内田某・大窪某連署上申状写
(寛永八年)正月廿八日 / 冊子 249頁
山奉行の内田仲左衛門・大窪半兵衛が、島津又八郎の武芸鍛錬のため竹子鹿倉山を猟場とする願いについて、又八郎の家系と実父島津家久の朝鮮・琉球での軍功などを挙げ、国政への参与を願い上げた上申状写。
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(寛永八年)正月廿八日 / 冊子 249頁
山奉行の内田仲左衛門・大窪半兵衛が、島津又八郎の武芸鍛錬のため竹子鹿倉山を猟場とする願いについて、又八郎の家系と実父島津家久の朝鮮・琉球での軍功などを挙げ、国政への参与を願い上げた上申状写。
(文明十八年)十月五日 / 冊子 539~540頁
島津忠昌が、前日の合戦で諸将が示した忠節と働きを比類ないものと賞し、その勇戦をねぎらうとともに、今後も状況に応じて尽力するよう伝えた書状。
慶長五年三月十三日 / 冊子 523~524頁
伊集院忠真の降伏後、島津豊久が都城方面から帰陣したことを記す。各地の戦闘で三原九兵衛・野村藤蔵・坂元半兵衛・富山次十郎・前田大膳兵衛・野田覚内ら多数の家臣が戦死し、負傷者も数多かった。軍功により野々三谷を与えられたが、豊久は辞退した。
明和二年四月二十七日 / 冊子 92~93頁/原整理番号 181の81/整理ID 181-81
曲淵勝次郎・松平庄九郎・松平縫殿頭・夏目藤四郎・新庄織部から別紙一通を受けたため、大膳大夫・相模守へ申し聞かせたところ、同席の各家から通達するよう命じられたとして、写しを順に廻す。各家からの返答は不要ではないかと思うと述べ、通達が済んだ後は差出側から届ける予定とし、廻状を確認したうえで返すよう求める。嫡子がいる家には御付の家衆へも知らせるよう追記する。四月二十七日、池田家の塩見幸左衛門と、毛利家側の嶋田市三郎・吉田半兵衛・都野彌右衛門・有福庄右衛門の記載に続き、順不同の宛名を載せる。朱書には、昨夜中に大膳大夫の家から届いたものを書写して差し上げた旨を、翌二十八日に有川勇馬が左中様へ報告したとある。本文の順達と朱書の到来・書写報告を区別する。
明和二年五月十日 / 冊子 93~94頁/原整理番号 181の84/整理ID 181-84
大目付大井伊勢守から廻状一通と書付の写し一通を受け、越中守・大膳大夫へ申し聞かせたところ、同席の各家の担当者から通達するよう命じられたため、写しを順に廻す。個別の返答・挨拶は不要とし、通達が済んだ後、担当者側から伊勢守へ届ける予定である。廻状を確認して返すよう求め、嫡子のいる家は御付の家衆へも知らせるよう追記する。五月十日、毛利家の吉田半兵衛・都野彌右衛門・有福庄右衛門と、細川家の内山又助・中川唯之丞・中川郡兵衛の連署に続き、順不同の宛名を載せる。御名の欄には薩摩守旅中へ、信濃守の欄には信濃守旅中へ内容を申し越すよう注記する。朱書は、両家衆から添廻状付きで到来した原廻状と書付の写しを書写して差し上げる旨を、同日に東郷源五が左中様へ申し出た記録である。
寛政元年八月六日~十二月十六日(記事) / 冊子 1042頁/原整理番号 2819/整理ID 2819
八月六日に閣老が命を受けて鮭十尺を急送し、斉宣が九月三日に拝領したことを記し、初めて封地へ帰ったことに伴う下賜と説明する。十月九日には市来温泉へ赴き、二十一日に帰った。十二月朔日に田布施へ行き、翌日、新寺で郷士踊を見物した。十六日には御台君の使い原田半兵衛が干鯛一箱を邸へ届け、年末の祝賀として斉宣へ賜ったという。
年月日未詳 / 冊子 411~412頁/原整理番号 528
加世田小川監物日記は、この年六月十九日、前年に再渡航すれば処刑すると命じられていた天川船が長崎へ来航し、客衆・中乗衆は処刑、船衆だけは残され、南蛮へ帰して永代往来停止を伝えさせたと記す。幸力摂津守と江戸からの奉行二名が長崎へ赴き、当国でも警固が強化されたという。さらに三原左衛門佐に当所衆中二十人を付けて出立させた記事と、後日の風聞として、相良半兵衛が約二十人と城内の臥草で待ち伏せ、放火後に乱入した寄手を多数討ち取ったという戦闘記事を載せる。目録年月日は空欄のため本文日付はB列へ補入しない。
寛永十七年七月九日 / 冊子 412~414頁/原整理番号 530
島津久慶は入来院左兵衛らへ、相良清兵衛の留守を守る大童半兵衛が七日未明に壱岐守の留守居衆と衝突し、半兵衛の子は一手で切り出して討たれ、半兵衛は約四百人で籠城し、清兵衛の宿所が焼かれたと伝える。ただし江戸からの情報には異説があり、清兵衛召喚や相良側の訴訟・処置をめぐる見通しを記す。人員を預け置くかなどの判断を求め、事件が収まらなければ上使が大口・加久藤付近まで下向する可能性があるため、接待の士衆を用意し志岐小左衛門も加えるよう指示する。末尾で三日来の咳病のため辛うじて書いたと付記する。
寛永十七年七月十一日 / 冊子 425頁/原整理番号 532
米良頼貞・菱刈重信は三原重庸らへ、相良清兵衛を江戸へ召し登せるとの上意を相良壱岐守から受け、清兵衛が前月二十日に当地を出立したと報告する。その留守中、大童半兵衛らが同心して逆心を起こしたため討ち果たし、残るところなく鎮定したので安心するよう伝える。去る八日の当地の状況は伊地知弥右衛門尉を介して注進したと追記し、使者への口上に詳細を委ねる。
(寛永二十一年)三月十八日 / 冊子 16頁/原整理番号 9
吉田の御狩検者として薗田刑部左衛門・松岡長右衛門、飯野の御狩検者として奥野神介・上野半兵衛を地域別に記す人員書上である。
〔天保十三年〕八月(本文)、同月廿八日(包紙受渡) / 冊子 53頁/原整理番号 80/整理ID 80
嶋津靭負の二男が生まれた際、家号を願い出たことに対し、嫡家の由緒によって「花崎」を認めた達書。以後、二男以下は花崎を家号に用いてよいと記す。八月付で石見が署名し、御記録奉行へ宛てる。包紙には天保十三年八月二十八日に石見殿から東郷半兵衛へ渡し、白木御文書十番箱に納めたとの記録がある。
〔天保十三年〕十二月(本文)、同月廿四日(受渡) / 冊子 57頁/原整理番号 87/整理ID 87
種子嶋報七郎の登城時の進退・礼席・呼称を定める申渡書。年頭・五節句などの登城は嶋津若狭一列上口から上がり、水仙之間下の休息所で控える。五節句・月次の礼席では御座之間二之間末の敷居から三重目で、御一門・家督・部屋栖の礼が済んだ後に進み、着座せず御側御用人が姓名を披露する。留守年寄は御座之間の礼の後、鶴之間で御一門方を謁し、続いて家老へ祝儀の礼などを申し上げる。年頭八朔には御対面所で持参の太刀による礼の後、若狭一列の頭へ出て同席に控える。一世は私文字を用い、次の世には御一門方として嶋津若狭一列頭となると命じる。十二月付で安房が御記録奉行へ記録を求め、天保十三年十二月二十四日に登殿から東郷半兵衛へ渡して納めたとの包紙注がある。
寛永廿年九月十五日 / 冊子 153頁/原整理番号 106
寛永二十年九月十五日の犬追物張行に付く諸役者書上。日記、幣之役、御撥添、御行騰、御太刀持、御弓臺目、射手奉行、狼藉奉行、犬放などの役を挙げ、福屋伊賀守・本田半兵衛尉らの担当を記す。射手別犬数の手組ではない。
寛永十七年五月二十四日(聞き取り日) / 冊子 78~83頁/原整理番号 31
大和守久章の内衆から、京都三条宿での行動と五月十七日の失踪について聞き取った記録。好田半兵衛・池田仁左衛門・道具持・夫丸・財部権之丞らが、清水や茶屋への遊山、同伴者、銀子、挟箱、失踪当日の買物や目撃を個別に述べる。聞手は伊地知重政・相良頼員らで、証言は必ずしも一致しない。
正保元年12月晦日(目録) / 冊子 489頁/原整理番号 5
諸所の神社を大小残らず書き付け、川上半兵衛尉らへ日記を差し出すよう命じる。寺社知行の件も併記し、正保元年十二月晦日の日付と関係者名を記す。
天明六年十二月(日不記) / 冊子 915~916頁/原整理番号 2511/整理ID 2511
領分の琉球国の飢饉への手当として願い出て、京升で米一万石の拝借を命じられたことを受け、書面のとおり請け取る旨を記す。返納は来る未年から十年賦で上納する約束とし、御蔵奉行の本山弥太郎以下十一名に宛て、差出部分は御名・御印判と記す。裏書は表書の一万石を引き渡すよう命じ、但し書は本文にある旨を示し、丹波・出羽・越中・周防の印を列記する。折口裏上角の「定」印を勘定方で押して渡したとの朱注があり、さらに裏書を勘定方へ写して差し出したことと、その写しには記載されない部分があるとの注記を伴う。
年月日未詳 / 冊子 702頁/原整理番号 732
正月十五日の国分賦所記録。盾板十五枚・大釘三十・熊手十などの調達と代銀・代銭を記し、国分御城山の松で盾板を作り、奉行が出水米之津まで宿送りするよう手配する。続いて十五日までの出立人数85人と国分から付けた人躰、付衆・大工等の名前を記す。
年月日未詳 / 冊子 747頁/原整理番号 780
蒲生有馬氏に正文が所在する覚書。谷口助右衛門らの氏名を三段組で列記し、随所に下人の名前や本人名の訂正・異記を添える。末尾の合計は人躰八十人、小者四十九人。文書独自の日付・宛先・作成者は記されず、名簿の対象集団や出陣先は、この覚書単独からは断定しない。旧切り抜きで774~782へ分散していた名簿を、本文の連続する三つの全高切片に復元した。
年月日未詳 / 冊子 312~313頁/原整理番号 14
島津運久が日新を養子に迎えたことから説き起こす一族の由緒。後に生まれた実子とその子孫の家督・奉公の経緯、所領を離れて諸国を転々とし、播磨国に移った家系を述べる。
承応元年十二月四日 / 冊子 227頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0459
江戸からの急報を受け、諸大名の登城や国元からの使者派遣、肝付半兵衛らの到着時期と使者の人選・日程を国元へ相談した連署状。
年月日未詳 / 冊子 267頁/原整理番号 336-4
寅年二月二十七・二十八日の黒田右衛門佐家中の討死・手負者を記した覚。討死者として濱田五郎兵衛、松岡作右衛門、梶川作左衛門、八田仁左衛門、林与左衛門、勝野伊右衛門、戸田角兵衛、丹野七右衛門、高館源左衛門、大石庄右衛門、立花弥兵衛、南畝太左衛門、野口万右衛門ら計17人を掲げ、続いて黒田三左衛門・井上半兵衛・黒田太郎介・北村頼母介ら手負者の氏名を列挙する。本文の日付は目録年月日欄へ補入しない。
寛永十七年七月九日 / 冊子 414~425頁/原整理番号 531
寛永十七年七月九日の人衆賦帳で、須木口・大口・加久藤口などの各方面へ、須木・小林・野尻・高原・高岡・鹿児島等の郷衆中と島津家諸士を組み分けし、各人の高、全役・半役、主従人数を列記する。複数の組に『合五百人』等の総計欄があり、国境方面へおおむね五百人単位で人衆を割り付けた構成を示す。冒頭の須木口一与は須木百人、小林百十人、野尻七十六人、高原百二十五人、高岡四十人、鹿児島五十人を掲げ、原記総計を五百二人とするが、内訳の算術合計は五百一人となる。編者は、相良清兵衛召還に伴う大童半兵衛ら三百余人の籠城と求麻騒動を受け、隣国境目の警備用に作成された帳簿と考証する。天保二年十二月二十日の写載経緯と、伊地知重政・相良頼員が京詰のため加久藤口の名簿に載らないとの説明も付す。
応永十八年十一月八日 / 冊子 259頁
島津久豊が樺山方の今回の忠節に報い、闕所が生じた際には最優先で二十町を宛行うと約した証状。肝付半兵衛兼屋家記に正文があると注記される。
宝暦五年六月十一日 / 冊子 531~532頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書1605
山沢小左衛門が宝暦五年六月十一日、相馬へ病気届提出の首尾を報告する。重年の病気がすぐれない旨の届書一通を、御用番酒井左衛門尉の用人長沢半兵衛へ持参し、半兵衛を通して受け取られたと記す。覚には届書の通数・内容・提出先・用人名を列記する。
宝暦五年六月十二日 / 冊子 533頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書1611
岩下佐次右衛門が宝暦五年六月十二日、相馬へ病気届提出の首尾を報告する。重年の病気が今朝まで回復しない旨の書付一通を、御用番酒井左衛門尉の用人長沢半兵衛へ持参したことを記す。覚には届出の内容と提出先を掲げ、末尾で自ら勤めた経過を申し上げる。
天保十五年十二月廿八日(本文年号)、同年三月十八日(京都拝領) / 冊子 64頁/原整理番号 102/整理ID 102
田中善左衛門へ高三十石を与える知行目録。伊集院麦生田村、帖佐住吉村福元門、谷山五ヶ別府村浮免の内を列記し、名寄帳は別冊とする。改革開始から担当し、十八箇年にわたって京都・大坂へ詰め、抜群の骨折りと精勤で御用に役立ったことを賞して、特別の思し召しで付与する。同年三月十八日に京都で拝領したことを付し、天保十五年十二月二十八日付で尚敏・久備・隆観・久浮・久宝が署判する。包紙には同日に石見殿から東郷半兵衛へ渡したと記し、十八年をさかのぼると文政十年に当たるとの後注がある。
年月日未詳 / 冊子 179頁/原整理番号 86
寛永二十一年の吉田・飯野での御狩の検者書上。吉田には薗田刑部左衛門尉と松岡長右衛門尉、飯野には奥神介と上野半兵衛を挙げる。飯野の御狩場は南山と記す。