北郷義久譜
年月日未詳 / 冊子 101頁
永和二年冬、相良氏が伊東氏らと結んで守護領へ侵入し、守護命に背いた六十三人を旗下に集め、本原城を本営として都城へ迫った記事。北郷義久は平田新左衛門重親入道玄心・工藤蔵人ら勇士七十余騎と都城に籠城して防御し、島津氏久は救援のため自ら志布志の天ヶ峯へ出陣した。
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年月日未詳 / 冊子 101頁
永和二年冬、相良氏が伊東氏らと結んで守護領へ侵入し、守護命に背いた六十三人を旗下に集め、本原城を本営として都城へ迫った記事。北郷義久は平田新左衛門重親入道玄心・工藤蔵人ら勇士七十余騎と都城に籠城して防御し、島津氏久は救援のため自ら志布志の天ヶ峯へ出陣した。
応永二年二月廿九日 / 冊子 158~159頁
応永二年二月廿九日の犬追物について、伊東氏・島津一族・湯地氏・野村氏・鹿野屋氏などの射手を左右・組別に配した手組一覧。
応永二年二月廿九日 / 冊子 159頁
川上志摩家に伝わる応永二年二月廿九日の犬追物手組で、伊東氏・島津一族・稲津氏・野村氏らを組別に配置し、各人の担当数を記す。
年月日未詳 / 冊子 208頁
島津恕翁譜の記事として、山東・海江田方面の戦況を背景に、加江田本城の修築と阿多加賀守の地頭補任を記す。南面・細江などへ守備兵を配置し、伊東氏らの進出に備えた後、城郭と周辺交通路をめぐる攻防が続いた経過を述べ、領地防衛と在地支配を結び付ける。
年月日未詳 / 冊子 261~263頁
応永十九年、比志島久範に旧領油須木村を領させた記事を起点に、比志島範平以来の系譜と所領を考証する。続いて伊東氏の侵攻に対する鹿屋城・高城・穆佐方面の攻防を記し、肝付・佐多・高城・山田諸氏ら島津方武将の戦功を列挙する。戦後の恩賞と所領確認までを収録する国史記事。
年月日未詳 / 冊子 266~267頁
薩摩・大隅二州で凶徒が蜂起し、伊東氏が山東方面へ侵攻した際の合戦を記す島津久豊譜。北郷・樺山・和田・高木・佐多・肝付・蒲生諸氏が各城で戦い、多数の死傷者を出した。久豊方は救援軍を送り、退却する伊東軍を追撃して拠点を回復した。国人連合の防衛と反攻を示す記事。
年月日未詳 / 冊子 324~325頁
応永三十年春、幕府の伊東氏征討命令を受けた島津久豊・貴久方の戦役を記す。平田重宗・伊地知久安らが加江田城・油津方面へ進軍し、陸海から攻城したが、兵站と輸送に苦しんで撤退し、軍勢を再編して再進軍を試みた経過を追う。
年月日未詳 / 冊子 361頁
薩州家用久一流の系図記事で、用久は初め好久、中頃に持久と称し、薩摩守で、母は伊東氏の女、九代太守島津久豊の二男であることを記す。
年月日未詳 / 冊子 432頁
島津忠国が新納忠続を日向国飫肥へ置いて伊東氏に備えさせ、仁院領を従前どおりとしたことや、季久の帖佐領有・平山城をめぐる動向などを記す『島津国史』の記事。
(文明二年)五月廿三日 / 冊子 470~471頁
島津立久が本田殿に、大友方の豊前国進発を伝え、国境へ出て情勢を見極め、伊東氏らの動向にも備えて相談・注進するよう命じた書状。
年月日未詳 / 冊子 471~472頁
文明年間の島津忠昌をめぐる政治・軍事情勢をまとめた国史記事。龍雲寺への禁牌発給、伊東氏との対立、大友氏方への軍事対応、五代友平・行頼ら家臣の動向を記し、さらに琉球渡海船の扱いをめぐる幕府との交渉を通じて、領国内統制と対外交通の課題を示す。
(文明三年)十月十五日 / 冊子 473頁
浦上則宗が島津氏に、御屋形の命令を承知して忠節を尽くすこと、伊東氏を含む国事への対応を先例に従って進めることなどを求めた書状。
(文明十八年)十二月五日 / 冊子 538頁
島津武久が本田殿に、使者への返答を喜び、鳥取播磨介から聞いた事情を了承したと伝えた。伊東氏の飫肥出張に対し庄内・寄郡方面へ進発を命じており、疑念なく協力して軍功を励むよう求める。
年月日未詳 / 冊子 631~632頁
樺山長久一族が外敵の脅威と所領問題を避けるため、北原・伊東氏の領域へ移住した経緯を記す。樺山宗栄・島津忠兼らとの関係、野野三谷などで認められた居住・知行、旧領と新所領の処理を追い、主家・地域を移った一族の生存と所領継承を示す。
(大永五年)六月十六日 / 冊子 652頁
島津忠朝が北原伊与守に、伊東氏を中心とする党派の動きと国中の不安を述べ、従来どおり忠節を尽くすよう求めた書状。
年月日未詳 / 冊子 688頁
享禄元年、伊東氏の攻撃を受けた忠勝を北郷忠相らが援け、新納氏を破って梅北城まで追撃したこと、忠勝の戦功と北郷忠相への恩賞を記す。
年月日未詳 / 冊子 692~693頁
新納忠勝と伊東氏の抗争を記す『庄内平治記』記事。伊東勢が冷水・小鷹原方面に伏兵を置いたのに対し、新納方の要請を受けた北郷忠相が援軍を派遣して合流し、黒坂・横尾を経て梅北城戸口まで追撃した。津介忠次・池袋肥後らの戦死や両軍の損害、北郷方の戦功を具体的に伝える。
年月日未詳 / 冊子 733頁
伊東氏が領有した外城を北郷忠相方が攻め、松山・梅北へ兵を出して各所を放火し、敵方の拠点を圧迫した経緯を記す。
年月日未詳 / 冊子 787~788頁
天文九年頃、伊東氏に背いた長倉上総介・能登守兄弟が島津忠広へ援軍を求めた事件を記す。北郷方を含む諸勢の出陣、清水城周辺での攻防、双方の戦死者と部隊の退却を追い、伊東領内の内紛が島津・北郷勢の軍事介入へ発展した経過を示す。
年月日未詳 / 冊子 787~788頁
伊東氏と長倉上総介・能登守兄弟の争いに際し、島津忠広方が福島・志布志などの諸勢を集めて出陣した経過を記す覚書。清嶽・鬼山周辺での兵配置、城攻め、戦死者、援軍到着、撤収までを追い、伊東方支援に動員された大隅・日向国境軍の実態を示す。
年月日未詳 / 冊子 794~795頁
北原氏と伊東氏が高城攻略を企てたため、北郷忠相方が勝岡・梶山・山之口へ軍を展開した合戦記事。北郷久利ら諸将の配置、城兵の反撃、敵勢との突撃戦、双方の討死者を記し、高城を守るため複数の口・城を連動させた防衛戦と軍功を詳述する。
年月日未詳 / 冊子 862頁
天文十七年正月廿四日、豊後大友氏の使者真光寺が豊州島津氏と伊東氏の和睦を仲介したが、条件が折り合わず再び戦いとなった経過を記す。
年月日未詳 / 冊子 874~875頁
『島津国史』が、天文十八年の島津忠親・北郷忠相と伊東氏の対立を中心に記す。伊集院忠朗・肝付兼演ら諸氏の帰属、清水城・加治木城周辺の出兵と戦闘、使者を介した和解と再離反を追い、領主間の同盟が変化する過程をまとめる。
年月日未詳 / 冊子 900頁
日向国の伊東氏と島津方の情勢を背景に、島津貴久が大友宗麟へ書状を送り、援助や周旋を求めた経過を記す。
年月日未詳 / 冊子 85~86頁
肝付兼続が島津氏への遺恨から伊東氏と結んで廻城を奪い、島津貴久・義久らが包囲した経過を記す。七月十二日の竹原山合戦で忠将と町田忠林以下多数が戦死したのち島津方が反撃し、飫肥にいた義弘を呼び戻した。
年月日未詳 / 冊子 121頁
貴久の飯野在陣と三山での勝利後、北原兼親の伯父が吉松城へ相良兵を招き、伊東氏と通じて島津方番兵を討とうとした陰謀が露見した経過を記す。兼親の勢力が衰え、相良氏も領地を狙ったため、兼親を上神殿村へ移し、真幸院を島津家直轄とした。
(永禄七年)九月日 / 冊子 126(本文省略、後出同文参照)頁
豊前方面の和睦後、田舎境への大友氏の働き掛けを求めた島津氏老臣の書状案。相良氏が島津家に損害を与えたとして、是正されなければ伊東氏と結んで対抗すると警告し、土持境への出兵または伊東氏との和与調整を要請する。同文の後出文書を参照した。
(永禄七年)九月 日 / 冊子 135~136頁
豊前方面の和睦後、田舎境への大友氏の支援を求めた島津氏老臣の書状案。相良氏が島津家へ損害を与えたとして、是正されなければ伊東氏と結んで対抗するとし、土持境への出兵または伊東氏との和与調整を要請する。No.262の省略本文に対応する。
(永禄七年)十一月廿七日 / 冊子 136~137頁
村田経定・川上久朗が日向国飫肥境の和談について、使者三人との折衝内容を詳しく報告した連署状。末吉・城郭・伊東氏の守護称号や旧判物をめぐる異論を整理し、大友・島津両家の合意と上意に基づく無事成立を求める。
永禄十年四月廿日 / 冊子 165頁
最上宗檜が長期滞在への謝意を述べ、四月十七日に薩摩へ着いたこと、相手方の調略と尽力を終始報告したことを伝えた書状。近日中に使僧を下す予定とし、真幸境目で近年伊東氏に押領された地域の書付を別紙で送り、遠方の飫肥境については後日報告するとする。
永禄十一年四月(異本六月八日) / 冊子 197頁
永禄十一年、島津忠親が飫肥を伊東氏へ、福島を肝付氏へ渡し、子の朝久とともに庄内都城へ退いて以後同地に居住したことを記す。本文には月を四月とする記載と六月八日とする異本注がある。
年月日未詳 / 冊子 308頁
諸国の大名・小名が島津義久へ出仕するなか、伊地知重興と肝付省釣は伊東氏・相良氏と結んで敵対したと述べる。伊東方も天罰を受けながら、島津義弘の居城飯野を後方に置き、加久藤城を攻めようとした経緯を記す短い導入記事。
元亀二年十一月廿日 / 冊子 310頁
肝付省釣の子を三郎兼包とし、省釣が島津貴久の姉婿であったとの伝承を記す。肝付三郎が伊東氏と縁組して百余艘を集め、鹿児島海上から春日口を射撃し、桜島・脇元・瀧水を攻めて瀧水で合戦になったことを簡潔に述べる。
天正二年 / 冊子 343頁
天正二年、肝付氏が伊東氏と結び、伊東軍が下大隅へ侵入したため、島津義久・義弘が北郷時久へ盟書を与え、さらに島津家老らの連署誓紙も送ったことを記す。
天正二年九月十日 / 冊子 343頁
島津義久が北郷時久に対し、伊東氏との戦について一味して親密に協力し、島津方と北郷方の庄内・肝付をめぐって讒言があれば双方へ知らせて腹蔵なく説明すると誓う起請文。違反時には新田八幡・諏訪上下大明神などの神罰を受けるとする。
天正二年九月十日 / 冊子 344頁
島津氏老臣四名が北郷時久に対し、伊東氏との戦で一味して協力し、談合内容を秘密にし、庄内・肝付をめぐる讒言があれば双方へ腹蔵なく説明すると誓う連署起請文。
天正二年九月十一日 / 冊子 344~345頁
島津忠平義弘が北郷時久に対し、伊東氏との戦で一味して協力し、談合内容を秘密にし、庄内・肝付をめぐる讒言があれば左右双方へ腹蔵なく説明すると誓う起請文。
天正三年正月廿八日 / 冊子 395頁
天正三年正月二十八日、庄内からの捷書により、伊東氏が兵船に軍勢を乗せ福島・志布志の岸へ着け、島津領侵攻を図っていると知った。上陸地・攻撃先が不明なため、下大隅・新城・禰寝以下の諸所へ警戒を怠らないよう命じた。
天正四年八月十九日 / 冊子 500頁
天正四年八月十九日、島津方が高原城を攻め取った後、上原長門守尚近を地頭とし、衆中三百五十人を付けて移住させたことを記す。後に日向一国領有時には尚近を飫肥地頭としたが、豊臣秀吉の下向時に飫肥城は伊東氏へ与えられた。
天正六年秋~十一月二十八日 / 冊子 560頁
天正六年秋、大友宗麟・義統が伊東氏を日向へ復帰させようと六か国の兵を率い、高城を包囲した。城代山田有信が五百余人で守る中、島津義久が三万の兵で大友軍を破り、父子を豊後へ敗走させた。義久は十一月二十八日に鹿児島へ帰ったとする略記事。
(天正六年)十二月廿一日 / 冊子 560頁
天草鎮尚が喜入季久へ、日向での防戦に大勝し数か所の城を領有したと聞いて祝意を述べる。その喜びを島津義久へ披露するよう求め、島津方の賢略があれば伊東氏の再起は難しいだろうとして、日向平定の祝いを改めて申し入れると伝えた。
天正六年十一月十二日 / 冊子 626頁
大友氏が伊東氏を日向へ戻すため八万余の軍を出し、高城を包囲した際の島津方の兵力構成を記す。義久以下の兄弟・一門十三人、一所衆八人、三州の地頭七十五人、文内地頭五十七人など総勢八万二千余とし、十一月十二日に大友陣を崩して梓山まで追撃し、耳川までに六万余を討ったとする。秋月・赤星・星野氏には事前の申し入れにより助命して本国へ送った。
天正八年閏二月中旬 / 冊子 648頁
差出人不詳の書状案。長く音信が途絶えた理由を海陸遠隔のためとし、島津義久が元亀三年の根占・肝付服属、天正四年の高原城攻略、伊東氏の没落を経て三州を統一した経緯を述べる。さらに大友宗麟・義統が伊東氏復帰を図って高城を包囲したが、義弘を先鋒とする島津軍が大勝し家久を救ったとして、九州諸国が義久の仁化を求める情勢を伝える。
(天正15年)5月21日 / 冊子 336頁
島津義久(龍伯)が鹿児島老中へ、飫肥を伊東氏へ引き渡すよう度々命じたのに、なお処理されていないことを厳しく指摘する。遅延に細川幽斎・石田治部少輔が強く立腹し、飫肥で軍勢が集結したとの報告もあるため、長門父子の立場も危ういと警告。これ以上難渋すれば島津家のためにならないとして、長門入道へ即時引き渡しを命じるよう求めた書状。
(天正16年)8月12日 / 冊子 407~408頁
日向国南郷が伊東氏へ与えられたと聞き、同地の浦は薩摩・大隅間の上下交通と物資輸送に不可欠で、他家領になれば大きな支障が出ると義久・義弘が訴える。 知行への執着ではなく、国役や京都での奉公を続けるため港の利用を確保したいとして、細川幽斎・石田三成らに所領調整を懇願した連署状。
年月日未詳 / 冊子 377頁
島津家久が下国する際、竹内兵部を飫肥へ遣わし、庄内を近日中に退治する意向を伊東氏へ伝えたことを記す。これに対する伊東氏の返書が次の文書に収められるとする。
年月日未詳 / 冊子 581頁
関ヶ原合戦後、伊東氏家臣の稲津掃部が兵を起こして宮崎城を陥れ、さらに須木城を攻めようとしたため、新納久宣が窮地を救う兵を率いて現地へ赴き、防備を増強した結果、稲津勢を敗走させたことを記す。
年月日未詳 / 冊子 597頁
関ヶ原で西軍が敗れると、伊東氏は国元の混乱に乗じ、九月朔日の未明に高橋氏領の宮崎城を奪い、佐土原城も攻めた。さらに島津領境の穆佐・倉岡方面へ迫ったため、島津忠恒(家久)は自ら出陣しようとしたが、龍伯こと島津義久が強く制止し、惟新こと島津義弘もこれに同意して書状を与えた。
年月日未詳 / 冊子 598頁
関ヶ原合戦後、伊東氏が高橋氏領の宮崎城を奪った際、長倉三郎兵衛尉が北郷忠能の家臣・小杉丹後守へ書状を送り、島津家は徳川家康の恨みを受けているので北郷家が徳川方へ忠節を示すよう勧めた。忠能は応じず、その書状を鹿児島へ提出した。
年月日未詳 / 冊子 911-912頁
島津家久譜は、薩摩・大隅・日向が島津氏の旧領であること、伊東氏による佐土原占拠、豊臣政権下の領地変動を述べる。佐土原を領した島津豊久が関ヶ原で戦死したため、島津家が新納旅庵・山口直友を通じて同地回復を幕府へ請願した経緯を記す。