喜入忠政・伊勢貞昌連署状
(元和六年)閏十二月廿九日 / 冊子 739~740頁
喜入忠政・伊勢貞昌が国元の重臣に、出水・長島から百姓二十余人が逃散した件、風水害後の収納・荒地・移住・開発を調査し、良地悪地を区別して御蔵入の後年負担を避けるよう協議を求めた連署状。
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(元和六年)閏十二月廿九日 / 冊子 739~740頁
喜入忠政・伊勢貞昌が国元の重臣に、出水・長島から百姓二十余人が逃散した件、風水害後の収納・荒地・移住・開発を調査し、良地悪地を区別して御蔵入の後年負担を避けるよう協議を求めた連署状。
(元和七年)二月五日 / 冊子 764頁
喜入忠政・伊勢貞昌が島津家久へ、江戸で大火が起こり、強風で家久邸にも延焼が迫ったため家財の搬出・避難を行ったこと、火災後に銀子五百貫目の拝領があったことなどを報告した連署状。
(元和九年)十一月十四日 / 冊子 800頁
喜入忠政・伊勢貞昌が種子島久時へ、母の死去に際して本田甲斐守が見舞いに派遣されたことを伝えた。久時が幼少であるため家臣に職務を尽くさせ、島内の者に無理非道を命じず、幕府への奉公と家職の維持を心に刻み、今回の上意を怠りなく守るよう諭した連署状。
(寛永二年)四月廿四日 / 冊子 826~827頁
喜入忠政と伊勢貞昌が比志島国隆・島津久元らへ、又三郎の腹痛により十八日の予定が延び、二十三日に両御所への礼を済ませたことを急報した連署状。家久が子らを伴って来たため両御所の機嫌が格別で、兄弟も御前に召されて褒められたと伝えた。
(元和元年)四月十九日 / 冊子 579頁
鹿児島諏訪の願掛けに関わる人物一人とその従者の派遣について願い出て、鹿籠方面への指示と許可・返答を求めた喜入忠政の書状。
年月日未詳 / 冊子 708~709頁
喜入忠政・比志島国貞が、松齢自貞庵主(島津義弘)の遺徳と死を悼み、夢・露・秋草・月・鐘・仏法などを題材に詠んだ追悼和歌。
元和八年六月廿四日 / 冊子 769頁
本文は『一七七八号文書ト同文ニツキ省略ス』との編集注によって省略されている。参照先のNo.1778と照合すると、喜入忠政ら五名が佐多伯耆守へ、無届で他所に住む者は知行を召し上げ、無断で他家へ奉公する者には重罪を科すことを諸所の地頭へ徹底するよう命じた連署書下。
元和八年六月廿四日 / 冊子 769頁
喜入忠政ら五名が本田源右衛門へ、近年生活が成り立たず各地へ離散する者がいるとして、地頭へ届けず他所に居住する者は知行を召し上げ御内から離すこと、無断で他家へ奉公する者は重罪に処すことを諸所の地頭らへ徹底するよう命じた連署書下。
元和八年六月廿四日 / 冊子 783~784頁
喜入忠政ら五名が佐多伯耆守へ、生活難から各地へ離散する者がいるため、地頭へ届けず他所に住む者は知行を召し上げ御内から離すこと、無断で他家へ奉公する者には重罪を科すことを諸所の地頭らへ徹底するよう命じた連署書下。
(寛永六年)八月十五日 / 冊子 102頁
島津久元と喜入忠政が、平田盛右衛門尉純正は地下役などで格別に奉公したため新地を宛行うので、異議なく支配させるよう御支配奉行衆へ命じた連署曳付。
三月三日 / 冊子 521頁
伊集院家の名字・家督を島津家久の子松千代丸に継がせる決定を一族へ申し渡したところ、一同が祝意を示したため、その旨を久族へ知らせた島津久元・喜入忠政連署書状。
(慶長十六年)三月十四日 / 冊子 327~328頁
慶長十六年三月十四日付の連署状。現地蔵入方の収納、遠隔地のための検地・差渡し、共同で渡った者の帰帆、船の着岸時の連絡など、島嶼業務と輸送の実務を指示する。
年月日未詳 / 冊子 130頁/原整理番号 207
喜入忠政の従臣による聞書。同年二月十三日、喜入忠政が有馬へ渡海したことを記す。
(元和九年)十月廿三日 / 冊子 799~800頁
島津久元ら四名が桂山城守へ、徳川家光への将軍職継承の祝儀使者に任命されたことを伝え、町田図書頭と相談して進物を持参するよう命じた。以前申し渡した使者は江戸在府衆から選ばれ、詳しくは面高主馬首が伝えるとした連署状。
元和九年十一月八日 / 冊子 800頁
島津家中の高野山宿坊を蓮金院と定め、頴娃・指宿・肝付・根占・志布志など従来窪坊を宿坊としていた地域も、今後は蓮金院の沙汰に従うよう命じた。ただし庄内は北郷讃岐守の現領分のみ窪坊に付属させるとした四名連署の書下写。
(寛永八年)十二月廿四日 / 冊子 254~255頁
伊勢貞昌が、国許から江戸へ運ばれた進上鷹は道中の取扱いもよく到着し、鷹方の者が褒賞されたことを報告する。さらに、相国(徳川秀忠)が病中であるため鷹進上の扱いを土井利勝に相談し、将軍方の鷹部屋に繋いだこと、日向産の鷹は近代まれで、幕府側で見分され喜ばれたことを伝えた書状。
年月日未詳 / 冊子 764頁
元和七年二月四日、徳川秀忠が本多正純・土井利勝を通じて島津家久へ告示し、家久が登城して謝意を表したこと、江戸にいた喜入忠政・伊勢貞昌が国元へ報じたことを記す系譜記事。
年月日未詳 / 冊子 777頁
島津家久が徳川和子の入内祝賀と将軍家への年賀のため正月上旬に鹿児島を発って上洛し、二十八日に喜入忠政・比志島国隆を先に江戸へ遣わして賀礼の幣物を献じたことを記す。京都滞在中、今年は在国してよいとの老中奉書を受け、二月二十九日に京都を辞して帰国した。
寛永三年三月廿三日 / 冊子 3~6頁
島津久元・喜入忠政・比志島国隆が連署し、御台所の運営と物資管理を定めた条書。日常の献立、魚類・味噌・塩・酢・醤油・米・薪・野菜などの調達、納殿衆による判と帳簿、振舞・祈祷・旅行時の支給、女房衆や小者への食米、使者への振舞など、多岐にわたる手続と数量・責任分担を規定する。
年月日未詳 / 冊子 6頁
寛永三年四月二十日、島津家久が向島で狩りを行い、子の忠朗らが鹿を多数捕らえ、家久が国老へ分け与えたことを記す。翌日、島津久元・喜入忠政・比志島国隆が三原重長へ礼状を送ったとする三原氏の譜記事。
寛永三年四月廿一日 / 冊子 6頁
島津久元・喜入忠政・比志島国隆が三原重長へ、前日の向島で又八郎ら兄弟が多くの鹿を捕らえ、自分たちも鹿を拝領して賞味したことへの謝意を伝えた連署書状。寛永三年卯月二十一日付。
(寛永三年)五月廿六日 / 冊子 10頁
島津家久が喜入忠政へ、遠路から見舞いの使者を差し上せたことを喜び、当地は変わりなく静穏なので安心するよう伝えた書状。音信として銀子三枚を贈り、詳しくは使者の口上に託す。
六月三日 / 冊子 10~11頁
島津家久が喜入忠政へ、川上久国・蒲池備中入道・東郷重位と相談して国政を整えるよう命じた書状。百姓・町人・浦々の住民が疲弊し国が荒れるとの報告を踏まえ、商業・船舶・異国人との交渉を含む諸問題を慎重に協議し、以前のように曖昧に終わらせず将来まで通用する方針を定めるよう求める。
六月五日 / 冊子 11頁
島津家久が喜入忠政へ、大坂から国元の務めを念入りに行うよう命じた仮名書きの書状。油断なく各所へ申し付け、自身も秋頃まで在京し、翌年二・三月頃には急ぎ上る見込みなどを伝える。冒頭の口語的語句と細部には判読上の疑義がある。
年月日未詳 / 冊子 101頁
三原重長が学問と連歌を好み、島津家の知遇を得て親昵の臣となり、島津久元・喜入忠政・伊勢貞昌ら家老や重位らとともに機密の政務にも参与したことを古文書に基づいて記す譜記事。
寛永六年七月吉日 / 冊子 101頁
島津久元・喜入忠政・伊勢貞昌の三名が、私心なく奉公して国政に尽くすこと、家中の諸子の派閥に加わらず惣領を守ること、兄弟間を讒言で離反させないこと、偏頗を避け、三人の間の疑念は熟談して解くことを神仏に誓った連署起請文。
寛永八年閏十月三日 / 冊子 243頁
島津久元・川上久国・喜入忠政が琉球三司官に、唐へ毎年銀子千貫目を渡し春秋冬の三度船を出すこと、那覇に御扶持人を置くこと、旧来の不要な制度の改正、談合衆の統制、翌年の冠船来航を知らせる火立てを定めることなどを命じた連署条書。
(寛永八年)十一月八日 / 冊子 249頁
島津久元・川上久国・喜入忠政が、江戸の愛宕山修理のため座主が勧進札を配るので、領国内では各自の志に応じて寄進するよう命じた連署書状。
八月十一日 / 冊子 53頁
島津久元・喜入忠政・川上久國が、野田感応寺の重物である絵二軸の管理について連署した書状。黄門様の御覧後に旧寺へ返されたため、他所へ出さず厳重に保管するよう住持へ申し渡すことを執印丹波守に命じる。
七月廿九日 / 冊子 63頁
喜入忠政(のち忠続)が、薩州様の息災、黄門様の江戸在府、若君様の成長、美作守の快気を喜び、帖佐長右衛門尉に薩州様への取次を頼んだ書状。本文は「喜入摂津守忠政」署名、巻末目録は改名後の「喜入忠続」名で掲げており、同一人物の改名前後名として整理した。
六月九日 / 冊子 63~64頁
喜入忠政(のち忠続)が、薩州様の繁昌と御曹子様の成長を祝い、諏訪仲右衛門尉を介して献上した水指を薩州様が見た際の反応を尋ね、帖佐長右衛門尉に取次を頼んだ書状。本文は「喜入摂津守忠政」署名、巻末目録は改名後の「喜入忠続」名で掲げており、同一人物の改名前後名として整理した。
八月晦日 / 冊子 73頁
喜入忠政が比志嶋掃部助らに、初鷹を届けるので新納仲左衛門尉の奥方へ進上するよう依頼した書状。三日後に江戸へ向かう早便があるため、その件もあらかじめ申し入れておくよう求める。
十月十五日 / 冊子 74頁
島津久元・川上久國・喜入忠政(のち忠続)が、新納仲左衛門尉・市来備前守・比志嶋掃部助に、薬師寺内蔵丞が養子となって当地の役儀を勤めているため、水引へ移すよう伊東二右衛門尉から申し入れがあったと伝え、支障がなければ相談するよう求めた連署書状。切り抜きにより、別掲されていた島津久元の署名を含む三名連署と確認した。
七月二日 / 冊子 75頁
喜入忠政(のち忠続)が市来備前守・新納仲左衛門尉に、又八郎様に奉公する局が近頃ことに患い、老齢のため当地での養生が難しいと伝えた書状。意向を得てこちらへ帰し、永吉などで療養させたいので、病中のうちに早々に暇を与えるよう取り計らうことを求める。
(元和六年)五月廿六日 / 冊子 732~733頁
島津家久が喜入摂津守忠政に、遠路から見舞いの使者を送られたことを喜び、自身の側は平穏であると伝え、音信として銀子三枚を贈った書状。
(元和六年)三月十二日 / 冊子 765~766頁
島津久元・町田久幸が国元重臣に、家久の上洛は荒天期を避けて五月に出立するよう上意があったこと、女御の入内も五月出立・六月八日予定と伝え、準備と心得を求めた連署状。
(元和七年)三月十二日 / 冊子 766頁
島津久元・町田久幸が国元重臣へ、島津家久の子息が息災であること、上州老から贈物が届いているので後便で礼を述べること、御道具衆を早く差し上せることなどを追って伝えた連署状。
(元和七年)三月十九日 / 冊子 767頁
島津久元・町田久幸が国元重臣へ、上州老の使者寺田将監が来て、島津家久は上洛を延ばさず五月朔日頃に出立するのが肝要との意向を伝えたこと、女御入内の予定にも変更がないことを報じ、準備を促した連署状。
(元和八年)五月三日 / 冊子 779頁
井上正就が島津家久へ、今年は在国するようとの上意に従うのはもっともであること、太刀一腰・馬代銀子二十枚への礼、又八郎の無事を伝えた。追伸では島津久元が将軍へ首尾よく目見えしたので安心するよう知らせた書状。
寛永二年十月朔日 / 冊子 830~831頁
琉球三司官らへ、銀子百貫目の下付、銀子二十貫目の借入れ、山鹿越右衛門尉に関わる唐物隠匿、八重山へ来た南蛮人の琉球送還、今年の出銀半減、後日の銭の引渡し、他国人の琉球居住禁止など、複数の処置を箇条書きで指示・確認した連署覚書。
寛永五年八月十日 / 冊子 67頁
王位から毎年贈る品について、老中衆一人分を上布二十端・焼酎一壺、使者一人分を上布十端、琉球取次衆一人分と筆者一人分にも所定の上布を配するなど、対象別の定額を定める。今後は規定外の音信を禁じ、違反は法度への背反として処罰するとする連署条書。
寛永八年十一月十七日 / 冊子 250~251頁
島津久元ら三名が押前奉行に、押前の裁定後も上納しない者について、知行の有無や多少に応じて家内を閉所し知行を没収すること、正当な申し分は速やかに申し出ること、百姓未進や御物不納者を処罰し、無資産者は流罪とすることなどを定めた連署条書。
年月日未詳 / 冊子 434頁
島津義久の書状案。相手の入洛を祝うべきところ、領国内の戦乱が絶えず遅れたことを詫び、疎意はないと伝える。祝儀として太刀一腰・馬一疋を贈り、詳細を喜入摂津介に託している。
年月日未詳 / 冊子 583頁
新納久无は八月中旬に薩州から伏見へ向かう途中、島津義弘(惟新)が石田三成方に加わったと聞き、九月に大垣で義弘へ謁した。十五日の関ヶ原合戦に従軍して多くの家臣を失い、敗走時には伊吹山から近江路を経て京都へ到着した。喜入忠政・川上助七らと平道正庵宗古の宅に潜伏し、近衛信尹の厚意と宝刀を受け、翌年三月に帰国した経緯を記す。
年月日未詳 / 冊子 711~712頁
八月四日、江戸から相良頼豊・上井里兼が、献上材木積載船の着岸、家久の妹の帰国許可、家久の姪の縁組などを喜入忠政・比志島国貞・三原重種へ報じたことを記す家久譜の記事。
(元和七年)六月廿八日 / 冊子 772~773頁
伊勢貞昌が喜入忠政・三原重種へ、島津家久が六月二十七日に大坂へ着き、相次ぐ注進を受けて翌朝江戸へ急行したことを報告した。また和子入内の供奉、大坂普請での巨石運搬と費用、家久進上材木の利用などを伝えた書状。
十月廿三日 / 冊子 799頁
桂忠康所蔵の島津久元・喜入忠政・伊勢貞昌・比志島国隆連署状。本文は次号No.1825と同文であるため、本冊では省略したと注記されている。
年月日未詳 / 冊子 537頁/原整理番号 546
喜入忠政の従臣から聞いた記事。有馬城元の御囲合について島津家久が島津光久へ話し、三原左衛門佐が彼地へ使者として差し越されたこと、寛永十五年正月元日の一戦で与力野元源左衛門が働きのため戦死したことを記す。
年月日未詳 / 冊子 586~588頁/原整理番号 630
喜入忠政従臣の聞書。肥前島原出陣に従った家臣を列挙し、各人の組・在所、槍・鉄砲・弓などの武具、持道具、役割を記した軍役名簿。
正月廿七日 / 冊子 17頁/原整理番号 19
島津久賀(豊後守)・喜入忠政(摂津守)が連署し、大嶋子之清左衛門尉は当地の案内者であるため、薩摩の軍衆は少しも乱妨してはならないと命じた手形。肥後天草の永野九郎兵衛輝澄家に伝来したもの。