藤原久親寄進状
宝徳三年三月九日 / 冊子 424頁
藤原久親が祈祷のため、高城郡本萬徳内の水田九町一反分を八幡大菩薩の御宝前へ寄進した寄進状。
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『旧記雑録』前編・後編・附録10冊と追録1~8(暫定版)、『旧記雑録拾遺 伊地知季安著作史料集1~9』『家わけ1』(暫定版)、関連史料(外伝)『島津世禄記』の46,754件を横断検索できます。検索範囲は史料群・巻を組み合わせて選べます。結果は50件ずつ表示します。
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宝徳三年三月九日 / 冊子 424頁
藤原久親が祈祷のため、高城郡本萬徳内の水田九町一反分を八幡大菩薩の御宝前へ寄進した寄進状。
年月日未詳 / 冊子 55頁
伊作家の系譜として、親忠(初名忠親・愛寿丸・宗四郎、左衛門少尉・下野守)から久義・犬若丸・久親らへ連なる関係を示した系図。
年月日未詳 / 冊子 723頁
山田氏十代の久親について、初名久義、通称三郎二郎、官途式部少輔を掲げる系図。
天正元年正月六日 / 冊子 296~297頁
越前島津庶流知覧氏の系図記事。梅北地頭知覧大和守久親が天正元年正月六日の末吉住吉原合戦で北郷時久に従い、梅北八十町の兵を率いて橋野から肝付勢を攻撃し、稲井原から進んだ時久軍と呼応して勝利したことを記す。
年月日未詳 / 冊子 252~253頁
勝部兵右衛門の聞書。天正十四年十月十四日に島津義久が鹿児島を発ち、日向口では家久・忠長・久親らを中心に諸家・外城の軍勢を編成したことを記す。多数の兵を三重方面へ進め、城を攻め落として南郡へ展開する過程、各将の配置と進軍路、敵の退却や戦場での働きを伝え、大規模動員の実態が分かる。
年月日未詳 / 冊子 532頁
官庫所蔵の越前島津族知覧氏系図と各家伝を校合し、梅北地頭職を継いだ知覧久親と知覧行通の家系を本宗と判定する。田布施・種子島の知覧諸家を庶流とし、錯綜する実名・伝記を併記して後考に備えた系図抄。
天正元年正月六日 / 冊子 297~299頁
天正元年正月六日の住吉原合戦を詳述する。北郷時久は相久・忠虎と手勢を率いて不意に肝付軍を攻め、知覧久親ら各地の援軍とともに松山城戸口まで追撃し、伊集院竹友以下百五十一の首級を得た。味方も河野主税・田原信秀らを失った。この日が北郷家の僧礼日に当たり、急報のため簡略な酒礼を行ったことが龍峯寺門徒の正月六日の先例になったと伝える。
正保三年十二月二十四日 / 冊子 62~63頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0118
罪を得た島津久章を河辺の寺から谷山福泉寺へ護送する際に出役した新納久親が、肝付兼佳らとともに死んだことを記す記事。関係者として金八・稲弥太・星原孫十郎・坂口金右衛門を掲げる。
天明元年九月二十一日 / 冊子 642頁/原整理番号 1820/整理ID 1820
去冬に鶴を捕る御鷹を拝領したことへの祝儀として、中山王が天久親方を遣わし、太刀と馬代白銀百両、さらに目録の贈物を届けた件に謝意を示す。九月二十一日付、中将重豪と記し、謹上中山王宛とする。太刀の本数や目録の詳しい品目はこの本文に載らない。本文は時期を「去冬」と記す。
寛政2年11月9日(年次は朱注) / 冊子 16頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書0042
島津求馬(久親)が琉球の三司官に、中将様への年首の祝儀を目録どおり差し上げ、江府に届いて披露したところ満足されたと伝える書状。この旨を先方へ知らせるよう求める。本文に祝儀の個別品目・数量は記されない。署名は島津求馬、宛名は三司官で、年次は朱注による。
寛政2年11月9日(年次は朱注) / 冊子 16頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書0043
島津求馬(久親)が三司官に、太守様が御礼席に着座することを命じられた祝儀について返答する書状。宜野湾王子を通じ、中将様へ太刀一腰・御馬代黄金十両と目録所載の品を差し上げ、江府に届いて披露したところ満悦されたと伝える。その旨を先方へ知らせるよう求める。宛名は三司官で、年次は朱注による。
寛政2年11月9日(年次は朱注) / 冊子 16~17頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書0044
島津求馬(久親)が三司官に、姫君様の婚礼が整い御臺様と称されることになった祝儀について返答する書状。宜野湾王子を通じ、中将様へ太刀一腰・御馬代黄金十両と目録所載の品を差し上げ、江府で披露したところ満悦されたと伝える。その旨を先方へ知らせるよう求める。姫君の実名は本書に記されない。
寛政2年11月9日(年次は朱注) / 冊子 17頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書0045
島津求馬(久親)が三司官に、太守様が前年に御肴を拝領した祝儀について返答する書状。幸地親方を通じ、中将様へ太刀一腰・御馬代白銀百両と目録所載の品を差し上げ、江府で披露したところ満悦されたと伝える。その旨を先方へ知らせるよう求める。御肴の具体的な品名は本書には記されない。
寛政2年11月9日(年次は朱注) / 冊子 17頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書0046
島津求馬(久親)が三司官に、太守様が当春に鷹の捕らえた鶴を拝領した祝儀について返答する書状。幸地親方を通じ、中将様へ太刀一腰・御馬代白銀百両と目録所載の品を差し上げ、江府で披露したところ満悦されたと伝える。その旨を先方へ知らせるよう求める。
寛政2年11月9日(年次は朱注) / 冊子 17頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書0047
島津求馬(久親)が三司官に、明姫の婚姻が整った祝儀について返答する書状。幸地親方を通じ、中将様へ太刀一腰・御馬代白銀百両と目録所載の品を差し上げ、江府で披露したところ満悦されたと伝える。その旨を先方へ知らせるよう求める。本文は明姫の名を記すが、婚姻の相手は記されない。
寛政3年3月28日(年次は朱注) / 冊子 23頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書0070
島津求馬(久親)が琉球の三司官に、公方様の御代替の祝儀について返答する書状。宜野湾王子を通じ、中将様へ太刀一腰・御馬代白銀百両と目録所載の品を差し上げ、江府で披露したところ満悦されたと伝える。その旨を先方へ知らせるよう求める。署名は嶋津求馬、宛名は三司官で、年次は朱注による。
寛政3年12月4日(年次は朱注) / 冊子 28~29頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書0090
島津求馬(久親)が琉球の三司官に、中将様への年首祝儀を目録どおり差し上げ、江府に届いて披露したところ満足されたと伝える書状。この旨を先方へ知らせるよう求める。本文に祝儀の個別品目・数量は記されない。署名は嶋津求馬、宛名は三司官で、年次は朱注による。
寛政3年12月4日(年次は朱注) / 冊子 29頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書0091
島津求馬(久親)が三司官に、太守様の官位昇進の祝儀について返答する書状。盛嶋親方を通じ、中将様へ太刀一腰・御馬代黄金十両と目録所載の品を差し上げ、江府で披露したところ満足されたと伝える。その旨を先方へ知らせるよう求める。年次は朱注による。
寛政3年12月4日(年次は朱注) / 冊子 29頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書0092
島津求馬(久親)が三司官に、太守様の縁組が仰せ出された祝儀について返答する書状。盛嶋親方を通じ、中将様へ太刀一腰・御馬代白銀五十両と目録所載の品を差し上げ、江府で披露したところ満悦されたと伝える。その旨を先方へ知らせるよう求める。縁組の相手の実名は本書に記されない。
寛政3年12月4日(年次は朱注) / 冊子 29頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書0093
島津求馬(久親)が三司官に、太守様の結納・婚姻が整った祝儀について返答する書状。盛嶋親方を通じ、中将様へ太刀一腰・御馬代白銀五十両と目録所載の品を差し上げ、江府で披露したところ満悦されたと伝える。その旨を先方へ知らせるよう求める。婚姻相手の実名は本書には記されない。
寛政3年12月4日(年次は朱注) / 冊子 29~30頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書0094
島津求馬(久親)が三司官に、時之丞様の御四男の届が済んだ祝儀について返答する書状。盛嶋親方を通じ、中将様へ太刀一腰・御馬代白銀五十両と目録所載の品を差し上げ、江府で披露したところ満悦されたと伝える。その旨を先方へ知らせるよう求める。時之丞様の人物比定や御四男の詳細は、本書本文だけでは確定できない。
寛政4年2月15日(本文・包紙注) / 冊子 32頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書0105
市来稲荷社別当大明寺へ宛て、鎧一領の奉納・保存を伝える五名連署の証状。古来稲荷社へ奉納されていた鎧は古製の珍器だが損傷し、製形を失いつつあるため、兵具方に格護させる指示が出たと述べる。その引替えとして掲げる鎧一領を納め、後年も疎略にせず格護するよう求める。名越右膳恒当・山岡雅楽久容・伊勢播磨貞矩・菱刈大炊隆邑・嶋津求馬久親が署判する。包紙注では、大炊殿から東郷浅之丞へ書付を渡し、同日白木御文書六番箱へ納置したとする。
寛政4年11月3日(年次は目録) / 冊子 41頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書0134
島津求馬が琉球の三司官に、中将様への年首祝儀を目録どおり差し上げた旨の書状を受け、披露したところ満足されたと伝える書状。この趣旨を先方へ知らせるよう求める。11月3日付、嶋津求馬の署名、三司官の宛名を記し、實名判との表示を伴う。差出人の久親と年次は目録による。本文には祝儀の個別品目・数量はない。
寛政4年11月13日(年次は朱注) / 冊子 41~42頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書0137
太守様が当年7月中に参府するよう命じられたことを祝う贈り物を、中将様に披露したと伝える島津求馬の書状。喜屋武親方を通じて中将様へ太刀一腰・御馬代白銀五十両と目録どおりの品を贈り、披露したところ満悦されたと述べる。この旨を先方へ知らせるよう求める。11月13日付、嶋津求馬の署名と實名判の表示があり、宛名の三司官は次頁右側に続く。年次は朱注、久親の名は目録による。贈答の理由は7月中参府の指示であり、この書状自体が実際の到着日を記すものではない。
本文年月日未詳 / 冊子 89頁/原整理番号 45
新納久親の系譜から、流罪を伝えるため谷山へ向かい、久章の郎等に襲われた久親が相手を刺し止めたものの、自身も深手を負い同月二十四日に死んだと記す。原本の「正保元年」には二年が正しいとの校注が付く。
年月日未詳 / 冊子 58頁
永禄元年の恒吉宮ヶ原、志布志、飫肥新山城などの戦闘で討死した北郷・豊州両家ほかの将士を、日付・戦場・所属とともに列挙する。多数の戦死者と異同注記を収める。
年月日未詳 / 冊子 58~59頁
永禄元年三月十九日、肝付勢が庄内へ侵攻し、北郷時久・島津忠親の軍が恒吉宮ヶ原で迎撃したが敗れた戦闘を記す。北郷・豊州方の諸将と兵卒二百余人が戦死した。
年月日未詳 / 冊子 59頁
永禄元年三月十九日の恒吉宮ヶ原合戦を詳述する。北郷・豊州両軍が肝付勢を迎えたが、後方を遮断されて敗走し、北郷三兄弟や日置久範・平田宗仰ら二百余人が戦死した。
寛政4年6月20日(年次は朱注) / 冊子 35~36頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書0114
重豪の政務介助の名目を継続するよう願い、家老らがその意向を説明する申渡書。重豪は深い思召と持病の疝痛・脚痛を理由に未年に隠居を願い、斉宣の家督相続が認められたが、斉宣が若年で初めて政務に当たるため重豪が介助し、5年に及んだと述べる。斉宣も成人したので重豪は前年の出発前に介助を断る意向を示したが、国政・勤向き・年功の事情から当面の助勢を求められ、その後も改めて辞退を申し出ていたとする。家老らは、斉宣の再度の願いを容れることは斉宣を尊重しない意味ではなく、一統の安心のための名目であり、今回はこれを領掌するよう願う。平常どおりなら介助は名目にとどまる一方、万一の非常事態に改めて承諾を求めるのは双方に迷惑となるため、先に名目を置く趣旨だと説明する。重豪の隠居は維持し、斉宣側の勤務・国政は引き続き相談するので心を添えてほしいと求め、これまでの重豪の判断を認めて極力配慮し、この趣旨を斉宣へ伝えるよう願う。末尾に6月20日と求馬・播磨・勘解由の役名を記す。目録の「外三名」と本文に見える三役名の対応は留保する。
寛政4年10月10日(朱の返書日付。本書日付は9月1日) / 冊子 39頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書0125
在国家老の島津求馬ら四名から、山岡市正・菱刈大炊の9月1日付書状に答えた10月10日付の返書。大字の本書に小字の朱文を挟む形式で、本文を承知したことをまず述べ、御内證様からの祝儀の扱いは従来のとおり、今日の便で申し上げるよう求める。一門や月次御礼に出た者についての扱いを答え、御両殿様への祝儀は先月28日の席で述べたこと、途中での従来の例とこの便での祝儀申上げの件を記す。大目付以上の者へは書状をもって伝えたとし、国元への知らせも先例に従い、拝領について恐悦している旨を返答する。末尾の朱注は本書の日付9月1日に対し10月10日を付し、上下の表示を添えて差出人と返答先を入れ替える。御羽織拝領や御年寄の呼出しの詳しい経緯は引用された本書の内容であり、返書が新たに起きたこととして伝えるものではない。
寛政4年11月13日(年次は朱注) / 冊子 41頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書0135
次郎様の御五男について届が済んだことを祝う贈り物を、中将様へ披露したと三司官に伝える島津求馬の書状。祝儀のため喜屋武親方が差し上げられ、中将様へ太刀一腰・御馬代白銀五十両と目録どおりの品を進上したところ、満悦されたと述べる。この旨を先方へ知らせるよう求める。11月13日付、嶋津求馬の署名、三司官の宛名と實名判の表示を伴う。年次は朱注、差出人全名は目録による。次郎様および御五男の実名は本文にないため、人物の比定は留保する。
寛政4年11月13日(年次は朱注) / 冊子 41頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書0136
将軍の代替祝儀で差し上げられた宜野湾王子の登城・拝領に対する御礼と、その祝儀品の披露を三司官に知らせる島津求馬の書状。宜野湾王子は太守様に召し連れられて江府へ赴き、二度登城して御目見し、上意を受け、御暇を賜る際に御奉書と御目録記載の品を拝領したとする。従者たちにも拝領物があり、その御礼として喜屋武親方を遣わし、中将様へ目録どおりの品を贈ったところ、披露して満悦されたと述べる。この旨を先方へ知らせるよう求める。11月13日付、嶋津求馬の署名、三司官宛、實名判の表示を伴う。本文には中将様への贈答品の個別数量は記されない。
寛政6年閏11月(本文)、同月5日伝達の上包注 / 冊子 82~83頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書0272
為次郎の母方祖父に当たる有川十右衛門の死去に際し、為次郎の忌服の扱いを帳面に記すよう命じる申渡書。実母が先年有川十右衛門の養女と命じられていたため、十右衛門は母方祖父の続柄になると記す。一方、為次郎は御部屋様の御養と命じられており、祖父の半減の忌服を受ける扱いだが、まだ七歳未満なので忌服には及ばないとの沙汰を記録させる。閏11月、求馬の署名、御記録奉行宛。上包は有川十右衛門死去に伴う為次郎忌服の書付一通とし、寛政6年寅閏11月5日に求馬から得能正助へ渡され、白木御文書六番箱へ納めたと記す。出典は六番箱中五十六番。
寛永廿一年二月十六日 / 冊子 178頁/原整理番号 84
寛永二十一年二月十六日付、横川・粟野などの郷中へ宛てた連署書状。行司らに算用のため早く参上するよう再度促し、六度御狩の代銭上納の受取、鹿皮の受取、以前の算用目録を持参させるよう命じる。
寛永廿一年六月五日 / 冊子 179~180頁/原整理番号 88
寛永二十一年六月五日付、諸郷中への連署書状。地頭の年二度の狩りに雇われていた百姓らの役務が前年冬から公儀へ移ったことを踏まえ、十五~六十歳の人数を新たに調査・記帳するよう命じる。郷中と行司が奥書・連判し、差出案文に従って翌月十五日までに鹿児島山奉行所へ提出させる。
正保二年二月廿九日 / 冊子 183~184頁/原整理番号 97
正保二年二月二十九日付、横川から倉岡まで十五か所に宛てた廻文の抄録。従来の山の講狩で杉を差した数量・残数を書き出すよう命じる。御狩には獲物の動きを見届けて卯の刻に集合し、古来の作法を守って朝夕の狩りを行うよう求める。遅参や作法の乱れは行司らの不名誉と戒める。
(寛永二十一年)二月十六日 / 冊子 15~16頁/原整理番号 8
山奉行方の仁礼藤左衛門ら四名が横川・栗野の曖衆中へ、算用のため行司衆がまだ参上しないことを催促する。六度の御狩の代銭と鹿皮の受取、以前算用に合わなかった時の目録を持参させ、速やかに精算するよう求める寛永二十一年二月十六日付の達書である。
(寛永二十一年)六月五日 / 冊子 16~17頁/原整理番号 11
山奉行方の新納久親らが横川から日州表穆佐までの曖衆・行司衆へ、前年から地頭狩の夫役を公儀に召し上げたことを受け、十五歳から六十歳までの在郷の人々を新しい改札帳に記すよう命じる。曖衆と行司衆が奥書・連判し、翌月十五日までに鹿児島山奉行所へ差し出す。病者を別扱いする申し立てを認めない旨の追而書が付く。
正保二年二月廿九日 / 冊子 20~21頁/原整理番号 20
山奉行方が横川から倉岡まで十五か所の行司らへ、講狩で差した杉の本数・場所、狩立ての旧作法を調べ、卯刻までに集合するよう命じる。遅参者は未進として記録し科物を扱う。本文末に「外ニ五ケ条略す」とある。
弘安十年十月三日 / 冊子 332~334頁
谷山郡司五郎資忠と山田別符地頭側の久親らの相論を条別に裁許した関東下知状。地頭屋敷の設置と代官人数、非法・住民不安、殺害事件の責任と科料、悪口をめぐる応酬などについて、申状・陳状・証文と先例を検討し、停止・処罰・安堵の可否を定める。
年月日未詳 / 冊子 542頁/原整理番号 6
島津筑後家蔵の系図を抄録し、頼朝の子として頼家・實朝と忠久親王を並べる。忠久を白河法皇の猶子とし、母を延喜御門三代末の惟宗氏の女、比企判官藤四郎義數の娘と記す。十八歳の時に高倉宮の祝給を受けたとする注記も収める。
寛政5年正月(年次は朱注。本文に日付なし) / 冊子 49~50頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書0164
山田司を造士館に掛け置き、山本傳藏の役を替えたことに伴い、造士館の教育目的と学問への取組を示す家老五名の連署申渡書。両人への措置は身分上の個人的取分ではなく、厚い思召により学校を建立し、諸生が出精しているだけで満足せず、人材を輩出して国家の御用に役立たせる趣旨だと述べる。家老らも造士館を緩疎にせず、学問を深く大切に扱うよう求める。代々大役を務める家柄で無学では国家の御用を果たせないので、大身分の者と諸士の子弟は講堂の講釈を聴き、平日も学問稽古に励むことを重視する。造士館建立以来、諸生の学業は進んだが、とくに大身分の者の出精が少ないことを不十分とし、学問なく家柄のみで重役を務めることを問題とする。以後は一層学問に心を掛け、義理の大筋を弁え、政道の筋を理解して知識を開発し、詩文を伝習するだけにとどまらないよう求める。講堂出席の取扱いは追って申し渡し、諸士も出精し、人品・学力等に応じて召し用いるとする。朱注は寛政5年正月、末尾に五名の署名を記す。
寛政2年4月(書付。受渡注は4月28日) / 冊子 4~5頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書0016
島津兵庫の嫡子善次郎の元服に伴う進上物と拝領物を記録する申渡書。家柄への格別の取分として、従来の進上品に刀を加えるよう命じる。従来は脇差を拝領していたが、この元服から刀の拝領へ改めることも伝え、記録奉行に帳面へ記すよう指示する。書付の署名は求馬で、人物注は島津久親とする。包紙注では、寛政2年4月28日に求馬殿から篠原善兵衛へ渡され、白木御文書六番箱へ納められたとある。
〈寛延三年〉十月二日~十日 / 冊子 286頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書0821
前年に江戸で襲封・元服した重年が、薩府から諸使を遣わし、十月二日に東照宮の大雄山寶前へ太刀一腰・白銀四枚を奉献した記事。麑府五社の正一位諏訪・正一位稲荷・祇園・若宮八幡宮・春日と福岡淀縄方神社には白銀一枚ずつ、満家院花尾権現社には白銀六枚を納めた。太刀・白銀については、襲封の礼に前年の元服の礼も兼ねた旨の注を伴う。四日は曽於郡霧島権現・末吉住吉及び徳神社・加久藤二之宮・頴娃枚聞・出水加紫久利、六日は国分正八幡宮・志布志即心院・加世田日新寺、七日は水引新田八幡宮・隈之城釈名寺、八日は吉田津友寺・谷山皇徳寺、九日は市来龍雲寺、十日は伊集院妙圓寺へ、それぞれ白銀一枚を献納した。元注は島津周防忠紀の代行と勅幣使の役、入来院石見定敦・島津小平太久金・肝付弾正兼昌ら諸使を記す。
寛政2年5月7日(本文) / 冊子 9~10頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書0025
島津久邦ら六名が、根拠のない浮説を言い触らすことを禁じ、その取扱いを各方面へ漏れなく申し渡すよう命じた連署申渡書。安永4年以来たびたび禁止が伝えられ、初めての入国を機に静謐を心掛けるべきところ、浮説がなお聞こえ、根拠のない議論が上の政事を妨げ、他所からの問い合わせも生じるとして不届きを指摘する。露顕すれば容赦なく切腹・死罪等に処し、親類にも迷惑が及ぶ旨を改めて示す。人々が申し合わせ、家来の末々まで浮説を広めないよう厳守し、厳しく徹底することを命じる。署名は石見・伊賀・求馬・登・主計・右膳で、人物注に六名の実名がある。
寛政4年9月1日(年次・返書との上下表示は朱注) / 冊子 39頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書0124
山岡市正・菱刈大炊が在国側の島津求馬・伊勢播磨・市田勘解由・名越右膳へ送った9月1日付の連署書状。先月25日、御本丸の老女から重豪側の御年寄が呼び出され、重豪の湯治御暇と出発に際して将軍が召した羽織を拝領し、女性の使者が御礼を済ませたことを報告する。一門や外様へも知らせ、使番は先例どおり取り扱うよう求める。御両殿様へは役人が列席して祝儀を述べ、大奥の御内證様へはこの便の使者が祝儀を述べること、国元での祝辞の扱い、御内證様が御聴に達したことと拝領への恐悦を伝えるよう記す。本文の山岡には久容、菱刈には隆邑の人物注があるが、目録の菱刈名は実祐であり、対応は留保する。掲載紙面には後の10月10日付返書の朱文が挟まれている。
年月日未詳 / 冊子 420~422頁/原整理番号 166
天正九年八月、義久は相良の北原・菱刈への妨害を理由に軍勢を動かした。十八日に五万三千余騎で水俣を囲み、義久・忠平・義弘らが各所に陣を置き、鉄砲や見張りで城を攻めたと記す。城中との発句・返歌三首も載せ、忠元が相良の反発を警告したという。相良義照は劣勢を見て和談を願い、諸城・八代の五ヶ所を引き渡した。義照の嫡子を義久が加冠し忠房と名付けた経緯まで述べる。
年月日未詳 / 冊子 443~444頁/原整理番号 2-14
相馬氏の古系図として、頼朝の下に頼家・實朝・忠久を親王とする図を載せ、別本では忠久を法師房丸・豊後守などとし、その子忠義へ結ぶ。注は白河法皇による獅子の定置と征夷将軍の宣旨、母の系譜、忠久十八歳の高倉宮からの祝を述べる。さらに文治二年六月一日の関東からの出立・上洛・西国下向の伝承を載せ、季安が元暦元年の義仲任官と忠久の年齢を照合して誤りを指摘する。
[正保年二月廿九日 / 冊子 333~334頁/原整理番号 8
杉木の取扱いに関する以前の指示を引き、山奉行や御家老への報告、無断伐採を避ける手続きを示す。植木の保護を徹底させる書付。
年月日未詳 / 冊子 789-790頁
島津元久について、高師直・師泰兄弟の専横と足利直義方との対立、京都での政変・軍事行動のなかで島津氏一族が従軍した経過を記す。元久が伯父久親らと尊氏方に属し、諸将と行動したことを掲げる譜記事。