西俣七兵衛証状
慶長四年四月卅日 / 冊子 377~378頁
西俣七兵衛が、幸侃の縁者らを東福寺へ見舞った際の交際と談話、庄内へ置いた者への書状の伝達、幸侃家中の桃山蔵允へ刀を譲った経緯を証言する。処罰に及んでも偽りは申さないとして、後日の証拠となるよう条々を書き上げる。
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慶長四年四月卅日 / 冊子 377~378頁
西俣七兵衛が、幸侃の縁者らを東福寺へ見舞った際の交際と談話、庄内へ置いた者への書状の伝達、幸侃家中の桃山蔵允へ刀を譲った経緯を証言する。処罰に及んでも偽りは申さないとして、後日の証拠となるよう条々を書き上げる。
四月朔日 / 冊子 160頁
市来神川の志摩助の子孫正兵衛が所持する忠恒袖判の過書について、過去の判物改めで記録方へ提出後返却されたものだと確認し、浦役児玉市左衛門へ渡して疎略なく丁重に保管するよう命じた船奉行二名の連署達。
年月日未詳 / 冊子 687-689頁
井尻弥五助が徳川家康への書状を携えて江戸へ向かい、水口で厳しい改めを受けて拘禁された後、釈放されて伏見攻めや関ヶ原退却に供奉した経緯を記す。住吉で義弘が切腹を決意すると供衆も殉死を覚悟したが、大坂の夫人方が無事との報で中止し、仙秀坊が人質退去の手形を得て一同は帰国した。
正平十二年四月十五日 / 冊子 3~4頁
島津氏久が西俣兵衛尉に、大隅国の反抗勢力を退治するため出陣するよう命じた書下。
永和四年二月廿二日 / 冊子 115~116頁
武光心賢が新兵衛尉兼我に、薩摩国高城郡本方得名の惣領職・弁済使職、宮里郷の田地園、薩摩郡別符前田地四段などの所領・所職を証文とともに譲り、永代知行と女子・後家分の後日の継承を定めた譲状。
応永八年十月九日 / 冊子 203頁
島津元久が野口太郎兵衛尉へ、大隅国姫木中城村一所を野口氏重代相伝の居屋敷として宛行い、後日の証拠とした宛行状。
応永十二年二月十五日 / 冊子 217頁
島津元久が野口太郎兵衛尉へ、大隅国守護所本職について、先例を守って沙汰するよう命じた書下。
八月廿二日 / 冊子 535頁
島津忠昌が菱刈左兵衛尉に、久しく音信が途絶えていることを惜しみ、以前どおりの関係を望むと伝えた。伊地知周防守への返答を明確にすれば今後も厚意を忘れないと述べる。
二月廿五日 / 冊子 744~745頁
島津勝久が肝付伴兵衛兼屋に、先に申した女性を船で送る件について、船の手配を急ぎ、早く迎え入れるよう求めた書状。
天正五年二月吉日 / 冊子 511~512頁
薩摩国谷山郡の浮免地として、谷山紀伊介先の烏帽子田一反を原口甚兵衛に示した坪付。
慶長十九年七月廿三日 / 冊子 649頁
慶長十九年七月二十三日、浮免高三石一斗余を小嶋吉兵衛へ宛行った知行目録。三原重種・伊勢兵部少輔・比志島国貞・町田久幸が連署し、編年位置を誤った文書群に含まれる。
(天正19年)閏正月10日 / 冊子 497頁
島津義久が安宅三郎兵衛尉へ、在京中に龍山から受けた厚意を謝し、大坂出船後に日向細島へ着岸したものの、寒風と虫気に苦しみ帰宅が遅れたと伝える。依頼された歌人名を書き送り、柳介を介した紅糸一斤にも触れる、帰国海路・病気・文芸依頼を併せた書状案。
(天正19年)10月21日(正カ) / 冊子 497頁
島津義久が安宅三郎兵衛尉へ、在洛中の懇切な厚遇を謝し、順風を得られず途中に滞留した末、十四日にようやく帰着したと報告する。便がなく無音となったことを詫び、今後は島津義弘へいっそうの扶助を加えるよう頼んだ書状。
天正20年12月28日 / 冊子 619頁
薩州郡答院のうち、黒木・一かへの園門など七反五畝余を指宿左近兵衛尉へ宛行った領知目録。 村田先の土地として地名・面積を記し、郡答院における家臣知行の具体的な配分を確認できる。
(文禄2年)2月19日 / 冊子 674頁
公儀の使者として奥地の陣へ赴く薩摩衆を命じたところ、猿渡掃部兵衛尉が異議なく引き受けたことを「無比類」と賞する。 無事に帰国した際には、この軍忠に対して知行を宛て行うと島津義弘・久保が連署して約束した。危険な使者任務と恩賞を直結させた宛行状。
文禄3年4月 / 冊子 774頁
「本文書は二〇一号文書と同文につき省略」と注記され、本文が再録されていない島津忠恒書状の案文。宛先は川上四郎兵衛である。 具体的な用件の確認にはNo.201を参照する必要がある。
十月二日 / 冊子 146頁
白尾幸孝が白尾五兵衛尉へ、唐島の五日崎に在番して銀子が尽きたため援助を求めた書状。未完成の手火矢、長刀、身の回りの品の手配を頼み、留守宅の家族や奉公人の無事を尋ね、年明けには帰朝するつもりだと伝える。
年月日未詳 / 冊子 146~147頁
白尾幸孝が白尾五兵衛尉へ、便のたびに少しずつ送ってほしい品々を列挙した書状。手習紙、墨、筆、布、上下の帯、帷子、櫛、切干大根、芋の茎、銀子、干し魚など、在番生活に必要な衣料・文具・食料を具体的に頼んでいる。
十一月十九日 / 冊子 149~150頁
白尾幸孝が白尾五兵衛尉へ、銀子の袋を藤介に持たせた件を調べていると伝え、本人が国元へ戻っても当年分の扶持や掛銭などをすぐ渡さず、自身の帰朝後に清算するよう求めた書状。家内の者や七郎にも事情を知らせ、上方の家族の無事と帰朝を待つよう頼む。
(慶長三年)三月七日 / 冊子 198~199頁
新納為舟忠元が貴島弥兵衛尉へ、長い在洛の労をねぎらい、前年冬に忠元が薩摩へ在国していたため無音になったことを詫びた書状。黒木廣顔済に関わる件について、留守中でも伊東平右衛門尉と相談し、次郎兵衛尉・弥太右衛門尉の内談がまとまり次第、武庫へ内々に申し上げて納得を得たいと伝える。追而書では、病気の次郎兵衛尉を隈本勝右衛門尉が親身に世話したと聞いたため、十分に礼を述べるよう依頼する。
慶長三年十二月八日 / 冊子 304頁
瀬戸口重位が慶長三年十二月八日付で児玉四郎兵衛尉へ出した手次状。児玉の懇望に応じて自流の内容を残らず伝授したことを証し、伝授内容は他見・他言を禁じる。同流を望む者があれば誓詞を取ったうえで許可すること、失念した点は尋ねるよう求めている。
慶長十四年八月十六日 / 冊子 391頁
大山稲介が町田勝兵衛尉に、八歳で島津久保に従って朝鮮へ渡り、二十歳で帰朝した経歴を述べる。庄内山田城攻めでは長寿院の組下で普請と仕寄に従事し、志和知・大手口の垂れの一つを焼き落としたこと、山の口では椎之大蔵・谷山次郎右衛門尉・伊地知民部少輔らと籠り合い、戦う出家を突き伏せて奉公した戦功を覚書として報告する。
(慶長四年)八月五日 / 冊子 419頁
五島玄雅が河内四郎兵衛に、帰国以来音信を欠いたことを詫び、伊集院への折檻が現在どのように命じられているかを尋ねる。小攝様から時機を見て知らせるとの内意を受けて待っていたが連絡がなく、油断しているように見られるのを避けるため飛脚を立てたとして、事情の披露を頼む。
慶長四年八月十日 / 冊子 426頁
新納旅庵長住・本田源右衛門尉・河上四郎兵衛が、惟新の用のため材木屋与兵衛から銀子二貫目を借用した証文である。一貫目につき一か月四十匁の利息を付し、本利とも年内に返済すると定める。天下一統の徳政があっても他の債務と混同せず返済し、連署三人のうち一人だけになっても弁済することを約す。
慶長五年四月十九日 / 冊子 426頁
新納旅庵長住が材木屋与兵衛に提出した借用書の裏書である。慶長四年八月に借りた本銀二貫目について、同年八月から翌年三月までの利息を計算し、慶長五年四月に合計二貫四百四十三匁九分を済ませたと記す。さらに五月から銀子一貫五百目を借用し、一貫目につき一か月三十目の利息とする条件を確認する。
(慶長四年)八月十八日 / 冊子 427~428頁
平田宗次・児玉実相・新納忠陸・吉田清家が前原平兵衛らに、前日にわざわざ訪問した誠意へ謝す。急いで帰ったため十分に話を聞けなかったことを惜しみ、相手方で何か新しい動きがあれば少しでも注進してほしいと頼み、詳しくは対面のうえ申し述べるとする連署状である。
(慶長五年)十月九日 / 冊子 589-590頁
島津義弘(惟新)が北郷小兵衛尉へ、難所を越えて国元まで供奉した働きを神妙の至りと賞し、刀一腰「長盛」を与える。
慶長五年十月十日 / 冊子 594頁
島津義弘(惟新)が桂太郎兵衛尉へ、関ヶ原合戦で奮戦し、伊勢・近江・伊賀・大和・河内・和泉を経る帰国路でも片時も側を離れず奉公したことを賞し、知行二十石を与える。
十月十九日 / 冊子 598頁
本文はNo.1247と同文のため省略されている。No.1247では黒田如水(円清)が伊那掃部・長倉三郎兵衛へ、関ヶ原後に豊後守が徳川方への忠節を内々に決して宮崎へ赴いたと伝える。島津氏が徳川家康から深い遺恨を受けているとの風聞を踏まえ、相手方も徳川方へ忠節を示す意向なら近隣として相談を承りたいと申し入れる。
(慶長五年)十月十九日 / 冊子 599頁
本文はNo.1247と同文のため省略されている。No.1247では黒田如水(円清)が伊那掃部・長倉三郎兵衛へ、関ヶ原後に豊後守が徳川方への忠節を内々に決して宮崎へ赴いたと伝える。島津氏が徳川家康から深い遺恨を受けているとの風聞を踏まえ、相手方も徳川方へ忠節を示す意向なら近隣として相談を承りたいと申し入れる。
十月十九日 / 冊子 599頁
黒田如水(円清)が伊那掃部・長倉三郎兵衛へ、関ヶ原後に豊後守が徳川方への忠節を内々に決して宮崎へ赴いたと伝える。島津氏が徳川家康から深い遺恨を受けているとの風聞を踏まえ、相手方も徳川方へ忠節を示す意向なら、近隣として諸事の相談を承りたいと申し入れる。
(慶長五年)十一月四日 / 冊子 609-610頁
島津忠恒(家久)が寺沢志摩守・山口勘兵衛尉へ、九月二十八日付の両名の書状を十一月四日に受領したと伝える。上方の不慮の一乱や兵の動員について遠国ゆえ事前に相談を受けていないと説明し、両名の島津家への厚意に謝して今後も支援を求める。
三月二日 / 冊子 806頁
島津義弘が山口直友へ、和久甚兵衛尉を介した返書が遅れた事情を説明する。図書頭忠長の上洛後に相互の合意を得て誓紙を交換するよう求め、今後も疎意なく取り計らうよう依頼した書状案。
(慶長七年)十月十八日 / 冊子 853頁
島津義弘が和久甚兵衛尉へ、忠恒が九月二十六日に和久の手配した船で細島を出航したとの報告を喜ぶ。すでに上方へ着いた頃として、幕府との交渉結果を尋ね、島津家の事情に通じる和久へ引き続き取成しを頼んだ書状案。
(慶長九年)七月四日 / 冊子 938頁
伊勢貞昌が田村新兵衛へ、伏見への使いで返事が遅れた事情と面談の手配を伝える。国元から届いた銀で、福島正則から借りた二百貫目の残額百貫目を返済するため、受け取りを依頼した。
(慶長九年)七月八日 / 冊子 938-939頁
伊勢貞昌が田村新兵衛へ、公方への諸大名の進上物について本多正純に確認し、国持衆は銀子に帷子を添えるとの指示を忠恒らへ伝えた経緯を報じる。談合内容の変更を土井利勝の書状でも確かめ、返答を求めた。
(慶長十年)四月三日 / 冊子 12頁
島津義弘(惟新)が東郷藤兵衛尉へ、島津忠恒に供奉して辛労したことをねぎらい、龍伯の意向により肩衝茶入の蓋二つを作らせるので調達を頼むと伝えた書状。茶湯への参加や河野伊右衛門尉の辛労にも触れている。
(慶長十年)七月廿一日 / 冊子 25頁
山口直友が甚兵衛に、本多上野から島津少将宛ての書状を送るので確実に届け、返書を受け取って持参するよう命じた書状。すでに出船していれば安全な便で届け、鎌田政近へ渡してもよいとし、呉国向けの法度に関する書状らしいと伝える。
慶長十一年十二月廿二日 / 冊子 102頁
慶長十一年十二月二十二日、新納忠元が大口の大田市兵衛尉に与えた知行坪付。篠原千束町・合田島の田地について、面積、分米、高、納入分および永代買得分を列記する。
慶長十二年四月朔日 / 冊子 110頁
慶長十二年四月一日、新納忠元が与えた加増坪付。複数の田地について所在地、面積、分米と旧担当者を列記し、新納利兵衛尉に宛てる。
慶長十三年八月八日 / 冊子 181頁
慶長十三年八月八日、新納武蔵入道為舟が薩州大口・羽月・山野三か所の十七筆、合計田畠屋敷九反八畝十歩・分米十石六斗三升余の知行坪を柳田吉兵衛へ宛行った坪付。
慶長十三年十二月廿四日 / 冊子 199頁
慶長十三年十二月二十四日、日向国大崎今田村内の浮免三十石を、渡海時の軍役と高麗退治での働きに対する加増として児玉四郎兵衛尉へ配分した連署知行目録。
十月十三日 / 冊子 299~300頁
十月十三日、山口直友が河上六郎兵衛に、佐土原をめぐる訴訟は本多上野介らの取り成しでほぼ決着し、翌春に右馬頭が領地を受け取る予定だと報じた書状。それまで在城衆と地下人の争いを防ぎ、又四郎に治安維持を命じるよう求める。
(慶長十七年)六月廿二日 / 冊子 365頁
慶長十七年六月二十二日、島津義弘が相良左兵衛佐へ、上洛後の無音を詫び、東国の平穏と大名衆の屋形普請、今後の下向予定などを伝えた書状。
(慶長十七年)七月廿八日 / 冊子 369頁
慶長十七年七月二十八日、島津義弘が相良左兵衛佐へ、江戸での仕合いと駿府参上を喜び、用件が早く相済み下国できるよう願った書状。
(慶長十七年)八月四日 / 冊子 371頁
慶長十七年八月四日、島津義弘が相良左兵衛佐へ、上方の命令が明らかになり無事帰宅できたことを喜び、使者へ委細を託した書状。
(慶長十七年)八月六日 / 冊子 371頁
慶長十七年八月六日、島津義弘が相良左兵衛佐へ、先度の申し入れが成就し、江戸・駿府での用務を終えて下向できたことを祝した書状。
(慶長十七年)八月八日 / 冊子 372~373頁
慶長十七年八月八日、島津義弘が相良左兵衛佐へ、二度の使札を受け、無事帰国したことを喜び、両御所への勤仕と使者への返答を伝えた書状。
(慶長十七年)八月廿七日 / 冊子 377頁
慶長十七年八月二十七日、島津義弘が相良左兵衛佐へ、在所の仕合いが整ったことを喜び、内蔵助の異動と上方の意向、伊勢兵部少輔への取次を伝えた書状。
(慶長十七年)九月十日 / 冊子 378~379頁
慶長十七年九月十日、島津義弘が相良左兵衛佐へ、下向後の見廻りが遅れたことを詫び、内蔵助の急な上洛、馬の調達・乗用と関係者の取次を述べた書状。