足利将軍家御教書
明徳二年九月八日 / 冊子 144頁
足利将軍家が島津上総介に、島津又三郎を同道して速やかに上洛するよう命じた御教書。
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明徳二年九月八日 / 冊子 144頁
足利将軍家が島津上総介に、島津又三郎を同道して速やかに上洛するよう命じた御教書。
(文禄2年)正月15日 / 冊子 663~664頁
新たに渡された土地について、島津義久(竜伯)へ申し入れたうえで伊勢上総介に引き渡したことを伝える。 この土地には別途の公役などを課さないため、その趣旨を心得て領知することが肝要だと念を押した知行関係の書状。
十二月九日 / 冊子 250~251頁
今川了俊が、朝山殿を使者として派遣した結果、事態が無事に落着したことを喜び、吉弘土佐入道の進退や京都での申請、国策・郡春らへの指示について上意に従い処置するよう島津上総介へ伝えた書状。
(永和二年)八月十九日 / 冊子 302頁
今川了俊が薩州の合戦や京都への働きかけに触れ、先の出陣以来の合力を評価し、今後も相談しながら忠節を尽くすよう島津上総介へ求めた書状。
六月十五日 / 冊子 244頁
少弐冬資が、分領山鹿をめぐる件は承知しており、越州方と相談して決着を図ること、定内への兵粮供給など諸事を命に従って申すよう伝えた書状。
九月三日 / 冊子 252頁
貞信が礼状を披見し、三か国のことが無事に済んだことを喜び、今後も島津方の意向に従うこと、玖摩・八代退治の際には一途に本差として働く旨を伝えた書状。
六月十五日 / 冊子 286頁
少弐冬資が、分領山鹿をめぐる件は承知しており、越州方と相談して決着を図ること、定内への兵粮供給など諸事を命に従って申すよう伝えた書状。本文はNo.554と同文のため省略されている。
九月三日 / 冊子 286頁
貞信が礼状を披見し、三か国のことが無事に済んだことを喜び、今後も島津方の意向に従うこと、玖摩・八代退治の際には一途に本差として働く旨を伝えた書状。本文はNo.573と同文のため省略されている。
九月廿六日 / 冊子 252頁
島津伊久が、奥州の上洛が決定したとの知らせを受け、奥州参洛中の在国処理や上意への対応について協議し、進木西入道に自らの考えを詳しく申し含めたので返答するよう求めた書状。
十二月廿五日 / 冊子 31頁
宮内大輔今川三雄が周防右京亮に、島津上総介の自訴について京都での吹挙を求め、代官では認められないとの先の仰せに対し、子息は本人同然であり支障はないとの仰せを得た旨を披露するよう依頼した書状。
十二月廿五日 / 冊子 92頁
No.121と同文のため本文を省略した別伝。宮内大輔今川三雄が、島津上総介の自訴について京都での吹挙を求め、子息による代官でも差し支えないとの仰せを披露するよう依頼した文書。
年月日未詳 / 冊子 118頁
山田聖栄自記として、碇山金吾が島津上総介の名代、新納将監が島津元久の名代となり、二人とも肥後白川合戦で将軍方に属して討死したと伝える記事。
永和五年三月廿三日 / 冊子 119頁
今川了俊が中野入道・那珂入道に、筑前国須江庄半分を預状の趣旨に従って島津上総介の代官へ引き渡し、請取状を提出させるよう命じた書下。
明徳三年 / 冊子 145~146頁
渋谷重頼が今川了俊の御教書に従い、島津上総介・又三郎方へ忠節を尽くすと誓った起請文。従来の守護人との共同を停止し、将軍家・公方の命令に応じて軍役を務めることを定め、違反時には諸神仏の罰を受けるとして入来院氏の帰属変更を明確にする。
応永元年八月十六日 / 冊子 146頁
島津上総介・又三郎が将軍家を支持し、守護人との共同を止めることなどを定めた室町幕府の事書。本文はNo.529と同文として省略され、明徳三年の今川了俊による条書との注記がある。
年月日未詳 / 冊子 318頁
伊作大隅守勝久の女子二人について、一人は伊作遠江守十忠の室、もう一人は島津上総介久世の室となったことを示す系図。
年月日未詳 / 冊子 785~786頁
天文九年、長倉上総介・能登守兄弟が伊東氏に背いて川南を押領したため、伊東義祐が北郷忠相らの加勢を得て討伐した経過を記す。島津忠広の援助、両軍の布陣、戦闘と長倉方の処置に及び、地域領主の離反が伊東・北郷・島津各勢を巻き込む戦役となったことを示す。
十二月廿五日 / 冊子 244頁
一色氏雄が、島津上総介の自訴について京都で吹挙した件を述べ、本人が代官であるため難しいとされたものの、子息の件は本人同様で支障がないとの仰せを得たので、その旨を披露するよう求めた挙状。
享保七年七月五日 / 冊子 560頁/整理ID 1429
内証からの差上物と表向きの献上物を区別し、内証の品を表向きの差上物として扱わないよう申し述べる。
享保七年七月五日 / 冊子 560~561頁/整理ID 1430
七月の御肴・御菓子・寒中の御肴・御菓子と、そのほか従来差し上げてきた品を列記し、今後の扱いを伝える。
年月日未詳 / 冊子 226頁
島津伊久について、貞和三年二月朔日生、応永十四年四月六日に六十一歳で没し、法号を久哲道観としたことを記す系図記事。
享保六年十二月九日 / 冊子 497頁/整理ID 1330
井上正岑が松平上総介へ、朝鯛一箱の献上を受け、披露する旨を伝える。
享保七年正月十一日 / 冊子 523頁/整理ID 1350
戸田忠真が松平上総介へ、使者による年頭祝儀の太刀一腰・馬代黄金十両の献上を披露し、よい仕合であったと伝える。
享保七年五月十一日 / 冊子 526頁/整理ID 1359
近衛家熙が松平上総介へ、吉貴がつつがなく帰国したと聞いて喜び、病後も慎重に養生するよう伝える。
享保七年五月十六日 / 冊子 526頁/整理ID 1360
近衛家久が松平上総介へ、吉貴が海陸を無事に帰国したと聞き、喜びと安心を伝える。
享保七年六月九日 / 冊子 541~542頁/整理ID 1403
紀伊宗直が松平上総介へ、御暇による帰国と道中無事の領国到着を喜び、書状で祝意を述べる。
延享四年五月十一日 / 冊子 3~4頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書0009
本多正珍が松平上総介に対し、三御所の機嫌がよいとの報せを喜び、三月十二日の竹姫入輿時に菊姫への懇意、三御所への拝領物、徳川宗武・万次郎への遺物、さらに松平上総介の拝領物があったことを伝えた書状。拝領品の具体は別紙に列挙したとする。
延享四年五月十二日 / 冊子 4頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書0010
西尾忠尚が松平上総介に対し、三御所の機嫌がよいとの報せを喜び、三月十二日の竹姫入輿時に菊姫への懇意、三御所への拝領物、徳川宗武・万次郎への遺物、さらに松平上総介の拝領物があったことを伝えた書状。拝領品の具体は別紙に列挙したとする。
天明五年三月十一日(原書年紀、編者注に疑義) / 冊子 802頁/原整理番号 2197/整理ID 2197
若君の髪置祝儀として、使者を通じ公方と若君へ目録どおり献上された物品を披露し、格別に喜ばれた旨を伝える三月十一日付戸田采女正氏教判の書状。原書の年紀は天明五年だが、重豪の上総介への改名は天明七年正月二十九日であるとして、編者が本文書の年紀に疑義を示している。
寛政5年(朱注。月日なし) / 冊子 69~70頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書0229
松平上総介の参府が上聞に達し、上使を遣わされたこと、追って御目見を命じる旨を記した短い指図書の写し。冒頭に松平上総介と記し、参府を受けた幕府側の処置を伝える。寛政5年の朱注を伴うが、独立月日・差出人署名は載せない。正文の文庫所在注がある。翌日の登城時刻を指定するNo.230の老中連署状とは別に扱う。
寛政7年(朱注。月日なし) / 冊子 86頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書0283
常盤井ほか五名が上総介方の書面へ答え、上ミ様の機嫌への喜びに続いて、同氏豊後守が上使を通じて御鷹の鶴を拝領したことをありがたいことと思っていると伝える返事。御礼を申し上げたことを受け、書面の趣旨をよろしく伝え、若君様にもよろしく申し上げると記す。寛政7年の朱注、月日なし。常盤井・あすか井・野むら・峯野・せかわの五名を列記し、上総介様人々御中宛御返事とする。受領した豊後守と、書面の受取側の上総介方を区別する。
寛政7年(朱注。月日なし) / 冊子 86~87頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書0285
花まちほか四名が、上ミ様方の機嫌がよいことと、石たひ・串海鼠一はこを内々に贈ることを伝える消息。粗末なものだが手前様へ御内々として差し遣わし、何も心得てよろしく伝えるよう求める。なお余寒が強い時節だが障りなく過ごしているかと尋ね、何もよく伝える旨を添える。寛政7年の朱注、月日なし。花まち・花園・つほね・とみ田の四名、まつ平上総介様人々御中宛。石たひは原かな表記を残し、一はこは原文の串海鼠の後に付く数量として読む。
寛政7年(朱注。月日なし) / 冊子 87頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書0287
花町ほか四名が上総介方へ、上ミ様方の機嫌がよく、今日は御臺様が御庭へ渡られたことを喜び、肴一桶を贈ると伝える消息。御庭で取らせて遊ばれた肴を、手前様へ御内々として差し遣わすので、何もよく伝えるよう記す。前置きは幾久しく万々年を祝う言葉を添える。寛政7年の朱注、月日なし。花町・華園・つほね・富田の四名を列記し、松たいら上総介様人々御中へ宛てる。御臺様の御庭と肴贈答の通知であり、御臺様をこの消息の受取人とはしない。
寛政7年(朱注。月日なし) / 冊子 88~89頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書0291
花町ほか四名が、御臺様の御庭渡御に伴う肴一桶拝領への謝意を受け、御台所の満足を伝える返事。昨日御臺様が御庭へ渡られ、肴一桶を上総介側が拝領し、豊後守と御奥様も拝領したことへの御礼を申し上げたという書面を承知し、御文の様をよろしく伝えたところ、満足の意があったと述べる。寛政7年の朱注、月日なし。花町・はな園・つほね・とみ田の四名を列記し、口裏はまつ平上総介様人々御中宛の御返事とする。次のNo.292拝借米請取状とは別の消息であり、本書に借米や返納条件はない。
寛政8年(朱注。月日なし) / 冊子 115~116頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書0350
上総介からの文を受けた五名連署の返事。上ミ様が御機嫌よく、御めでたく思っていること、上使による御鷹の鶴拝領を有難く思い、その礼を申し上げたという文の趣旨を承知して、よろしく伝えると記す。御表からも礼を述べたとの追而書を伴い、末尾には若君様にもよろしく申し上げるとする。常盤井・飛鳥井・野村・峯野・瀬川の五名、松たいら上総介様人々御中宛、御返事と記す。寛政8年の朱注のみで月日はない。No.349の記事の2月4日を消息の独立日付に転用しない。
寛政8年(朱注。月日なし) / 冊子 116頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書0351
上総介からの文を受け、上ミ様の御機嫌と、上使により御鷹の鶴を同氏豊後守が拝領したことを祝し、その礼を御臺様へ伝えたところ御満足であると返す五名消息。淑姫君様へもよろしく伝える旨を末尾に記す。寛政8年朱注、常わ井・飛鳥井・野むら・みねの・せかわの五名、松平上総介様人々御中宛、御返事。鶴拝領の主体は本文の同氏豊後守とし、前の記事の重豪へ置換しない。消息は下段の末尾署宛まで続く。
寛政8年2月20日(本文。年次は朱注) / 冊子 117頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書0355
松平伊豆守信明が上総介へ、歳暮の御内書を渡すので、明日五半時に家来を御城へ差し出すよう通知する短い書状。寛政8年の朱注、本文2月20日付、松平伊豆守署名と信明の人物注、松平上総介宛を伴う。歳暮の御内書を受け取るための家来派遣通知であり、御内書本文や歳暮贈答の品物・数量をここから補わない。五半時は原記載を保持する。
寛政8年3月25日(本文。年次は朱注) / 冊子 119頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書0363
信明が上総介へ、御臺様の安産祝儀として使者をもって目録の通り献上された品を披露したところ、一段の御仕合だったと伝える返書。3月25日付、信明署判、寛政8年の朱注を伴う。下段の口裏に松平伊豆守信明と松平上総介殿宛を記す。品物・数量はこの返書では目録通りとのみ示すため、前の祝賀記事の各一種300匹、縮緬・鯛を本書の独立記載として補充しない。次364は若君様へ献じたことを明記する別返書で、本363には若君明記がない。
寛政8年3月25日(本文。年次は朱注) / 冊子 119頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書0364
信明が上総介へ、御臺様の安産祝儀として若君様に使者で目録通り献じた品を披露したところ、一段の御仕合であったと伝える返書。3月25日付、信明署判、寛政8年朱注、口裏に松平伊豆守信明・上総介宛を記す。前363は若君明記がない返書、本364は若君様への献上を明記するので別件として保持する。品名・数量は目録通りとのみ記すため、前の記事の品目を本書に補わない。
寛政8年(朱注。月日なし) / 冊子 120頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書0367
高輪へ移った上総介からの文を受け、昨日御臺様から拝領物があったことと、その礼を申し上げたことを承知し、御文の通り伝えたところ御満足であると返す消息。上ミ様の御機嫌も祝し、よろしく伝える追而書を伴う。花町・華園・つぼね・富田の四名、松たいら上総介様人々御中、御返事。寛政8年の朱年次のみで月日を記さないため、昨日を特定日へ換算せず、拝領物の品目・数量を後の消息から補充しない。
寛政8年4月1日(本文。年次は朱注) / 冊子 120~121頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書0369
敬之助が尾張殿の養子に命じられたことへの祝儀として、若君様へ使者をもって目録通り献じられた品を披露し、一段の御仕合だったと資愛が伝える返書。4月朔日、資愛署判、寛政8年朱注。次頁に太田備中守資愛・上総介宛の口裏を伴う。若君は献上の受け手、返書は上総介宛であり、両者を宛先欄で混同しない。品目・数量はここに詳記されない。
寛政8年(朱注。月日なし) / 冊子 122頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書0375
上総介からの文を受け、今日の御枕直し祝儀に羽二重10疋・鯛1折を上げたことと、同氏豊後守からも献上があったことを承知して、よろしく披露したところ御満足であると伝える返事。御臺様の御機嫌を祝し、よろしく伝える追而書を伴う。花町・はなその・つぼね・とみ田の四名、まつ平上総介様人々御中宛。寛政8年朱注のみで月日なし。豊後守の献上量は明記されないので上総介と同じ数量を補わず、今日を特定日へ換算しない。
寛政8年4月28日(本文。年次は朱注) / 冊子 123頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書0378
若君様に使者をもって献じた菖蒲御兜1飾を、首尾よく披露したと氏教が上総介へ伝える返書。4月28日氏教署判、寛政8年朱注、口裏に戸田采女正氏教・松平上総介宛を記す。若君は献上の受け手、本書の宛名は上総介であり、家斉御内書や5月2日の端午帷子単物到来書とは別の文書として整理する。
寛政8年5月2日(本文。年次は朱注) / 冊子 123~124頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書0379
端午祝儀として帷子・単物が到来し歓覧したと伝える家斉の御内書。委曲は太田備中守が述べると記す。5月2日付、寛政8年朱注、家斉公墨印、次頁に松平上総介殿宛と島津重豪の人物注を伴う。太田備中守は詳しい説明をする人物で、御内書の差出人ではない。品目は帷子・単物、数量は記さない。
寛政8年5月2日(本文。年次は朱注) / 冊子 124頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書0380
端午祝儀として若君様へ使者で献じた帷子・単物を披露したところ、一段の御仕合だったと資愛が伝える返書。寛政8年朱注、5月2日、太田備中守資愛署判、松平上総介殿宛。前379の家斉墨印御内書と、本380の資愛署判・若君明記返書を分け、若君への献上と返書宛先を混同しない。帷子・単物の数量は記載なし。
寛政8年6月23日(本文。年次は朱注) / 冊子 129頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書0387
今朝献じた鰹節1箱を披露したところ、一段の御仕合であったと信成が上総介へ伝える返書。6月23日信成署判、寛政8年朱注、口裏に安藤対馬守信成・松平上総介宛を記す。若君への献上は明記しないため、若君を明記する次388と分ける。対馬守の官途に含む馬を品目や用件へ採らない。
寛政8年6月23日(本文。年次は朱注) / 冊子 129頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書0388
今朝、若君様に献じた鰹節1箱を披露したところ、一段の御仕合であったと信成が伝える返書。6月23日、信成署判、寛政8年朱注、口裏の安藤対馬守信成・松平上総介宛を伴う。若君は献上の受け手、本書の宛先は上総介。旧資愛標題・6月24日を、正文署判と目録388に合わせて修正する。
寛政8年7月9日(本文。年次は朱注) / 冊子 131頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書0393
生見玉の祝儀として若君様に献じた黄金10両を披露したところ、一段の御仕合であったと信明が返す書状。7月9日信明署判、寛政8年朱注、口裏に松平伊豆守信明・上総介宛を記す。若君は献上の受け手、本書宛先は上総介。原語生見玉を保持し、次の雲雀拝領記事を本書の内容へ混ぜない。
寛政8年11月16日(本文。年次は朱注) / 冊子 133頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書0405
淑姫君の結納祝儀として使者をもって目録通り献じられた品を披露し、一段の御仕合だったと信明が上総介へ伝える返書。11月16日信明署判、寛政8年朱注、口裏に松平伊豆守信明・上総介宛。本書は若君への献上とは明記せず、次406の若君明記返書と分ける。具体的品目・数量はこの返書で記さないので前の記事から補充しない。
寛政8年11月16日(本文。年次は朱注) / 冊子 133~134頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書0406
淑姫君の結納祝儀として若君様へ使者で目録通り献じた品を披露したところ、一段の御仕合だったと信明が返す。11月16日信明署判、寛政8年朱注、口裏伊豆守信明・上総介宛が次頁に続く。若君は献上の受け手で、本書宛先は上総介。前405と、若君明記の有無を区別して別件として保持する。