北郷忠能譜
年月日未詳 / 冊子 840頁
北郷忠能譜は、島津忠恒が上洛途上に野尻城へ滞在し、八月十七日に伊集院忠真を誅したことを記す。忠能は野尻で忠恒に拝謁し、家中の疑念が除かれて島津家の安泰が定まったとする。
SEARCH THE ARCHIVE
『旧記雑録』前編・後編・附録10冊と追録1~8(暫定版)、『旧記雑録拾遺 伊地知季安著作史料集1~9』『家わけ1』(暫定版)、関連史料(外伝)『島津世禄記』の46,754件を横断検索できます。検索範囲は史料群・巻を組み合わせて選べます。結果は50件ずつ表示します。
56 件 (全巻)/ 1–50件を表示
ページ 1 / 2
年月日未詳 / 冊子 840頁
北郷忠能譜は、島津忠恒が上洛途上に野尻城へ滞在し、八月十七日に伊集院忠真を誅したことを記す。忠能は野尻で忠恒に拝謁し、家中の疑念が除かれて島津家の安泰が定まったとする。
年月日未詳 / 冊子 740頁
元和六年、薩摩・大隅・日向三州の諸士に采地が配分され、北郷忠能の領高が二万二百三十余石となったことを記す系譜記事。
正月十一日 / 冊子 54頁
島津忠恒が北郷忠能へ、陽春の祝詞として例年どおり佳札ならびに五明二本が届いたことを重ねて喜び、日々の慶賀は尽きないと述べた書状。
慶長十一年十一月晦日 / 冊子 100頁
慶長十一年十一月晦日、犬追物をめぐる佐多又太郎と新納近江守の申分について、いったん和解した両名が手組の際に再び角を立てたため退けた事情を述べ、私意なく後進の模範となるよう北郷忠能に命じた書下。
(慶長十二年)正月十一日 / 冊子 106頁
慶長十二年正月十一日、島津家久が北郷忠能から届いた年賀の書状を喜び、祝意を倍して述べた返書。旧例にかなう慶事として今後も励むよう伝える。
(慶長十五年)七月五日 / 冊子 280頁
慶長十五年七月五日、島津家久が北郷忠能に、近日の江戸下向に向けた用意を促し、弓術の稽古を絶やさず励むよう諭し、下国の時期についても知らせた書状。
十二月十四日 / 冊子 565~566頁
北郷忠能の希望を本多正信が家康・秀忠へ申し上げ、帰国の暇が許されたことを祝う。長年の奉公をねぎらい、雪で道中が遅れるなか、その日のうちに船で出立するよう勧める本多正純書状。
(慶長十九年)十二月十六日 / 冊子 567頁
上洛中に用いる十文字の紋を早急に用意し、少しも油断しないよう指示する。事情を確かめるため、誰か一人を派遣して相談するよう求めた伊勢貞昌書状。
(慶長三年)十一月廿八日 / 冊子 299~300頁
北郷忠能が、朝鮮での戦況が有利に運び、天下に名誉が伝わったことと、無事の帰陣を祝う。寒中に引き続き上洛する苦労を気遣い、本来は参上して祝意を述べるべきところ事情により果たせないため、上京を待っているとして、伊勢弥九郎に披露を依頼する。
年月日未詳 / 冊子 393~394頁
北郷忠能譜は、伊集院忠棟誅殺後、忠真が都城と十二の砦を拠点に反乱し、島津忠恒が庄内へ出陣した経過を記す。北郷三久は十三歳の長千代丸を伴って東霧島に布陣し、六月二十三日の山田城攻略では島津忠豊・新納忠元・入来院重時・村尾松清らが数百の首を得た。一方、六月晦日の蟻瀬の伏兵で長野種堅・宮越正秀が戦死し、七月十三日の志和池・野之三谷の戦いでは味方が敗走したが、長千代丸の兵が三王門を支えて追撃する敵を退けたとする。
年月日未詳 / 冊子 435~436頁
北郷忠能譜は、八月十五日に長千代丸勢が東霧島から楠牟礼へ進み、志和池兵と鉄砲戦を行い、側面攻撃で敵を城内へ退けた経過を記す。九月十日には都城攻略のため大根田・内村方面へ進み、北郷久陸の三百騎などの援軍を得て小松谷尾・鵜嶋の泉水・小谷頭で戦い、敵を敗走させ、高城勢も退いたとする。多くの戦死・負傷者と敵首級を挙げ、島津忠恒が長千代丸の働きを賞した。
年月日未詳 / 冊子 582頁
石田三成の挙兵で東西が分かれた際、北郷忠能は在国したが、西郷孫一久永は七十五人を率いて伏見にあり、島津義弘(惟新)に従って伏見城攻撃に参加し、家臣和田仲蔵義吉が戦死したと記す。その後、北郷忠泰・久栄が数百兵を率いて上洛し、九月十五日の関ヶ原合戦では根占清右衛門尉・小杉頼長・知覧忠清・津曲兼親以下、多数の忠能家臣が討死したことを列記する。
年月日未詳 / 冊子 598頁
関ヶ原合戦後、伊東氏が高橋氏領の宮崎城を奪った際、長倉三郎兵衛尉が北郷忠能の家臣・小杉丹後守へ書状を送り、島津家は徳川家康の恨みを受けているので北郷家が徳川方へ忠節を示すよう勧めた。忠能は応じず、その書状を鹿児島へ提出した。
年月日未詳 / 冊子 619頁
北郷忠能の譜は、庄内を元祖資忠以来の旧領として返還され、志和池・山田・野々見谷も代々の忠節と忠真退治の軍功により宛行われた経緯を記す。先に与えられた七か所と合わせ十か所・四万四千三百余石となり、家老四名へ各三百石を配分した。一族・家臣は喜び、都城を去って庄内へ移った。
年月日未詳 / 冊子 719-720頁
関ヶ原合戦後、島津忠恒(家久)が上洛するにあたり、北郷忠能が道中の安全を祈願してその旨を言上し、忠恒から書状を受けたことを記す北郷忠能譜の導入記事。
年月日未詳 / 冊子 100頁
島津家久が催した犬追物で佐多又太郎と新納近江守が手組をめぐり不和となった際、北郷忠能が双方を和解させたため、家久から感状を与えられたことを記す。
年月日未詳 / 冊子 135頁
慶長十二年十一月二十九日、伏見に長く滞在していた北郷忠能が、弓術師吉田印西から射芸の奥義と印可を受け、家の珍宝とされる「唐衣」の矢を授けられた記事。
年月日未詳 / 冊子 206頁
北郷忠能譜の記事。慶長十四年三月、家久が樺山久高を大将として琉球を征し、北郷久武が百二十余人を率いて大島・徳之島を攻略、四月に首里へ至って尚寧を降し、五月に帰国したことを記す。
年月日未詳 / 冊子 382頁
慶長十七年十月十五日、北郷忠能が都城を発して武州江戸へ向かい、徳川秀忠に拝謁して御馬を拝領したことを記す北郷忠能譜の記事。
年月日未詳 / 冊子 565頁
慶長十九年、北郷忠能が暇を与えられて帰国する際、本多正純から忠能へ書状が贈られたことを記し、その正文が次に続くとする北郷忠能譜の記事。
年月日未詳 / 冊子 566頁
諸士の采地献上に際し、北郷忠能が高城・勝岡・山之口を島津家久へ献上したことを記す。同年十二月、家久が大坂へ出陣すると、忠能もその旗のもとに従軍したとする北郷忠能譜の記事。
年月日未詳 / 冊子 569頁
元和元年正月、大坂が平定され諸軍が帰還した後、北郷忠能の領地が多いことを検地で確認し、三千石を加増して本高を四万四千四百余石とした北郷忠能譜の記事。
年月日未詳 / 冊子 583頁
島津家久が五月五日に鹿児島を出陣し、手廻人数一万三千八百人を率いて進軍中、大坂落城の報を受けたことを記す北郷忠能譜の記事。
年月日未詳 / 冊子 583頁
同年八月、命令により旧城を去って新しい居所へ移ったことを簡潔に記す北郷忠能譜の記事。
正月十一日 / 冊子 192頁
新春を祝い、恒例に従って賀草と扇二本を祝儀として進上し、その旨を披露するよう頼んだ北郷忠能書状。
年月日未詳 / 冊子 736頁
北郷忠能が大仏三十三間堂の後方で七間の通し矢を三度成功させて称賛されたこと、伏見滞在中と帰国後に島津家久から弓術を絶やさず稽古するよう励ます書状・諫書を受けたことを記す譜。
十二月四日 / 冊子 720頁
島津忠恒(家久)が北郷忠能に、見廻りの使者派遣と上洛中の安全祈願への謝意を伝え、当地の情勢に別儀はないので心配不要と報じる。徳川家康が年内に上国するとの見通し、拝謁後に吉報を知らせる意向、贈られた巻物への礼も述べる。
年月日未詳 / 冊子 913頁
北郷氏が日向都城など十五か所・六万九千石から、薩摩祁答院三万七千石へ所領替えとなった経緯を記す。 長千代丸と一雲法印の移住、家臣団の随従・残留、旧領との関係調整まで述べ、豊臣政権下の大規模な国替えが家中に与えた混乱を具体的に伝える。
年月日未詳 / 冊子 351頁
島津義久が北郷長千代丸に書状を与え、若年であっても自身で上洛するよう命じたため、慶長三年十一月に九歳の長千代丸が京都へ赴いたことを記す。続いて、その正文を掲げる旨を示す。
年月日未詳 / 冊子 351頁
長千代丸が幼少であったため、叔父の作左衛門尉三久が文禄三年冬から軍代を勤め、慶長四年に長千代丸が十歳で家督を継いだことを記す。
年月日未詳 / 冊子 354~355頁
慶長四年三月一日、伏見で島津忠恒が長千代丸を召し、庄内から祁答院へ移されたのは自身の意向ではなく、伊集院右衛門大夫が石田治部少輔と内々に計画したためなので恨まないよう諭し、近日中に庄内へ復帰させると約した。その証として宝刀正広を与え、長千代丸は家宝として敬い、同月に暇を得て祁答院へ下着したことを記す。
年月日未詳 / 冊子 508頁
慶長五年二月、志和池城降伏後に北郷方が山之口で戦い、家臣三名を失いながら勝利した。梶山・勝岡・山之口・高城・安永など諸城が相次いで降伏し、忠真が都城を退去したのち、竜伯・忠恒が都城へ入り、諸城を長千代丸に与え、十一歳で元服させ忠能と名乗らせた経過を記す。
年月日未詳 / 冊子 495頁
慶長五年、北郷忠能が庄内の本領を安堵されたことに伴い、勝岡・石山の内から久村へ三千石を与えた記事。久村の知行三千石にかかる課役は、忠能の総高の内として扱われたことを記す。
慶長五年十一月廿三日 / 冊子 619頁
島津忠恒(家久)が北郷忠能に対し、庄内を譜代の地として返還し一万石を加増するとともに、志和池・山田・野々見谷を今度の軍功と十三代にわたる忠節への賞として宛行う。領地を全うして忠勤を尽くし、若年の忠能を家老衆が念入りに補佐するよう命じる。
年月日未詳 / 冊子 266頁
島津家久譜の記事。前年から江戸で当家の人質となっていた六歳の島津菊袈裟が、北郷忠能に代わって暇を与えられ、本多正信・山口直友の添書を受けて伏見から帰国の途についた経過を記す。
年月日未詳 / 冊子 276頁
島津家久譜の記事。北郷千世鶴を当家の人質として差し出し、従来の人質北郷忠能に代えて江戸へ赴かせることとなり、本多正純の指示で五月十四日に出発した経過を記す。
年月日未詳 / 冊子 276頁
北郷久加譜の記事。慶長十五年五月、久加に代わる人質として千世鶴を差し出し、従来の北郷忠能が江戸から帰国したことなど、人質交替の経過を記す。
年月日未詳 / 冊子 195頁
三月二十二日に秀忠から使者を通じて御鷹の雁二羽を賜り、家久が謝した記事に続き、北郷忠能の人物と都城支配を論評する。忠能が幼くして孤児となり専横に育ち、賞罰を誤り忠臣を殺害・追放して北郷家を傾けたため、死後、家久が嗣子忠亮へ数条の教訓を川上久国・仁礼景親を介して示した経緯を記す。
年月日未詳 / 冊子 732頁
北郷忠能以下の嫡流系図。忠能の死に紀藤丹波・土屋七左衛門が殉死したこと、翁久・忠亮の早世、島津家久の第三子久直が北郷家へ入ったこと、島津光久の子久定・忠長・忠智へ続く相続を記す。
年月日未詳 / 冊子 915頁
北郷時久の四男久村について、幼少の忠能に代わる名代として長年京都に人質滞在したことを記す。 伊牟田・長野・中津川・宋地三千石を石田三成から与えられたとする、北郷庶流の系譜と豊臣政権下での処遇を示す系図記事。
年月日未詳 / 冊子 394頁
北郷氏庶流系図は、慶長四年六月、長千代丸が祁答院を発して庄内へ出陣した際、北郷久武・北郷久明が従軍したことを記す。北郷忠純についても同年六月の従軍を、前文と同内容として掲げる。
年月日未詳 / 冊子 100頁
犬追物の式日に北郷次郎忠能が進退の礼を時宜にかなって行い、佳例を整えたため、島津家久がその志を深く感じて賞したことを記す。
年月日未詳 / 冊子 190頁
北郷讃岐守忠能が二月五日に死去した後、家臣の土屋七左衛門宗武が同月十七日に後を追って殉死し、紀藤丹波守光繁も同様であったことを記す。
(寛永八年)三月廿八日 / 冊子 193~194頁
北郷出雲守忠亮への使者となる両名に、家久の意向を伝えるよう命じた久元・貞昌の連署状。若年の忠亮による家督相続を認めつつ、忠能代の家臣殺害・追放や悪政を戒め、家老・役人の意見を聞き、悪行者を処罰して家を安定させるよう諭す手順を詳述する。
年月日未詳 / 冊子 194~195頁
北郷時久入道一雲から忠虎・忠能・忠亮へ続く北郷家の系統と、その周辺の式部太輔久直・次郎左衛門久定・外記忠長・筑後忠顕らについて、生没年・年齢・光久との続柄などを付記した系図。
寛永八年三月廿八日 / 冊子 195~196頁
北郷忠亮に、聖賢の道を学び賞罰を明らかにして家を長く保つこと、北郷家が島津家にとって重要であることを説く。忠能代の悪行に加担した者の追放・処罰、死罪・知行没収時の鹿児島への報告、鹿児島屋敷への移住などを命じた家久袖判の条書写。
年月日未詳 / 冊子 225頁
北郷忠亮の家老・北郷源左衛門忠俊が、忠亮と亡父忠能の代から一家の権勢を握り、上を軽んじ下を苦しめたとして、家久は八月六日に忠俊を処刑し、翌七日には父忠泰と弟平左衛門も都城で処刑したと記す。
七月五日 / 冊子 736頁
無事の上着を喜び、自身は江戸下向の準備で多忙だと伝え、弓の稽古を中断せず励んで勤めるよう勧め、帰国時の再会を期した島津家久書状。
六月二日 / 冊子 736~737頁
長期逗留をねぎらいつつ、一国の主として家中の行儀・法度を乱さないことが重要だと諭す。遊山ばかりで屋形におらず、年寄を遠ざけ若者だけを使うとの風説が事実ならよくないので、落ち着いた振る舞いを求めた島津家久書状。
二月四日 / 冊子 351頁
島津義久が北郷長千代に、名代の久二郎は当分伏見にいて給分地二千石を確保しているものの、今後は若年でも自身で上洛するよう命じる。久二郎には高麗または当地で二千石相当の役儀を勤めさせる旨を安宅殿と相談したので、安三州からの指示も踏まえて分別するよう求める。