新納久治書状
(元和五年)八月廿三日 / 冊子 713頁
新納久治が暇乞いに際する厚遇に謝し、今後も変わらぬ縁を願い、島津家久への取り次ぎを伊勢貞豊方へ依頼した書状。
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(元和五年)八月廿三日 / 冊子 713頁
新納久治が暇乞いに際する厚遇に謝し、今後も変わらぬ縁を願い、島津家久への取り次ぎを伊勢貞豊方へ依頼した書状。
天正九年三月九日 / 冊子 687頁
島津義久が伊集院久治へ、隣国の凶徒を防ぐ戦いで粉骨して忠節を尽くしたことを神妙と賞し、今後もいっそう軍功に励むよう命じた感状。
(慶長七年)十二月廿三日 / 冊子 867頁
島津忠恒が伊集院久治へ、別府舎人佐の上洛時に贈られた巻台を喜び、大切にすると礼を述べる。内府が近日上国するので、目見えを済ませ次第吉報を知らせるとし、印籠と香箱を贈った。
九月廿七日 / 冊子 522頁
幽斎の意見を受け、薩摩・大隅国内の所領を別紙目録のとおり伊集院久治へ宛行い、領知して忠節を尽くすよう命じた島津義久袖判・町田久倍奉書。
(慶長七年)十二月廿六日 / 冊子 868頁
No.1750の島津忠恒書状と同文のため本文を省略した文書。『伊集院譜』所収本では日付が十二月二十六日とされ、No.1750の十二月二十三日と異なることを注記する。
応永三年二月十三日 / 冊子 165頁
阿蘇谷久治が、重代相伝の所領である薩摩国高城郡宮内五大院の薗一所を、毎月観音経八巻を読誦するため八幡新田宮へ寄進し、子孫も寄進状に従うよう定めた寄進状。
年月日未詳 / 冊子 341頁
伊集院久治が、桑山重晴・福智長通から数か所へ送られた書状を受け、人質提出の処置や自身の出頭時期を相談した書状。秀吉上洛時の通路・宿泊、日向越え、内之倉・八郎ヶ野付近の悪路、志布志・鹿児島方面の道路整備にも触れ、戦後処理と交通確保を同時に進める実務連絡である。
天正15年6月25日 / 冊子 349頁
伊集院久治が土持大膳進へ、武庫様の警護や下城への派遣に関する配慮へ礼を述べ、京衆が前日に通過し、今日・明日には下城を出立する見込みだと知らせた書状。帰還前の慌ただしさを詫び、平豊への返書が手元に留まっているので、適切な者に持たせるよう頼んでいる。
(慶長二年)二月十二日 / 冊子 79頁
伊集院抱節久治が圖書頭方へ、津への到着後の兵糧・食料の不足、紙や船・人員がそろわない状況を報告し、補給と手配を求めた書状。
慶長五年五月廿二日 / 冊子 546~547頁
伊集院抱節久治と山田理安有信が連署し、財部日光神社の神領について、竹之下・大坪・霜月田・中島・彼岸田・坂之下・山下などの田畠ごとの面積・分米・耕作者を列記する。合計一町五段四畝十五歩、分米二十石六斗六升七合を年中祭礼のため怠りなく納めるよう大宮司に命じた証状。
慶長六年六月吉日 / 冊子 765頁
伊集院久治(抱節)と山田有信(理安)が連署し、大隅国曽於郡財部日光神村内の田地・浮免など合計十石を日光神社の知行として定めた目録。
慶長六年七月二十五日 / 冊子 769頁
伊集院久治(抱節)と山田有信(理安)が連署し、大隅国小根占村内の甚五郎屋敷二十石を園林寺へ新知として配分した知行目録。
(慶長六年)八月九日 / 冊子 774頁
伊集院久治と山田有信が鎌田政近に、龍伯を迎える上方使者の下向や龍伯帰国の風聞を報じる。当国衰微で諸式が整わない事情を述べ、情報収集と周到な対応を求めた連署状。
慶長八年十一月廿八日 / 冊子 917頁
伊集院抱節久治と山田理安有信が連署した知行目録。大隅国曽於郡財部村内の西大河原門・右衛門浮免など各所の石高を列記し、合計高を加増として配分する旨を定める。
慶長九年六月十一日 / 冊子 936頁
伊集院抱節久治と山田理安有信が連署した寄進状。前年に大閤の使者遊斎が在国した際の由緒に触れ、児玉窓岩山へ高十石を新たに寄進すると定める。
慶長十年十二月十四日(季冬十四日) / 冊子 41頁
国分への御殿移転に伴い、金剛寺を祈願所として、吉祥院知行のうち二十石と新知八十石、合計百石を宛行い、所中の諸役を免許する一方、京儀国役は勤めるよう定めた、島津竜伯袖判・伊集院抱節久治・山田理安有信連署の証状。
二月廿日 / 冊子 19頁
伊集院久治が、石槽船の遅延を受け、帖佐・鹿児島からの出船状況を報じた書状。すでに二十二、三艘ほどが出たとし、肝付殿や内場方からも十~十五艘を回し、一人の奉行を乗せて国分方の船元と連携させ、油断なく早々に多数出船するよう命じる。
正月廿四日 / 冊子 38頁
進藤久治が、前夜の厚いもてなしに対して蒲地二郎四郎へ礼を述べた書状。ひどく酔って直接礼に参上できないことを詫び、無沙汰を避けるため祝儀として五明二本を贈り、後日あらためて礼を述べると伝える。
四月廿六日 / 冊子 54頁
伊集院久治が、立願した千句連歌を翌月朔日に始めるため、土持大膳亮に執筆役として来訪するよう依頼した書状。二十八、九日頃の到着を望み、執筆役や連衆の確保が難しい事情を述べて協力を求める。
二月廿七日 / 冊子 57頁
伊集院久治が、兒玉新四郎による衣類盗難事件の処置を土持大膳亮と瀧聞越後守へ求めた書状。新四郎が在所で衣類を盗み、当地で売却して露見したため、盗人として適切に詮議・処分するよう依頼する。
二月十二日 / 冊子 97~98頁
朝鮮の陣所で兵糧と兵員が枯渇する中、約百艘の番船が押し寄せ唐島を封鎖して往来不能となった窮状を訴え、唐人が攻撃すれば守り切れず島津家の外聞を失うとして、国元の対応の遅さを厳しく嘆いた書状。
三月九日 / 冊子 103頁
一石につき二升の反米を少量でも鹿児島へ運び上洛の急用に備えるよう求め、豊後の捕虜は男女とも二十五日までに帰国させ、期限を一日も遅らせないよう厳命した書状。
永禄十一年正月廿日 / 冊子 183頁
永禄十一年正月二十日の大口合戦で、義弘・川上久朗らの戦況が不利と聞いた歳久が、伊集院久治とともに急行して強敵と戦ったことを記す。別路から敵兵が押し寄せ、長野仲左衛門尉・下島甚左衛門尉が戦死したが、伊東右衛門尉・有川貞員らの働きもあって義弘を曽木城へ退かせた。歳久は戦功により河原毛の馬を与えられた。
天正元年二月廿一日~廿六日 / 冊子 299頁
天正元年、島津義久が宝持院・八木昌信を密使として禰寝重長を説得し、二月には新納忠元・伊集院久治・上原尚常を重ねて派遣した。忠元らは肝付方を離れて島津氏へ降ることが後栄になると説き、重長は応じて二十一日に三使と、二十六日に義久と盟約し、領地を挙げて降参した。
元亀四年二月廿六日 / 冊子 301~302頁
禰寝重長への使者となった伊集院久治・上原尚常・市来家諸・河野清通・新納忠元の五名が、今回伝えた条々に虚言はないと誓った連署起請文。違反時には日本国中の神祇、新田八幡・霧島・鹿児島諏訪・天満天神などの神罰を受けるとする。
(天正元年九月廿七日頃) / 冊子 318頁
友野元真が早崎陣詰めの際、枝元神左衛門を討ち取り、女性一人を捕虜とした戦功を記す。その女性は中江主水佐の継母であり、合戦の証人として伊集院久治・箕輪舎人佐・木藤日向守・上原長門守・伊地知伯耆守を挙げる。
天正六年十一月十日~二十八日 / 冊子 555~556頁
十一月十日夜、義弘が六百余人を用いた伏兵で大友方を誘い、松山陣を崩した。翌日伊集院久治が高城へ入り、河原陣から和議の申し出もあったが、十二日に大友軍が決戦を挑んだ。本田親治・北郷久盛らを失う一方、義弘・征久・忠長らが横撃し、家久・山田有信も城外へ突出して敵を深淵と耳川方面へ追撃した。十三日に凱歌を挙げ、逃散民を保護し、二十八日に義久が帰陣した。
天正六年十一月十日~十二日 / 冊子 599~600頁
島津方が伏兵で大友方の松山陣を破り、伊集院久治らが高城へ入った経過を記す。高良山座主が和議を申し出る一方、大友軍は十二日に決戦へ出た。島津義弘らが退きかけた味方を支え、諸軍が横撃して大友軍を深淵へ追い込み、家久も高城から突出した。
天正八年 / 冊子 655~656頁
天正八年の水俣方面出陣に参加した諸地頭と配下を編成別に列挙する陣賦。大口の新納忠元、伊集院久治をはじめ、羽月・曽木・平泉・湯之尾など各地の将と軍勢を記す。
天正八年十月十五日 / 冊子 656頁
天正八年十月十五日、新納忠元・鎌田政年・伊集院久治を大将とする島津軍が肥後国の矢崎城などを攻略し、熊本城も島津義久の旗下へ降ったことを記す。
天正八年八月十九日 / 冊子 675頁
肥後合志合戦で伊集院久治が大津源左衛門尉を討った際、その弟六右衛門が駆けつけて久治を危地に陥れたが、伊集院新介が六右衛門を討ち久治を救ったという記事。新納忠元・島津忠長がその働きを上聞に達し、別紙で褒美を与えた。
天正八年八月二十二日 / 冊子 675頁
島津忠長・新納忠元が伊集院新介へ、肥後合志で伊集院久治と大津源左衛門尉が戦い、大勢の敵を追い払ったうえ、襲いかかった大津六右衛門尉を新介が討って久治の命を救ったことを賞する。上聞に達して別紙の褒美が出されたと伝えた連署状。
年月日未詳 / 冊子 677頁
矢崎城主中村一太夫と網田城主中村二太夫が阿蘇惟前と結び、宇土・熊本および薩摩への往来を遮断したため、新納忠元・鎌田政年・伊集院久治らが数万の兵を率いて出陣した。天正八年十月十五日に矢崎城を急攻し、中村一太夫は自害、島津方にも市来備前守ら多数の戦死者が出た。翌日網田城を攻めると二太夫が降伏し、二十九日に全軍が熊本へ入った。
天正八年十一月十三日 / 冊子 679頁
十一月二十三日、島津軍が二手に分かれて合志表へ出て久保田千町を焼き、退却時に大津山越前守率いる約四千騎の追撃を受けた。伊集院久治が太刀始めをして負傷しながら敵を討ち、諸将が反撃して大津山越前守以下百三十余人を討ち取った後、熊本へ引き上げた。
年月日未詳 / 冊子 681~682頁
天正八年十一月二十三日の合志合戦を記す。島津軍が久保田千町を焼くと、大津山源左衛門ら約四千騎が追撃した。伊集院久治が太刀始めで源左衛門を討ち、顔に傷を負いながら諸将の支援で戦い続け、佐多久政らの総攻撃により合志勢百三十余人を討った。鎌田政年が凱歌を挙げ、十二月十三日に全軍が熊本から薩摩へ帰った。
天正八年十一月十三日 / 冊子 682頁
十一月二十三日、島津軍が合志表の久保田千町を焼いて退く際、大津山越前守率いる約四千騎と交戦した。伊集院久治が太刀始めで敵を討ち、顔に傷を負って危急となるが諸将が援護し、比志島国貞・新納忠元・忠尭・佐多久政らの反撃で大津山越前守以下百三十余人を討ち取った。熊本へ戻り町口で勝鬨を挙げた。
天正十二年四月 / 冊子 893頁
天正十二年四月、北郷忠虎が吉利忠澄・伊集院久治とともに肥後の敵勢を討ち、首級六十余を得た。
天正十二年十月七日~八日 / 冊子 940頁
十月七日、田尻鑑種が敵路を忍んで使者を送り、高尾城へ入ったが妻子を龍造寺氏に質として押さえられていると釈明し、江之浦城の家臣へ内応を働きかければ奪還できると申し出た。翌八日、境界の難易を調べるため新納忠元・伊集院久治・山田有信・猿渡信光を三池へ派遣した。
(慶長六年)七月九日 / 冊子 766頁
福島正則が島津忠恒に、和久甚兵衛と鎌田政近の談合、伊勢平左衛門らとの協議、伊集院久治・山田有信の上方召喚について助言した書状。本文はNo.1566と同文のため本箇所では省略されている。
(慶長六年)七月十三日 / 冊子 766頁
島津義久が島津忠恒に、和久甚兵衛と鎌田政近の談合を急がせ、帰国後は伊勢平左衛門らと協議するよう指示する。伊集院久治・山田有信を軽々しく上方へ召さないことや、山口直友書状の扱いにも触れた。
(慶長六年)七月二十一日 / 冊子 767-768頁
島津義弘が島津義久に、懸案の相談がまとまったことを喜び、船を出して使者一人を七月二十三・二十四日頃に送ると知らせる。使者が鹿児島へ着く時には伊集院久治(抱節)を同席させる手筈であると伝えた。
(慶長六年)八月二日 / 冊子 769-771頁
鎌田政近が上洛後の状況を詳報する。細島出船から室津・京都・大坂・伏見への行程、諸大名・奉行との取次、城普請、島津家の進退交渉、伊集院久治・山田有信の扱いなどを記し、慎重な対応を求めた書状。
(慶長七年)七月廿二日 / 冊子 828頁
島津義久が安藤左近允へ、翌日に必ず出立するので準備を怠らないよう告げる。伊集院久治(抱節)と喜入大炊助を帖佐へ派遣して懸案を解決させ、上方へ持参する使者の選定や愛宕山への取次も依頼した書状。
年月日未詳 / 冊子 116~117頁
世上が騒然として比志島紀伊・鎌田出雲らも出仕していない中、朝ごとの出仕を続けるべきだが相談相手もいないので、とにかく油断なく対処するよう伊集院久治へ求めた書状。
八月十九日 / 冊子 123頁
国元の情勢が変わり、義久の下向が近いとの知らせを喜び、伊集院久治の長い辛労を察しつつ、今後の身上については自分たちに任せ、所領の多少にかかわらず承知するよう求めた書状。旧記雑録後編第二五〇六号と同文。
九月十四日 / 冊子 123頁
龍伯へ申し入れたい事柄を事前に相談するため、繁忙中であることを承知しつつ、喜入大炊助と同道して翌日か翌々日に来訪するよう伊集院久治へ求めた書状。
五月七日 / 冊子 124~125頁
伊集院久治が所望した寸白薬を調合して届け、朝と寝際の一日二度を七日間、少量の熱い湯で服用し、油気の物を禁ずるよう指示した。あわせて少将から久治へ下された書状を龍伯に上覧させる手順を相談した書状。
十二月十四日 / 冊子 129頁
龍伯へ申し入れたい事柄を内談するため、繁忙中であることを察しつつ、喜入大炊助と同道して翌日か翌々日に来訪するよう伊集院久治へ求めた書状。
年月日未詳 / 冊子 161~162頁
世上の騒ぎが続き、比志島紀伊守・鎌田出雲守らも出仕しないなか、伊集院久治は毎朝出仕しているものの相談相手がいないとして、とにかく油断なく対処するよう求めた書状。
十二月晦日 / 冊子 162~163頁
若年の忠恒を補佐して家中を守った伊集院久治・鎌田政近・比志島国貞らの功績を回顧したうえで、比志島宮内少輔を無知無能で旧政に背き、蓄財・酒色・殺害に及んだとして種子島流罪後に死罪とした理由を説明した。さらに高城籠城や秀吉九州征伐時の山田理安ら旧家老の忠節と家老家の由緒を記した覚書。