島津久門祭文
年月日未詳 / 冊子 61頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書0170
島津久門が吉貴(浄国院殿)の徳と治世を追憶し、死去と葬送を悼んで捧げた祭文。君臣の恩義を述べ、故人の安寧を祈る。
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年月日未詳 / 冊子 61頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書0170
島津久門が吉貴(浄国院殿)の徳と治世を追憶し、死去と葬送を悼んで捧げた祭文。君臣の恩義を述べ、故人の安寧を祈る。
〈寛延二年〉宗信中陰(目録日付記載なし) / 冊子 194~195頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書0549
兵庫久門が亡兄宗信に献じた祭文。宗信が薩摩府城で病み、医療・祈祷もかなわず七月十日に亡くなり、十三日夜に福昌寺へ霊柩を安置し、二十四日に葬礼を終えたと記す。「不肖弟臣」と自らを称し、中陰に薄い供物を捧げる。対句は兄の文武・温良・民への恩をたたえ、二十余歳の早世、君主を失った民衆と家中の嘆きを述べ、最後に霊の降臨を願う。久門の献納注がある。
延享元年八月廿九日 / 冊子 778頁/整理ID 2029
島津貴儔・忠紀・久門が縁者として八朔に太刀と馬を進上することとなり、家臣の使者は主人の格式に従って熨斗目を着て登城し、品物を差し出すよう命じられた。熨斗目は家臣本人の身分ではなく主人の格式によることを説明し、島津大蔵久純が伝達した。
延享元年十二月 / 冊子 788頁/整理ID 2066
吉貴の三男三次郎を和泉家の後継とし、指宿・頴娃の村々を知行地に充てる経緯を系譜形式で記す。三次郎が幼年のため久門が代理で登城して太刀・馬などを進上し、継豊へ謝意を示す記事も続く。No.2061・2062の所領付与とあわせて読むべき記事である。
〈寛延二年〉七月八日~十四日(死去は七月十日巳刻) / 冊子 170~177頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書0496
帰国後に浮腫を病み、官医の招聘や祈願にも改善がなかった宗信について、七月八日に江戸へ急使を出して弟兵庫久門の養子・家統相続を願い、十日巳刻に薩摩府城で死去した経過を記す。享年二十三、法諱は俊厳良英大居士。十三日に福昌寺へ霊棺を移し、十四日に玉龍山下西へ埋葬した。入棺・鎖龕・葬列・神主奉持・遺髪と葬衣などの担当者を列挙し、僧侶の読経・法語、兵庫久門の祭文、下炬に至る偈頌を収める。
〈寛延二年〉宗信の病気・七月十日死去から十一月六日江戸到着までの記事 / 冊子 179~180頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書0511
重年公御譜が、久門は島津久季の養子で家を継いでいたが、宗信の重病により新たに宗信の養子として家統を継がせる遺書が江戸へ送られた経過を記す。宗信は七月十日巳刻に死去し、八月五日に訃報が継助へ伝わり、執政から久門への服制書が交付された。九月三日に使者が薩摩へ届き、六日に家老が久門へ服制書を渡して忌服を受け、十三日に屋敷を移して継豊に会い、解忌を祝われた。同月に出立し、十月の大坂滞在を経て十一月六日に江戸へ到着した。
寛延二年十一月十日〔原本文〕 / 冊子 215頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書0605
重年公御譜に、寛延二年十一月十日の久門の登城と宗信遺領の拝領を記す。久門は執政の奉書に従い、支属の嶋津加賀守忠雅を伴って登城する。白書院の縁頬で縁類・執政が列座する中、本多正珍が、願いのとおり宗信の養子となり、その遺領すべてを賜う旨の台命を伝えた。久門は謝恩の篤志を奉って退き、宗家を継いで薩摩・大隅二州、日州諸県郡と琉球国を併領した。 同日、西城にも登って稲葉丹後守正甫へ礼を謝し、その後、各執政・京都諸司代・副執政らの邸に赴いて謝礼したと続く。冒頭に「重年公御譜中」があり、久門は重年の名である。宗信は兄で、久門はその養子となって家督を継いだ関係として記される。
〈寛延二年〉十一月十三日 / 冊子 215頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書0608
松平兵庫久門が十一月十三日、隅州様へ送った書状。相手がますます御機嫌よく過ごしていることを喜び、自分は「去十日」、家督を無相違仰せ付けられ、ありがたい幸いに思う旨を報告する。このことを申し上げるための書状として「恐惶」で結ぶ。 冒頭に「継豊公御譜中」「扣正文在右筆所」、末尾に十一月十三日、松平兵庫久門の署名、「進上 隅州様」の宛名、寛延二年の朱注がある。久門には重年の注が付く。家督拝命の十日と本書の日付十三日を区別して記す。
〈寛延二年〉十一月十五日〔原本文〕 / 冊子 217~218頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書0613
寛延二年十一月十五日、久門(重年)が執政の奉書に従って登城し、白書院で家重へ、襲封の御礼として太刀一腰・御刀一腰・縮緬二十巻・白銀百枚・馬二匹を献じた。永井伊賀守直陳が奏達し、久門は大納言家治にも御礼を申し上げ、尊詞を受けて退席した。その後、再び召されて敷居内へ進んだ。 宗族の島津木工久篤、家老の島津矢柄久富・伊勢兵部貞起・島津主鈴久郷は、それぞれ太刀一腰・馬代白銀一枚・縮緬五巻を献じた。番頭高橋七郎右衛門種辰、用人の宮之原甚五兵衛通興・本田孫右衛門親芳・財部孫之丞盛興、伊集院十左衛門久東は、それぞれ太刀一腰・馬代白銀一枚・縮緬三巻を献じて拝謁した。これらは当家の先例によると記す。 久門はさらに西城へ登り、大岡越前守忠宣の取次ぎで前大樹吉宗と家治に襲封の御礼を申し上げた。両公にはそれぞれ太刀一腰・御刀一腰・白銀百枚・馬一匹を献じた。家臣九人も随行し、執政・副執政各位の邸で御礼を申し上げた。また本営の老女へ白銀三枚ずつ、表使へ二枚ずつを贈り、このほか執政・諸有司・親戚・知己へ太刀・絹帛・酒肴等を贈って謝礼した。 冒頭に「全御譜中」。献上刀剣には銘・寸法や代金、馬には裸背の注を付す。
〈寛延二年〉十一月廿二日 / 冊子 218~219頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書0618
松平兵庫久門が十一月二十二日、隅州様へ送った書状。相手がますます御機嫌よく過ごしていることを喜び、自分は当月十五日に家督の御礼を申し上げた際、大納言への御目見を仰せ付けられ、ありがたい仕合せである旨を報告する。「御懇之蒙上意」「此段爲可申上」と、その上意と報告の趣旨を記し、「恐惶」で結ぶ。 冒頭に「継豊公御譜中」「扣正文在右筆所」があり、本文と日付・署名・宛名が二頁に続く。末尾に寛延二年の朱注、十一月二十二日、松平兵庫久門の署名、「進上 隅州様」の宛名を載せる。久門は重年の名で、隅州様は継豊に当たる。大納言の諱はこの書状には記されない。
寛延二年十一月二十八日〔原本文〕 / 冊子 219頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書0619
寛延二年十一月二十八日、久門が執政の奉書に従って登城し、黒書院で家重から首服を加えられ、御諱の「重」字を記す折紙を賜った。本多伯耆守正珍が奏達し、久門は松平薩摩守重年と称することとなった。重年は懇篤な尊言を受け、御盃と御挾肴を拝戴し、宝刀一腰も賜った。宝刀の割注は備前国弘利・代金二十枚とする。 儀式の後、執政が列座する中で正珍が従四位下に叙し少将に任ずる台命を伝えた。重年は再拝して台顔へ謝意を申し上げ、井上遠江守正敦が奏達した。 重年は家重へ太刀一腰・御刀一腰・巻物二十・白銀三十枚・馬一匹を献じた。御刀は備前国盛光、代金十五枚と注す。吉宗へも太刀一腰・御刀一腰・白銀三十枚・馬一匹を献じ、御刀は備前国兼光象眼銘、代金十五枚とする。家治にも拝謁して前件の御礼を申し上げ、退去した。冒頭に「重年公御譜中」。馬には裸背の注がある。
〈寛延元年〉九月九日(記事起点) / 冊子 105~106頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書0305
家重の将軍職継承に対する琉球慶賀使の参府を記す。継豊は病気のため江戸に留まり、延享三年に家督を継いだ宗信が代行する旨を執政酒井雅樂頭忠知へ申し出て、許可された。中山王尚敬は慶賀正使具志川王子と副使與那原親方を薩府へ遣わし、寛延元年九月九日、宗信は正副使と従者九十八人を率いて薩城を出発した。島津兵庫久門、番頭格入來院石見定勝、家老鎌田典膳政昌、側用人本田孫右衛門親房、近習役澁谷喜三左衛門貫通・二階堂林左衛門行通・福山平太夫安都らが同行し、家老平田掃部正輔、用人有川幸右衛門貞利、近習役堀堀右衛門貞起らが使節を監督した。十一日に向田の仮館へ着き、十四日に琉球使・琉人監官・諸有司が久見崎港で乗船した。
〈寛延元年〉十二月十一日~十三日 / 冊子 115~116頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書0346
寛延元年十二月十一日、宗信が琉球使節と従者を率いて江戸の芝邸へ着き、夜に堀田相模守正亮の屋敷へ赴いて将軍家の安否を伺い、吉宗・家治に関する執政の屋敷も訪れたことを記す。十二日には上使本多伯耆守正珍が芝邸で遠来をねぎらい、宗信は各執政に謝礼した後、登城して黒書院で家重に拝謁し、述職の礼を述べた。家重には太刀一腰・白銀五十枚・白縮緬二十巻・馬二匹、吉宗には太刀一腰・白銀五十枚・馬一匹、家治には太刀一腰・馬代白銀一枚・紗綾五巻を献じた。家治への献上には島津兵庫久門の太刀一腰・馬代白銀一枚、家老鎌田典膳政昌の太刀一腰・馬代白銀一枚・紗綾二巻も記す。十三日に再び登城し、白書院で四位上中将への叙任の礼を述べ、西城でも謝礼した。同日、上使の大目付河野豊前守通喬が芝邸へ来て廩米二十俵を賜った。
〈寛延二年〉二月四日~六月五日 / 冊子 141~142頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書0391
隠居後の継豊が寛延二年二月四日に江戸芝邸を出立し、宗信の実弟島津兵庫久門、家老伊勢兵部貞起、用人宮之原甚五兵衛通興、近習役鎌田六郎太夫政方・三原濱右衛門経居らが従った。東海道の驛路を進み二月二十五日に伏見へ着き、二十八日に伏見を発って大坂へ、三月六日に大坂を発ち、山陽・西海の驛路を経て四月二十三日に薩摩府の四配館へ入った。同日、薩摩到着の礼使として島津土水久命を江戸へ派遣した。久命は六月一日に登城し、白書院で家重・家治に拝謁した。継豊から家重へ縮緬五巻・二種・双樽、吉宗へ同品、家治へ太刀一腰・馬代銀一枚・紗綾二巻を贈り、久命自身も家重・家治に太刀一腰・馬代銀一枚を献じた。六月四日には堀田相模守正亮が久命を呼び奉書を授け、家治に代わって紗綾一巻を賜い、翌五日には吉宗方の秋元但馬守凉朝・西尾隠岐守忠直も奉書を授けた。
延享元年八月廿五日 / 冊子 777~778頁/整理ID 2027
若年の島津忠紀を鼓川屋敷へ移し、成長までは城内に住まわせず、政務も命じないと決めた。屋敷の工事・家臣・医師や女中の配置を整え、従前の下屋敷は島津周防へ渡す。頴娃内膳久周が移転と人員配置の命令を伝えた。
〈寛延二年〉八月三日 / 冊子 180~182頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書0512
寛延二年八月三日、嶋津主鈴久郷・矢柄久寛・主殿久柄が、樺山主計・伊勢兵部・鎌田典膳・平田靱負へ、太守様(宗信)の病状悪化に伴う養子・家督相続の相談と願書提出の経緯を報告する。主殿が相続に関する書付を差し越し、姫君様への願いと菊姫様への申し進めについて村路を通じて取り次いだ。八月朔日夜、新御書院で荻原殿・お梅殿・岡田殿と差出人三人が会合し、療養を尽くしても効験が見えず衰弱が増すため、急変した際には当三月の下国前に仮養子として申し置いた嶋津兵庫の相続を願いたいこと、隅州様および一門の相談を経て願書を差し出したいことを伝え、姫君様・菊姫様も承知したと記す。関係者の名を列記し、柳生備前守は不快のため断ったと付記する。二日には芝屋敷で隅州様の相談について留守居を介して報告し、伊豫守・加賀守が養子願の案文を内見した。両者は万端の取計を引き受け、野村大右衛門にも伝え、大玄院病中の諸書付を見合わせて案文を整え、小笠原縫殿助・久世忠右衛門にも相談した。堀田相模守への内意照会では、病状の届はすでに二度上聞に達しているので改めて奉書を届けず、直接養子願を差し出すよう回答され、岩下佐次右衛門から春日井庄兵衛を通じて伝えられた。三日、願書を御用番本多伯耆守へ加賀守と小笠原縫殿助が提出し、若年でも不慮の事態を考慮して受け取る旨の返答を得た。加賀守は門外へ退出後に戻って受理の礼を述べ、櫻田の御守殿へ報告した。尾張様へは矢柄が使者として知らせ、嘉知姫様にも用人を介して伝達した。京・大坂の使番、関係する御方、御守殿付用人、近習役以上、家老座・諸役人・諸士への周知を記し、書付写五通を送って貴聞に達するよう求める。日付と周辺の宗信死去記事との前後関係には疑義がある。
四月(日・年なし、配列は明和三年)/寛延元年辰十二月(先例) / 冊子 130~131頁/原整理番号 300/整理ID 300
家臣の御目見に伴う自分献上物の先例を記す例書。島津兵庫について、公方へ太刀・馬代銀一枚と巻物五、大納言へ太刀・馬代銀一枚を示す。鎌田典膳について、公方へ太刀・馬代銀一枚と巻物二、大納言へ太刀・馬代銀一枚を示す。説明では、寛延元年辰十二月に「亡祖父薩摩守」(宗信の注)が参府し、供を召し連れて参勤御礼の御目見を願った際、兵庫は一門の者であるため自分献上物の先規を伺い、上記の品を差し上げるよう指示されたとする。兵庫は病気で御目見できず、その旨を届けて献上物だけを差し上げた。典膳は自分献上物をして御目見を命じられた。末尾に四月とある。
〈寛延二年〉七月八日 / 冊子 170頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書0493
宗信が堀田正亮・本多正珍・松平武元へ、病気が重くなり急変の恐れがあるため、弟島津兵庫を養子として認め、跡職を継がせるよう願う。当年二十二歳の宗信は、三月に帰国の暇を許されたことを述べ、弟兵庫の年齢を二十一歳と記す。病気のため印判を用いた旨の注記がある。