正徳・享保・寛延・宝暦・明和・安永・天明・寛政・文政・天保期。年紀不明墓を含む) / 冊子 258~259頁/原整理番号 103
別紙として上原氏関係の石塔を調べ、法号・没年月日・俗名または親族関係を列記した書上。万治二年六月二日から天保七年正月八日までの年紀を含み、上原源右衛門尚益の法号「正岩祖覚居士」と、その妻「梅屋姓芳大姉」・妹「実峯妙相大姉」、尚治・尚清・尚伝・尚真・尚績・尚方ら本人および母・娘などの墓碑情報を収める。久圓妙長大姉の脇の石塔一基は損壊して法号等が不明とし、ほかに地蔵形の墓二基を早世者かと推測する記載、所在不明の墓もある。末尾では『上原氏譜牒』にみえる五郎左衛門尚盛を余家の次門とし、子孫を見ず、本府興国寺中に古墓があるとの考証を付す。
年月日未詳 / 冊子 18~19頁
『御譜中 義朝伝』。平治元年十二月一日、藤原信頼の挙兵に源義朝が加わり、内裏を固め、三条殿を焼いて信西入道の一類を退治したと記す。恩賞として義朝は播磨守、鎌田正清は兵衛尉となり政家と改名。平清盛が密かに上皇・天皇を六波羅へ移したため形勢が逆転し、十七日の六波羅攻撃で義朝軍は敗走する。龍華越で負傷し歩けなくなった朝長は父に死を請い、義朝が殺したとする。東国へ向かう途中、青墓宿で数百人に襲われるが佐渡式部大夫重成が敵を射殺して退け、自ら腹を十文字に掻き切って死ぬ。義朝は案内人鷲栖光に導かれ尾張国野間内海の長田忠宗邸へ入り、忠宗の勧めで滞在したと記す。
貞治四年七月十三日 / 冊子 42頁
長谷場氏純・久武が、墓へ寄進した水田ならびに『いのしり四つる』について、覺阿の取り計らいに任せ、少しも煩いを申し立てないと約した連署状。
年月日未詳 / 冊子 782頁
池内佐渡が長命を保ち、百六歳で没したこと、命日を九月十六日とし、長善寺に墓があることを記す。
年月日未詳 / 冊子 903頁
天文二十一年、六十一歳の島津日新斎が生死と国家・民衆について述べた記事。自らの葬送や墓所の扱い、死後の功徳、領主が民を治める心得を示し、あわせて詩歌に託した心境を記して、晩年の日新斎の政治観・宗教観・死生観を伝える。
年月日未詳 / 冊子 497頁
義久譜中に収載された覚書。又一郎夫妻の上洛、供衆・役人の酒宴、京都での辛労、名護屋への参着、隠居・墓所・国役・国替などの検討事項を列挙する。本文範囲内に義久の署名・実名はなく、差出人比定は収載位置に依存する。
慶長六年五月二十三日 / 冊子 761頁
平田増宗が、唯怒参の墓所で酒肴を供え、後年も供養を絶やさないよう福昌寺へ田地を寄進した書状。
年月日未詳 / 冊子 836-837頁
伊地知季安愚考は、伊集院忠真が加藤清正の威を頼んで再び謀反を企てたことが露見し、川田国鏡の内命を受けた押川則義と渕脇平馬が、慶長七年八月十七日に野尻大津の狩倉で待ち伏せたと記す。案内者の誤りで則義は平田新四郎を鉄砲で射殺し、続いて平馬が忠真を射殺した。忠真は三十三歳で、墓は野尻にあり、法名を法山道機居士という。
年月日未詳 / 冊子 307頁
島津義久譜の記事。祈祷・医薬・鍼灸の効なく、島津義久(龍伯)が慶長十六年正月二十一日に七十九歳で死去したことを記す。法名・墓所を掲げ、義久を追って殉死した十五人の姓名・役職を列挙する。
(延宝六年)六月廿七日 / 冊子 687頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書1763
徳川光貞が島津光久へ、東福門院の墓所へ使札を差し入れた光久の丁重な配慮に謝意を述べた書状。
〈寛延四年〉八月二十六日 / 冊子 324頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書0953
寛延四年八月二十六日、老中松平右近将監武元が、有徳院吉宗の尊前へ銅燈籠を献じる命を伝えた記事。継豊は国元におり、当家から人を遣わしていなかったため、何基献じるべきかを知らなかった。継豊は将軍家の姻家で、他家とは親疎が異なるとして、先例がなくても家統に応じて二基を献じることを願った。重年が同年十月六日にこの事情を武元へ伝えて許可を受け、使者を遣わして二基を献じた。翌宝暦二年五月十三日に完成して奉献したと記し、銘文を掲げる旨で記事を結ぶ。
〈寛延四年〉六月二十日 / 冊子 324頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書0954
継豊が武州東叡山の有徳院殿尊前へ奉献する銅燈籠二基の銘文を掲げる。銘記日は寛延四年辛未六月二十日で、奉献者を薩摩大隅日向三國主兼領琉球國、致仕従四位上行左近衛中将兼大隅守、源朝臣継豊と記す。本文に「兩基」と明記する。前のNo.953が奉献の命令・許可・製作経緯を記すのに対し、本書は銘文そのものを掲げる。銘記の六月二十日は、No.953の製作完成・奉献日とは異なる。
〈寛延四年〉八月 / 冊子 324~325頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書0955
八月付の指図は、松平大隅守継豊へ、東叡山有徳院御霊前に銅燈籠を奉献するよう伝える。寸法は常憲院の御佛殿へ献じたものに合わせ、来年二月上旬に出来るよう求める。継豊公御譜中・正文在文庫の注を持ち、日付は八月だけで日を記さず、在口裏の朱注と松平大隅守宛の表示を伴う。本文に差出人署名や基数はなく、目録は幕府指図書とする。後のNo.961は同文の重年宛指図で、宛先が異なる。制作目標日は、No.953の翌五月奉献記事とは異なる。
〈寛延四年〉八月 / 冊子 326頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書0961
八月付の指図は松平薩摩守重年へ、東叡山有徳院御霊前に銅燈籠を奉献するよう伝える。寸法は常憲院御佛殿へ献じたものに合わせ、来年二月上旬に出来るよう求める。全上として継豊宛No.955と同文を受けるが、本書は重年宛で、在口裏(重年)という注を持つ。日付に日はなく、差出人署名や基数も本文にはない。目録は幕府指図書とする。No.962の実際の完成日は二月十日、奉献日は五月十三日で、本書に記す二月上旬は制作目標である。
〈寛延四年〉八月二十六日 / 冊子 326頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書0962
八月二十六日、用番老中松平右近将監武元が江戸留守居役山澤小左衛門盛福を自邸に呼び、有徳院吉宗の尊前へ銅燈籠を献じる命を伝えた記事。薩摩にいた重年はその命を奉じ、翌宝暦二年二月十日に製作が完了し、同年五月十三日に銅燈籠二基を備えて奉献した。記事末は、その銘文を掲げる旨を記す。