島津久慶外二名連署申渡書
寛永十一年十一月十四日 / 冊子 458頁
妙蓮様の位牌所として建立された遠寿寺が後年破損しないよう、必要な物資を城内から調達して維持することを福屋五郎兵衛へ申し渡した文書。
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『旧記雑録』前編・後編・附録10冊と追録1~8(暫定版)、『旧記雑録拾遺 伊地知季安著作史料集1~9』『家わけ1』(暫定版)、関連史料(外伝)『島津世禄記』の46,754件を横断検索できます。検索範囲は史料群・巻を組み合わせて選べます。結果は50件ずつ表示します。
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寛永十一年十一月十四日 / 冊子 458頁
妙蓮様の位牌所として建立された遠寿寺が後年破損しないよう、必要な物資を城内から調達して維持することを福屋五郎兵衛へ申し渡した文書。
知季安覚書月日 / 冊子 307~308頁/原整理番号 3
山口五郎兵衛が家系と相続について申し述べた口上覚。祖先山口直行以来の家筋、相続や養子の事情をたどり、家督・家譜に関する願いがあることを述べ、関係文書を踏まえた裁許を求める。
目録年月日記載なし / 冊子 508~509頁/原整理番号 46
寛文六年八月十七日、御老中から喜入五郎兵衛が私宅へ来訪した記事を記す。
(慶長十年)十一月五日 / 冊子 37頁
小林家孝が島津忠恒に、久しく音信が途絶えていたことを詫び、豊臣秀頼の無事を喜ぶとともに、旧知の小早川隆景家臣・井上又右衛門尉から依頼された、その子五郎兵衛尉の福島正則への仕官について周旋を求めた書状。忠恒からも働きかけ、仕官が調うよう取り成してほしいと重ねて頼み、末尾で当地の近況などを伝える。
(慶長十八年)九月廿四日 / 冊子 415頁
慶長十八年九月二十四日、島津家久が惟新の側近へ、使者二人の帰着を報じ、同五郎兵衛が長年積んだ奉公を評価して隠居させず、家臣として登用・配置するよう求めた書状。
(寛永七年)十二月十九日 / 冊子 183頁
子のない伊勢貞昌が、前年に江戸でおたつが産んだ家久の子を養子に迎えたいと願い、家久の内意と許可を得て決着したことを喜ぶ。家久の子女が多く将来の知行負担も増すため、子のない家へ養子を配する先例として伊集院・根占家にも触れ、詳細を福屋五郎兵衛尉に託した書状。
(寛永十二年)七月六日 / 冊子 484頁
伊勢貞昌が、前年春に川上左近将監尉の家臣が運上した荷物のうち太刀一腰と馬が未着であるとして、その経緯を詳しく調べ、福里五郎兵衛尉へ照会して報告するよう求めた書状。
九月十日 / 冊子 148頁
入来院重頼が大井十右衛門に、五郎兵衛へ課した役儀に対する詫言について回答した書状。家中に役を命じられる人材が乏しいため、一時でも勤めれば本人のためになると説き、過去の遠流は惜しいが公儀上やむを得なかったとして、再度役儀を命じて勤めさせるよう求める。
十月廿八日 / 冊子 56~57頁
島津陸奥守が関東で二人の御所に首尾よく拝謁したことを祝い、自身の病気で会えなかったと釈明し、井上五郎兵衛をめぐる加藤左馬助との調整が不調だった経緯を報告し、数寄屋用の畳六帖を贈った書状。
宝治二年七月十九日 / 冊子 199頁
薩摩国宮里郷益□名主新大夫正持が、当名内の田五反について地頭代から濫妨を受けたと訴えた件。弾正忠宗□が地頭御代官本田五郎兵衛□に、寛元三年七月十六日付下文に従って承知・処理するよう命じた下知状。
寛永十九年正月廿八日 / 冊子 189~190頁
島津久元・山田有栄・頴娃久政が五代仲兵衛尉・三原五郎兵衛尉へ、高二百石を知行および御使役分として与え、両人で支配するよう命じた連署引付。寛永十九年正月二十八日付で、久元が印を据えている。
年月日未詳 / 冊子 296頁
川上久辰の自作文。十一月十五日を期限とする帰陣命令後、小西行長が順天で明・朝鮮水軍に港口を封鎖されたため、島津義弘・立花宗茂らが救援へ向かったと記す。十七・十八日の戦闘で、久辰・久首は小舟から敵船へ攻めかかるが、大船へ乗り移れず矢石・火器を浴び、川上源太左衛門らが戦死、桑波田五郎兵衛らが負傷し、弾薬が尽きて退いたという自身の部隊の戦いと被害を具体的に述べる。
(明暦三年)十月廿一日 / 冊子 359~360頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0762
萩原三郎右衛門らが、阿久根への便船、村内の人員配置、切支丹宗門関係者の吟味・身柄、長崎役所への報告、使者の取扱いについて詳細を伝えた書状。
宝治二年七月十九日 / 冊子 39頁/原整理番号 253
薩摩国宮里郷益口名主新大夫正持の訴えにより、益口名内の田五反と園二か所に対する地頭代の濫妨を、寛元三年七月十六日付下文に任せて停止・処理するよう命じた下知状。宝治二年七月十九日付。
正平十二年四月日 / 冊子 4頁
比志島範平が、前年十月二十五日の岩屋城退治以後の従軍と、正月二十一日・二十五日および三月二十日夜の濱陣合戦で先懸けを務めた軍忠を申告した。自身・中間平六・弟範家の負傷と見知人を挙げ、注進と恩賞を求める。
正平十二年四月日 / 冊子 4~5頁
比志島範平が、前年十月二十五日の岩屋城退治以後の日夜の合戦と、正月および三月の濱陣合戦での先懸け・負傷を申告した軍忠状。度々の注進勘文を根拠に、後日の証拠となる一見状を求める。
年月日未詳 / 冊子 494頁
庄内戦で戦死した者を、年月日・戦場・所属とともに列挙した殉国者名簿。慶長五年正月の河内・栗山・追田などでの戦闘を中心に、戦死者名のほか、主従・組・衆の別や人数を記し、庄内戦での人的損害を整理する。
寛永八年閏十月十三日 / 冊子 244~245頁
ある人物について、鹿児島方との隔心、大坂の陣での逆心、偽書・使者、家臣への成敗命令、領内外での狼藉、他国人との密交、城や屋敷への野心など、過去からの多数の不審・嫌疑を箇条書きにした覚書。
承応二年十二月吉日 / 冊子 103-104頁
喜入久供が正八幡宮御宝前へ、国武銘の刀一振と脇指一振を奉納した寄進状。武運長久・子孫繁昌・領内安全・敬愛を祈願し、承応二年十二月吉日付で寄進の趣旨を明記する。
目録年月日記載なし / 冊子 510頁/原整理番号 51
寺社修理の費用について、銀方との相談や出雲への書付、国分の寺帳面の照会などを複数日付で記す。
九月十五日、嘉永六年十二月五日・十日・十四日など。共通包紙朱注は嘉永七年正月 / 冊子 144~146頁/原整理番号 212の1/整理ID 211-1
白木御文書十番箱中五十八番の道中行列鉄砲伺い一件の前半。包紙は上下の道中で鉄砲十挺を持つ伺書一通、留守居首尾書五通、江戸詰家老の問合書一通を列記し、嘉永七年正月の朱注を付す。本文の「の1~の5」は、近海の外国船来航に対する警衛命令を踏まえ、領内に置く鉄砲だけでは道中の急変に対応できないので行列内にも十挺を携行したいと願う書付と、その取次経過を収める。九月十五日の松平薩摩守の伺い、十二月十日の早川五郎兵衛による用番・用人への提出と御付札の受領報告、来年参勤に向け寅年二月中旬の国元発足に間に合う差図を求める十二月五日の内意、再提出・内見による催促の報告、十二月十四日の半田嘉藤次による箱根・福島等の関所への通達依頼が続く。報告は近江へ宛て、許可趣旨を国元へ知らせることや大御目付の留守居役名の申出も記す。
11月10日(本文年不記;一件の安政4年資料と対応) / 冊子 193~194頁/原整理番号 272の5/整理ID 271-4
献上する大小・小サ刀の拵が出来上がり、志賀金八と伺書・伝来書草稿や新たな折紙取得の要否を相談した旨を伝える早川五郎兵衛の書状。草稿に異存はなく、古来の伝来品に新しい折紙を添えることには否定的な意見を示す。伝来書は昨年の入城関係文書との連続もあり、十一月に仕上がる書を差し出して献上の手続を伺うこと、堀田方へ岩元を遣わして内聴したことを記す。七日に半田が伺書と伝来書を堀田方へ持参し、用番へ差し出す件や受取・表からの提出の経緯を報告する。将来の献上時の手続や御用番頭・家老側の都合、宰相の茶入・掛物献上の例にも触れ、献上前日にも別紙のとおり相談すること、刀打と刀袋紋柄の件で仙波市左衛門とも調整することを求める。十一月十日、山田壮右衛門宛。
文久2年4月廿三日 / 冊子 251頁/原整理番号 349の1/整理ID 349
雑集中の印刷の1。鈴木勇右衛門・鈴木昌之助・森岡善助・奈良原喜八郎・道嶋五郎兵衛・大山格之助・江夏仲左衛門・山口金之進の八人を年齢付きで列記し、勇右衛門には深手、五郎兵衛には即死の注を付す。今日伏見で身命を投げ出して比類ない働きと誠忠を示したことを喜び、各人に切米十石ずつを宛行い精勤を求める同文を載せる。文久二年四月廿三日、御名乗御判とするが発給者の実名は記さない。八人と八通の発給を同一視しない。
二月廿九日 / 冊子 316~317頁/原整理番号 351
三原五郎兵衛重英が、寛永十五年二月二十八日に有馬原城本丸の石垣を登り、屏上から弓で敵三人を攻撃したことを届ける覚。証人として鹿児島衆田中五右衛門・高尾野衆宮原伴右衛門を挙げる。寅二月二十九日付で、新納佐左衛門尉・上原貞右衛門尉宛。編者注は『旧記雑録後編五』二一五七号文書と同文とする。
延元3年2月5日(1338) / 冊子 455~456頁/原整理番号 14-11
指宿彦次郎入道成栄が、前年二月十七日に薩州御大将・三条侍従が下向した際、綸旨に従って最前に馳せ参じ、以後数十度の合戦に参加した軍忠を申告する延元三年二月五日付軍忠状。島津上総入道道鑑一族、大隅五郎兵衛尉子息孫六・頴娃三郎らに言及し、成栄の子息次郎をはじめ一族・親類・若党数人が戦死したこと、市来院後巻では代官高野中務丞朝久が激戦の末に分取を遂げたことを述べ、絶え間ない軍忠の後証となる一見状の交付を求める。
二月廿八日 / 冊子 316頁/原整理番号 349
宮原半右衛門景為が、三原五郎兵衛重英の原城本丸での働きを実見した証文。三原が高さ三間ほどの石垣を登って屏上に上がり、弓で矢八筋を射て敵三人に当てたのを見たとし、さらに屏を越えた働きを比類なしと評する。寅二月二十八日付で三原五郎兵衛尉宛。冒頭の『在三原四郎左ヱ門』は本文注記として区別する。
寛永十五年二月廿九日 / 冊子 316頁/原整理番号 350
田中五右衛門国質が、三原五郎兵衛重英の原城本丸での働きを実見した証文。二月二十八日、三原が本丸石垣を登って屏上に立ち、弓で敵三人を射伏せたとし、矢数は六筋か七筋ほどと見たという。その後、三原が屏を越え、城中でも田中と合流して言葉を交わしたことを証跡とする。寛永十五年二月二十九日付で三原五郎兵衛尉宛。冒頭の『在三原四郎左ヱ門』は本文注記として区別する。
年月日未詳 / 冊子 111頁
新納氏古日記の記事。五月朔日に島津光久が日光参詣へ出発し、伊勢貞昌・野村大学助・新納刑部太輔ら九名が供奉したこと、四日に登山して太刀一腰・馬代銀三十枚、神祭料金子一両、宮仕・八乙女への青銅、毘沙門堂門跡や各院へ銀子を進上したこと、六日に帰館して日光での勤めを終えたことを記す。
(寛文三年)正月廿七日 / 冊子 462~463頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書1016
喜入摂津守と千世松の居所・移転を調整し、北郷家来小杉宗文の跡目を親類の北郷与左衛門へ継がせる意向と、移転日を翌月八日とする案を伝えた記録。
嘉永六年十二月十四日・十七日ほか。正月三日夜到来の朱注(翌年とみられる) / 冊子 146~147頁/原整理番号 212の6/整理ID 211-2
道中で鉄砲十挺を携行する伺い一件の後半。「の6」は半田嘉藤次が用番松平伊賀守の取次飯塚勝之助へ書附を持参し、演説して差し出したところ落手したと伝える十二月十四日の報告で、箱根その他の関所へ許可の趣旨を通達するよう求める。「の7」の書附は、近海の外国船警衛に伴い一万石以上の者が領内に鉄砲を備える触達を受け、道中上下でも十挺を持ちたいと願ってきた経過を述べる。九月十五日付伺いと阿部伊勢守への内見、用番松平和泉守の吟味、留守居への御付札、国許で正式に申し上げるよう求めたこと、十四日に伊賀守へ関所通達依頼を提出し落手したことを記す。朱注には正月三日夜到来・極々急飛脚便とある。末尾の嘉永六年十二月十七日付家老問合書は、島津右門久福・末川近江久平から豊後・筑後・石見・伊織へ宛て、留守居首尾書等六通を添え、願済みであれば表方の使者で御請して往返日程を調整するよう求める。右一冊終レリで一件を閉じる。
明暦二年十月廿一日 / 冊子 495~496頁/原整理番号 628-1
萩原三郎右衛門が、大村領矢次村の兵作が長崎酒屋町の利左衛門にキリシタン信仰を勧め、訴えによって大村で多数が捕縛された事件を詳報する。薩摩側から使者を出すべきかを関係者と相談し、海路遠方のため借船で阿久根まで書状を送り、宿次で国元へ届けるよう手配した。編者は『旧記雑録追録一』758号と同一文書と注記する。
安永九年七月~安永十年正月九日(使節出発は安永九年八月二十七日) / 冊子 600頁/原整理番号 1697/整理ID 1697
大納言家基公の凶報が前年九月に琉球へ届き、安永九年七月、中山王尚穆は渡嘉敷親方に弔書を持たせて薩府へ送った。重豪は新番の岸良貞右衛門兼平を継使、歩行士の遠矢金右衛門良起を宰領とし、軽卒二人を添えて八月二十七日に本府から江戸へ発たせた。一行は十月四日に江戸へ着き、十一日に兼平が月番老中阿部豊後守正允と御側用人水野出羽守忠友へ重豪の副簡と尚穆の弔書を呈した。十一月十九日、月番老中田沼主殿頭意次が兼平に奉書を授け、忠友も留守居へ返札を授けた。新番千田七右衛門貞仲と歩行士郡山五郎兵衛員将が軽卒二人を伴ってこれを国元へ運び、二十二日に江戸を出発、翌安永十年正月二日に薩府へ到着した。九日、渡嘉敷親方を対面所に召し、家老・若年寄・大目付が列座する中、月番家老が趣旨を述べ、奏者番から老中奉書・忠友返札・重豪書を渡した。親方は琉球へ帰って尚穆に届け、先例に従い奉書と返札の写しを薩府へ献じ、真書を琉球に留めた。弔書を重豪自身が作成したとの記載ではない。
寛政10年8月5日(本文。同年を前文から補う) / 冊子 156頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書0499
家斉が曽根五郎兵衛(次彰の注)を芝邸へ遣わし、御鷹の雲雀を賜った。斉宣が記事の語り手に代わって恩旨を奉じ、老中各邸へ赴いて謝恩したと記す。出典は重豪公御譜中で、目録499も重豪の拝領記事。鳥数や代受理由は明記されないため補わない。
(寛永15年)正月13日 / 冊子 668頁/原整理番号 674
『天草説書』に基づき、島原城内外の明地について、本丸花畑、二・三の丸、厩前、勢溜り、細工所の道、大工小屋、厩の丸の東西・南北の寸法を列記する。末尾に寅正月十三日と記し、田中宗夫老および大工五郎兵衛・佐介の名を掲げる。
年月日未詳 / 冊子 710~711頁/原整理番号 740
正月十五日を中心に島原出陣者の主従人数、米之津・久見崎などへの到着日、乗船勤務と飯米支給を記録する。福崎らの主従人数、御道具衆49人、兵具持の夫丸11人などを列記し、既支給分や僧侶から出された夫の内訳を付記する。末尾に三原五郎兵衛20人・平山七兵衛15人の有馬到着を記す。季安は次の記事を十六日に分け、十五日到着者の追記を加えたと説明する。
寛文6年9月10日(目録) / 冊子 509~510頁/原整理番号 49
神社仏閣と寺社修理の取扱い、役人・帳面・御条書の確認を記す。寛文六年九月十日付で入来院石見が喜入五郎兵衛に宛てる。
巻一/冊子 5~6頁
勝久方へ転じた知覧・川辺の兵や桑波田孫六らに対し、忠良が宴の隙を突いて南郷城を奪い、永吉と改めたことから始まる。勝久が忠良討伐を企てると園田五郎兵衛尉が密告し、貴久は永吉城へ入り、忠良も田布施から急行して守った。帰参した山田式部少輔は過去の背反を後世への戒めとするため伊作で処刑され、漢高祖が丁公を斬った故事によって正当化される。後半では、勝久が末弘伯耆守ら佞臣を重用して政治を乱したため、川上大和守ら旧臣十六人が諫書を出し、末弘を谷山皇徳寺で討つ。勝久は首謀者の川上を殺すが、実久も勝久に背き鹿児島を焼き、勝久は帖佐・祁答院・北原などを経て豊後へ出奔したとする。
文書日付:建武四年六月 日 / 冊子 474頁/原整理番号 七四三/整理ID TMP-P03-IKEHATA-ZASSHO-D0743
清種が、多祢嶋内見和村名主職について、厳密な御沙汰と安堵の裁許を求める。 大将家御下文・忠久施行・手継状・系図を副進し、養父佐多孫四郎親政の重代相伝地と主張する。 浄心が関東の権威で押領して持子五郎兵衛入道へ持たせたと訴え、動乱で延引したのち五郎兵衛入道が御敵に同意し誅せられたと述べる。 下文・忠久施行以下の証文等を根拠に、清種相伝として急速の沙汰と安堵の裁許を願う。
承応二年十二月吉日 / 冊子 240~241頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0498
喜入久洪が武運長久・子孫繁昌・領内安全等を祈願し、正八幡宮へ国武銘の刀一振(二尺)と脇指一振(一尺)を奉納した寄進状。
年月日未詳 / 冊子 301頁/原整理番号 265
『天草覚書』。富岡城代三宅藤兵衛の身上七千石・合力三千石と、配下足軽・支配衆の人数および石高を列記する。大矢野・吉野らの配分に続き、慶長九年に富岡城が完成したとの伝承を収める。
正月廿六日 / 冊子 13~14頁/原整理番号 12
川上久国が三原左衛門佐らへ、兵糧不足を見越して米之津に留めた二番立衆を帰すか、再動員の難しさを考えて残すかは陣中協議で決めるよう述べる。天草番手は五、六千人との指示に対し江戸からは二、三千人案もあり、無用な加勢による狼藉を避けて富岡の松平主税助・伊東大和守とも相談するよう求める。上使十人への米二百八十石、軍役三人程度の残留、板倉内膳正討死後の幕命の可能性、御賦外の衆へ兵糧を出さない原則も伝える書状。
万治2年6月2日~天保7年正月8日(寛文・元禄・正徳・享保・寛延・宝暦・明和・安永・天明・寛政・文政・天保期。年紀不明墓を含む) / 冊子 258~259頁/原整理番号 103
別紙として上原氏関係の石塔を調べ、法号・没年月日・俗名または親族関係を列記した書上。万治二年六月二日から天保七年正月八日までの年紀を含み、上原源右衛門尚益の法号「正岩祖覚居士」と、その妻「梅屋姓芳大姉」・妹「実峯妙相大姉」、尚治・尚清・尚伝・尚真・尚績・尚方ら本人および母・娘などの墓碑情報を収める。久圓妙長大姉の脇の石塔一基は損壊して法号等が不明とし、ほかに地蔵形の墓二基を早世者かと推測する記載、所在不明の墓もある。末尾では『上原氏譜牒』にみえる五郎左衛門尚盛を余家の次門とし、子孫を見ず、本府興国寺中に古墓があるとの考証を付す。
2月20日(年未詳、同文参照)~万治元年(1658)の記事 / 冊子 431~437頁/原整理番号 13-5
冒頭は『諸家系図文書』10の7号文書と同一のため島津忠国書状を省略する。参照先は忠国が牛屎へ、菱刈方から詳細を聞いて早く来訪・決断するよう催し、対面を望んだ二月二十日付書状である。久元(牛屎越後守・法名光久)は永享十年の福昌寺仏殿造営勧進で、羽月元忠・山野頼元・北原久兼ら八十七人とともに馬一疋分の代銭を奉加した。歓元(同越後守・法名光秀)は文正二年梅雨吉日に牛屎家系図一巻を作り、薩摩守陳元から元親までの系譜を収め、文正元年から文明九年までの島津家系図・覚書も伝えた。応仁元年、牛屎院の兵乱で一門が日向真幸院へ移り、北原家との親族関係を頼ったこと、元親が大隅守・法名梅岳源春を称したこと、重元が永正六年に六十余歳で鷹書一冊二十五枚を書いたことを記す。天文十二年三月二十七日、実元は牛屎家先祖を覚書や本朝の大家系図と照合して記し、宗実兄弟が源頼政嫡子・仲綱の娘を母とし、建久七年に頼朝の恩免を受けて遠流先の薩摩へ下向し、羽月・山野・平泉を与えられ、子孫が牛屎・淵辺を称したとの家伝を載せる。元継の女子は兄弟不和のなか系図・文書を保持し、国分御前様に仕えた後に加藤金右衛門へ嫁いだため古文書が加藤家へ伝わり、頼朝御教書は公用のため提出されたとする。淵辺主計元継は慶長・元和の上地や宮越との田地争論で知行を減らし、寛永頃には約十石となった。弥兵衛は家に凶事が多く繁昌しないため母方の淵辺へ名字を改め、肥後の聖山伏を氏神として正宮・荒神宮に祀ったとし、元亀三年五月四日の真幸院における義弘と伊東家の合戦で五十四歳で戦死した。元秋は栗野に生まれ、父の戦死後に飯野・栗野を移り、伊東・大友との戦いを経て天正十五年豊後で戦死した。重綱は井手石氏の養子となり川上忠智に仕え、肥前深江・筑州岩屋城・朝鮮で戦い、朝鮮で左手を負傷して退き、加治木・鹿児島へ移って八十四歳で没した。元貞は父元秋の戦死後、十三歳で義弘に召し出され、吉松鶴丸村二十五石と栗野木場村三十石、計五十五石を与えられた。十五歳で義弘に従って朝鮮へ渡り、忠恒に近習・小姓として仕え、良右衛門の名、包清の脇指や衣裳を拝領し、のち帖佐・平松・加治木・鹿児島へ移住して、万治元年に百二十三石を持って隠居した。
万治2年8月18日(1659)の覚書・慶長6年(1601)~明和4年7月(1767)の系譜記事 / 冊子 437~445頁/原整理番号 13-7
冒頭に『高麗人諸事問条記一通、但十五ヶ条』と掲げ、平田清右衛門が淵辺量右衛門へ、ほかにも覚えている事柄を詳しく書き付けて提出するよう求めた万治二年八月十八日付覚書。御記録方で使用するための聞取であり、朝鮮軍記の提出控えは別紙にあると注記する。続いて元貞以下の淵辺家系譜を収め、元貞が寛文元年に七十九歳で没して柿本寺へ葬られ、元辰・元隆・元智・元錦・元能・元苗・元儀・元詮・元長・元彬・元甫・元休・元堅・元伴・元次・元敏らの出生、幼名・通称・法名、母方・婚姻、早世・没年・墓所を各代ごとに記す。元辰は六歳で家久に召し出されて仲兵衛の名を受け、元隆は太守光久の目見を得て加治木の花堂・藤原重俊女を妻とし、元錦は太守光久への御目見、武州品川稲荷大明神への祈願成就、家督勤役と知行百壱石余を記す。元詮は天和三年に太守綱貴の初参勤供を務め、元苗は元文四年の清女産神・太田大明神参詣、元儀は綱貴・吉貴への御目見と町田・川上両家への奉公、元堅は太守継豊の初参勤供、元甫は島津小平太の供、元休は太守綱貴・重年への奉公、元詮系では太守吉貴・継豊の家督礼や島津家諸役を伝える。末尾は明和四年七月朔日、太守重豪への初而奉拝記事まで続き、近世淵辺家の奉公・婚姻・家督・墓所を世代順にまとめる。
建武四年十一月日 / 冊子 14頁/原整理番号 192
延時又三郎入道法仏が薩摩国市来院城郭合戦の軍忠を申告した目安。重病のため、七月二十八日の攻城には舎弟彦五郎忠能を代官として遣わし、八月三日まで野頸の手で戦わせた。九月十七日以降も水手・大手・後巻で戦功を重ね、軍奉行らの見知を得たとして承判を求める。建武四年十一月付。
三月二日 / 冊子 323~324頁/原整理番号 171
児玉四郎兵衛が、筑州老から受けた四百五十斛の配分について児玉新四郎へ書き置く。四十八石は母の隠居分とし、母の庶子分として三十石を萬兵衛に渡すことを相談したが、同意の返事が得られなかった。母の勘忍分七十石や出物の扱い、庶子が籠もった事情も述べ、世間の物沙汰がどうであっても萬兵衛の意向に任せ、その時の公儀の判断にも従うとしている。
文書本文の日付:暦應元年十一月 / 冊子 567~568頁/原整理番号 四五/整理ID TMP-P04-NIKAIDO-D0045
新田宮執印又三郎友雄が、行存の扶持する友氏らによる年貢・神用米等の押領と狼藉を重ねて申し立てる。 御教書・御事書・施行・催促状を挙げ、寺社領の妨げや神人殺害、神王面衣の破損などを述べる。 定法による措置と御沙汰を求め、関連書類と下手人・神人の交名注文を副進する。 暦應元年十一月の記載を本文日付として保持し、名義・継目裏判は別層に記録する。
文書本文の日付:未確認 / 冊子 570頁/原整理番号 五一/整理ID TMP-P04-NIKAIDO-D0051
行存による神王面衣裳の破損、殺害以下の狼藉について、下手人等の交名を注進する。 一人ごとの名前に院田分・同名分・名主等の小字を添えて二列に列記する。 数十人いるが、注文する暇なく、下手人等の交名を粗く挙げて結ぶ。 裏書の新田宮執印又三郎所進、継目裏判、下段の「右同」花押は、本文名列と区別する。
延元三年二月五日 / 冊子 709頁
指宿彦次郎入道成栄が過去の軍忠を述べた軍忠状。前年三月十七日に薩州大将の御下向へ馳参じ、数十度の合戦で敵を追い、鑑・一族大隅五郎兵衛・嫡子彦次郎らの軍功と打死を挙げ、証判と恩賞を求める。
二月廿九日 / 冊子 774頁
二月二十八日、有馬春之城本丸の塀内で敵二人に遭い、一人の槍を奪い、もう一人と槍を合わせて負傷させ、槍下で仕留めたが首は取らなかったことを、三原五郎兵衛の後日証跡を根拠に届けた田中五右衛門の差出。