大山稲介覚書
慶長十四年八月十六日 / 冊子 391頁
大山稲介が町田勝兵衛尉に、八歳で島津久保に従って朝鮮へ渡り、二十歳で帰朝した経歴を述べる。庄内山田城攻めでは長寿院の組下で普請と仕寄に従事し、志和知・大手口の垂れの一つを焼き落としたこと、山の口では椎之大蔵・谷山次郎右衛門尉・伊地知民部少輔らと籠り合い、戦う出家を突き伏せて奉公した戦功を覚書として報告する。
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慶長十四年八月十六日 / 冊子 391頁
大山稲介が町田勝兵衛尉に、八歳で島津久保に従って朝鮮へ渡り、二十歳で帰朝した経歴を述べる。庄内山田城攻めでは長寿院の組下で普請と仕寄に従事し、志和知・大手口の垂れの一つを焼き落としたこと、山の口では椎之大蔵・谷山次郎右衛門尉・伊地知民部少輔らと籠り合い、戦う出家を突き伏せて奉公した戦功を覚書として報告する。
十月十三日 / 冊子 124~125頁
大風後の屋敷普請の進捗を問い、駿河と大坂の不和との風聞を受け、陸奥守は東国奉公に専念すべき立場なので、江戸・駿河へ早く使者を送り、国元の雑説に惑わされず書面どおり判断するよう命じた書状。
十月朔日 / 冊子 186頁
六月二十八日付書状を八月二十二日に受け、仲賢に関する問題を三司官と熟談し、諸人の目安をもって申し上げたと報告した。仲賢が王位は日本の代になり迷惑だと語ったとの嫌疑について、鹿児島で神文を提出した以上そのような発言はないと否定し、事情を理解するよう求めた書状。
(慶長二年)七月十一日 / 冊子 114~115頁
島津義久が島津義弘に、軍勢加増の要請を受けて肥後勝兵衛尉を差し上せ、急用の道具を先に整えて渡海させ、残りは追って送ると報じた書状。軍事行動は八月と聞くため、石田治部少輔が又八郎の帰朝延期を了承したこと、渡海衆不足にも対処することを伝える。
(慶長二年)七月十一日 / 冊子 115頁
島津義久が又八郎の五月二十三日付書状を六月三日に受け、肥後勝兵衛尉を差し上せて急用の道具を先に整え、遅陣を避けるため渡海させると報じた書状。残りの人員・物資は追送し、八月の軍事行動と又八郎の帰朝延期について石田治部少輔が了承していることを伝える。
(慶長四年)後三月三日 / 冊子 365頁
伊東祐兵が羽柴兵庫頭(島津義弘)へ、たびたびの書状を喜び、当地の様子は当分変わりないと伝える。詳しい事情は町田勝兵衛に申し含めたので書状では省略するとし、近況を簡潔に報じる。
年月日未詳 / 冊子 558~559頁
神戸久五郎の聞書として、徳川家康が大坂から江戸へ下向する際に島津義弘(惟新)へ伏見城在番を頼んだが、鳥居・内藤・落合らが本丸を引き渡さなかった経緯を記す。石田方の攻城時には松丸口の仕寄を久来院又七・久留休斎・松岡勝兵衛らが担当し、敵近くまで築いた仕寄の働きにより、勝兵衛が義弘から賞賛と饗応を受け、一命を捨てて奉公すると決意したという。
年月日未詳 / 冊子 559~560頁
神戸久五郎が、八月朔日の伏見落城時、松丸口で父松岡勝兵衛が五代舎人と先頭に立ち、矢狭間を開いて槍で戦ったことを記す。勝兵衛は草摺を鉄砲で撃ち抜かれて瀕死の深手を負い、財部傳内は門内で敵と組み討死した。勝兵衛は島津義弘(惟新)の毎日の見舞いと薬により助かり、大柿への供を望んだが歩けず、のち大坂で米六十石を与えられたという。
年月日未詳 / 冊子 629-630頁
井尻弥五助が島津方の書状と孔雀の尾羽二羽を徳川家康へ届け、良い返事を得た。帰路、水口で厳重な検問を予想して書状を焼き判だけを隠したが、不審者として二十日間拘留された。伊勢参詣と島津義弘(兵庫頭・惟新)の家臣松岡勝兵衛との関係を説明して釈放され、拘留に耐えた奉公を賞され、のち伏見城攻撃でも働いた。
年月日未詳 / 冊子 664-665頁
松岡勝兵衛は、伏見籠城時の恩や関ヶ原で子まで伴ってもらった恩を理由に、島津義弘(惟新)がどこへ向かっても供奉すると述べた。家族は七反帆の船を用意し、大坂の番所を通過して泥雨の中を船着場へ急いだ。馬を買い取り、豪雨で諸船が浮いた機を得て出船した。
年月日未詳 / 冊子 665頁
兵庫沖で、堺方面から赤幕を掲げた高速船が近づいたため敵船を疑い鉄砲を構えたが、木脇休作・矢野弓次を認めて島津義弘(惟新)の船と判明した。松岡勝兵衛が小早で義弘船へ移ると、義弘は浅黄の手拭で頭を包み屋形におり、再会を喜ぶ一同は涙を流した。その後、勝兵衛は本船へ戻り船団に続いた。
年月日未詳 / 冊子 667頁
松岡勝兵衛は伏見で三百石を約束されていたが、帰国後は五百石を与えられ、奉公したことを記す。
年月日未詳 / 冊子 667頁
上方勢の下向が噂されたため、島津義弘(惟新)を蒲生城へ籠める案が立ち、城の守備や矢倉の担当が協議された。松岡勝兵衛は塩井戸口北の尾崎の矢倉を預かり、籠城時には番を務める予定とされた。
慶長五年極月 / 冊子 773頁
慶長五年末、上方勢の薩州来攻や加藤清正の水俣進出との風聞を受け、蒲生城の普請・籠城準備を進めた経緯を記す。松岡勝兵衛の指図で矢倉を上げ、城内へ諸士を召し移した記事。
(慶長十年)二月廿七日 / 冊子 7頁
文書二十一通、別の文書三十二通、巻物六つを列挙し、慶長十年二月二十七日に町田勝兵衛尉が鹿児島へ持参したことを記した覚書。
年月日未詳 / 冊子 17頁
島津常久の動向をまとめた譜記事。五月四日の端午祝礼で単衣二領を賜ったこと、十四日に町田勝兵衛尉とともに福島左衛門大夫を訪ねて贈物を届けたこと、十八日に伊勢貞昌の案内で本多上野守へ太刀・馬代・段子を進上したこと、六月朔日に警衛のための宅地を与えられたことなどを記す。
年月日未詳 / 冊子 24頁
七月十七日戌刻、島津忠恒が島津常久の宿所を訪れ、樺山権左衛門尉・伊勢兵部少輔・町田勝兵衛尉らと酒食をともにした記事。翌十八日に忠恒が伏見から大坂へ向かう際に常久も供奉し、二十日に博多へ出航した船を川舟で追ったが、命により大坂へ戻り、翌日伏見へ帰着した。
九月十六日 / 冊子 33頁
島津忠恒が島津常久に、長い在京勤務をねぎらい、番替として伊集院肥前入道を上京させるので、町田勝兵衛尉らと交代して帰国するよう命じた書状。
(慶長十三年)四月八日 / 冊子 165~166頁
慶長十三年四月八日、島津惟新が島津家久に、琉球からの使僧への返答を今回確定すべきであり、龍伯とも相談するよう求め、詳細を町田勝兵衛尉・相良新右衛門尉へ申し渡した書状。
年月日未詳 / 冊子 249頁
島津家久譜の記事。家久が琉球平定の恩賞に謝意を表すため、町田勝兵衛久幸を上使として礼物を携えさせ、徳川家康・秀忠の両御所へ派遣し、本多正信・正純にも奉書を届けたことを記す。
(慶長十四年)十二月廿日 / 冊子 249~250頁
十二月二十日、本多正信が島津家久に、琉球平定の礼として進上された品々を大御所が満足して受け取り内書を送ったこと、自身も段子五巻を受領したことを謝し、詳細は町田勝兵衛が言上すると伝えた書状。
年月日未詳 / 冊子 329頁
島津家久譜の記事。慶長十六年三月六日に徳川家康が駿府を発して上洛し、後陽成天皇から皇太子への譲位を受け、家久が町田勝兵衛久幸を京都へ遣わして祝賀を奉じたことを記す。
七月十日 / 冊子 44~45頁
島津家久の掟として鹿屋壱岐守が示した条書。夜間の門限と門番の厳守、夜間外出時の町田勝兵衛発給の切手、大酒・見物の禁止、喧嘩口論の禁止、普請その他の公役を怠る者の拘束、無断外出の禁止を定める。
正月十四日 / 冊子 209頁
江戸へ年寄衆を交代で詰めさせることとし、当年は町田勝兵衛尉を派遣するので、諸事を指導してほしいと本多正信へ頼んだ書状案。
正月二日 / 冊子 214頁
江戸滞在中は酒と女を慎み、屋形の番・普請を怠らず、客人を待たせず応対し、みだりに見物や物詣でをせず、諸事を町田勝兵衛尉と相談し、夜間の外出と下々の喧嘩・口論を禁ずるよう定めた覚書。
年月日未詳 / 冊子 666-667頁
日州飫肥の稲津掃部が佐土原城を攻めたという知らせを受け、御上様・宰相殿は八代へ直行し、義弘は佐土原を見舞った。佐土原では島津源七郎が出迎え、八代で一宿した夜には宿の近くの放火者を討ち取った。語り手は父と暇を賜って真幸海道を進み、義弘は浜之市へ向かい、義久に対面するため出立し、帖佐へ着いたと記す。語り手らも帖佐へ到着し、村岡掃部左衛門の客屋にしばらく滞在した後、家作屋敷を与えられた。
元和二年八月廿六日 / 冊子 632~633頁
河道の変化や岸崩れによって田畠が川成となった場合の残地の算定と付分、以前の検地後にさらに流失した土地の再検について定める。また、門屋敷周辺や山野内の仕明田畠は領主の裁量とし、開地や川端などにある田畠の扱いも規定した、町田久幸ら三名連署の条書。
入天正八年二月吉日 / 冊子 649~650頁
薩摩国牛屎院小木原名一町の内、年々不作の二反を含む田地や堀町など、合計一町二反二十を内田主馬首へ示した坪付。確定版年月日は二月吉日だが、本文年紀は天正八年三月吉日と読める。
慶長十六年九月十日 / 冊子 342~343頁
慶長十六年九月十日、琉球の各島から毎年納めるべき上布・下布・芭蕉布・綿・莚・皮などの品目と数量を列記し、樺山久高らが連署した納物目録。
慶長十六年九月十九日 / 冊子 344~345頁
慶長十六年九月十九日、樺山久高らが連署した琉球統制の条目。唐江交易、由緒不明者・女性・私的従属、寺家、琉球人売買、日本人との渡海、京判外の商船、法令違反者の処罰などを定める。
年月日未詳 / 冊子 666頁
森江の船で御上様の乗物を焼き捨てていたため、細島に上陸して出立する際、代わりの乗物に事欠いた。語り手の母が持参した乗物を借りることとなったが、父は自家の女房の駕籠を御上様に差し上げるのは畏れ多いとためらった。細島にほかの乗物がないため供用し、御上様は「日州八代」まで使用した。八代に迎えの乗物が到着すると母の乗物は返され、母には細島から八代まで公儀より馬が与えられた。日州は日向国で、八代は現在の宮崎県国富町八代地区方面とみられる。
11月23日 / 冊子 406頁/原整理番号 369
『平田宗直諸浦加子相立候曳付留帳』に対応する十一月二十三日の浦水手送状。勝兵衛尉・正左衛門・休七・主取太兵衛尉・五郎左衛門以下の十四人を列記し、秋目から立てた浦水手として受け取るよう、永山覚兵衛尉・三原源右衛門へ命ずる。
年月日未詳 / 冊子 149頁/原整理番号 91
日付を記さない「二日之壱番手組」。家久様、北郷掃部助、町田勝兵衛尉、村田刑部少輔らの射手を列記し、検見を島津十郎左衛門尉、喚次を島津六郎兵衛尉とする。
11月27日 / 冊子 425~426頁/原整理番号 396の4
十一月二十七日、串木野から立てた水手五十五人を列記し、三原源右衛門・永山覚右衛門へ受取りを命ずる。助兵衛尉・吉兵衛・惣右衛門から作左衛門・孫市までの五十五記載が本文の合計と一致する。助七・太郎作・次兵衛尉など同名が重複する箇所も名簿上の別記として保持し、推定で統合しない。
本文末年紀:八月十五日 補記(正文と別層):(文治五年) / 冊子 648頁/原整理番号 〇一/整理ID TMP-OF-P04-D001
翌日の「こふのこなた」の「ちむのはら」に御すくすべき旨を記す。 あかうそ三郎に言及し、「ひか事すな」「らうせきすな」と指示して、連れた者への周知を求める。 庄司次郎と「けふのひくわん」、当日の狼藉者への沙汰と翌日の宿について述べる。
元禄十四年三月二十八日 / 冊子 276頁/整理ID 922
北郷久嘉が島津綱貴の命を受け、薩摩府を出発して江戸へ赴き、芝御屋敷で番頭を勤めた記事。大嶺勝兵衛安明が随行した。
年月日未詳 / 冊子 5頁
島津忠恒が町田勝兵衛尉久幸を使者として豊臣秀頼へ年頭の祝儀を進上し、秀頼から黒印の返書を受けたことを記す譜記事。進上品は太刀一腰・馬代銀子十枚・段子十巻で、使者の町田久幸は秀頼に対面し、返礼として太刀一腰・馬代銀子十枚・段子五巻を受けた。