宮内大輔今川三雄書状
十二月廿五日 / 冊子 31頁
宮内大輔今川三雄が周防右京亮に、島津上総介の自訴について京都での吹挙を求め、代官では認められないとの先の仰せに対し、子息は本人同然であり支障はないとの仰せを得た旨を披露するよう依頼した書状。
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十二月廿五日 / 冊子 31頁
宮内大輔今川三雄が周防右京亮に、島津上総介の自訴について京都での吹挙を求め、代官では認められないとの先の仰せに対し、子息は本人同然であり支障はないとの仰せを得た旨を披露するよう依頼した書状。
天正15年2月25日 / 冊子 277~278頁
島津義久が、大隅国根占湊の小嶋丸船頭・橋本右京亮に琉球への渡海を許可した朱印状。航海と積荷を島津氏の統制下に置いた史料で、豊臣軍との戦時下にも南方航路が維持されていたことが分かる。
(慶長十年)三月五日 / 冊子 7~8頁
本田正親が大井右京亮へ、今回の知行配当では先祖以来の由緒を訴える取次が法度によりできないが、後日適切な時期に申し出れば尽力すると答えた書状。以前、水俣に肥後勢がいた際、大井が黒渡の船などを手配して長島への交通を確保した功績を忘れておらず、将来披露すると約している。
二月七日 / 冊子 178頁
今川三雄が周防右京亮に、長く注進がないことを案じ、早々に来援して力を添えるべきところ、高久勢を待っているため果たせていないと伝えた書状。翌日にも軍勢が到着すれば急ぎ赴くこと、大手からの書状一通を送ること、以後も諸事を知らせるよう求める。
二月十一日 / 冊子 178頁
今川三雄が周防右京亮に、郷北方・中村郷楠本村・市比野名地頭職・倉野村について、澁谷五郎重頼の申請どおり相違なく沙汰してほしいと求めた書状。
十二月廿五日 / 冊子 92頁
No.121と同文のため本文を省略した別伝。宮内大輔今川三雄が、島津上総介の自訴について京都での吹挙を求め、子息による代官でも差し支えないとの仰せを披露するよう依頼した文書。
四月15日 / 冊子 557頁/原整理番号 719の5/整理ID 719-5
松井周防守・堀右京亮を名書し、謹慎を命じる。日付は四月十五日。太政官から伝えられた旨の問合があると末に記す。謹慎の理由や具体的な期間は本文に示されていない。
年月日未詳 / 冊子 47頁
『山田氏系図』が、前掲譲状の虎王丸を山田氏六代久興とし、四郎・右京亮・出羽守、入道名玄威の異名と、延文四年九月廿六日に鹿児島宮地で誕生したことを記す。
年月日未詳 / 冊子 522~523頁
文明十七年三月、加治木・吉田・正八幡宮社中らが上井城を攻め、菱刈右京亮らの討死を経て城を陥落させたのち、和泉・高城・湯田・水引・帖佐方面で攻防と城主交替が続いた経過を記す文明記記事。
永禄十一年二月廿八日 / 冊子 195頁
小苗代原合戦の別方面で、馬越・加治木・市来・伊集院・川辺勢が敵二千余騎を受け止め、肝付兼寛が軍配を執ったことを記す。新納久継が負傷する一方、鎌田政年が敵味方の間を駆けて指揮し、面高真連坊が鉄砲で八代の牧野次郎左衛門を倒し、田実右京亮がその首を取った。日暮れに双方が退いた。
文禄3年7月17日 / 冊子 797頁
御料人を急いで迎える件について、伊集院幸侃が石田三成の前で命じられた経緯を記す。内城の女房衆から御供を選ぶ必要があるが、適任の年長女性がいないという奥向きの事情も挙げる。 久四郎の在京生活は順調なので心配無用とし、五代右京亮の上洛、祈念のための医王院派遣、鎌田与兵衛による費用相談も指示する。婚姻後の家族・供奉体制を整える覚書。
文禄3年7月27日 / 冊子 800頁
義弘が久四郎と又八郎忠恒に対し、まだ在京しているなら心遣いが多いだろうと気遣う。龍伯義久への配慮はもちろん、今後の事は石田三成の指導に従って判断することが肝要だと諭す。 五代右京亮を上洛させて久四郎の側で奉公させると伝え、朝鮮の戦線は現在異状ないと報告する。家族への心配と豊臣政権内での身の処し方を同時に示す義弘の私信。
年月日未詳 / 冊子 121頁
『島津常久譜』から、宇多与右衛門尉が上京して安宅三河守へ訴状を提出したため、五代右京亮らを招いて糾明した経過を記す。関係者の申状・答書を京都へ送り、太守兄弟から与えられた書状もあわせて記録したとする。
寛永九年三月朔日 / 冊子 259頁
小森隼人佐と時任右京亮が、本田助之丞の蔵に関し、真米三石三斗六升六合六勺七才を加治木蔵へ、銀子二百八匁を鹿児島御蔵へ納め、石高分を含む合銀二百七十七匁四分四厘を皆済したことを証した連署請取状。
寛永十年二月十日 / 冊子 353~354頁
猿渡城之介・時任右京亮が本田与八郎へ出銀の皆済を認めた連署請取状。高百五十四石九斗六升を基礎に、米・鳥目の銀換算を記し、銀二百三十二匁四分四厘を受領した。
(寛永十一年)四月四日 / 冊子 417頁
入来院右衛門尉・伊勢右京亮の退任に伴い、両者の支配地・衆中・給付・役務・役人交替などを調査・整理し、家老衆の談合で処置するよう条項ごとに命じた島津家久袖判条書。
年月日未詳 / 冊子 487頁
北郷氏庶流系図として、文明八年六月二十一日の都城再拝領と安永からの移転、北郷氏一族による都城受取を記す記事。
年月日未詳 / 冊子 511頁
文明十六年十一月十七日、郡本と熊田原の両陣が帰還する途中で合戦となり、部隊が散開して諸士に戦死・退却者が出た経過を記す譜記事。
慶長九年正月十四日 / 冊子 924-925頁
御蔵分の衆中借用額を日付・名義人・受取人別に列記した注文。慶長七年から同九年正月にかけての貫文単位の金額を記し、御祈念、御遊などの用途を含む。関玄蕃允以下、多数の担当者・受取人を掲げる会計記録。
(寛永十一年)閏七月廿一日 / 冊子 439頁
焼酎壺二つを確かに受け取り、御蔵へ納め置いたことを記す三名連署の請取状。
四月8日、京都三区域取締の三通 / 冊子 555頁/原整理番号 717の3/整理ID 717-3
四月八日付の京都取締に関する三通を収める。紀伊中納言と眞田信濃守には下京中の取締を命じ、蜂須賀阿波守と引き合わせて十分行き届くよう勤めることを求める。南部美濃守と藤堂佐渡守には中京中の取締を命じ、加賀中納言と引き合わせて勤めるよう求める。稲葉右京亮と京極佐渡守には上京中の取締を命じ、島津修理大夫と引き合わせて勤めるよう求める。
十二月二十五日 / 冊子 278頁/原整理番号 74
宮内大輔三雄が周防右京亮へ、島津上総介の自訴について京都での吹挙と沙汰を依頼された件を伝える。代官による申し立ては認められないとの先の命で差し控えていたが、子息による申し立ては本人と同じで差し支えないとの命を受けたので、その旨を披露してほしいと求める書状。
年月日未詳 / 冊子 519頁
文明十七年二月十九日、修理亮忠廉が入来山を越え、翌日に祁答院藺牟田城を攻めた際、城の崩落や戦闘により班目右京亮ら多数の死傷者が出た経過を記す譜記事。
年月日未詳 / 冊子 536頁
文明十七年九月、修理亮・村田肥前守・下野守・東郷右京亮らが入来・山崎・大村方面へ進み、祁答院方と交戦した経過を記す。伏兵、囮陣、集落への放火を用いて連日攻防し、帖佐勢・薩摩守方も加勢した。内山田への進撃後、各隊が帰陣するまでを追う島津忠昌譜記事。
年月日未詳 / 冊子 42~43頁
島津方が菱刈陣を攻め、忠平自ら敵二人を斬り、村田越前守・三原右京亮らが奮戦、樺山助太郎らが戦死し、敵首三百余を挙げたとする。蒲生方は降伏して祁答院へ退去。境目で悪口過言を重ねた白尾半右衛門尉は落人に紛れたところを猿渡大炊入道に捕えられ、口を裂き舌を抜かれたという苛烈な処罰も記す。戦後の蒲生・帖佐・山田・松坂以下、大隅各地の地頭・領主配置を詳述する。
文禄3年7月17日 / 冊子 800頁
「本文書は一三五一号文書と同文につき省略」と注記された義弘覚書。御料人を迎えるための女房衆選定、久四郎の在京状況、五代右京亮の上洛、医王院による祈念、鎌田与兵衛の費用相談を扱う。 婚姻後の御料人の供奉体制と在京者への配慮をまとめた覚書で、具体的な本文はNo.1351を参照する。
年月日未詳 / 冊子 340頁
応永三十四年十月二十七日、北郷義知と樺山知音が山東須田木の合戦で同時に戦死したことを記す。
年月日未詳 / 冊子 340頁
北郷氏庶流系図として、義知が讃岐守義久の六男であることと、応永三十四年十月二十七日に山東須田木で戦死したことを記す。
年月日未詳 / 冊子 36~37頁
弘治三年の島津氏関係事績を編年で記す。四月十五日、貴久父子らが北村の菱刈陣を攻め、忠平が先登して楠原某を討ち、火矢で塁壁を焼いて陥落させた。忠平は重傷、菱刈左馬権頭は自害。十七~十九日、蒲生範清が降伏し、貴久は降人を殺さず祁答院へ送った。蒲生・松坂・帖佐・山田の地頭配置、後奈良天皇崩御・正親町天皇践祚、南林寺建立も記す。
年月日未詳 / 冊子 44頁
弘治三年四月十五日、島津貴久父子らが蒲生を救援する菱刈氏の陣を攻めた記事。険阻な陣で忠平が敵将楠原某を討ち、島津軍が陣を陥れて多数を斬り、四月二十日に蒲生方が城を焼いて退去した経過を記す。
年月日未詳 / 冊子 44~45頁
蒲生を救援して北村境に築かれた菱刈氏の陣を、弘治三年四月十五日に島津軍が攻めた経過を記す。忠平(義弘)が楠原某と一騎討ちして首を取り、陣を攻め落としたが、自身も刀傷を負って退いた。
永禄十一年二月廿八日 / 冊子 192頁
永禄十一年二月二十八日、島津忠長と肝付兼寛が馬越城から市山城へ赴き、新納忠元と大口城攻略を相談した後、小苗代原で敵の偵察兵と遭遇した経過を記す。忠元・兼寛・忠長らが応戦し、新納久継が負傷、面高真連坊が鉄砲で敵将を倒した。忠元は白坂で戦って左脇を刺されたが城へ退き、城壁を越えようとした敵三人を守兵が討って退散させた。
永禄十一年二月廿八日~三月廿三日 / 冊子 192~193頁
永禄十一年二月二十八日、小苗代原で敵が不意に出た際、新納忠元が薬師堂の板に詩句を書き終えるまで動かず、家臣久保勝八に引き退かされた直後、竹添丹後守の鑓で左脇を突かれた逸話を載せる。忠元はなお敵三人を討ち、自身も六箇所の傷を負ったため、貴久から使者を通じて感賞と見舞いを受けた。三月二十三日の曽木・市山攻撃では、未平癒ながら出陣し白坂と永福寺口の守備を指揮した。
永禄十一年二月廿八日 / 冊子 194頁
永禄十一年二月二十八日、小苗代原で大口方の大軍と戦った経過を詳述する。肝付兼寛が諸軍を指揮し、新納久継が負傷、鎌田政年が敵中で下知を行い、面高真連坊が鉄砲で敵将牧野を倒した。新納忠元は白坂口で的場五藤と戦って数箇所の傷を負い、求麻方の勇士三名を守兵が討った後、貴久の使者から軍忠と市山在番への感謝を伝えられた。
天正四年八月十九日 / 冊子 489頁
天正四年八月十九日の高原城合戦に従軍・軍労した者を、竹崎表・霧島越山路などの大将と各地域別に列挙する交名。北郷時久、新納忠実、上井覚兼、樺山久高、柏原勝監らの名を載せ、後の戦死地などを注記する。
(慶長四年) / 冊子 380~381頁
島津義弘の覚書で、内府から借りた黄金二百枚による借銀利分の返済と国元での本銀皆済、出水移衆への支配、金子百枚の返弁を記す。さらに渡唐の仕立て、納戸の品と船荷の売却奉行、南林寺・日新寺・雪窓院への年頭礼、太田六右衛門尉と前田新三の知行、路地の植栽や『源氏』一部の進上など、具体的な処置を列挙する。
年月日不詳 / 冊子 79-80頁
八重尾氏の人物が、木浦木への移住と小林・須木間の山林境界、狩場利用の先例を記した覚書。先祖以来の境を示し、須木衆による木場利用、村尾殿への鹿倉貸与、地頭上井次郎左衛門時代の境界神事、米十五石・銭十五貫文の支給などを詳述する。
年月日未詳 / 冊子 157頁
島津光久譜の記事。寛永十八年八月三日に将軍徳川家光の子竹千代が誕生したため、光久が島津安芸久雄を江戸へ先発させ、同月九日に久雄が江戸城で祝儀の進上品を献じたことを記す。竹千代へ腰物・脇指・産衣など、家光へ太刀・馬代などを贈り、安藤右京亮・松平出雲守をはじめ城中の関係者や女中方にも銀子・衣類・魚類などを広く進上した詳細な目録を伴う。
年月日未詳 / 冊子 2~3頁/原整理番号 1
山田右京亮が谷山郡内の山田本領へ入部する件を親類の常陸守・左馬助と相談した後、右京亮らは大姶良へ移る。常陸守は伊地知新左衛門らと山田城に入って鹿児島への通路を断つが、谷山勢の攻撃で常陸守と弟、門人らが討たれ、城を谷山方に取られたと記す。末尾で季安は関係者を比定し、この経過を考証する。
宝永元年九月二十一日 / 冊子 503頁/整理ID 1764
島津吉貴が酒井右京亮へ、数日中に上使が桜田・芝両屋敷へ来る場合は父子のうち一人に出向いてほしいと依頼し、ほかに頼める者がいないため早急な返答を求めた口上書。
七月日 / 冊子 473~474頁/原整理番号 608-2
長崎の情勢を記した前文書を所次で送り、山田土佐守へ届けるよう中馬兵部左衛門・清田右京亮・木原兵左衛門に命じる添状。目録年月日は『七月日』を維持し、本文の七月三日とは区別する。
三月十八日 / 冊子 120頁/原整理番号 454
長倉能登守祐省ら四名が野辺讃岐守に、先に申し出のあった梁瀬屋敷の件を披露したとして、早々に移って奉公するよう伝えた連署書状。小原の百姓に関する扱いや御舎弟の御用との関係にも触れ、前年以来沙汰のなかった件を新恩として扶持する旨を後日のため書き付けた。三月十八日付。
三月十八日 / 冊子 129頁/原整理番号 475
長倉能登守祐省ら四名の連署書状。本文は『諸家系図文書』四五四号文書と同一のため省略されている。参照先No.454では、野辺讃岐守に、先に申し出のあった梁瀬屋敷の件を披露したとして早々に移って奉公するよう伝え、小原の百姓や御舎弟の御用との関係にも触れ、前年以来沙汰のなかった件を新恩として扶持する旨を書き付ける。三月十八日付。
〈寛延四年〉四月二十三日 / 冊子 300~301頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書0880
四月二十三日、重年が襲封後初の帰国許可を受け、家老義岡相馬久中・鎌田典膳政昌、側用人二階堂林左衛門行通、表用人伊集院十蔵久東、近習役福山平太夫安都・河野安之右衛門通古らと江戸芝邸を発った記事。伊勢路を経て五月十日に伏見、十二日に京都錦小路の假館へ入り、先例に従って松平豊後守資訓の第で将軍家の安否を問い、近衛内前の華第にも赴いて伏見へ戻った。十四日に出船して大坂、十八日に大坂を発ち播州路を経て二十一日に坂越から乗船し、六月二日豊前田之浦、翌三日大里、四日大里発、十三日薩西出水、二十一日麑府に着き、四配館と府城で継豊に謁した。同二十一日に番頭北郷民部久傳が謝恩使として東都へ赴き、二十九日黒崎から乗船、閏六月七日大坂、十日伏見、十一日伏見発、二十七日江戸芝邸着。七月十一日には酒井忠寄・秋元凉朝ら執政・若年寄へ、重年の書翰・連署・格書を届けた。二十八日に白書院で家重へ重年の芭蕉布二十端・三種二荷、家治へ三種二荷を献じ、初帰国の恩に謝した。久傳自身も家重へ太刀一腰・馬代白銀一枚・紗綾二巻、家治へ太刀一腰・馬代白銀一枚を献じ、松平右京亮輝高と井上遠江守正敦がそれぞれ奏達した。八月五日には檜之間で武元が出席し、本多長門守忠就から奉書と家重の紗綾二巻を受け、続いて西城の秋元凉朝の第で家治への謝礼を行い、凉朝から奉書を直接授けられた。十三日に芝邸を発ち、東海道を経て九月十三日に大坂から乗船、十月二十四日に薩西久見崎港、二十六日に薩府へ戻り復命した。
天明七年二月十五日(年は朱書) / 冊子 944~945頁/原整理番号 2575/整理ID 2575
二月十五日の隠居の礼について、前日到来した老中連名の奉書により名代を五つ時に登城させるよう命じられ、本多豊後守を名代として出した次第を記す。豊後守自身も家督の礼を命じられていたため、当朝六つ半時に早く出宅した。石川榮阿彌を介して直の御請と居残りの礼の扱いを御用番水野出羽守へ照会すると、両人とも同様に扱うとの返答があった。将軍が白書院に出て月次の礼が済んだ後、献上品が御前に並べられ、太刀は奏者番稲葉丹後守が御敷居内に供え、豊後守は障子際で礼をして退いた。続いて献上太刀の御覧の際に再び出て礼をし、上意により敷居内に着座し、労いの言葉を受けて請けを述べ退いた。さらに白書院の縁頬で年寄衆列座の場で居残りの礼を申し上げ、大目付・目付も陪席した。豊後守は松平右京亮の披露により礼を滞りなく済ませ、大老への初礼も済ませて退城し、帰宅後は双方が縁亭で対面して熨斗と茶を出した。豊後守から側役の使いを通じて隠居礼と家督礼が無事済んだ旨の祝意が届き、返答するとともに、こちらからも側役を通じて祝意を伝えた。末尾は隠居・家督に伴う贈答品を列記する。大老・初年寄衆へは太刀一腰・縮緬五巻・馬代黄金十両(一疋)、さらに干鯛一箱・昆布一箱・樽代五百疋をそれぞれ贈る。若年寄衆へは太刀一腰・紗綾三巻・馬代黄金十両(一疋)、さらに干鯛一箱・樽代三百疋をそれぞれ贈る。用頼の御先手・目付と用頼の大目付へは干鯛一箱・樽代三百疋を各々贈る。内々には大老・初年寄衆へ羽二重二十疋と肴一折、御側衆へ羽二重十疋と肴一折、奥右筆組頭へ羽二重五疋と肴一折をそれぞれ贈った。
天明七年二月十八日~八月六日(年は前後記事による) / 冊子 946~947頁/原整理番号 2578/整理ID 2578
二月十八日、斉宣が重豪は隠居後も持病が癒えないため領国へ帰って温泉で治療し、あわせて国政にあたることを願い出たと記す。二十六日に老中奉書が出され、翌日斉宣が登城すると、白書院で大老・老中が列座し、水野出羽守忠友が重豪の帰国を許す旨と羽織三領の下賜を伝えた。斉宣は重豪に代わって命を受け、同日大老・老中各邸で謝恩した。重豪は三月十五日に江戸を発ち、若年寄関山紀金暉、側用人矢野男吏清香、側用人兼側役岩下佐次右衛門方恭らが従った。東海道を進み、四月十四日に伊勢桑名から小畑へ行き、翌日伊勢大神宮に参詣、十六日小畑を発って二十日に伏見へ至った。天雨で淀川が増水し渡れず、日を重ねて逗留し、晦日に水が減ると川を下って大坂へ至り、三日滞在した。五月四日大坂を発ち、中国の駅路を経て十八日に長州赤間関へ、翌日豊前大里へ渡り、九州を通って二十六日に肥州日奈久から船で領内の出水米之津へ至った。六月三日に鹿児島へ帰り、矢来門から三本丸へ入った。あらかじめ用人島津矢柄久宅を謝恩使として江戸へ遣わし、七月二十八日、久宅は番頭の資格を仮に与えられて登城した。白書院で家斉に謁し、縮緬五巻・二種一荷を献じて重豪帰国の恩を謝し、水野左近将監が奏者を務めた。久宅自身も太刀一腰・馬代銀一枚・紗綾二巻を献上して謁し、松平右京亮輝和が奏者を務めた。八月六日、老中鳥居丹波守忠意が久宅を城に召し、檜之間で奉書と紗綾二巻を授け、同日大老井伊掃部頭直幸も私邸に久宅を招いて奉書を授けた。
年月日未詳 / 冊子 50~51頁/原整理番号 49の5
谷山郡内山田への入部をめぐり、山田右京亮が親類の式部常陸守・舎弟左馬助と相談したが異見が生じた経緯を記す。伊地知新左衛門尉らが夜に谷山方を攻め、鹿児島への通路を断ち、常陸守と弥三郎が討死したという。伊地知新左衛門尉・井ノムレ衛門四郎らが上下三、四十人を討ったと続く。氏久は鹿児島で事態を聞き、山田への競望を道に背く行為として戒めたと伝える。
年月日未詳 / 冊子 58頁/原整理番号 54
天正六年九月十一日未刻、山東へ向けて発向した際の供奉次第を記す。御剣を本田紀伊守、御幡役を三原右京亮、旗指を色紙金右衛門が務め、鹿児島の人数まで召し連れ、まず諏訪社へ参詣して直ちに出立した。
寛永15年正月15日 / 冊子 704~708頁/原整理番号 734
加世田士人相徳新介蔵本による人数賦。仁禮右京亮以下の主従人数を次第不同で列記し、追加申出や乗船勤務、夫丸の割付、小松原・出水米之津での飯米支給を注記する。途中に軍士156人・外117人夫と記す。末尾では正月十二日以来二十日分の飯米として真米15石・赤米10石7斗を出水六月田御蔵から受け取り、人躰一人に真米一斗、夫丸一人に赤米一斗ずつ渡したと記す。寛永十五年正月十五日付。
年月日未詳 / 冊子 15~16頁/原整理番号 15
加世田士小川監物の日記。正月二十七日、巣元・嶋子から来た百姓に天草の在所数を尋ね、全三十八か所のうち十一村はキリシタンで一揆勢に加わり有馬城へ籠もり、残りには住民がいて総高はおよそ一万石だと聞き取る。仁礼右京亮・愛徳四郎兵衛を曖衆代、本民部右・市伴介・鮫民部左・小川を諸事賦衆と定め、人数の増減が激しいなか、毎日の番衆と飯米の配賦に苦慮したことも記す。